宗近君は突然椅子を立って、机の角まで来ると片肘を上に突いて、甲野さんの顔を掩いかぶすように覗き込みながら、
「貴様、気が狂ったか」と云った。
「気違は頭から承知の上だ。――今まででも蔭じゃ、馬鹿の気違のと呼びつづけに呼ばれていたんだ」
この時宗近君の大きな丸い眼から涙がぽたぽたと机の上のレオパルジに落ちた。
「なぜ黙っていたんだ。向を出してしまえば好いのに……」
「向を出したって、向の性格は堕落するばかりだ」
「向を出さないまでも、こっちが出るには当るまい」
「こっちが出なければ、こっちの性格が堕落するばかりだ」
「なぜ財産をみんなやったのか」
「要らないもの」
「ちょっと僕に相談してくれれば好かったのに」
「要らないものをやるのに相談の必要もなにもないからさ」
宗近君はふうんと云った。
「僕に要らない金のために、義理のある母や妹を堕落させたところが手柄にもならない」
「じゃいよいよ家を出る気だね」
「出る。おれば両方が堕落する」
「出てどこへ行く」
「どこだか分らない」
宗近君は机の上にあるレオパルジを無意味に取って、背皮を竪に、勾配のついた欅の角でとんとんと軽く敲きながら、少し沈吟の体であったが、やがて、
「僕のうちへ来ないか」と云う。
「君のうちへ行ったって仕方がない」
「厭かい」
「厭じゃないが、仕方がない」
宗近君はじっと甲野さんを見た。
「甲野さん。頼むから来てくれ。僕や阿父のためはとにかく、糸公のために来てやってくれ」
「糸公のために?」
「糸公は君の知己だよ。御叔母さんや藤尾さんが君を誤解しても、僕が君を見損なっても、日本中がことごとく君に迫害を加えても、糸公だけはたしかだよ。糸公は学問も才気もないが、よく君の価値を解している。君の胸の中を知り抜いている。糸公は僕の妹だが、えらい女だ。尊い女だ。糸公は金が一文もなくっても堕落する気遣のない女だ。――甲野さん、糸公を貰ってやってくれ。家を出ても好い。山の中へ這入っても好い。どこへ行ってどう流浪しても構わない。何でも好いから糸公を連れて行ってやってくれ。――僕は責任をもって糸公に受合って来たんだ。君が云う事を聞いてくれないと妹に合す顔がない。たった一人の妹を殺さなくっちゃならない。糸公は尊い女だ、誠のある女だ。正直だよ、君のためなら何でもするよ。殺すのはもったいない」
宗近君は骨張った甲野さんの肩を椅子の上で振り動かした。