「何しに」
「口を頼みにさ。できるだけ運動して置かんと駄目だからな」
「だって、宗近だって外交官の試験に及第しないで困ってるところだよ。頼んだってしようがない」
「なに構わん。話に行って見る」
小野さんは眼を地面の上へ卸して、二三間は無言で来た。
「君、先生のところへはいつ行ってくれる」
「今夜か明日の朝行ってやる」
「そうか」
麦畑を折れると、杉の木陰のだらだら坂になる。二人は前後して坂を下りた。言葉を交すほどの遑もない。下り切って疎な杉垣を、肩を並べて通り越すとき、小野さんは云った。――
「君もし宗近へ行ったらね。井上先生の事は話さずに置いてくれたまえ」
「話しゃせん」
「いえ、本当に」
「ハハハハ大変恥かんどるの。構わんじゃないか」
「少し困る事があるんだから、是非……」
「好し、話しゃせん」
小野さんははなはだ心元なく思った。半分ほどは今頼んだ事を取り返したく思った。
四つ角で浅井君に別れた小野さんは、安からぬ胸を運んで甲野の邸まで来る。藤尾の部屋へ這入って十五分ほど過ぎた頃、宗近君の姿は甲野さんの書斎の戸口に立った。
「おい」
甲野さんは故の椅子に、故の通りに腰を掛けて、故のごとくに幾何模様を図案している。丸に三つ鱗はとくに出来上った。
おいと呼ばれた時、首を上げる。驚いたと云わんよりは、激したと云わんよりは、臆したと云わんよりは、様子ぶったと云わんよりはむしろ遥かに簡単な上げ方である。したがって哲学的である。
「君か」と云う。
宗近君はつかつかと洋卓の角まで進んで来たが、いきなり太い眉に八の字を寄せて、
「こりゃ空気が悪い。毒だ。少し開けよう」と上下の栓釘を抜き放って、真中の円鈕を握るや否や、正面の仏蘭西窓を、床を掃うごとく、一文字に開いた。室の中には、庭前に芽ぐむ芝生の緑と共に、広い春が吹き込んで来る。