佐渡へ行く。
病院を休む必要はなかった。金曜日に出発して日曜日に帰る。むしろ厄介だったのは、旅館の予約のほうだった。週末は観光客も多い。女の一人旅はきらわれる。
春美の夫が旅行会社につてがあるのを思い出し、頼んでもらうことにした。
「なんで? まだ暑いじゃない」
「海が見たいの」
「海なんかいくらでもあるでしょうに、ほかにも」
「北の海がいいのよ。地図を見てたら、急に行ってみたくなっちゃって」
虚構を組み立てるためには頭をいっぱい使わなくてはいけない。まったく、洋子は、このところいくつもの嘘をついた。
「いいわよ。佐渡ならどこでもいいの?」
「相川《あいかわ》ってとこ。駄目ならほかのところでもいいけど。そんなに大きな島じゃないから」
ガイドブックでおおよその見当はつけてある。
「わかった。頼んでみてあげる」
だが、結局予約ができたのは金曜日の夜のほうだけ。相川の青海旅館。
「そんなにいいとこじゃないらしいけど、みんな似たようなものなんだって」
「かまわないわ。泊まれれば」
時刻表をながめて、計画を立てた。
目的は大野亀である。金曜日に東京を出発して、その日は相川まで。翌土曜日にタクシーを駈って北の先端までいってみよう。ざっと百キロの行程。そのあと両津港に戻り、最後の船に乗って新潟に帰る。新潟のホテルを予約した。
残暑はきびしいが九月の声を聞くと、空の色が秋めいて来る。風が秋になる。
旅の足まわりは、新しいスニーカー。新品だから見苦しくない。ホテル内を歩くのにもいい。こんな旅には洋子はきまってキュロットをはく。一見スカート風。しかしスラックスのように身軽である。
——なにを調べるつもりなの——
無駄のような気もする。本堂が大変な覚悟で行ったところ……。洋子はただそこへ訪ねて行くだけ。それでいいと思った。期待が小さければ失望も少ない。
十時十分発の上越新幹線。
——ほとんど同じ時刻だわ——
厭でも思い出してしまう。大宮駅では窓の外を見るのも怖い。列車が走り出してからそっと首をあげた。
二時間で新潟に着いた。
新潟港から両津港まで、ガイドブックの推奨は高速水中翼船ジェットフォイルである。所要時間はちょうど一時間。普通の船に比べて一時間半も早く着く。
東京でキップの予約をしておいた。
港の出札口で乗船記録を書かなければいけない。
——本堂さんも書いたはずだわ——
鈴木勇の転落死が殺人らしいとわかれば、警察はその前後の乗船記録をしらみ潰《つぶ》しに調べるにちがいない。
——偽名を使ったかもしれないわ——
ううん、そんなことをやったらかえって怪しまれるだろう。警察は一人一人住所までたぐって調べるにちがいないのだから。洋子自身も偽名を……春美の住所と名前を、書きかけてやめた。旅館には本名で予約を取ってある。下手な細工はしないほうがいい。
それに……鈴木勇の死は事故と見なされたにちがいない。事件直後には殺人をほのめかす人もいたらしいが、結論は事故と判定された。そうと決まれば警察が手間ひまをかけて捜査をするはずがない。
——運がよかった——
これは東北新幹線の事件についても言えることだ。
——神様がみかたをしてくれてるから——
つまり、殺された右田輝男が、よほどわるい人だったから……。
海は凪《な》いでいた。三百人くらい乗せているだろう。なかなか島が見えない。
「あれが佐渡だよ」
みんなが窓の外を見る。島が見えてからも両津港に着くまでしばらく走らなければならなかった。
——本堂さんは鈴木勇と同じ船に乗ったのかしら——
多分そうだろう。旅に出たカメラマン。それを追う男。その男はカメラマンをどこかで殺そうと狙っている。カメラマンはこの船のどこかで、窓の外に浮かぶ島を写していたかもしれない。
それをじっと見ている視線。カメラマンはなにも知らない。なにも気づかない。サスペンス映画の一シーン。
だが、現実はサスペンス映画よりずっと恐ろしい。洋子は、本堂の鼓動を感じてしまう。
——殺さなくてもよかったのに——
だが、その場合、洋子は本堂の願いを聞いただろうか。洋子を動かすためにも本堂は鈴木勇を殺さなければいけなかった。
船が速度を落とし、一揺れして止まった。そこが両津港だった。
両津港はコンクリートのビルの建つ港だった。鉄道のない島ではここが交通の要所である。
タクシーの数に不自由はなさそうだ。
「相川の青海旅館までお願いします」
午後の日射しが肌を刺す。海の光はまばゆい。
「どうぞォ」
人のよさそうな初老の運転手。前歯に二本、今ではめずらしい金歯を入れている。
「あそこも佐渡ですか」
山のむこうにもう一つ青みを帯びた山が連なっている。かなり高く、けわしい。
「はあ」
馬鹿なことを聞いてしまった。佐渡のむこうには海しかない。まさかソ連領であるはずがない。
島は思いのほか広い。
——淡路島《あわじしま》とどっちかしら——
中学生のとき淡路島から転校してきた少年がいた。野球がとてもうまい。
「淡路島って野球場が作れるのか」
口のわるい生徒がからかっていた。
地図だけ見ていると、そんな冗談を言ってみたくなるけれど、どうして、どうして、佐渡もなかなかの広さである。
「大きいんですねえ」
「山ばっかりでね」
「でも、このへんは……」
「ここだけですよ」
佐渡にはゴルフ場がないのだと聞かされた。
「観光ですかね」
「ええ、まあ」
「金山に寄って見ますか」
「時間あります?」
「そうだねえ。さあっと見るくらいなら。ちょっと足りんかな」
金山くらいは見ておかないと不自然だろう。観光にしてはおかしい。どこまでもそんな意識がつきまとう。
「さあっと見るくらいでいいの」
金山の跡は観光用にすっかり整備されている。宗太夫坑へ入った。細い坑道。実物大の人形を使って、当時の様子を再現している。しかし、現実はもっと苛酷《かこく》なものだったろう。ほとんどの人夫が三、四年の苦役で死んで行った、と、そう記されているのだから……。
金山そのものよりも、今となっては道遊《どうゆう》の割戸《われと》のほうがすさまじい。山が一つ、ザックリと山頂からくさび形にえぐれて、奇っ怪な姿を呈している。
金を含んでいるということで、どんどん掘り進んでいくうちに、こんな巨大なくぼみができてしまった。のみとたがねだけの手作業で……。人間の欲望のすさまじさが感じられてしまう。
「明日の朝も来ていただけません?」
人のよさそうな運転手に明日の案内を頼んだ。口数が少なく、尋ねたことだけに答えてくれる。笑顔に温かみがある。
「何時に来ますかね?」
「九時でいいわ。大野亀まで行きたいの。どのくらいかかります?」
「二時間はみていただかんとねえ」
「夕方に両津港に帰ればいいの」
「大丈夫だね」
ひなびた旅館。女の一人旅はやはりめずらしいのだろう。女中がポカンとした表情で洋子を見つめている。
「私の甥《おい》っ子も東京に出てますて」
「ああ、そうなの。どこですか」
「綾瀬です」
「このごろ便利がよくなったとこじゃないかしら」
洋子もどのあたりか知らない。電車の行き先表示で見たことがある。
「東京は物価が高いから」
「本当ね。住みいいところじゃないわ」
夕食後、海の近くまで散歩に出た。もう風が冷たい。沖はまっ暗で、漁火《いさりび》一つ見えない。本堂もこの町のどこかに泊まったのではあるまいか。鈴木勇を追いながら……。
——大野亀へはバスで行ったと言ってたけど——
宿に戻り、小さな女風呂に入って疲れを流した。
薄い布団。シーツやカバーがきれいなので、よかった。せんべい布団のほうが背筋がピンと伸びるので、疲れたときには気持ちよい。
どこかの部屋から歌声が聞こえる。おけさ節……。まだ宴会が続いているのだろうか。
そのうちに眠った。
目ざめると快晴。朝食は、のりと卵と味噌汁。小皿にのった漬けものがおいしい。
「おはようございます」
支度をして玄関に出ると、もうタクシーが待っていた。九時きっかりに出発した。
佐渡は細長いパンを二つ、少しずらして並べたような形をつくって海に浮かんでいる。その奥まったほうのパンの、左手の海が外海府、右手の海が内海府である。そして、その先端近くに大野亀がある。
「どっちを行きますかねえ」
「行きは外海府を通って、帰りは内海府から両津へ着けていただけません? 道はいいんでしょ」
「まあ、なんとか。じゃあ、そうしましょう」
島の先端まで舗装道路ができたのは比較的新しいことらしい。昔はめったに人の通うところではなかっただろう。
「尖閣湾《せんかくわん》はどうされますか。きれいですよ」
運転手に勧められたが、
「いいです。大野亀でゆっくり時間をとりたいから」
「そうですか」
おかしな観光客だと思ったのではあるまいか。ガイドブックを見ると尖閣湾はフィヨルド風の断崖を複雑に連ねた景勝地らしい。遊覧船も出ている、佐渡一番の名勝と記してある。
「山椒太夫とか夕鶴とか、みんなこのへんの話ですて」
運転手は遠慮がちに言う。
「ああ、そうなの」
どちらも悲しく、貧しい物語である。海はまぶしいほど明るい青の色を広げているが、この島はどこか悲しい。
道そのものはわるくない。
ところどころに観光の名所があるらしいが、洋子はひたすら先を急いだ。
一ヵ所だけ海府大橋のたもとで車を停めてもらい、外に出た。かつては陸路を行くときの最大の難所だったとか。山が迫り、大ザレ川の渓谷が深々と落ちている。たしかに橋でもなければ、ここを越えて行くのはむつかしい。橋の上に立って下を見ると、真実目がくらむ。そのまま吸いこまれてしまいそうな眩暈《げんうん》を覚える。
「この橋ができて、ようよう島の一周ができるようになったんですて」
島に住む人としては、なにはともあれこの橋だけは見てほしかったのかもしれない。
「怖い」
トラックが通ると、橋が揺れる。
「大野亀も、まあ、すごいとこだね」
海府大橋を渡れば、もう島の突端は近い。家族連れらしいグループが海ぞいの岩場で遊んでいる。
「あれが大野亀ですよ」
と運転手が首をあげた。
道が湾曲している。
海浜の風景はいったん窓から消えたが、つぎに現れたときには青い海と、その中へ急角度で落ちている断崖とが見えた。
岬の突端に小高い岩山がある。頂上から海面までいっきに斜面が落ちている。七、八十度くらいの傾斜だろう。
近づくにつれ、岩壁の様子がわかった。いびつな姿の灌木《かんぼく》が岩肌にしがみつくようにはえているが、その数もそう多くはない。草の色も見えるが、まばらである。てっぺんから突き落とされたら、ほとんどなんの障害もなく、まっさかさまに転落して行くだろう。
「春にはイワカンゾウがいっぱいに咲いてんだがね」
「ああ、そう」
洋子は大きく息をついてから答えた。
岬をまわるようにして走ると、小広い駐車場に出る。
そこからゆるい傾斜の草原が続き、そのむこうに大岩石の山がある。登りはきつそうだが、じぐざぐの小道がついている。草の中に点々と白い人の姿が見える。登りきったところが、岩壁の頂上だろう。
「しばらく待っててくださいな」
言い残して車の外に出た。
快晴の土曜日とあって、ざっと百人ほどの人影が付近に散っている。
道は二つに分れている。
右手の方角は、ゆるく起伏する草原が海のきわまで続いている。左手の方角が岩壁への登り道である。ほとんどの人が右の道へ行く。草原の中にシートを広げ、海を見ながら弁当を食べている。左の道は、同じような草原をへたあと、その先は登るのがちょっとためらわれるような急な坂道に変る。途中まで登って、顎を出している人の姿も見える。
——行けるかしら——
でも、行かなくてはなるまい。スニーカーをはいて来てよかった。
草原の中の細い道を進んだ。白く咲いているのは、なんの花だろう。次第に坂は急になる。息が荒くなる。ところどころで道がなくなり、手を岩にかけてはい登らなければいけない。たかが二百メートルくらい……。だが、てっぺんはなかなか見えて来ない。
「もう少しですよ」
降りて来た男が笑いながら洋子に声をかけた。
「本当に……大変」
肩で息をつきながら答えた。途中で会ったのは、子どもと男の人ばかり。洋子くらいの年輩の女はいない。
「よいしょ」
最後の急斜面を登った。
風がさっと髪をなでる。
だれもいない。洋子は足もとの岩に手をかけ、体をささえながら中腰で周囲を見まわした。岩から手を離すことができない。
頂上は二畳間くらいの広さ……。いや、よく見れば、もう少し広かったが、登り着いたときにはひどく狭い地面に映った。しかも中央に大きな石灯籠が立っている。平らなところはほとんどない。つまり、頂上そのものが凸の字を描いた岩場で、広さを限定するのがむつかしい。岩から手を離したとたん、うっかり足でも滑らそうものなら、そのまま落ちてしまいそう。
一面に海が広がっている。首を伸ばすのもこわい。おそらく真下に海が騒いでいるだろう。
そのまましばらく雄大な海の風景をながめていた。
そのうちに気持ちが少しずつ落ち着く。急斜面を登って来た動悸が収まる。思いがけない運動のせいで全身の筋肉が震えていたのかもしれない。
洋子は気を取りなおし、岩から手を離して、おそるおそる石灯籠をまわって、頂上の一番はしの部分に立った。足をしっかりと踏んばりながら……。
水平線は目の高さより少し低い。百八十度の視界を越えて広がる青い海。褐色の海岸線は遠く背後に続いている。
だが、この風景だけならば、ほかにも例がある。きっとあるだろう。どこかで見たことがある。
ただごとではないのは、目の前の岩角から切り立つように落ちている、その傾斜である。岩角がまるみを帯び、まるで�さあ、滑りなさい�と、誘っているみたい……。そんな形を描いているところが恐ろしい。
少年が二人登って来た。
一人でいるのも怖いが、だれかがそばにいるとなると、もっと怖い。一押しされたら、確実に命はない。洋子は石灯籠に手をかけた。
「すげえ」
少年たちは声をあげながらも、さほど恐れる様子もなく、石灯籠を挟んで洋子と反対の岩場に立つ。三人のうちのだれかが、突然、狂気に襲われたら……。洋子はもう一度、海と断崖の風景を目の中に収めてから腰をかがめて、降りにかかった。
くだり道は膝につらい。
一度滑って尻もちをついた。若い二人連れが登って来る。男が女の手を取って引きあげる。うしろにまわって押しあげる。洋子は小休止をとってそれを見送る。
——殺すのはやさしい——
たったいまながめた頂上の風景が洋子の目の底にこびりついている。そこに二人の男の影が映る。鈴木勇と本堂と……。
——でも、本当にそうなのかしら——
人目はなかっただろうか。見知らぬ男が近づいて来たとき、鈴木勇はなんの警戒心も抱かなかったろうか。
今日は秋日和の土曜日。時刻も昼に近い。だから、これだけの人数が出ている。ウイークデイなら大分様子がちがうだろう。カメラマンは撮影のために特別な時刻を選ぶかもしれない。たとえば、朝、早い時間。人っ子ひとりいない情況も充分に考えられる。
頂上で会った少年たちは、ほとんど周囲に警戒をしていなかった。風景写真を撮るカメラマンは、危険な情況に慣れている。そばに見ず知らずの男が近づいて来ても、
——また野次馬が来たな——
そのくらいの気分でいたのかもしれない。
カメラマンの死について、警察が疑問を持っていないらしいのは、すべてがうまくいったから……。そう考えていいだろう。
駐車場に戻ると、運転手が車の外に出てタバコをふかしていた。
「行きますか」
「もう少し……。時間はあるんでしょ」
「はあ」
「すごい景色ね」
ふり返って岩山を見た。
「登られたんですか」
「ええ」
「結構きついでしょ。去年も一人死んだんですよ。足を滑らして」
「ああ、そうなの」
「カメラマンが写真を撮ってて」
地元では噂になったにちがいない。タクシーの運転手なら、なにか知っているだろう。
「てっぺんから転げ落ちたんですか」
洋子は岩山を指さした。
「そう。朝、早くだったね。前の日、雨が降ってたから、滑ったんじゃないかね」
「たった一人で行ったのかしら」
「そうみたいだね」
「だれかがトンとうしろから押したりして……」
「そりゃないね」
「どうして……わかります?」
洋子は笑いを作りながら尋ねた。
「うん? 見てた人がいるから。そこの売店のおばちゃん。道を歩いてたら、大野亀のてっぺんに人がいるでしょ。朝早く、なにしてんのかなって、そう思って見ているうちに足を滑らして、むこう側の海に落ちたんだね」
運転手は事件のディテールを知っている。
「あら、そうなの」
洋子は狼狽を覚えた。なぜうろたえたのか自分でもすぐにはわからない。
——少しちがうわ——
そう思いながらも運転手の言っていることが、わけもなく正しいようにも感じられる。そのあたりに狼狽の原因があるらしい。
「お昼を食べなくちゃあね」
「この先の、二ツ亀にホテルがあるから。あそこがいいんじゃないかね」
「じゃあ、そうするわ。もう少し待っててね」
「どうぞ」
洋子は腕を伸ばしたまま体のうしろで組む。そんな仕ぐさで空気を吸いながら、プレファブ造りの売店をのぞいた。中年の女が店番に立っている。
「ガムを一つくださいな」
「どれにします?」
「梅干の」
覆いの紙をむき、一枚を頬張《ほおば》ってから、
「あそこの崖で事故があったんですって」
と尋ねた。
「ええ、去年の秋にねえー」
「怖いところですもんね」
「登りなすった? そりゃえらいわ」
「おばさん見たんですって?」
「ああねえ」
女は曖昧な声でうなずく。
「よく見えたんですか」
「鳥かと思ったね、はじめは。黒いもんがパッと飛んで。そしたら叫び声が聞こえたから」
「びっくりしたでしょね」
「そら、たまげたのう」
「たった一人で行ったのかしら、その人?」
洋子はこの女にも同じことを尋ねた。
「一人だったね。警察の人にも聞かれたけど、まちがいないわね。落っこちるすぐ前に、てっぺんに一人でいるとこ、それも私、見てたんだから。足跡も死んだ人のぶんだけだったとのう」
「即死だったの?」
「そうじゃったろうねえ。海に落ちたけど、私ゃ、そばまで行けんしのう。すぐにここに来て一一〇番に電話をかけたわね」
女は少しずつおしゃべりになる。
——見まちがいはなかったのかしら——
本堂は人に姿を見られないよう充分に注意を払っていたにちがいない。突き落として次の瞬間に身を潜める。女は黒い鳥が飛んだのかと思った……。つまり男が滑り落ちる、その瞬間を見たわけではない。それを見ていれば鳥だとは思うまい。見たのは落下の過程だけだった……。
洋子は一連の場面を想像してみた。女が道を歩いている。遠い崖の上に男が一人で動いている。何をしているのだろう。だが、目をそらす。それから数秒後ハッとして視線を戻し、鳥が飛んだと思い、男が声をあげて落ちて行った……。
——本堂さんはどこへ身を隠したのかしら——
崖の上から駈け降りるには、どんなに早く走っても五、六分はかかるだろう。女はどの位置で男の転落を見たのか。そこからこの店の電話にたどり着くまでどれだけの時間がかかったのか。一一〇番を受けた警察がここに到着するまでには、さらにどれだけの時間がかかったのだろうか。
本堂が身を隠しながら現場を巧みに立ち去る可能性は皆無ではない。しかし、かなりむつかしい。それもたしかである。どこにだれの目があるかわからない。崖から逃げ降りて来たところをだれかに捕えられたら、言いのがれのしようもない。
「新聞にはもう一人べつな男がいたって出てましたけど」
「いや、いないね。そんな話、聞かなかったのう」
女はかたくなな声で答える。
ドアが開き、ほかの客が入って来た。女はそっちのほうへ歩み寄る。
「どうもありがとう」
洋子は外へ出た。車までゆっくりと歩いて、
「お待ちどおさま、その……お昼御飯食べるところへやってくださいな」
と、乗りこむ。
「はいね」
「殺人の疑いはまるでなかったの、去年の事件?」
「なかったね」
運転手も確信のこもった声で言う。
「新聞で読んだような気がするけど……」
「いや、新聞にもそんなこと書いてなかったね。東京から調査に来なすったかね?」
見抜かれてしまったらしい。洋子はほとんど佐渡の名勝に足を向けなかったのだから……。
「そう。保険関係のね」
とっさに答えた。調査と思われたほうが好都合である。
「ご苦労さんですな。事故と殺されたのとでは保険金がちがうもんですかね」
「そうでもないけど……一応調べておかないと」
保険については洋子も知識がない。曖昧に答えた。
「あれはただの事故だね。あんなところで写真を撮るんなら、よほど気をつけないと」
事実はどうあれ、地元の人たちは少しも疑っていない。
——変ね——
車はすぐに停まった。
二ツ亀は……細い砂浜のむこうに二匹の亀のような島がうずくまっている。干潮時には陸続きになるとか。それをながめる海岸に休憩所をかねたホテルがあり、一階がレストランになっている。
「これでなにか食べてください」
運転手にお金を渡し、洋子自身はサンドウィッチとコーヒー牛乳を買って砂浜に降りた。海を分けるようにして細い砂地が続いている。両側からひたひたと波が打ち寄せて来る。水の底まではっきりと見える。すっ裸になって泳いでいる子もいる。冷たくないのかしら。水に手を入れてみた。
——こんなところに長くいても仕方がない——
風景の美しさは、また後日に訪ねてながめればよい。
「両津へ戻ってくださいな」
「早すぎますよ」
「ええ、でも前の船に乗れるかもしれないから」
「あ、そうかね」
弾埼灯台と記した道標がある。ここらあたりから内海府の海岸となるのだろう。穏やかな海を左に見ながら細い舗装の道を走った。集落を出て、またつぎの集落にはいる。ところどころに小さな港がある。漁船がもやっている。
「新潟へ帰るんでしょ」
「ええ」
「たしか二時半の船があったはずだね」
「できればそれに乗りたいわ」
なにを急いでいるのか、洋子は自分でもよくわからない。車は六十キロ近いスピードで走り続けた。
二時十九分。かろうじてジェットフォイルの出航に間にあった。このほうが断然早く新潟に着く。予約はしてなかったが、さいわいに空席があった。
——また来ることがあるかしら——
窓に映る島影がすぐに遠くなった。来るときはなかなか両津に着かなかったのに……。
船はやがて新潟港の水路に入り、桟橋に船体を寄せた。
「ご乗船ありがとうございます」
声に送られて洋子は桟橋から港のビル構内へと急ぐ。
タクシー乗り場に向かい、
「県立図書館へやってください」
と頼んだ。
「白山浦の?」
「ええ……」
それがどこにあるか知らない。車が走りだしたところをみると、運転手は知っているのだろう。船の中で考えたことだった。図書館へ行けば新聞の綴《と》じこみがあるだろう。
「地元の新聞て、何種類もあるんですか」
「えっ? ああ、一つだけだろ、たしか」
図書館へ行って確かめればわかることだろう。
去年の十一月十三日。この日付は忘れられない。カメラマンの鈴木勇が死んだ日である。その日以降の新聞記事を調べてみよう。中央紙には記事がなかったが、地方紙ならなにかしら書いてあるにちがいない。中央紙の地方版も見たほうがいい。
「ここだけど」
車は褐色の古い建物の前に着いた。
「古い新聞を見たいんですけど」
入館の手続きをすませてから洋子は尋ねた。
「いつごろの?」
「去年の十一月」
「じゃあ一般閲覧室へ行ってください」
保存してあるのは地方紙一紙と中央紙二紙。十一月分の綴じこみを全部出してもらった。
「五時までですよ」
一時間足らず……。今日中に見られなければ明日また来よう。日付がきまっているから記事を捜すのはさほどむつかしくはない。
事件は十三日の夕刊にすでに載っていた。中程度の見出し……。だが、記されていることは、洋子が知っている内容ばかりである。佐渡の大野亀で東京のカメラマンがあやまって転落死したこと……。殺人をほのめかす文章は一行もない。十四日の新聞には事件そのものの記載が見当たらない。
——本堂さんはなにを見たのかしら——
洋子は記憶をたぐった。
事件のあとで本堂から新聞の記事のコピイが届いた。たしか事件の翌日……。午後遅く速達で。マッチ箱ほどの記事。日付はなかったが、あの記事は十三日の夕刊か、十四日の朝刊。そうでなければおかしい。
中央紙の地方版にもコピイで見たような記事はない。
もちろん新聞にはいろいろな版がある。中央紙もここに綴じこみがあるのは二紙だけ。ほかの中央紙だって発行されている。本堂はここにない新聞の……つまり、彼がたまたま見た新聞の一部をコピイして送ってくれたのだろうが、洋子の胸に釈然としないものがこみあげて来る。それが拭いきれない。
——ここにある記事は、どれも殺人のことなんか言ってないわ——
その後の新聞も調べたが、もう事件についての後報はなにもなかった。十九日のぶんまで見て閲覧時間が終った。
「万代橋《ばんだいばし》に行くには、どう行ったらいいのかしら」
ホテルはその橋の近くにあると聞いた。
「かなりありますよ。信濃川に出て川ぞいに行ったほうがわかりやすいと思いますけど」
「ありがとう」
知らない町を歩いた。川は広い掘割のように整然と仕切られ、豊満な水をたたえている。たそがれの空の下で街が少しずつ灯をつけ始めた。
洋子はホテルの部屋に入り、カーテンを開け、ベッドに腰をおろして電話をかけた。一〇四を呼び出し、地元の新聞社の電話番号を尋ねてダイヤルをまわした。
「社会部をお願いしたいんですけど」
六時少し前……。
「はーい。なんでしょう」
「生命保険会社の者ですが、昨年、佐渡の大野亀で転落死した鈴木勇さんについて調査しております。担当された記者のかた、いらっしゃいましょうか」
保険会社といえば、疑問を抱かれることもあるまい。佐渡でタクシーの運転手を相手に思いついた嘘だったが、これは応用がきく。
「えーと、だれかな。今、いないけど、どんなこと?」
「ご記憶おありでしょうか。事件のこと」
「ええ、知ってます」
「殺人の疑いはなかったのでしょうか。ちらっと新聞で見たような気がするんですけど」
「そりゃ、なかったね。あれはただの事故ですよ。たしか東京のカメラマンでしょ。目撃者もいたし、現場の情況にも不自然なところがなかったからね。殺人の疑いがあったら、扱いがぜんぜんちがうから」
「そうですか、どうもありがとうございました」
「はい。よろしく」
電話が切れた。
——本堂さんは、よほどうまくやったのかしら——
その可能性も皆無ではあるまいが、警察もそう甘くはないだろう。
洋子は、本堂が送ってくれた新聞記事のコピイを思い返した。その内容をできるだけ正確に反芻《はんすう》してみた。
コピイそのものは焼いてしまった。本堂が焼き捨てるようにと命じていたから……。不鮮明で、今、思い出してみると、どことなく違和感があった。
コピイには、たしか死体が海に浮いているところを発見された、と記してあった。これは明らかに事実とちがっている。文章の細かい部分までは忘れてしまったが、両津署が殺人の疑いがあるとして捜査している、と、そんな記載がそえてあった。だが、現地に行ってみれば、殺人の話など少しもこぼれて来ない。だれも事故死を疑っていない。
——私はどうして殺人だと思ったのかしら——
本堂自身がそう言ったから。本堂が送ってくれたコピイを見たから。それにもう一つ、洋子のマンションの管理人室に電話がかかって来たから……。
——あれは、どういう事情だったろう——
一年も前の出来事を正確に思い出すのは、むつかしい。たしか、洋子が外出からマンションへ帰って来たとき、管理人が内緒ばなしでもするみたいに話してくれたのだった。警察から問いあわせの電話だった、と。佐渡で死んだ鈴木さんには殺人の疑いがあり、だれか鈴木さんを恨んでいなかったか、近所の人とトラブルを起こしていないか、近所の人の名前まで尋ねられた、と……。
管理人が洋子に嘘を言ったとは考えにくい。事実、そんな電話があったのだろう。
だが、それが本当に警察からの電話かどうか。それはわからない。現に鈴木勇は死んでいるのだし、警察と言われれば管理人はそう信ずるだろう。疑えば充分に疑えることである。
洋子はハンドバッグを引き寄せ、手帳を取り出した。便利屋の宮地昇の電話番号が記してある。
——彼は演劇青年だから、知っているかもしれない——
宮地は本当にいろんなことを知っている男だ。文字通り便利な人である。
「もし、もし。あ、宮地さん。仁科洋子です」
「あ、こんばんは」
「いてくれてよかった。変なことを聞くけど……」
「はい?」
「テレビ・ドラマなんかで、よく新聞記事が大映しになったりするでしょ」
「ええ……?」
「登場人物が失踪《しつそう》したとか、自殺したとか、そういう記事が画面に映ったりするじゃない。ああいう新聞、どうするの。本物の新聞じゃないんだし……小道具係が作るのかしら」
「ああ、知ってます。町の印刷屋に頼めばやってくれますよ。どこでもやるかどうかわからないけど……」
「わりと簡単なことなの?」
「ドラマ作ってる人なら、どこに頼めばいいって、知ってんじゃないですか。むつかしいことはないと思うなあ」
「そうでしょうね」
「なにするんですか」
「ううん、ちょっと。今、急いでるから。また顔を出してくださいな」
「はーい」
電話を切り、洋子は深々と息をついた。
「やっぱり」
洋子は窓の外の街をぼんやりと見つめながらつぶやいた。新潟はとてもにぎやかな街だ。四角い視界に映る風景は東京の繁華街と変らない。
やっぱり宮地は知っていた……。
しかし、今つぶやいた�やっぱり�は、宮地に繋がるものではないらしい。それを考えるのが怖い。
——せっかくだから街に出てみようかしら——
お腹はすいていないが、なにか食べなくてはなるまい。相川の旅館で朝食をとり、あとはサンドウィッチを一箱食べただけ。夜が更けるまでには空腹を覚えるだろう。ルーム・キイをハンドバッグに入れて部屋を出た。
知らない街を歩くのが好きだ。
アーケード街はおしゃれなブティックでいっぱい。アクセサリー店で銀の輪を三つ連ねたイアリングを買った。耳に垂らすとかすかに鳴る。
——重いかしら。つい買っちゃったけど——
風が少し冷たい。スカーフを買い、ショウウインドーに姿を映して首に巻いた。
本屋に立ち寄った。
買いたい本もあるが荷物になるからやめておこう。いろんな人の名言を集めた本を見つけて開いた。
�人生という芝居は、信じられないほど演出が欠けている。出てくるはずの場面が遅れて、いっこうに現れない。結末は気ぬけしている。恋いこがれて死ぬはずのやつが、やっとそこまでたどりついたときは、老いぼれのヨボヨボだ�
ジャン・ジロドウ。フランスの劇作家の言葉。たしかに人生は演出が欠けている。フォルムの美しい恋愛はめずらしい。
——しかし、演出が行きとどき過ぎてるのも困るんだわあ——
本堂のことを考えずにいられない。細かいところまできっちりと計算ができているのではあるまいか。
�娘にとって恋というものは一つの賭けですわ。自分の見通しに頼るよりほかありませんの。ですから馬鹿な娘がだまされても、それほど同情する必要なんかありませんの�
ジャン・アヌイ。これもフランスの劇作家。うまいことを言っている。
——本当にそうね——
普段の洋子だったら両手をあげてこの言葉に賛意を表しただろう。だが、今夜は少しつらい。かなりつらい。
ホテルへ戻った。握り鮨《ずし》のルーム・サービスを頼み、お銚子《ちようし》を一本つけてもらった。
疲れた。
体よりも心が疲れている。ベッドに入ったが、どうせすぐには眠れないだろう。
——本堂さんは鈴木勇を殺していない——
その仮説に立って考えを組み立てなおしてみよう。矛盾がなければ仮説は真実に近づく。真実になる。
カメラマンの鈴木勇が死んだのは十一月十三日の早朝。時刻はわからないが、太陽が出てから間もないころ……カメラマンは暗い時刻に風景を写したりしないだろう。朝の六時から八時くらいまでのあいだ。当たらずとも遠くはあるまい。考えてみると洋子は本堂が送ってくれたコピイ以外にその記事を見ていない。中央紙には地方の事故は載っていなかった。
本堂から鈴木勇の死について第一報が入ったのは、十三日の夜遅く……十一時ごろの電話だった。新潟からかけていると言っていた。実際の死から十数時間たっている。
それは本堂が現場を離れ、船に乗り、新潟に着いて安全な場所に落ち着くまでの時間と考えることもできるが、少し遅すぎるような気もする。本堂の立場に立ってみれば、すぐにでも洋子に聞かせたい情報なのではあるまいか。電話はどこにでもあるのだし……。それに、第一報は事故の様子について、そうくわしくは伝えていなかった。
第二報は、翌日の朝。これは高崎からの電話。そして問題のコピイが速達で届いたのは、同じ日の夜に入ってからだった。
——本堂さんは本当に佐渡へ行ったのかしら——
疑えば疑えることである。
たとえば本堂は東京にいて、なにかの方法で鈴木勇の事故死を知った。そう、本堂は鈴木勇が大野亀に行くことだけを知っていて、十三日の夜に旅館に電話を入れた……。
旅館には警察から情報が入っている。
「東京の鈴木勇さんですか。大変なんです。大野亀の崖から転落してなくなられました。今朝早く」
と、宿の者は答えるだろう。
——よし、俺が殺したことにしよう——
とっさに本堂はそう考えたのではないかしら。
交換殺人の話は、その前から洋子とのあいだでなかば冗談のように語られていたけれど、はっきりと約束があったわけではない。第一報が届いたときには、
——なんで、そんなこと……。本気だったの——
ことの性質上、洋子が信じられなかったのは当然だが、あのときの洋子の戸惑いはそれだけではなかった。
洋子は今はっきりと思い出すことができる。
なんのうちあわせもないまま本堂が一人で先走りをしたと、そんな印象が拭いきれなかった。たしかに細かくうちあわせをして愉快なテーマではない。洋子としては、本堂が洋子のことを愛しているあまりあえて危険なことを独断でやってくれたのだと思い、深くは追及しなかったけれど、どこか唐突だった。
——私は鈴木勇さんのことを殺したいなんて、そう本気で思っていたわけじゃない——
そう言いたかった。死んでほしい人とは思ったが、その感情はすぐには殺人と結びつかない。
——あ、待って——
新しい疑念が、洋子の心をかすめる。
思い返してみると、鈴木勇を憎むようになったプロセスにも少し腑《ふ》に落ちないことがある。
たしかに感じのわるい男だった。凶暴な人だった。せっかく快適に暮らしているのに天井からドシン、ドシンと物音が落ちて来る。まるでわざとやっているみたいに……。苦情をいっても逆に�猫がわるさをする。気をつけろ�などと脅す。油壺で乱暴を働いた男かもしれない……そんなことをデートのたびに本堂に話した。
鈴木勇のいやがらせはますますひどくなり、ベランダにいやらしいものを落として汚す。深夜に無言の電話がかかって来る。ついにはアミイが殺された。
——でも、あの男がやったとは限らない——
一瞬、背筋が総毛立つほどの恐怖を覚えた。
——本堂さんなら、できる——
ゆっくり考えてみると、鈴木勇を憎むようになった原因の中には、本堂にそそのかされた部分がなくもない。「評判の悪いカメラマンだ」「婦女暴行の前科がある」「なにを狙っているかわからないぞ」ふし目ふし目に本堂の言葉があったのではないかしら。洋子の憎しみをかき立て、殺意にまでふくらませようとしていたのではないか。
——なんのために——
交換殺人を承知させるために……。
その計画の最中に、思いがけず鈴木勇が事故死をして、大急ぎで部分的な調整をした……。そう考えてみると、納得できることが多い。
——悪魔のような——
そんな言葉が思い浮かぶ。本堂ならそうかもしれない。みごとに天使を演ずることができなければ、悪魔ではありえない。
——でも、どうして——
疑問はさらに時間をさかのぼる。どうして本堂は洋子に近づいたのか、軽井沢で出会ったことまでが作為だったのかしら。
記憶をたどるのがむつかしい。考えが乱れてしまう。当然のことながら、洋子のほうは無防備だった。ささいなこと一つ一つに裏の意味を考えたりはしない。だが、その中に、事実をかいま見る芽が隠されていたのではなかろうか。
会って間もないときに洋子は本堂に身分を明かした。獣医であることも、薬剤師であることも。研究所で殺虫剤や殺鼠剤の研究をしていたことも。危険な毒薬を隠し持っていることも話したかもしれない。本堂は少年のような笑顔を浮かべ、まるで冗談でも言うように話題をそのほうに向けた。毒薬を手に入れたがっていた……。
——それが最初の目的だったのかもしれないわ——
本堂は……ある日、軽井沢で一人旅の女とめぐりあった。好感のもてるタイプの女だったからすぐに親しくなった。話しているうちに、その女は薬理に通じている、毒薬を持っているらしいとわかった。本堂には殺さなければいけない男がいた。しかし、人を殺すのはたやすいことではない。それにふさわしい毒薬が手に入れば、殺人は一気に現実性を帯びる。
——この女と親しくなろう——
恋愛感情がどこまでまじっていたのか。演技だけにしてはあまりにもフォルムの美しい恋だった。少しは本気の部分もあったのかしら。悪魔の脳味噌までは計り知れない。
とにかく恋は順調に進んだ。そのうちに女が、マンションのすぐ上の階に住む男を憎んでいることを知った。交換殺人が本堂の頭に浮かぶ。そのほうが安全である。そこで女から事情を聞きだし、少しずつ憎しみが深くなるように仕向ける。とうとうアミイまで殺されてしまった。
——正体のわからない人だったわ——
性格のことではない。本堂の性格もよくわからなかったが、これはほかの男だってわからないと言えば、みんなはじめのうちはわからない。
本堂の場合は、住んでいるところがわからない。職業だって、よくわかっていたとは言えない。トラベル・ライター……。そういう仕事があることはまちがいなかろうが、本堂が本当にそうであると裏づけになるものを見たわけではなかった。
——名前はどうなのかしら——
それだって疑えば疑うことができる。洋子は、ささいな会話を思い出した。心にほんの少しひっかかったので、今でも頭のすみに残っている。
あのとき、季節はずれの軽井沢は人気も少なく、街は映画のセットのように閑散としていた。シャッターを開けている店のほうが場ちがいに映った。洋子はそんな街を歩きながら連れの男に名前を尋ねた。
「本堂です」
と、男は小声で告げた。よく聞きとれなかったので、
「本堂……ですか」
と尋ね返した。
「もちろんですよ、嘘をつく必要はないでしょう」
どことなくちぐはぐな答えだった。もしかしたら相手は洋子の言葉を「本当……ですか」と聞いたのかもしれない。それなら会話が噛みあう。きっとそうだと思った。
ただそれだけのこと……。
でも、自分の名前が本堂だったなら「本堂ですか」と尋ねられ「本当ですか」と聞きちがえるものだろうか。あのとき考えた些細《ささい》な疑問が今よみがえって来る。
本堂はなにかの理由で名前を偽り、親しくなってしまってから、今さら「本当の名前はこれこれです」とは言いにくい。そんなケースも考えられる。
もし偽名だとしたら、なるほど�本堂和也�を捜してみても見つからないわけだろう。疑念が黒くふくらむ。
この夜、洋子が眠ったのは三時に近かった。
つぎの朝、洋子は目をさましてすぐにホテルを出た。日ざしがまばゆい。港町のせいかしら。
——東京へ帰ろう——
新幹線の発車を待ちながらコーヒーを飲んだ。
昨夜はわるい想像をしすぎてしまったかもしれない。知らない街の、知らないホテルで一人寝ていては、頭に浮かぶことも暗くなる、ネガティブな方向に向かう。
朝の光の中で思い返してみると、もう少し明るい思案も浮かんで来る。
——たしかなことは一つもない——
よいことも、わるいことも……。
鈴木勇が事故死だったと、それだって錯誤の入りこむ余地がある。担当の警察官が先入観にとらわれ、第一歩の捜査をまちがうことだってあるだろう。
——十一月十七日まで——
それが本堂との約束の期日である。時刻は午後三時ごろ、場所もきまっている。そこに本堂が現れるかどうか、それを待つよりほかにないのだろうか。窓の外はトンネルばかりの風景に変っていた。