この夏、テレビの仕事でモロッコを訪ねた。�千夜一夜物語�の痕跡《こんせき》を探るのが旅の目的だった。
ロンドンから空路でカサブランカへ入ったが、ここはどこにでもあるような近代的な港町である。見どころと言えば、映画で名高い�カフェ・アメリカン�だろうが、これはホテルの地下に再現された観光施設だから、さほどのものではない。ハンフリー・ボガートとイングリッド・バーグマンの写真がたくさん貼《は》ってある。古いアラブの面影を捜すとなれば、フェズやマラケシュのほうが適しているだろう。ワゴン車を雇って内陸部へ走らせた。迷路のようなメディナ、隊商たちが泊ったフンドーク、高い塔を立てたモスク、昔ながらの染色工場などを見て歩いた。
「魔術使がいるらしいぞ」
「どこに?」
「少し遠いけど」
�千夜一夜物語�の旅となれば、魔術使にはぜひとも会ってみたい。たしか�アラジンと不思議なランプ�に登場する悪党は、モロッコの魔術使ではなかっただろうか。
「行こう、行こう」
スケジュールを調整し、朝早くマラケシュのホテルを出発してカスバ街道をザゴラまでひた走りに走った。三百キロを超える道程である。道そのものは悪くないけれど、どこまで行っても茶褐色の荒野が続いている。
途中、アトラス山脈を越えるとワルザザートの町に着く。ここで小休止をとり、さらにワゴン車を走らせた。
ミネラル・ウォーターは欠かせない。水分を摂らずにいると、知らず知らずのうちに脱水状態に陥り、これが頭痛や吐き気の原因となる。現地の水は絶対に飲んではいけない。
ザゴラに着いたのは午後一時過ぎだったろう。
暑い。本当に暑い。
なにしろここはサハラ砂漠の入口に当たるのだから。摂氏四十一度。吹いて来る風までが、焼けつくような熱気を帯びている。
ドライバーのムッシュー・アブドラがベルベル人の混血らしく、この町で顔がきく。一、二度迷ったが、町はずれの集落で魔術使の家を探りあてた。
「どんな魔術を使うのかな」
「絨毯《じゆうたん》が宙に浮いたりして」
魔術使は生粋《きつすい》のベルベル人だと教えられた。ベルベル人はもっとも古い時代からアフリカの地中海沿岸に住んでいた民族である。生活はけっして豊かとは言えない。薄暗い部屋に入ると、薬草の匂《にお》いが鼻を刺す。
魔術使はマラブと呼ぶらしい。残念ながら絨毯を飛ばしたり、ランプの精を出現させたりするわけではなく、祈祷師《きとうし》と医者とを兼ねたような存在だった。
「どこか体の悪いところありますか」
同行の女性リポーターが実験台に立つこととなった。
思案をめぐらしてから、
「子どものときから、私、喉《のど》が悪くて……風邪《かぜ》なんかをひくと、ひどく咳込《せきこ》むんです。ゴホン、ゴホン」
「ああ、わかります。治してあげましょう」
通訳はアラビア語からフランス語へ、フランス語から日本語へと二段階でおこなう。
魔術使はリポーターの肩にやさしく手をかけ、祈祷書のようなものを取って、頭の上に円を描く。そしてなにやらお祈りのような言葉を唱える。
まったくの話、このあたりで本物の医者を捜すのはむつかしい。たいていはマラブの世話になる。
──大丈夫なのかな──
病は気から、という部分もたしかにあるのだから、信じていれば治るのかもしれない。ひとくさりおまじないを唱えたあとで、
「お薬をあげましょう」
「はい」
秘伝の妙薬のようなものを想像したが、それではなく、黄ばんだ紙を一枚取り出して、それに壜《びん》の水で記号を書く。文字を記す。
壜の水は、あぶり出しの効果を持っているらしい。筆跡が乾いたところで、紙を火にかざすと、記号と文字とが黒く浮かんだ。このあたりが魔術なのかもしれない。
祈りながら紙を折り畳み、
「これをあげますから、持っていなさい」
「はい」
「咳がひどいときには、少しちぎって飲みなさい」
「この紙をですか?」
「そう、そう」
私はとりとめもなく水天宮のお守りを思い出した。
小学生の頃……。従姉《いとこ》の信子さんは女学校の理科の先生だった。結婚し、妊娠し、子どもがいよいよ生まれるときに、叔母《おば》が水天宮のお守りを取り出して、
「さ、これを飲みなさい」
お守り袋の中から小さな紙片をさし出した。
現場を見ていたわけではないけれど、信子さんは目を白黒させながら、けっして小さくはない紙片を飲み込んだとか。産室でうんうん苦しみながら……。
その様子がおかしかった、と、ずいぶんあとあとまで信子さんは親戚《しんせき》の者たちにからかわれていた。
あとで知ったことだが、水天宮は安産の守護神である。お守りの効能の中に、きっとそんな利用法が記されていたのだろう。
──それにしても理科の先生が──
と、私は釈然としない思いを抱かないでもなかった。
モロッコの魔術にも同じような利用法が伝わっているらしい。
「効くかな」
と尋ねると、
「なんだか効くみたい」
リポーター嬢は飲まないうちから胸を撫《な》でおろしている。
魔術使のパフォーマンスはこれで終った。
カメラマンがポラロイド・カメラを取り出して魔術使を写した。
印画紙の上に少しずつ魔術使の笑顔が浮かび、鮮明な映像となる。
「ほう」
と、魔術使が驚愕《きようがく》の表情を浮かべた。少なくともあぶり出しよりは、こちらのほうが魔術的である。
「どうぞ」
「ありがとう、ありがとう」
頭を垂れて、うやうやしく受け取り、引出しの奥に収めた。
「まいったなあ」
私たちはザゴラの魔術使にそれほど多大な期待を抱いていたわけではなかったけれど、炎天下を三百キロ走って来たわりには、少々たわいない。
「まあ、いいんじゃない。絵にはなっていたから」
と、ディレクターが一同をなだめる。ドキュメンタリィの撮影ではディレクターの判断が優先する。彼が満足してくれれば、問題はない。私一人が、
「もう少しなにかがあるといいんだが」
と首を傾《かし》げていた。
魔術使はそれを見ていた。私の不満を見ぬいたのではあるまいか。
「じゃあ、出発しますか」
と車のほうへ向かった。
「あ、ちょっと待って」
私は、魔術使の家に帽子を忘れて来たのを思い出して道を引き返した。
魔術使は戸口のところに立っていたが、私の顔を見ると、愛想笑いを浮かべながら手ぶりでまるい輪を作った。
「帽子を忘れちゃって」
と、私はフランス語で呟《つぶや》いたが、それが通じたかどうか。
部屋のすみにあった帽子をとって、
「ありがとう」
と言えば、魔術使は笑顔のまま、手で作ったまるい輪を半分に切るような仕草を示す。
──わからない──
なにかを伝えようとしているらしい。もう一つ、べつな魔術をやってみせようと、そう告げているようにも見えたが、スタッフはみんなワゴン車に乗り込んでいる。どうせあぶり出し程度のものだろう。
「オー・ルヴォアール」
と私は声をかけた。
さようならの意味だが、原義は英語の「シー・ユー・アゲイン」同様、また会いましょうである。
──また会うこともあるまいな──
と思いながら、この言葉を告げたのだった。
「クチャクチャクチャ……」
それに対して魔術使の答えた言葉がなんであったか、私にはアラビア語がまるでわからない。思いのほか長い言葉だった。あい変らずまるい輪を半分に切る仕草を続けている。
私の帽子はまるい。
だが、それを半分に切るとどうなるのか。
考えてはみたが、やっぱりわからない。
「ありましたか、帽子?」
「うん。すみません」
ものめずらしそうに集まって来た子どもたちに手を振ってワゴン車は出発した。
帰り道でいくつかの風景を映した。ワルザザートを過ぎたところで右の後輪がパンクし、スペア・タイヤに替えてみたが、これも充分に空気が入っていない。この先しばらくは町らしい町はない。
ゆるゆると走ってワルザザートに戻り、故障をなおしているうちに太陽が西へ傾く。
「よし、もう少し時間を潰《つぶ》そう」
「どうして」
カメラマンが夕日を指さす。
往路でも見たように周囲は見渡す限り茶褐色の荒野である。そのむこうにゆっくりとアフリカの太陽が落ちていく。
車を止め、小半時ほど待った。
地平線には雲も靄《もや》もない。太陽は赤味を増し、大きさを増し、少しずつ地の果てに沈んでいく。
「いいねえ」
「久しぶりだなあ、こんな夕日」
「はじめてかもしれないわ」
神々の宿る風景ではあるまいか。
息を飲むほどに美しい夕暮れだった。
半円になった太陽を見て、私はふと魔術使の身ぶりを思い出した。
──このことかな──
魔術使は途中でまっ赤な太陽が半分になると、そのことを予言したのかもしれない。
しかし、夕日は半分のまま止まっているはずもない。半円はすぐに櫛形《くしがた》になり、細い筋となり、赤い光源となって消えた。
旅先では極力その土地の料理を口にするように心がけている。胃袋もまた民族の文化を知るための大切な触手である。
とはいえ、モロッコ料理を代表するメニュー、クスクスはどうも私の好みにあわない。味は、上にかけるシチュー次第だが、小麦粉を蒸した本体そのものが気に入らない。
スープのたぐいはすべて好物だから、タジンはよく口にあう。パンもわるくない。カバブは串《くし》焼き肉、ケフタはつくねと思えばよい。マトンに抵抗感のある人には、アラブの旅はつらいだろう。
メディナに近いレストランでビールと一緒にモロッコ料理を賞味し、ミント・ティで口の中に残った油っけを洗い流した。
「腹ごなしをしますか」
「いいね」
夜の町を散策した。
小一時間も歩いただろうか。ホテルは喧騒《けんそう》の町を離れて繁みの中に建っている。とりわけ裏手のほうは暗い林になっている。林の中に舗装《ほそう》の道が延びていた。
やがて月が昇った。
満月だった。
「すてき!」
「すごいね」
これもまた久しぶりに見る大自然の美観であった。漆黒《しつこく》の闇《やみ》を背景にして文字通り銀色に輝いている。光が銀色の糸となって降り落ちてくる。月の表に映る薄い影もよく見える。
──兎《うさぎ》じゃないな──
と思った。
むしろ踊っている女のように映った。
──�千夜一夜物語�の中になかったかなあ──
これだけみごとな月が浮かぶものならば、秀逸な伝説の一つや二つ、きっと語られているだろう。
しかし、思い浮かぶものはなにもない。
「おやすみなさーい」
「明日は九時に出発です」
「わかった」
ホテルの部屋へ戻った。
正直なところ、モロッコのホテルは、どこもみな一カ所くらい、欠けるところがあった。内鍵《うちかぎ》がかからない、お湯が出ない、バスタブの栓がない、冷房がきかない、夜間の国際電話が通じない……。奇妙なことに欠点は一つだけである。だが、一つはきまってある。私は運がわるかったのかもしれない。
マラケシュではバスタブの栓がなかった。シャワーで汗を流し、持参のウイスキーをストレートであおった。
昨今は水割りばかり飲んでいる。よいウイスキーはストレートでたしなむものだろう。
本を読み始めたが、すぐに眠りが襲って来た。
二時間ほど眠ったろうか。
遠い物音を聞いて眼をさました。音の正体はわからない。
──モロッコにいるんだ──
ぼんやりとした意識の中でそう思った。
──星空を見よう──
モロッコへの旅を企てたときから心に抱いていた願いだった。カサブランカの夜空は東京とさして変りがなかった。
ズボンをはいた。満月のことは忘れていた。と言うより満月の夜には星も輝きを失うだろう、と、そんな簡単な判断が頭に浮かばなかった。
意識がはっきりとしない。
ウイスキーの酔いではない。かすかに薬草の匂いが忍び寄って来る。魔術使の家で嗅《か》いだ匂いだ。私はアフリカの夜の気配に酔っていたのかもしれない。
靴を履いて外に出た。
フロントにはだれもいない。ドアを押し開けた。
細い舗装の道がホテルの裏の林へと延びている。
薄闇の中を歩いた。
梢《こずえ》の上に見える空は暗い。ほとんど星も見えない。少し進むと、
──あれっ──
少し先に白い影が浮かぶ。
人が歩いている。
女のうしろ姿だとわかった。女は頭に水がめを載せている。
──ホテルで働く女性なのだろうか──
林のむこうに宿舎があったりして……。
すぐに追いついた。
「ボン・ソワール」
声をかけると、女はふり返り、
「ボン・ソワール、ムッシュー」
と、響きのよいフランス語で答えた。
私は「どこへ行くのか」と尋ねたが、女は首を振っている。私のフランス語が下手なのか、それとも女がフランス語を解さないのか……。
重ねて「なにをしているのか」と尋ねると女は林の奥を指さす。そして、ゆっくりと歩きだす。薬草の匂いが強くなった。女が香料をつけていたのかもしれない。
──やっぱり宿舎へ帰るところなのかな──
と思ったが、女の動作は�一緒についてらっしゃい�と、そう告げているようにも見える。
あとに続いた。空地になっている。
後者の考えがあたっていただろう。
道は右に折れ、その曲がり角のあたりが小広い空地を作っている。周囲には高い木もなく、ぽっかりと夜空が開けている。
そこに女と向かいあって立った。
女の顔を見た。
女は頭にターバンのようなものを巻き、その一端がほどけて顔を半分ほど隠している。だから片眼だけが光って見えた。
夜空を見あげたとき、私はわけのわからない違和感を覚えた。
また薬草の匂いを強く感じた。
つぎの一瞬、違和感が恐怖に変った。
──そんな馬鹿な──
と思った。
空には半分の月が懸かっていた。西瓜《すいか》の一切れのような櫛形の月が……。
それ自体はけっして不思議な風景ではないけれど、数時間前に私が見た月は、紛れもない満月だった。みごとな正円を描いて銀色に輝いていた。
それが……いま空にある月は、色こそ銀色だが、半分が切り落とされて失《う》せている。一夜のうちに月がこんなに欠けるはずがない。
──少なくとも日本ではそんなことはありえない──
でも、ここはアフリカ……。
──だからこんなこともあるのかな──
理科の知識を総動員してみたが、アフリカだってそんなことは起きないだろう。つぎに考えたのは、
──私は何日間も眠っていたのかな──
という現実離れをした想像だった。
ホテルのベッドに潜り込み、さながらリップ・バン・ウィンクルのように何日間か眠り続けていたのなら、月も形を変えるだろう。
──そんなことはありえない──
一人旅ではないのだから、仲間が異変に気づくだろう。ホテルのフロントだっていつまでも宿泊客を放っておくはずがない。こんなことを連想すること自体、頭が狂いかけている。
──ああ、そうか──
さっき見た満月がまちがいだったんだ。モスクの塔のてっぺんに輝く人工の光を、私は満月と見たのだろう。
だが、それもにわかには信じられない。
──あれはたしかに月だった──
そして、いま、天上に懸かっているのも、たしかな月である……。
女は一つだけの眼で笑っている。
私の戸惑《とまど》いを……戸惑いの理由をしっかりと見ぬいているらしい。
水がめを頭から降ろして傾けた。
水がこぼれ、足もとに水溜《みずたま》りを作った。
私の顔を見つめながら呟いたアラビア語は……多分アラビア語だと思うのだが、私にはわからない。
──ほら──
とばかりに水溜りを指さす。
首を伸ばして覗《のぞ》き込むと、水溜りの中に半分の月が映っていた。
そして、またアラビア語……。
今度はわかった。わかったと思った。
──半分は、ほら、ここに落ちているでしょ──
とでも言っているらしい。
薬草の匂いが、さらに濃密に二人を包んだ。
──これが魔術なのか──
と思った。
この直観はみごとに的中したようだ。
女が身をかがめ、水溜りの中に手をさし出す。なにげない動作だった。まるで落としたものを拾うように……。
スイと水中の半月を掬《すく》いあげ、水を切って天にさしのべる。櫛形の月が二つ、吸いつくようにくっついて一つの正円に変った。
私は茫然《ぼうぜん》として眺めていた。
女がもう一度水溜りを覗き込む。
水の中に、ターバンで半分だけを隠した顔がほほえんでいる。
ターバンをかきあげた。
半分だけの顔……。半分は欠けている……。
だが、女は水の中の顔を掬い取って自分の顔に当てた。その顔は……女ではない。
──ザゴラで会った魔術使──
と思う間もなく、うしろ姿になり、一、二歩進んで闇より暗い闇の中にフイと消えた。
あとはたださっきより一層輝きを増した月が銀の光をヒタヒタとこぼしていた。