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三角のあたま47

时间: 2018-03-31    进入日语论坛
核心提示:男というもの せまい島国の日本ではあるけれど、それぞれの地域により人《じん》気《き》は微妙に異なる。なにほどかの県民性の
(单词翻译:双击或拖选)
 男というもの
 
 せまい島国の日本ではあるけれど、それぞれの地域により人《じん》気《き》は微妙に異なる。なにほどかの県民性の差異がある。これから述べることは、まったく私の個人的な見解、さほど多くもないサンプルから帰納した不確かな結論でしかないのだが、福岡県の女性と長野県の女性は、ある一点において明らかにその思想が、意識が、ちがっている。
 
 福岡県出身の女性は、〓“男はやるもの、女はやらせるもの〓”と、そう思っている。無意識のうちにもそういう考えを抱いている。
 
 表現のいやしさはお許しいただきたい。このくらいの表現が一番ふさわしいテーマについて私は言っているのである。ここでいう〓“やる〓”は英語の〓“D《ド》O《ウ》〓”ではなく〓“MAKE《 メ イ ク 》 LO《ラ》VE《ブ》〓”のことである。人間の根源的な欲望であり、人類存続のために不可欠な営みでありながら、ともすればみだらなものと見なされる。あの行為について私は言っているのである。
 
 一方、長野県出身の女性は、〓“できれば、あんなこと、この世の中になければいいのに〓”と思っている。
 
 まあ、まあ、まあ、反論はありましょうけれど、もう少しお聞きください。
 
 長野県は日本有数の教育県である。生まじめで、理屈っぽくって、野沢菜をポリポリ食べながら、この世の正義から隣近所の悪口まで、日がな一日おのれの正しさについて飽きずに論じている県民性である。
 
 過日物故した殿山泰司さんの奇書〓“日本女地図〓”によれば、
 
〓“長野県の女がニッポンでいちばん口《く》説《ど》きにくいんじゃねえのかな。だいたいだな、長野県の女は貞操観念が発達しすぎてるよ、おもしろくもねえ、どうなってんだ。(中略)長野県の人間はガキのころから理屈っぽいとは、よく耳にする言葉である。であるがゆえに、女どももついでに教育を受けてしまい、しぜんと理屈をこねるようになり、一夫一婦制の悪徳に染まり、貞操などとたわごとを言うようになるのである〓”
 
 となっている。
 
 当たらずとも遠からず。長野県の男性が、あのことをきらっているとは到底思えないし、もちろん実行しているはずだし、男性がやる以上かならず女性もやっているんだし、長野県の女性もきらいな人ばかりではあるまいと思うけれど、彼女らは心のどこかに、あるいはあからさまに、セックスはよくないこと、みっともないこと、この世になければそのほうがよいと、そんな意識を持っている。私にはそう見えるのである。
 
 そこへ行くと、福岡県はずっとものわかりがよろしい。ものわかりがよすぎて、博多の駅を降りると、中洲の方角からなんとなく淫《いん》靡《び》な風が吹いて来るような気さえするほどである。
 
 それはともかく話をもとに戻して、福岡の女性がいかに〓“男はやるもの、女はやらせるもの〓”と考えているからと言って、それはただちに彼女たちがふしだらで、好色で、口説かれればすぐにその気になるということではない。断じてそうではない。当然のことながら、好みがある。選ぶ権利がある。厭《いや》な男とつきあうはずもない。その点は全国津々浦々の女性と少しも変りない。
 
 男の誘いに応ずるかどうかは、まことに彼女たちの胸先三寸、殿山さんがきらった貞操観念も充分に持ちあわせているし、
 
 ——やっぱり愛情がなくちゃあ絶対にいやよ——
 
 と、この心境も変りあるまい。
 
 ただ、どこがちがうかと言えば、
 
 ——男はやるもの。男とはそういうものだ——
 
 と、その本性を知っている点である。知っているから応じてくれるというのではなく、それがよくもわるくも男というものだ、と、その点を心得ている。そこが長野県とちがうのである。
 
 長野県の女性は、〓“男はやるもの、女はやらせるもの……まあ、いやらしい〓”なのである。
 
 
 
 このちがいは、男の兄弟を持っている女性と、女ばかりの家で育った女性と、その差異に似ているかもしれない。
 
「えっ、ソープランドになんか行ったの」
 
 女だけの家で育った女性は、殺人の次くらいにわるいことだと思う。しかし、男兄弟がいれば、兄さんも弟もおおいに行っている可能性がある。
 
 ——あんまりいいことじゃないけれど、お兄ちゃんも行ったことあるらしいから、男の社会では普通のことなのね——
 
 ことの本質的なよしあしとはべつに、よからぬことのレベルについて常識的な判断を持つことができる。
 
 男とは、まことにそういうものなのだ。そして自然界のすべての分布がそうであるように、そういう男を中核部の大多数とし、その両極端にとてつもなく好色の男とまったくそのことに興味ない男と、この二グループがさながら五段階式通信簿の5と1のごとく、それぞれ例外的に存在しているにすぎない。もちろん4と2のグループも通信簿と同じように存在している。
 
 
 
 私のとぼしい見聞から長野県の女性と福岡県の女性とを引きあいに出したけれど、これはさほど本質的な区分ではない。私にはたまたまそのように見えるだけで、長野県にも、〓“男はやるもの、女はやらせるもの〓”と、すなおに思っている女性もきっといるだろう。それとは逆に、
 
「いやあ、博多の女なんだけどサ、堅くて、堅くて、ちょっと粉かけただけでビンタをくらったよ」
 
 そんな体験を持つ男性もいるだろう。だから、大切なのは、長野か福岡かではなく、この二種類の女性が存在しているという事実のほうである。どこに、どのように分布しているかはともかく、日本女性はなべてこの二つのタイプに分けうるということである。
 
 どちらのタイプも東京にいる。大阪にもいる。名古屋にもいるだろうし、札幌にもいる。銀座にもいるし、北の新地にもいる。祇《ぎ》園《おん》にもいるし、そう、そう、神楽《かぐら》坂《ざか》にもいる。
 
 もちろん、どちらがいいとかわるいとか、そういうテーマではない。女性はどうあるべきか、これこそ野沢菜を食べながら永遠に論じなければなるまい。だが、それとはべつに、男はいかなるものか、リアリズムをふまえて生きて行くほうが、多くの場合、生きやすい。あ、もう一つ、
 
「女は太陽であり、男はそのそばにいて奉仕するものよ」
 
 と、そういう考え方もある。
 
 これはどこの県、どこの国に特徴的な意識なのだろうか。昨今、よく見かけるけれど。
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