昨夕は汽車の音に包まって寝た。十時過ぎには、馬の蹄と鈴の響に送られて、暗いなかを夢のように馳けた。その時美しい灯の影が、点々として何百となく眸の上を往来した。そのほかには何も見なかった。見るのは今が始めてである。
二三度この不思議な町を立ちながら、見上、見下した後、ついに左へ向いて、一町ほど来ると、四ツ角へ出た。よく覚えをしておいて、右へ曲ったら、今度は前よりも広い往来へ出た。その往来の中を馬車が幾輛となく通る。いずれも屋根に人を載せている。その馬車の色が赤であったり黄であったり、青や茶や紺であったり、仕切りなしに自分の横を追い越して向うへ行く。遠くの方を透かして見ると、どこまで五色が続いているのか分らない。ふり返れば、五色の雲のように動いて来る。どこからどこへ人を載せて行くものかしらんと立ち止まって考えていると、後から背の高い人が追い被さるように、肩のあたりを押した。避けようとする右にも背の高い人がいた。左りにもいた。肩を押した後の人は、そのまた後の人から肩を押されている。そうしてみんな黙っている。そうして自然のうちに前へ動いて行く。
自分はこの時始めて、人の海に溺れた事を自覚した。この海はどこまで広がっているか分らない。しかし広い割には極めて静かな海である。ただ出る事ができない。右を向いても痞えている。左を見ても塞がっている。後をふり返ってもいっぱいである。それで静かに前の方へ動いて行く。ただ一筋の運命よりほかに、自分を支配するものがないかのごとく、幾万の黒い頭が申し合せたように歩調を揃えて一歩ずつ前へ進んで行く。
自分は歩きながら、今出て来た家の事を想い浮べた。一様の四階建の、一様の色の、不思議な町は、何でも遠くにあるらしい。どこをどう曲って、どこをどう歩いたら帰れるか、ほとんど覚束ない気がする。よし帰れても、自分の家は見出せそうもない。その家は昨夕暗い中に暗く立っていた。
自分は心細く考えながら、背の高い群集に押されて、仕方なしに大通を二つ三つ曲がった。曲るたんびに、昨夕の暗い家とは反対の方角に遠ざかって行くような心持がした。そうして眼の疲れるほど人間のたくさんいるなかに、云うべからざる孤独を感じた。すると、だらだら坂へ出た。ここは大きな道路が五つ六つ落ち合う広場のように思われた。今まで一筋に動いて来た波は、坂の下で、いろいろな方角から寄せるのと集まって、静かに廻転し始めた。
坂の下には、大きな石刻の獅子がある。全身灰色をしておった。尾の細い割に、鬣に渦を捲いた深い頭は四斗樽ほどもあった。前足を揃えて、波を打つ群集の中に眠っていた。獅子は二ついた。下は舗石で敷きつめてある。その真中に太い銅の柱があった。自分は、静かに動く人の海の間に立って、眼を挙げて、柱の上を見た。柱は眼の届く限り高く真直に立っている。その上には大きな空が一面に見えた。高い柱はこの空を真中で突き抜いているように聳えていた。この柱の先には何があるか分らなかった。自分はまた人の波に押されて広場から、右の方の通りをいずくともなく下って行った。しばらくして、ふり返ったら、竿のような細い柱の上に、小さい人間がたった一人立っていた。
表へ出ると、広い通りが真直に家の前を貫いている。試みにその中央に立って見廻して見たら、眼に入る家はことごとく四階で、またことごとく同じ色であった。隣も向うも区別のつきかねるくらい似寄った構造なので、今自分が出て来たのははたしてどの家であるか、二三間行過ぎて、後戻りをすると、もう分らない。不思議な町である。