井の頭公園の木立ちが色づき始めた。毎日観察しているわけではないが、見るたびに色が変っている。
——四季って、いいわね——
洋子は朝起きて、まず一番にベランダの戸を開ける。部屋の空気を入れ替え、天気がよければベランダに出て深呼吸をする。
——あらっ——
表情が曇った。
ベランダにちり紙が落ちている。なかば開きかけたちり紙の中に痰《たん》が粘りついている。
眉をしかめて上を見た。
指先でちり紙をつまんだとき、
——痰じゃないわ——
と気づいた。
よくはわからない。ねっとりと紙に染みこんで糸を引いている。どこがどう、痰とちがうのか……。
——男性のエキス——
匂いをかげばわかるのかも知れないけれど、とてもそんな気にはなれない。
——どういうつもりなの——
背中に虫酸《むしず》が走る。いきどおりがこみあげて来る。
ちり紙を新聞紙の上にのせ、いくえにも包んで捨てた。こんなことをたびたびやられたら、本当に許せない。
昼近くに一階まで郵便を取りに行くと、六〇七号室の男が郵便受けをのぞいている。
洋子は横を向いたまま、
「ベランダにごみを投げ落とさないでください」
と、それでも一応は丁寧な口調で告げた。
男はジロンとした目つきで洋子を見て、それから頬をゆがめて笑った。それが目の端に見えた。男はあやまるわけでもないし、言い返すわけでもない。
——いやっ——
洋子は一瞬、息を飲んだ。郵便物を持った男の右手の手首のあたりに黒いあざがある……。セーターの手首からちょっと見えて、すぐに消えた。
——やっぱり油壺の男——
はっきりと見たわけではない。
でも、そうだとすれば、薄笑いの理由もわかる。男はほくそ笑んでいるにちがいない。
——俺《おれ》、あんたを抱いたことがあるんだぞ——
あわよくばもう一度チャンスを狙っているのかもしれない。ちり紙の悪戯にも同じ種類の悪意が感じられる。
洋子は管理人室をのぞいた。
「六〇七号室のかた、ごみをうちのベランダに落とすのよ、わざと」
「このあいだ、一応注意してみたんですけど」
管理人は眼鏡をかけた気弱そうな男である。おそらく定年後の仕事といったところだろう。
この手の苦情は処理がむつかしい。わるいのがむこうとわかっていても、あまり強く攻撃すると、かえってひどいことになる。
「どういうかたですの?」
「お仕事はカメラマンで……。よく家をあけてますね」
「なにを写しているのかしら」
ろくでもない写真。たとえばポーノグラフィとか……。
「さあー。風景写真みたいなお話でしたけど、よく知りません」
「困るわ」
「また言っておきますよ」
「お願いします。軽くね。あんまりひどく言うと、かえって妙なことをされちゃうから」
「はあ。大丈夫です」
不安がないでもなかった。
午後は新宿に出て買い物をすませ、七時ごろ部屋に戻ったが、アミイの姿が見えない。餌皿の餌はいっぱいのまま残っている。
——変ね。あの子も恋をしてるのかしら——
そのときは深く考えなかった。
だが、夜がふけてもアミイは帰って来ない。外へ捜しに出てみた。
「アミイ、アミイ」
あまり声高に呼ぶのは恥ずかしい。第一、猫の行方なんて、どこを捜していいのかわからない。管理人室は、夜は委託の警備員に替っている。
「猫、見ませんでしたか。白と黒のぶちで、白のほうが多くて……」
「見ませんねえ」
十二時を過ぎても戻らない。夜遊びは毎度のことだが、餌はかならず食べる。それを考えると、洋子も安穏としていられない。
夜中の一時過ぎにまた外に出た。
「アミイ、アミイ」
暗闇に向かって呼びかけた。
アミイの帰りを待ちながら洋子は、アミイを初めて手に入れたときのことを思い返した。渋谷のペット・ショップ。もう閉店時間も近かったろう。ガラス戸の中で仔猫《こねこ》がポッカリと目を開けて夜の人通りを見つめていた。
——だれかを待っているみたい——
ただの日本猫……。シャム猫やペルシャ猫などとちがって血統的に珍重される種類ではない。洋子が通り過ぎてしまったら買い手もつかず、そのまま殺されるかもしれない。そんな運命も知らずに仔猫は明日を思っている……。ぼんやりとした不安を覚えながら。
洋子自身も一つの恋が終り、心の中にポッカリと穴があいていた。
「性質のいい猫かしら」
と店の主人に尋ねた。
「ええ。飼いやすいと思いますよ」
「どうしてわかるの?」
「親猫も、ほかの兄弟も、みんなそうですから」
「じゃあ、ください」
コートの中に抱いて帰った。アミイと名づけた。その意味は友だち、恋人……。幼いうちに去勢の手術をほどこした。だからアミイは恋をするとしても、はんぱな恋でしかない。
——そのぶんかわいがってあげなくちゃあ——
店の主人が言った通り、性格の穏和な、飼いやすい猫だった。もう二年近く一緒に暮らしている。
朝まで帰らない夜など、一度もなかった。夏バテをして、ちょっと食欲の落ちるときはあったが、餌皿の餌がそのままに残っていることもなかった。
「どうしたのよオ」
洋子は小さな物音にも目をさました。明けがたもう一度捜しに出たが、アミイは見つからない。
——今日は出勤の日だし——
餌を新しくして家を出た。この次に餌皿を見るときには少しでも減っていてくれればいいのだが……。
犬猫病院は風邪で欠勤の人もいて、とてもいそがしい。昼食をとるひまもないほどだった。なぜか重症の多い日。腎《じん》機能の低下しきったシャム猫、血尿のアメリカン・ショートヘアー、腹水貯留のチンチラ……。
残業をして家へ帰ったが、アミイはいない。餌皿の中身も朝のままだ。
インターフォンのベルが鳴った。
「はい」
急いで受話器を取った。
「宮地です」
インターフォンから聞こえて来たのは、便利屋の宮地の声だ。下の管理人室かららしい。
「はい?」
「電気がついていたから……。あのう、アミイによく似た猫が外で死んでいるんだけど、アミイ、元気ですか」
「本当に? どこ。きのうからいないの」
洋子は軽いめまいを覚えた。
「下のごみ捨て場。木くずを捨てに行ったら、そこにいて」
「今、行くわ」
エレベーターを待つのももどかしく階段を駈けおりた。
マンションの裏手にごみ置き場がある。ごみを入れた黒い袋やポリエチレンの容器が乱雑に置いてある。
宮地が立っていた。その足もとにアミイが転がっている。
「アミイ」
駈け寄って抱きかかえた。毛肌は変りないが、体がこわばっている。目を薄く開き、口から舌をつき出している。
首輪の下にひもが巻きついていた。右足の毛の中に血の色があった。
「ひどいわ」
「そこの、すみに押しこんであったんですよね。尻尾が見えたもんだから」
よく見るど、ところどころに傷がある。
人なつこい猫だから、声をかけられれば足を止め、抱かれもしたのだろう。それからどうされたのか。アミイは危険をさとって抵抗したにちがいない。いくつかの傷はそのときについたものだろう。指先で目と口を閉じてやったが、すぐにもとに戻ってしまう。
「殺されたんですかねえー」
「六〇七号室の人よ。鈴木勇とかいう男」
「ああ、変な人でしょ。さっき見ました」
「ここで?」
「ううん。荷物をしょって。どっか旅にでも行くような恰好でしたよ」
「そう」
涙がにじんで来る。
——どうしよう——
人間ならば、ただではすまされない。凶悪な殺人事件である。でも、猫だから……このまま泣き寝入りするしか方法がないのだろうか。
「ありがとう。なにか手伝ってもらうかもしれないわ」
「はあ」
胸にしっかりと抱いて部屋に戻った。
アミイの死顔を整え、ダンボールの箱に納めた。菊の花を買って来て棺を飾った。
ペットの焼き場に連絡をとった。
箱の中を覗いて見ると、いつのまにか安らかな表情に変っている。まるで眠っているみたい。
——許せないわ——
涙のあとから憎悪がこみあげてくる。ただの悪戯ではない。はっきりとした悪意が感じられる。敵意と言ってもよいだろう。
——私がなにをしたと言うの——
アミイだって、なんの罪もないのに……。声をあげてののしってやりたい。
——殺してやる——
一瞬、そう思った。
——あんな男、死ねばいい——
本当にそう思った。洋子は自分でもよく知っている。普段は冷静だが、時おりカッとなることがある。そんなときには感情をうまく制御できない。
手帳を取り出し、電話番号を押した。
——本堂さんに話そう——
恵比寿のレジデンシャル・ホテル。信号音が三つ鳴って、
「はい」
と答える。
「本堂さん?」
「いえ、フロントです」
「あのう、本堂和也さん、お願いしたいんですけど」
「今、いらっしゃいません」
「何時ごろお帰りになるのかしら」
「わかりませんねえ。ずーっといらっしゃらないんじゃないかな。どなた?」
「仁科と言います。お帰りになったら、お電話をいただけませんかしら。ご伝言をお願いします」
「はーい、言っておきますけど」
ホテルのフロントにしては頼りない感じだった。マンションの管理人みたいな立場なのかもしれない。
——春美に話そうかしら——
電話番号を押しかけたが、途中で指を止めた。
春美はペットに関心がない。驚いてはくれるだろうが、洋子の悲しみを正確には理解してはくれないだろう。
——今夜はお通夜ね——
棺の中からアミイを取り出し、ベッドの中で抱いた。毛肌の感触だけは生きているときと変らない。堅い体を撫でながら眠った。
だが、すぐに電話のベルで浅いまどろみを破られた。
受話器を取った。胸の下にアミイの堅い死体が触れる。
「もし、もし」
「仁科さん? 本堂です」
「あ、本堂さん。どうして?」
「うちに電話をかけたら、あなたから連絡があったらしい」
「あ、そう。本堂さん、私、悲しい」
眠ったからといって、現実は少しも変っていない。むしろ悪い夢からさめたときみたいにとても悲しい。
「どうしたんだ」
「アミイが、アミイが殺されたの。きのうからいなくて」
「殺された? どういうことなんだ」
「帰らないから心配してたの。そうしたら、今日、ごみ捨て場に捨てられていて……。首にひもが巻いてあったわ。二重にまわして」
「首をしめられたわけか」
「ええ」
「だれ? 上の階の男?」
「ほかに考えられないじゃない。ねえ、来て。会いたい。私、おかしくなっちゃいそう」
本堂がそばにいてほしいと思った。たった一人の通夜なんて、情けない。
「東京じゃないんだよ」
「横浜?」
「ちがう。岐阜に来ているんだ。今もまだ、うちあわせの最中なんだ」
「こんな時間に? いつお帰りになるの」
「あさって、かな」
「早く帰っていらして。さびしい」
「ごめん。こんなときそばにいられなくて」
「仕方ないわ。一人でお通夜をする。ごめんなさい。わがまま言って」
「大丈夫かなあ、元気を出して」
「ええ。なんとか……ね。死んだものは戻らないわ」
「鈴木勇とか言ったね、上の男。フリーのカメラマンで」
「そう」
「あなたはなにもしないほうがいい。まともな神経の持ち主じゃないな、そいつは」
「怖いわ。手首に黒いあざがあるの」
洋子はつい言ってしまった。
「黒いあざ? なんで」
電話のむこうで本堂が尋ね返す。
「むかし、乱暴をされたことがあるの。手首に黒いあざのある人に」
「乱暴? 乱暴って、なに」
「言えないわ。あやうく逃げたんだけど……。殺されるかと思った」
洋子は泣きながら少し嘘をついた。本当のことは言いにくい。
「その男なんだね」
「わからない。似てるような気がするけど……。手首にあざがあったのよ。同じあざが、このあいだ、チラッと見えたの」
「そりゃ、あなた……簡単に考えていいことじゃないぜ」
「だから、怖いの」
なぜ怖いのかしら……。そう思ううちに、今まで考えなかったことが頭に浮かんだ。
鈴木勇のほうも半信半疑なのかもしれない。下の階にいる女が油壺のときの女かどうか……。洋子が先に気づいて警察にでも訴えやしないかと、むこうはそれをおそれているのかもしれない。それで脅しをかけている……。
——少しちがうみたい——
もしそうなら、そっと洋子の前から姿を消す道を選ぶだろう。ちがうかしら。
——でも、あんな人、なにを考えるかわからないわ——
相手は普通の人じゃない。アミイの首をあっさりとしめてしまう男なんだ。その手が洋子の首にまで伸びないものだろうか。考え過ぎかもしれないが、悪意ははっきりと感じられる。
——甘くみられたのかもしれないし——
油壺ではほとんどなんの抵抗もしなかった。ただ殺されるのが怖かった。そのあとも洋子は騒がなかった。だれにも告げず、むしろ洋子のほうが、ひた隠しに隠してホテルを去った。
——脅せば、どうにでもなる女なんだ——
と、相手が思っても不思議はない。そんなふうに考えてみると、つじつまのあうところがある。
「どうしたんだ。泣かないで」
洋子が急に黙りこくってしまったので、本堂が声を高くした。
「今夜は上にいないみたい。だから安心。ね、仕事がすみ次第、すぐに帰って来て」
「ああ、そうするよ」
本堂は慰めの言葉を続ける。それを聞いて洋子の気持ちも少し静まった。
「よかった。本堂さんの声が聞けて」
「気をつけてな。アミイによろしく。ご冥福《めいふく》を祈ります」
「本当ね。伝えておくわ」
「おやすみ。よく眠ったほうがいい」
「ええ、さようなら」
電話を切って毛布をかぶったが、なかなか眠れない。よくない想像ばかりが浮かぶ。
——お通夜にはお酒がなくちゃね——
起きてブランデーをグラスに注いだ。一年前にあけた壜だけど、まだわるくなってはいないだろう。アミイに向けてグラスをあげ、一口飲んだとき、
ル、ルン
と、戸惑うように電話のベルが鳴った。
——本堂さんだわ——
さっきはもう少しうちあわせがあるって言ってたけど、それが終ったのだろう。
「はーい」
だが、電話のむこうはなにも言わない。
「もし、もし、どなた」
あるかなしかの息づかい。そっとこっちの様子をうかがっている……。わけもなく洋子はかま首をもたげた蛇を連想した。冷たい目で舌なめずりをしながら獲物を狙っている……。
背筋に悪寒が走る。
叫びたいのをかろうじてこらえた。「よくもアミイを殺してくれたわね」「このままじゃすまないわ」「卑劣よ、最低の男ね」などなど、言葉はたくさんある。
だが、しゃべるのは相手の思うつぼ、そんな気がする。反撃するなら、本当に効果のあることでなければつまらない。それに……相手を刺激するのは、やっぱり怖い。
黙って受話器を戻した。
またすぐにベルが鳴る。
対策はできている。電話機の上に毛布と布団をかぶせた。
——でも、本堂さんだったら——
その可能性もあるが、また声のない声を聞かされたらやりきれない。
——受話器をとって�ニャーオ�とでも鳴いてやろうかしら——
馬鹿らしいことを考えているうちに信号音が消えた。ブランデーを一気にのどに流しこみ、アミイの隣に体を滑らせた。
翌日、ペットの火葬場でアミイを焼き、小さな骨箱に骨を納めてもらった。部屋に持ち帰り、しばらくは机の上に置くことになるだろう。
一輪ざしに花を飾った。
アミイには野の花のほうがふさわしいかもしれない。
その次の日、夜ふけて本堂がマンションに訪ねて来た。
「眠っていたの?」
「ええ」
「ごめん。ほんの少しだけ」
あらためてアミイの死の様子を話し、本堂の膝で泣いた。
「ひどいやつだな。彼のこと、少しわかったよ」
「本当に? どういう人」
「鈴木勇ってカメラマンだろ。写真家の名簿に出ている」
「ええ……。私、狙われてるみたい」
「今夜はいるのかな」
「音は聞こえないわ」
「前科もあるらしい。まだよくわかんないけど」
本堂が肩に手を巻く。そのまま抱かれた。安らぎを覚え、目を閉じているうちに少し眠った。
「鼠の薬、どこにある?」
本堂が耳もとでささやく。
「なんに使うの」
「だから……護身用」
「嘘でしょ。殺したいほど憎い人がいるって、言ってたわ」
甘えるような、からかうような、そんな調子でつぶやいた。
「ああ、いるよ。そいつがいたんじゃ、僕は幸福になれない。僕たちもなれない」
「どうして」
「聞かないほうがいい。�死刑台のエレベーター�を見ただろ」
「奥様なの?」
「ちがう、ちがう。僕は独り者だよ」
「私も上の人、殺したい」
もとより本気で言ったことではない。六〇七号室の男に対して激しい憎悪を感じていたのは本当だが「殺したい」なんて本気で言える言葉ではない。憎しみの感情を、そんな表現に託してみただけのことだった。
「だから、僕があなたの憎い人を殺す、あなたが僕の憎い人を殺す。それでいいだろ」
「そうね」
なんだか映画の中の会話みたい……。
「じゃあ、きまった」
部屋は暗く、本堂の横顔も暗い。声だけが、わざとらしいほど明るく聞こえた。
「ええ……」
「ねえ、鼠の薬、どこにあるの?」
「それは駄目。教えない」
「あることはあるんだね」
「そうよ」
「家捜しでもするかな。子どものころ宝捜しをやった」
「きっと見つからないわ」
「まあ、いいか……。いたずら電話、相変らずかかって来る?」
「ええ。厭なものね、あれは。家でくつろいでいるときって無防備の状態でしょ。そこをいきなり襲われるみたいで」
「電話で言ってたけど、昔、乱暴されそうになったことがあるって……」
「もういいの。思い出したくないから」
「でも、その男なのかな、本当に」
「わからない」
手首のあざは、はっきりと見たわけではない。偶然、同じところにあざのある男だって、いないとは限らない。
「そう」
本堂は二時過ぎまでいて帰った。
アミイがいないのがさびしい。それでも本堂に会って、心が少しなごんだ。
——よく眠っておかないと、つらいわ——
病院の仕事は忙しいが、これはいつものことである。
重症のマルチーズの安楽死を相談されたが、それを実行するより先に死んでしまった。よくあることだ。ペットは飼い主の心を知っているのかもしれない。
それから三日たって夜の十一時近くに電話のベルが鳴った。
——またいたずら電話かしら——
いたずら電話にしては時間が早い。
「もし、もし」
声を低くして呼びかけると、
「もし、もし、僕だ」
と、本堂の声が聞こえた。
「今晩は。今、どこ。また旅行?」
「新潟にいる」
「あ、そう」
「知っている? 彼は死んだよ」
なにを言われたのか、すぐにはわからなかった。
「もし、もし、なんですって」
「彼が死んだ」
はっきりとそう聞こえた。
「彼って……だれ」
「鈴木勇。六〇七号室の男」
「嘘っ」
「本当だ。そっちの夕刊には、まだ載ってないかな」
「どういうことなんですか」
「佐渡《さど》を知っている?」
「いえ。行ったこと、ないわ」
「北の先っぽに大野亀というところがある。海辺に切り立った二百メートルくらいの絶壁でね、そこに写真を撮りに来て……死んだ」
「でも……」
なんだかおかしい。
「事故死ということになっているけど、わかるね」
受話器を握っている手が汗ばんで来る。
——新潟から電話をかけていると言ったけど——
思考がうまくまとまらない。
「本堂さん」
「なんの心配もないよ。警察は事故死じゃないかもしれないって、少しは疑っているらしいけど、どうなのかな。まあ、大丈夫だね」
洋子は電話に向かってなにを言っていいかわからない。
「本堂さん、本当に、あなた……」
「だって約束したじゃないか」
「でも、あれは……」
「僕は本気だよ。いい、いい。こっちのことは気にしなくていい。あなたの知らないところで、事故が一つあっただけだ。死んでも仕方のないような、ひどい男らしいよ、いろいろ暴行なんかやってて」
「でも」
さっきから同じ言葉ばかりをくり返している。
「明日の新聞にちょっとくらい出るかな。僕が疑われることはない。次は、あなたの番……」
「なにをするの?」
「ゆっくり相談するよ」
「もし、もし」
「ちょっと急いでいる。テレフォン・カードもなくなる。とにかくもう安心だ。明日の朝、また連絡する」
「いつ東京へ帰って来るの?」
尋ねたが、答えるより先に電話が切れた。
しばらくは電話の前にポカンとすわっていた。
——わるい冗談じゃないのかしら——
そう思いたかった。現実のこととして考えるのがむつかしい。洋子はあたふたと立ちあがり、本棚の中から地図帳を引き出した。新潟県がなかなか出て来ない。山形県、福島県、茨城県……神奈川県の次にやっと長い海岸線と佐渡島が現れた。
地図に記された字が小さい。ルーペを取って当てた。
——たしか大野亀って言ったと思うけど——
北の先端には二ツ亀島という記載はあるが、大野亀は見あたらない。ルーペを動かして佐渡島のすみからすみまで捜してみた。
——ないわ——
もっと大きな地図でなければ記してないのだろう。
海に面した高い絶崖《ぜつがい》。たしか二百メートルとか言っていた。そのてっぺんから男が転落して死んだ……。大野亀がどこにあるか、それはさして重要な問題ではあるまい。
時刻に気がついてテレビのスウィッチを入れた。十一時のニュースを聞いたが、なにも伝えてくれない。
——どういうことなの——
こんなときこそ落ち着いて考えなければいけない。脳味噌の半分ぐらいが「嘘よ」と疑っている……。
ここ一日二日、六〇七号室から音は落ちて来なかった。鈴木勇は佐渡へ写真を撮りに行ったのだろう。
それをどうして本堂が知ったのか。このあいだの話では、カメラマンの名簿で見つけたようなことを言っていた。旅行ライターという仕事がら本堂は風景写真家について情報を得やすいルートを持っているのだろう。
とにかく本堂はなにかの方法で鈴木勇の旅程を知り、跡を追った。カメラマンが絶壁に近づいたのは、自分の意志だったのか、それとも本堂が誘ったのか……。本堂は周辺の地形を知っていたにちがいない。
——でも、本当に大丈夫なのかしら——
だれかに見られたかもしれない。
ゆっくり考えてみると、本堂の危険はその一点にしぼられる。それしかない。
——たしかクイボノって言ってたわ——
ラテン語で�だれの利益か�という意味……。犯人捜査に当たって、アリバイと一緒に古代ローマではこれが決め手になったとか。鈴木勇が死んでも本堂にはなんの利益もない。だれにも見られず現場を離れてしまえば、捜査の糸はたぐれない。
安らかには眠れない夜だった。恐ろしい夢を見て何度か目をさました。
新聞の落ちる音を聞いて、ベッドを出た。
社会面を広げたが、それらしい記事はない。
——よかった——
一瞬、そう思ったのは、本堂の電話をまだ現実ではないと思う心理が洋子にあったからだろう。
テレビをつけた。本堂からの電話を待った。今日は病院へは行かない日である。当然のことながら六〇七号室に人の気配はない。その男を憎いと思ったし、消えてくれればいいとは思ったのも本当だが、こんな事態は予測さえしていなかった。
ベルが鳴った。
「ああ、僕だ、洋子さん?」
本堂の呼びかたが苗字《みようじ》から名前に変っている。
「はい」
「新聞、見た」
「見たけど……なにも載っていないわ」
「地方の事件だからね。こっちの新聞には載っている。�現場まで行った者がいる。事故死じゃない�って書いてる新聞もあるよ」
「本当に? 本堂さん、大丈夫なの。今はどこ」
「高崎に来ている。ここまで来れば心配はない」
本堂の声は普段とほとんど変りがない。男はちがうのだろうか。
「でも、だれかに見られたんでしょ」
「遠くからうしろ姿くらい見られたって、どうってことないよ」
「そうかしら」
「結局、事故死として処理されるね。うまく行った」
「そんな暢気《のんき》なことを言って」
「明日くらい東京へ帰る。あなたにはなにも関係のないことなんだから、騒いだりしちゃ駄目だよ」
「でも」
「さよなら」
十時を過ぎるのを待って近所の書店へ行った。佐渡島のガイドブックを買い、それから駅のキオスクに立ち寄って、家で見たのとはべつの新聞を選んだ。
マンションのロビイを通り抜けると、管理人室の前に人が二、三人集っている。
「事故死らしいですよ」
たしかにそう聞こえた。
そのほか「佐渡」とか「六〇七号室」とか「鈴木さん」とか、そんな声も聞こえて来る。なにが起きたか、事態は疑いようもない。
「仁科さん」
管理人が洋子を呼んだ。キクンと胸が鳴った。
「はい?」
「六〇七号室の鈴木さん、おなくなりになったそうですよ」
眼鏡をかけた管理人には、これまで二度ほど「六〇七号室に苦情を言ってほしい」と頼んだことがある。管理人はぜひともこのニュースを洋子に伝えなければなるまいと思ったのだろう。
「えっ、どうして? 急にですか」
「佐渡のほうに写真を撮りにいらして、崖《がけ》の上から落ちたらしいですよ。警察のほうから問いあわせがあって……」
「本当に?」
眉をしかめて見せた。
——ただの事故よ。そう思えばいいんだわ——
洋子は新聞と一緒に佐渡のガイドブックを持っている。それを主婦たちに見られないように新聞のあいだにたたみこみ、
「危険なお仕事なんですのね」
「そうなんですなあ」
と、管理人は眼鏡を滑らせてうなずく。
「こちらにお体が戻って来るのかしら」
と、だれかがつぶやいた。
「そうじゃないみたいですよ」
「ご家族はおられないんでしょ」
「岡山にどなたかいらして、そちらのほうに直接……」
管理人もそう正確には知らないらしい。
「ちょっと変ったかたでしたわねえ」
頭にターバンを巻いた女が言うと、管理人は同意を求めるように洋子の顔をのぞく。
「ええ」
洋子は曖昧《あいまい》に言ってから、
「じゃ、失礼します」
と、人の輪を離れた。
部屋に戻り、ドアに鍵をかけて、買って来た新聞を見たがやっぱり記事はない。人が事故で死ぬことなど、めずらしくもないのだろう。佐渡のガイドブックを開いた。
今度は、佐渡島の地図の先端に赤い字で大野亀と記してある。特徴のある島の形の、北のはずれのあたり。
——どんなところかしら——
おそらく人けのない、さびれた海。切り立った断崖《だんがい》。荒い波のしぶき、波の音。
ガイドブックのページをくって大野亀の項目を捜した。
�鷲崎からバスで二十五分。一六七メートルの切り立った一枚岩壁の雄大さは外海府《そとかいふ》のシンボル。頂上には大きな石灯籠《いしどうろう》があり、外海府の海岸線を一望……�とある。
また地図を見た。
佐渡なんて、洋子はおけさ節と金山くらいしか知らない。それも「知っている」とはとても言えない程度の浅い知識である。
新潟からは両津という港に着くらしい。鷲崎をようやく見つけた。鷲崎から大野亀までが二十五分ならば、両津から鷲崎までは三時間くらいの見当になる。とにかくさいはてのはるか遠い海であることはまちがいない。
人に見られることは少ないだろうが、姿を見られたら案外致命的かもしれない。もう秋も深まっている。北の島は寒くなり始めているだろう。東京の人などめったに行かないところなのではあるまいか。
——どうしてそんなところに——
鈴木勇は風景写真家だから、人の行かない場所にわざわざおもむくこともあるのだろう。それを本堂がどうして知ったのか……。
——早く本堂さんに会いたい——
納得のいく説明をしてほしい。抱きあって安心をしたい。
ヒクン、と体が震えた。大切なことを忘れていた。忘れていたというより、考えるのが怖いから考えずにいた……。
——私って、変なのよね——
悩みごとに強いタイプではない。悩み続けているうちにどうしようもないほど苛立《いらだ》ってきて、思考停止が起きてしまう。どうでもよくなってしまう。レース編みなんかどう編んでいいのかわからなくなり、鋏《はさみ》でズタズタに切ってしまう。そんな自分をよく知っている。だから怖い……。
本堂は電話口で言っていた。「次は、あなたの番……」
ベッドでつぶやいていた言葉も耳に残っている。「僕があなたの憎い人を消しちゃう。あなたが僕の憎い人を消しちゃう。消しゴムかなんかで……」
しかし、これは消しゴムではない。
洋子は冗談だと思っていた。
でも、今になって思い返してみると、本堂の口調はどこか普通の話し方とちがっていた。口もとは笑っていたが、声には乾いたような、押し殺したような、真剣なものが含まれていた。
——この人、なにを考えているのかしら——
あのとき頭の片すみでそんな不安を抱かないでもなかった。
「次は、あなたの番……」
言葉の意味ははっきりとしている。本堂は、自分がしあわせになるためにはどうしても邪魔な人がいる、と、たしかそう言っていた。
——なにをすればいいのだろう——
考えたくはない。それでも考えてしまう。苛立って来る。本堂からはなんの連絡もない。
午後遅くなって速達が届いた。差出人の名はないが、本堂の字である。
急いで開けてみると、新聞記事の切り抜きをコピーしたものが入っていた。
�読んだら封筒ごと焼いてください。かならず�と余白に赤く書いてある。
記事は、大野亀の事故を報じている。�カメラマン、転落死?�という見出しに続いて、
�〈新潟〉十三日午前十時ごろ佐渡北端の大野亀で東京都三鷹市井の頭四のカメラマン鈴木勇さん(三六)が撮影中に崖から転落。死体が海に浮いているところを発見された。大野亀の頂上は三平方メートルくらいの狭い岩場で、その百七十メートル下が海面になっている。なお、鈴木さんには同行の男性が一人いたという証言もあり、両津署では殺人の疑いもあるとして捜査を進めている�
と、不鮮明なコピーで記してある。
——やっぱり見られていたんだわ——
それは本堂も電話で言っていたことだ。
どのくらいはっきりと見られたのか。目撃者は一人だったのか。天候はどうだったのか……。
——ああ、そうね——
安堵《あんど》が胸に広がる。
同行者がいたことがはっきりしていて、しかも、その男が姿をくらましているとなれば、まず第一に考えられるのは殺人のほうだろう。新聞の見出しは事故を匂わせているし、管理人室への連絡も事故死だった。扱いが事故死なのは、目撃者の証言がすこぶる曖昧だったからにちがいない。
洋子は夕食を近所のそば屋ですまし、マンションへ戻って来ると、
「あの、仁科さん」
と管理人が手招きをする。
「なんでしょう」
管理人は二人いて、今日は眼鏡のほうの人ではない。ちょっと赤ら顔、人のよさそうな老人である。
「聞きましたか、六〇七号室のこと」
「ええ、おなくなりになったとか」
「佐渡で、崖から落ちたんですって」
「そうなんですってね。さっきここでみなさんが話していらしたから」
管理人は周囲をうかがってから、
「警察から電話があって、だれか死んだ鈴木さんを恨んでいる人がいないかって……」
と、声を落として言う。
「でも、事故だったんでしょ」
「一応調べてみるらしいですよ、そう言ってました」
「変なのね」
「私、わからないって言ったんですけど、隣の人や真下の人はどうだって……。このごろそういうトラブルが多いから。いえ、むこうがそう聞くんです」
「それで?」
「そりゃ多少のトラブルはありますけどって言ったら、名前を聞かれましてね」
「私の……」
「隣と真下と。そしたら仁科さんは独りか、なにをしている人か、ここ一週間マンションにいたか、そんなことも聞かれました」
「私だけ?」
「いえ、六〇六の谷さんも。隣は一つだけだから」
「ちゃんと東京にいましたって、答えてくださった?」
事実、洋子は東京にいたのだし、赤ら顔の管理人とも顔を合わせている。
「はい、もちろん」
ここ一週間といえば……アミイがいなくなり、夜中に何度か捜しに出て、翌日は病院へ。夜になって死体が見つかり、お通夜のあとでペットの火葬場へ行った。それが五日前のこと……。そのあと鈴木勇が佐渡で死んだはず。洋子のほうは病院勤務もあったし、いろんな人と顔をあわせているし、あやしいところはどこにもない。いつでも証明ができる。
「それ以外に、なにか聞かれました?」
洋子は管理人に尋ねた。
「いえ、べつに。私、なにも言いませんから」
「故郷はどこなの、鈴木さんは」
「岡山ですね。たしか。遺体もそっちのほうでしょう。お姉さんがおられるとか」
「そうなんですか」
「ここは鈴木さんの持ち物じゃありませんから」
「あ、そうなの」
初耳だった。
「鈴木さんはたしか来週あたりからずーっと東南アジアへ行って、しばらく帰らないような話でしたよ。その前に佐渡へいらしたんでしょうにねえ」
眼鏡の管理人よりこの人のほうが情報通らしい。
「はあ」
六〇七号室の男には、外国へ出る前に済ましておかなければいけない仕事があったのだろう。
「ありがとうございました」
洋子は頭をさげてカウンターを離れた。
鈴木勇がどういう男か、そんなことはどうでもいい。とにかく憎いやつ。ろくでもない男。そう思わなければやりきれない。アミイを殺し、いたずら電話をかけ、洋子のベランダにいやらしいものを落とす。油壺で乱暴をした男……。きっとそうだ。
——私になにをしようとしたのかしら——
しばらくは外国へ行くような話だったけど……。いつまでも六〇七号室に住んでいるわけではなかったらしい。
——私、疑われてるのかな——
アリバイは完全。クイボノは……そう、あんな男、いなくなってくれればいいと思っていたのは本当だが、佐渡まで行って海に落とすのは飛躍がありすぎる。本堂にはしばらく会わないほうがいいのかもしれない。念には念を入れ……。そんな言葉もある。
——でも会いたいな——
体が男に抱かれる喜びを思い出してしまった。そんな暢気なことを考えている場合ではないのだろうけれど……。とにかく本堂に会って、顔を見て、一通り話を聞かなければ気持ちが収まらない。
夜ふけて電話のベルが鳴った。いたずら電話ではあるまいかと思ったが、その心配はもういらない。
「もし、もし。僕だ。今からすぐ行く。鍵を開けておいて。だれにも見られないように、そっと入るから」
風だけが動いてドアが開き、すぐに閉じた。
「ただいま」
本堂が影法師みたいに立っている。
「会いたかった」
洋子は胸にすがりついて握りこぶしで二、三度本堂の胸板を叩いた。
——余計なことをしちゃって——
そう言っては酷かもしれないが、その気持ちはいなめない。海に突き落とすなんて簡単に実行していいことではない。ただの冗談のつもりだったのに……。
本堂の目のふちには濃いくまがある。疲れているのだろう。それも当然のことだ。
なじる気にはなれない。
「あいつは悪いやつだったよ。死んでも仕方ない」
「そうなの? どうしてわかったの?」
「わかるさ。婦女暴行。いろいろやってる。見つかってないのもあるだろうし、これからもやるね」
「カメラマンなんでしょ」
「仕事は持ってるさ、食うために……。あんなやつのことは忘れるんだな。頭を使うだけ無駄だ。わるいやつに天罰がくだったってこと、それだけだ」
まるで他人事のように言う。洋子としてもなまなましい話は聞きにくい。いくつかの情景が頭にこびりついてしまいそうだ。
「あなたは本当に大丈夫なの?」
「大丈夫。神様がみかたをしてくれたんだろ。見られたとしても遠くから、ちょっと……。一緒に行ったわけじゃないんだから。やつが先に行ってて、あとから僕が行った。いいよ、そんなこまかいこと、話したくもない」
「さびしいところなんでしょ。なんで行ったの? バス?」
「ああ、そう。バスを乗りついでね」
「それは平気なの?」
「まったく人の行かないところじゃないよ。それほど田舎じゃない。町の人だって乗っている。ただ、風も冷たかったし、崖は急だし、周辺にはだれもいなかった」
「そうなの」
「一件落着だ」
「なにか食べる?」
「いや、いらない。それより……抱きたかった。ずっと洋子のことを思っていたんだぞ」
本堂の手が荒々しく洋子のガウンを奪った。
本堂の愛撫はいつもとちがっていた。
「消して」
洋子が願ってもあかりを消そうとしない。まばゆい光の下で裸にされた。洋子はベッドに投げ出され、裸の本堂が狂ったように襲いかかる。体の深い部分にまで男の唇が届く。
——忘れようとしている——
もとはといえば、洋子が言ったことなのだ。そのために本堂は知らない男を追いかけ、追いつき、チャンスを狙った。早とちりだなんて……今は言えない。怖くなかったはずがない。危険のなかったはずがない。
——私も忘れたい——
狂暴な愛撫は、そんな目的にふさわしい。洋子の全身の血が騒ぎだす。その奥から意地わるいほどの快楽が寄せて来る。
——これは人間がまだ野獣であったころの血——
仲間を殺し、血の匂いの中で体を交えていたころの……。
本堂の目も血走っている。洋子の体を押し開き、激しい動きを続ける。
「和也さん」
初めて本堂の名を呼んだ。
「洋子、洋子」
息と一緒に本堂も耳もとで呼ぶ。
洋子の頭の中で、なにかを割ったように白いものがはじけ、ほとばしって散る。ひたひたと熱いものが内奥に広がる。
本堂の動きが止まった。
そして、ゴロリと転がって体を離した。
洋子は頭を振り、理性を取り戻そうとした。快感がまだ体のあちこちにくすぶっている。
「ご苦労さま」
そうつぶやいたのは、なにに対するねぎらいだったのか。
「疲れた」
「泊まっていらして」
「朝、帰るのはまずいな」
「どうして?」
「ひとめにつきやすい。もう心配はないけれど、用心に越したことはない」
「ええ……」
「次の計画もある」
「なんなの?」
洋子は身をなかば起こした。本堂はすぐには答えない。思案が男の頭の中を走っている……。横顔がそう見えた。
「カン入りのウーロン茶を用意する。鼠の薬をその中に入れる。少し量を多くね。でも、あなたはそのことを知らない」
本堂がゆっくりと言う。
「どうするの」
「それ以上は聞かないほうがいい」
「まさか……」
「僕がやってもいいんだけど、それじゃ危険だろ。いいかい、よく聞いて。僕はあなたが好きだ。あなたと一緒に暮らしたい。それは、わかるね」
「ええ……」
「でもね、幸福な一生を確保するためには、やっておかなくちゃいけないことがあるんだ」
「だから、なんなの」
「聞けば、あなただって�そんなにひどい話なの�って、理解してくれる。世間にはわるい奴《やつ》はいくらでもいる。さんざんわるいことをしておきながら、ぬくぬくと生きてい続けて、ほかの人がしあわせになるのを邪魔している。でもな、そんな話はあまり聞かないほうがいい。新聞にどんな事件が書いてあったって、かかわりがなければ忘れてしまう。できるだけかかわりを持たないで、ほんの一瞬、肩を触れあうくらいで……それで終ってしまうのが一番いいんだ」
「私はなにをすればいいの」
「鼠の薬がどこにあるか教えてくれ」
「どうして?」
「僕が盗む。盗まれるのは、あなたの責任じゃない」
「でも、あなたは薬を扱うことに慣れていないわ」
「それは、そうだけど。じゃあ、それはあなたにやってもらう」
本堂が薄闇の中でじっと洋子を見つめる。
「本気なの?」
本堂はこっくりと頷《うなず》いた。怖いほど真剣なまなざしで。
「僕はあなたのためにやった」
「本当にひどい人だったのかしら、上の人」
「あなたは狙われていたんだよ。アミイを殺し、これからなにをしようとしていたか……。なにかをされてからでは間にあわない」
「変な人だったけど」
「いいね。今度はあなたの番なんだ」
洋子はどう答えていいかわからない。
「来週は、いつあいている?」
と本堂が洋子の手を握りながら聞く。
「えーと、勤務の日以外はあいているわ」
「火、水、金あたり、あけておいて」
「でも……」
握っている手に力が入る。
「僕はあなたを裏切らないよ。それはわかっているね」
「ええ……」
語気に押されて、こっくりと頷いた。
「僕を幸福にしてほしいんだ。助けてほしい。そうすれば僕たちは幸福になれる。あなたはなんの危険もない。僕がどれほどあなたを大切に思っているか、それは佐渡でやったことで……わかるだろ。事件のことは忘れてほしいけど、僕の気持ちは忘れないで」
「知ってるわ」
しばらくは沈黙が続いた。そのあとで本堂は、
「僕を助けてほしい」
と、顔を天井に向けたまま、ため息と一緒に吐きだす。
洋子は体を本堂のほうにまわし、男の胸に耳を当てた。
——心臓が鳴っている——
いつかアミイの胸に耳を寄せたことがあった。あのときは小さな鼓動が聞こえた。
——これが止まると死ぬ——
ただ、それだけのことなのかもしれない。考えてみると、洋子はそんな考えをずっと昔から持っていたような気がする。何十年かたってしまえば、今、動いている心臓もあらかた止まる。生きている人も死んでしまう。百年たてば確実にだれもいない。
——命なんて、どうってことないのね——
そんな虚無的な考えも頭のどこかにある。
人はいつも一つの意見だけを固持しているわけではない。正反対の意見も、かならず頭の中にある。命の大切さを一方で考えながら、一方で命のたあいなさを知っている。
——すっかりこの人の言うままになってあげようかしら——
愛しているなら……。信じているなら……。
たしかに本堂の言うようになにも知らないほうがいいだろう。
「いいね、火、水、金をあけておいて。あとで連絡をする」
洋子は答えない。
「じゃあ、おやすみ」
本堂が帰ったのは夜半を大分過ぎてからだったろう。
洋子の不安をよそにうららかな日が続いた。
——インディアン・サマーね——
たしか小春日和のことを英語ではそういうのではなかっただろうか。
佐渡で六〇七号室の男が死んだことについては、その後なんの動きも知らせもない。事故死として処理され、遺体は岡山のほうへ運ばれたのだろうか。上の部屋はひっそりとして、当然のことながら足音は落ちて来ない。
——早くだれかが住んでくれないかしら——
洋子は幽霊などまるで信じないほうだが、あまり気持ちのよい情況ではない。
夜になると電話のベルが鳴る。ギクリとして受話器を取る。本堂は毎夜かかさず電話をかけて寄こした。そして「あなたが好きだ」「僕を助けてほしい」「すばらしい二人になろう」「今度はあなたの番だよ」とささやく。
洋子のほうは「会いたいわ」と、だだっ子のように言う。不安で仕方がない。平穏な時間を早く取り戻したい。本堂に抱かれたい。
「今はまずいよ。すぐに終る」
「ええ……」
そんな夜が三晩続いて、夕刻、洋子が部屋へ帰るとベルが鳴っていた。
「もし、もし」
「もし、もし、僕だ」
「あ、本堂さん」
「金曜日あけておいてくれたね」
「はい?」
「いよいよだ。お願いするよ。よく聞いて。メモを取って」
「なんでしょう」
「なんでしょうは、ないだろう。まあ、いいや。下の郵便受けに必要なものは入れておいたから」
「いらしたの、ここへ?」
本堂はそれには答えずに話し続けた。
「キップと写真とおしぼりが置いてある。ちょっと旅に出てほしい。せいぜい上野から小山くらいまでだけどね。ウーロン茶は駅で温かいのを一本買ってほしい。あなたが用意するものは、例の薬。それから画鋲《がびよう》を一つ、注射器、手袋。手袋は薄手のもの。ずっと脱がないほうがいいよ。キップに書いてある新幹線に乗ると、隣の席に、写真の男がいる。ちがっていたら計画は中止だ」
なにかの呪文《じゆもん》みたいに言葉が流れて来る。洋子は、
——夢なのかもしれない——
そう思いながら聞いた。