「そりゃおめでたい」と云った甲野さんは洋卓越に相手の頭をつらつら観察した。しかし別段批評も加えなかった。質問も起さなかった。宗近君の方でも進んで説明の労を取らなかった。したがって頭はそれぎりになる。
「まずここまでが報告だ、甲野さん」と云う。
「うちの母に逢ったかい」と甲野さんが聞く。
「まだ逢わない。今日はこっちの玄関から、上ったから、日本間の方はまるで通らない」
なるほど宗近君は靴のままである。甲野さんは椅子の背に倚りかかって、この楽天家の頭と、更紗模様の襟飾と――襟飾は例に因って襟の途中まで浮き出している。――それから親譲の背広とをじっと眺めている。
「何を見ているんだ」
「いや」と云ったままやっぱり眺めている。
「御叔母さんに話して来ようか」
今度はいやとも何とも云わずに眺めている。宗近君は椅子から腰を浮かしかかる。
「廃すが好い」
洋卓の向側から一句を明暸に云い切った。
徐に椅子を離れた長髪の人は右の手で額を掻き上げながら、左の手に椅子の肩を抑えたまま、亡き父の肖像画の方に顔を向けた。
「母に話すくらいなら、あの肖像に話してくれ」
親譲りの背広を着た男は、丸い眼を据えて、室の中に聳える、漆のような髪の主を見守った。次に丸い眼を据えて、壁の上にある故人の肖像を見守った。最後に漆の髪の主と、故人の肖像とを見較べた。見較べてしまった時、聳えたる人は瘠せた肩を動かして、宗近君の頭の上から云う。――
「父は死んでいる。しかし活きた母よりもたしかだよ。たしかだよ」
椅子に倚る人の顔は、この言葉と共に、自からまた画像の方に向った。向ったなりしばらくは動かない。活きた眼は上から見下している。
しばらくして、椅子に倚る人が云う。――
「御叔父さんも気の毒な事をしたなあ」
立つ人は答えた。――
「あの眼は活きている。まだ活きている」
言い終って、部屋の中を歩き出した。
「庭へ出よう、部屋の中は陰気でいけない」