先生は右の手頸へ左の指を三本懸けた。小夜子は浅井のいる事も忘れて、脈をはかる先生の顔ばかり見詰めている。先生の顔は髯と共に日ごとに細長く瘠せこけて来る。
「どうですか」と気遣わし気に聞く。
「少し、早いようだ。やっぱり熱が除れない」と額に少し皺が寄った。先生が熱度を計って、じれったそうに不愉快な顔をするたびに小夜子は悲しくなる。夕立を野中に避けて、頼と思う一本杉をありがたしと梢を見れば稲妻がさす。怖いと云うよりも、年を取った人に気の毒である。行き届かぬ世話から出る疳癪なら、機嫌の取りようもある。気で勝てぬ病気のためなら孝行の尽しようがない。かりそめの風邪と、当人も思い、自分も苦にしなかった昨日今日の咳を、蔭へ廻って聞いて見ると、医者は性質が善くないと云う。二三日で熱が退かないと云って焦慮るような軽い病症ではあるまい。知らせれば心配する。云わねば気で通す。その上疳を起す。この調子で進んで行くと、一年の後には神経が赤裸になって、空気に触れても飛び上がるかも知れない。――昨夜小夜子は眼を合せなかった。
「羽織でも召していらしったら好いでしょう」
孤堂先生は返事をせずに、
「験温器があるかい。一つ計ってみよう」と云う。小夜子は茶の間へ立つ。
「どうかなすったんですか」と浅井君が無雑作に尋ねた。
「いえ、ちっと風邪を引いてね」
「はあ、そうですか。――もう若葉がだいぶ出ましたな」と云った。先生の病気に対してはまるで同情も頓着もなかった。病気の源因と、経過と、容体を精しく聞いて貰おうと思っていた先生は当が外れた。
「おい、無いかね。どうした」と次の間を向いて、常よりは大きな声を出す。ついでに咳が二つ出た。
「はい、ただ今」と小さい声が答えた。が験温器を持って出る様子がない。先生は浅井君の方を向いて
「はあ、そうかい」と気のない返事をした。