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楽しい古事記02

时间: 2018-03-31    进入日语论坛
核心提示:岩戸の舞   アマテラス大御神《おおみかみ》、岩戸に隠れる 耳学問というものがある。 ちょっと小耳に挟んで得た知識、ある
(单词翻译:双击或拖选)
岩戸の舞
   ——アマテラス大御神《おおみかみ》、岩戸に隠れる
 
 
 耳学問というものがある。
 ちょっと小耳に挟んで得た知識、あるいはなにかの本で読み部分的に知っているケースも多い。
 いずれにせよ根拠のしっかりしたものではない。半分は正しいが半分はちがっている。七〇パーセントくらいは正しいが三〇パーセントはちがっている。その逆もある。おおむね正しいこともあるが、根も葉もない話のときもある。パーセンテージはいろいろだが、私たちの知識の、けっして小さくない部分が、この耳学問によって培われているのは本当だ。
「イザナギの命《みこと》とイザナミの命は、せきれいが交尾するのを参考にして自分たちも交わったんだろ」
 というのは、かなりよく知られている日本神話のエピソードである。私なんか、
 ——鳥のチョンチョンなんて、参考になるかなあ——
 と怪しむけれど、それはともかく、これは古事記に記されていることではない。神話と古代史を綴《つづ》ったもう一つの古典、日本書紀の記述である。日本書紀は神代《かみよ》の出来事については�一書《あるふみ》にいう。また一書にいう�という形式を採って諸説を掲げている。その中に、かなり控えめにせきれいの交尾を見習って二人の神様が交合したことが記されており、本来ならさほど目につく記述ではないのだが、やっぱり下々《しもじも》はこの手の描写に関心が赴く。広く人口に膾炙《かいしや》した、という事情である。
 古事記と日本書紀、最後の一字が異なっているので省略するときは記と紀、一緒にまとめて言うときは記紀とするが、この二つはともに神話と古代史を扱いながら、ある部分は似ているし、ある部分は異なっている。比較対照は相当に厄介であり、比較対照の中からさまざまな推測が生まれ学説が唱えられているけれど、ややこしいことはこのエッセイの目的ではない。大ざっぱに言えば古事記のほうが物語性が強い。お話として読みやすく、いきいきとしている。日本書紀は歴史性が濃く、体裁も中国の歴史書に模して整え漢文で記してある。カバーする時代も古事記が第三十三代|推古《すいこ》天皇までであるのに対し、日本書紀は第四十一代|持統《じとう》天皇までと広い。しかし歴史性が濃いということは必ずしも正確という意味ではなく、一定の歴史観によって記述され、編纂《へんさん》時の権力者の意図を微妙に反映していることも充分に考えられる。古事記にもこの傾向がないとは言えないが、
 ——日本の神話はこんなもの、古代史はこんなもの——
 と、おおまかに理解して楽しむには、古事記のほうが適している。たとえば古事記が�成り成りて、成り合わぬところ�に�成り成りて、成り余れるところ�を刺し塞《ふさ》いで国生みをしようと素朴に暢達《ちようたつ》に書いているのに対し、日本書紀では�陰のはじめ�に�陽のはじめ�を合わせて、であり、陰陽の二気によって世界が成ったという思想を明確にうちだしている。二つのちがいを見る好例だろう。だが、このエッセイではタイトルに示した通り古事記を中心に散策を楽しんでいこう。
 
 さて、スサノオの命は父なるイザナギの命に命じられた海の国の統治を怠り、乱暴ばかり働いている。母のいる黄泉《よみ》の国へ行きたいなどとほざくものだから神々の国・高天原《たかまのはら》から追放されてしまう。
 その前に、
「お姉さんにひとことご挨拶《あいさつ》」
 アマテラス大御神《おおみかみ》のもとへと急ぐ。
 心を高ぶらせていたせいか、のっし、のっしと歩くだけで山も川も大地も揺らぐ。
 これを聞いてアマテラス大御神は、
 ——なにかわるいことを企《たくら》んでいるんじゃないのかしら。高天原を私から奪おうとしているんだわ——
 と、武装にかかった。
 髪を男のように結い、男の装いをして勾玉《まがたま》で身を飾った。美しい勾玉は権力を象徴し、神秘の力を秘めているからだ。背には千本、脇腹には五百本の矢を備え……と、まあ、これはたくさんの矢を身に帯びたことだろう。弦音《つるおと》の高い強弓を手に持ち、庭の土がへこむほど強く足をふん張り、弦を引き、雄叫《おたけ》びをあげ、スサノオの命を見るや、
「さあ、なにをしに来たの?」
 と厳しく詰問した。
「邪心なんかありませんよ。�母君のところへ行きたい�って言ったら、父君に�ここにいるな。とっとと出て行け�って追放されました。そのことを姉君にひとこと伝えておこうと思って……」
 と、口を尖《とが》らせる。
 そう言われてもわるい噂ばかりを聞いているからアマテラス大御神のほうは信用できない。
「邪心のないことを証明してくださいな」
「誓いを立てて子を産みましょう」
「それがいいわね。あなたの剣を貸して」
 と、アマテラス大御神はスサノオの命が腰に帯びている剣を受け取って、たちまち三つに折り清らかな井戸水で洗い、口の中で噛《か》みくだいてパッと噴くと剣は粉となって霧を作る。勾玉がさやさやと鳴って、これは神秘力を示しているのだろう。霧の中から三人の女神が生まれた。
 一方、スサノオの命は、
「勾玉の髪飾りを貸してください」
 と、アマテラス大御神の髪を飾った勾玉をもらい、清らかな井戸水で洗い、口の中で噛みパッと噴く。同じことをいくつもの勾玉を使ってくり返し五人の男神を産んだ。
 アマテラス大御神とスサノオの命はなにをやったのか? 神ならぬ身には合点がいかないけれど、これは神々がおこなう誓約《うけい》という習慣。わからないことを知るために誓いを立て神に祈って天意を問う方法である。コインを投げてその裏表で右を選ぶか、左を選ぶか、あれと似たようなものである。
 コインの場合は当然のことながら表が上にきたら「おれがおごる」とか「お前が先攻」とか、あらかじめ決めておいてから投げる。それをきちんとやっておかないと意味がない。
 アマテラス大御神とスサノオの命の誓約も、そのあたりをちゃんと決めておくべきであったのに、それを怠ったため二人の了解事項に差異があった。
 スサノオの命は、
「私が霧を噴いて男神を産んだんだから、私の勝ちだ。私の心は潔白だ」
 と、主張する。
 ところがアマテラス大御神は、
「あら、男神が生まれたのは私の勾玉からじゃない。私の勝ちよ。あなたの剣は女神だったわ」
 と譲らない。
 男神が生まれたほうが勝ち、と、この点ではおたがいに同じ認識があったのだが、原材料が大切なのか、産む行為が大切なのか、肝腎《かんじん》なところが確認してなかった。生産物は資本家のものか労働者のものか、というテーゼにも通じている。
 どちらも譲らず、スサノオの命だけが、
「私が勝った、私が勝った」
 意気揚々と引き上げて行く。(このくだり古事記には混乱があって、いろいろな解釈があるのだが、ここではこう考えておこう)
 スサノオの命の剣から生まれた三人の女神は現在、宗像《むなかた》大社の祭神となっていることを伝えるに止《とど》めておくが、アマテラス大御神の勾玉から最初に生まれた男神はすこぶる重要。御名《みな》をアメノオシホミミの命と言い、この四代後の子孫が神武《じんむ》天皇で、言ってみれば現代の天皇家はこの子孫ということになる。こんな大切な神様を産んだほうが勝ち、というのは、
 ——きっとそうなんだろうな——
 なんとなく納得できるけれど、資本か労働かの問題はやっぱり解決していない。
 アマテラス大御神は、勝手に自分の勝利と決め込んだスサノオの命の短絡に不安を抱いたが、この不安は的中していた。
「姉さん、見たか。俺が勝ったんだぞ」
 アマテラス大御神のところへ挨拶しに赴いたのは殊勝であったが、たちまち荒っぽい気性がその本領を発揮して猛《たけ》り狂う。
 スサノオの命にしてみれば、
 ——せっかく挨拶に行ったのに、姉貴のやつ、はなから武装なんかして、てんで信用してねえんだから。誓約をやればイチャモンをつけやがって。おもしろくねえんだよなあ——
 腹いせにアマテラス大御神が造った田んぼの畔《あぜ》を切る、灌漑《かんがい》用に造った川を埋める、食堂に糞《くそ》を撒《ま》き散らす。
 アマテラス大御神のほうは、
 ——考えてみれば、もう少し弟を信じてやればよかったわ。武装をして迎えたり、せっかく誓いを立てると言ってるのに水を差したりして——
 と反省したのではあるまいか。スサノオの命の乱行を聞いても、今度は、
「不浄のものを撒き散らしたのは酒に酔ってへどを吐いたのでしょう。田んぼで狼藉《ろうぜき》を働いたのは土地を広くしようと考えたからでしょう」
 と、あえて庇《かば》おうとした。
 アマテラス大御神の優しい心を知ってか知らずかスサノオの命はますます増長して、
 ——どうだ、おそれいったか——
 と、悪事を重ねる。
 アマテラス大御神が機織《はたおり》場に赴いて織女たちに神々の衣裳《いしよう》を織らせていると知るや、機織場の屋根に上り穴を開け、皮を剥《は》いだ血だらけの馬を投げ落とした。
「きゃーッ」
 織女の一人が驚きのあまり機織具の梭《ひ》で下腹を刺して死んでしまう。
 ——なんていうことを——
 あまりの狼藉にアマテラス大御神はどうしてよいかわからず、嘆き悲しんで天《あま》の岩戸《いわと》の奥へ引き籠《こも》ってしまった。乱暴な弟と、それにどう対処してよいかわからず身を隠してしまう姉と……神々の世界も、問題児をかかえた我等人間の家庭とあまり変わりがない。
 
 たったいま�天の岩戸の奥へ引き籠ってしまった�と書いたけれど、これは正しくはあるまい。スサノオの命《みこと》の乱行に驚いて、アマテラス大御神が深い岩穴の中へ逃げ込み、その出入口を大きな岩で閉じた、と、ここまでが第一段階。それが天の岩戸と恭《うやうや》しく呼ばれるようになったのは、この事件があってから後のことだろう。それが理屈である。
 理屈と言えば、
 ——アマテラス大御神はどうやって岩戸を閉じたのかなあ——
 という疑問も生ずる。
 話は先走るが、この岩戸は穴の出入口を塞《ふさ》ぐ大岩塊で、大男の怪力をもってしてはじめて開くしろものなのだ。手弱女《たおやめ》の手では動かしにくい。あるいはアマテラス大御神だけが開閉のこつを知っていたのかもしれない。
 いずれにせよアマテラス大御神に隠れられてしまっては世界はまっ暗闇、とめどなく夜が続くことになってしまう。
「さあ、困ったぞ」
「どうしよう」
 闇に乗じてよくないことが次々に起こり始める。
「どんどんひどくなるぞ」
「なにかよい知恵はないものか」
 八百万《やおよろず》の神々が天《あめ》の安《やす》の河原に集《つど》って相談を始めた。
「ブツブツブツ」
「ガヤガヤガヤ」
 しばらく騒いでいたが、
「オモイカネの命よ、どう思う?」
 と、知恵者で知られるオモイカネの命の判断を求めた。
「よい考えがあります」
 オモイカネの命は、まず長鳴鳥《ながなきどり》を集めて鳴かせた。「コケコッコー」と鳴く鶏のたぐいである。それから、その任にふさわしい神様に頼んで鏡を作らせ、勾玉《まがたま》の玉飾りを作らせた。
 その一方で、
 ——この計画がうまくいくかどうか——
 これまた担当の神様を呼んで占ってもらった。牡鹿《おじか》の肩の骨を焼いて、そのひび割れぐあいで判ずる占い、すなわち太占《ふとまに》である。
「うまくいきますよ」
 見通しは明るい。
 天《あめ》の香具山《かぐやま》まで行って榊《さかき》を掘り出して運び、この上枝《ほつえ》に玉飾りを吊《つる》す、中枝《なかつえ》に鏡を取りつける、下枝《しずえ》のほうには白と青との幣《ぬさ》飾りを垂らした。幣というのは……手っ取り早く言えば神主さんがお祓《はら》いをするときにヒラヒラと揺れる白い紙。古くは布で作ったが今は紙製が多い。これをたくさん束ねて飾ったのが幣飾りだ。このときの幣飾りは楮《こうぞ》や麻の皮を晒《さら》して作った特注品であった。
 こうしてはでに飾った榊を岩戸の前に運んで捧《ささ》げ、鶏は「コケコッコー」と鳴き、鏡はキラキラ、勾玉サラサラ、用意万端整ったところでアメノコヤネの命が声高々に祝詞《のりと》を唱える。神の来臨を願う祈りであり、そのこころは、
「さあ、アマテラス大御神よ、出て来てください」
 であったろう。
 岩戸のかげに一番の力持ちタヂカラオの命が身を隠し、いよいよウズメの命の登場だ。ウズメの命はつる草でたすきを掛け髪を飾り、笹束を手に持ち岩戸の前に桶《おけ》を伏せて、トトン、トントン、トトン、トン、踏み鳴らしながら踊りだす。次第に調子をあげ激しく動いて文字通り狂喜乱舞のてい。着衣ははだけて乱れて、オッパイが飛び出す、下腹も見え隠れする。たいへんなはしゃぎよう。集った神様たちも、
「おっ、いいぞ、いいぞ」
「それいけ、ドン、ドン」
 鶏もかまびすしく鳴き、あちこちで玉飾りが激しく揺れて美しい音を撒き散らす。
 ウズメの命の踊りはますます高ぶり、卑猥《ひわい》さを加え、滑稽《こつけい》さを増して、群がる神様もやんやと騒ぎ、あちこちで高い笑い声が起きる。これが知恵者のオモイカネの命の狙いだった。
 狙いはたがわず、岩戸の中に籠ったアマテラス大御神も外の騒ぎを聞いて、
 ——どうしたのかしら——
 自分がいなくなり、太陽の光が消えて、みんながさぞかし悲しんでいると思ったのに、なんとまあ、このはしゃぎよう。不思議に思い、岩戸を細く開けて尋ねた。やっぱりアマテラス大御神だけは開閉のこつを知っていたのだ。
「あれはウズメの命ね。なにがあんなにうれしいの? 神様たちもなんで笑っているの?」
「あなたよりすてきな神様がいらしたからよ」
 と、答えたのは、これもオモイカネの命の入れ知恵だったろう。言葉と一緒にほかの神様が鏡を差し出す。そこにアマテラス大御神の姿が映り、一瞬アマテラス大御神自身が、
 ——あら、これが……私よりステキな神様なのね——
 と、自分の姿を見て勘ちがいをしてしまう。
 もう少しよく見ようとして、さらに岩戸を押して身を乗り出したとき、
 ——今だ——
 岩戸のかげに隠れていたタヂカラオの命が岩戸をグイとこじ開け、アマテラス大御神の腕を取って引き出した。
 すっかり姿が現われたところで、もう一人待機していた神様が岩戸の前に手早く注連縄《しめなわ》を張る。
「もう入ってはいけませんよ」
 という印である。
 オモイカネの命の計画は大成功。
「こういう計画だったのね」
 アマテラス大御神も今は苦笑するよりほかにない。たちまち世界は光を取り戻し、
「よかった、よかった」
 神々は口々に叫んで頷《うなず》きあった。喜びあったところで、
「あいつは、どうする?」
 この大騒ぎ、もとはと言えば、スサノオの命の乱行から始まったことである。
「スサノオの命を罰しなければ示しがつかん」
「まったくだ」
 神々は再び相談して、まずスサノオの命に�千座《ちくら》の置戸《おきど》�を負わせた。これは今風に言えば罰金刑。スサノオの命はたっぷりと物品を献上させられ、そればかりではすまされず、鬚《ひげ》を切られ、手足の爪を切られ、これ自体が清めの意味を持っているのだが、さらにお祓《はら》いで身を清められ、
「少しは頭を冷やしなさい」
「いっしょには暮らせないわ」
 高天原《たかまのはら》からの追放が厳命された。
 
 さて、私はと言えば……ある晩秋の小春日和に宮崎県北端の町、延岡《のべおか》から高千穂《たかちほ》鉄道に揺られて西へ向かった。のどかなローカル線である。家並が疎《まば》らになると、すぐに五ヶ瀬川が車窓に映る。清澄な水の流れが快い。川は右に左に移って、山が次第に迫って来る。谷が深くなる。
 灰緑色の巨大な橋が谷の上空をさながら天を割るようにして渡っている。と見るまに今度は赤い橋が同じように行く手の空を遮っている。
 それにしてもこの沿線にはすごい橋がたくさん架かっている。線路そのものも谷底から東洋一の距離をへだてた高みを走ったりする。すなわち高千穂鉄橋だ。
 ——このへんは谷が多く、深いのかな——
 と考えたが、日本国中を捜し歩けば谷が深い地域などほかにもたくさんあるだろう。山奥に村邑《そんゆう》が点在しているのは、なにも宮崎県だけではあるまい。なぜこの地にだけ豪壮な橋梁《きようりよう》が目立つのか。詰まるところ、
 ——大きな橋を造るのが好きなんだ——
 私の判断はこの結論へと傾く。
 それとも……この山中は神々の故里《ふるさと》である。山奥から神々が飛翔《ひしよう》して平地へ降りてくるはずだ、そのイメージが天翔《あまが》ける大橋梁をここに数多《あまた》造らせたのかもしれない。
 私の旅の目的も、その故里の一つ高千穂町を訪ねることにあった。とりわけ岩戸|神楽《かぐら》と天《あま》の岩戸。どちらも古事記の記述と関わりが深い。
 岩戸神楽は、その発祥をウズメの命《みこと》にさかのぼる、と言う。アマテラス大御神が隠れた岩戸の前でウズメの命が踊ったという故事、それを淵源《えんげん》として誕生し伝承され、発展しながら長く守られて来た神楽舞だ。
 岩戸神楽を鑑賞するにはAコースとBコース、二つの方便がある。私が勝手につけた呼び方だから、現地に赴いて、
「Bコースにしてください」
 と告げてもポカンとされるだけだろうが、はっきりと二つに分けて説明したほうがわかりやすい。
 Aコースが本筋のほうだ。
 年ごとに若干の差異はあるらしいが、おおむね十一月中ごろから二月の初めまで、日を決め場所を決め、高千穂地区のどこかで合計二十回余りの岩戸神楽の神事が催される。たとえば平成十年十一月二十一日は五ヶ村東の戸高信義さん宅。同十二月十四日は野方野の木下隆夫さん宅……。公民館が会場となるケースも多いが、一般の民家という催しもけっして少なくない。これを神楽宿というのだが、昔はそれぞれの土地の比較的裕福な農家がまわり持ちで神楽宿を受け持つのがほとんどだった。その名残りは今でも垣間見《かいまみ》えている。
 本筋の岩戸神楽は一番から三十三番まで踊る。夕刻から始まり夜を徹して明けがたまで続く。朝の光を見てようやく止む。
 長い。そして寒い。これは本当だ。
 どのくらい長いか、紙面でも一端を感じてもらうために、充分に難解な三十三番の舞の名を記すならば、
 彦舞《ひこまい》に始まり太殿《たいどの》、神降《かみおろし》、鎮守《ちんじゆ》、杉登《すぎのぼり》、地固《じかため》、幣神添《ひかんぜ》、武智《ぶち》、太刀神添《たちかんぜ》、弓正護《ゆみしようご》、沖逢《おきへ》、岩潜《いわくぐり》、地割《じわり》、山森《やまもり》、袖花《そでばな》、本花《ほんばな》、五穀《ごこく》、七貴神《しちきじん》、八《や》つ鉢《ばち》、御神体《ごしんたい》、住吉《すみよし》、伊勢《いせ》神楽《かぐら》、柴引《しばひき》、手力雄《たぢからお》、鈿女《うずめ》、戸取《ととり》、舞開《まいひらき》、日《ひ》の前《まえ》、大神《だいじん》、御柴《おんしば》、注連口《しめぐち》、繰下《くりおろ》し、そして最後に雲下《くもおろ》し
 である。この三十三番の舞は確かに岩戸の前で舞った神話を淵源としているが、つぶさに眺めてみると、内容はそれだけではなく、農産物の実りに感謝し、さらなる豊作を祈る民俗を充分に反映している。
 一番、一番、三十分前後の時間をかけて踊る。神楽宿は定められた伝承により舞台を作り、供物を整え、近在の神社からあらかじめ守り神を呼び寄せておく。行事全体が氏神様に奉納する神事なのである。
 舞台脇の広間が氏子たちの集まる席であり、庭もまた見物席となる。全部を確かめたわけではないけれど、大広間の一郭に舞台を設営し、庭側を正面にし、奥に神棚を隠した天の岩戸を置く、氏子たちは舞台の隣に座して酒を飲みながら横から眺める、と、そんな形式が多いようだ。雨戸は開け放たれ、庭からの見物もあるとなると……これは充分に寒い。なにしろ酷寒期の行事なのだ。農閑期を迎え顔見知りが一堂に会し、献酬を重ねながら舞を眺めて語りあい、うち興ずる、という祭本来の目的を守った鑑賞法ならば徹夜もさほど苦になるまいけれど、通りすがりの観光客には少々|辛《つら》いところなきにしもあらず。充分に覚悟を決め、寝袋にホカロン、ポットには熱燗《あつかん》の酒を入れの酒を入れ夜食を用意して訪ねれば、
「いやあ、明けがたには天井に吊した雲が降りて来て感動したなあ」
 ということになるけれど、不用意に挑戦すると後悔のもととなる。土地の人々はみな親切で、
「さあ、こっちに来なされ」
 と暖かい席を勧めてくれたり、温かいカッポ酒、うどん、おにぎり、お煮しめなどなどをふるまってくれるけれど、本来は彼等自身の祭であり観光客のための催しではないのだ。サービスに不足があっても当然のことだろう。
 Aコースは本物志向であり、見れば見ただけの価値があるけれど、どなたにでも勧められるしろものではない。
 そこで、コンパクト版Bコースの登場と相成る。こちらはずっと手軽である。このエッセイではこちらの旅を綴《つづ》っておこう。
 高千穂鉄道を終点の高千穂駅で降り、迎えの車に乗って宿へ入った。山里はすぐに暮れる。沸かし湯の温泉に入り夕食をとり、
「ちょっと覗《のぞ》いて来ます」
「まっすぐ行って、二つめの信号の右手ですからぁ」
「はい、どうも」
 と外に出た。風が冷たい。延岡は小春日だったが、山間《やまあい》の町は相当に冷え込むらしい。月のない空に一番星が明るく輝き始めていた。
 右手の薄闇に大きな鳥居があった。
 石段を上った。
 正面に本殿がある。百円玉を投じ、二礼二拍一礼、型通りに祈った。
 薄暗い境内だが、神楽殿のある一部だけが明るい。ここで催される岩戸神楽は夜の八時から九時まで。一年を通じほとんど毎晩おこなわれているらしい。料金は四百円也。
 檜造《ひのきづく》りだろうか、神楽殿の格子戸を開けて中へ入ると木の香がかぐわしい。
 畳を横に五枚、奥行きは十三枚、都合六十五畳の大広間が観客席で、奥が舞台になっている。民家などで設営する場合は四本の柱を二|間《けん》間隔で四角に立て、そこを舞台とするが、ここはもう少し広い。広い舞台の内側にやはり二間間隔くらいに柱を立て、注連縄《しめなわ》を張り、榊《さかき》で飾り内舞台を作っている。その一番奥まったところに岩塊を模した二枚のパネルが合わせ戸のように設《しつら》えてある。白い紙飾りが旗のように並んで舞台の上方を飾っている。
 上演時間は先に述べた通り一時間。手力雄の舞、鈿女の舞、戸取の舞、そして御神体の四つを舞う。今夕の客は三十人くらい。
 八時ちょうどに神官が現われ、観客に背を向けたままパネルの前で恭《うやうや》しく礼拝したのち畳に坐《すわ》った観客のほうへ、
「よくいらっしゃいました」
 挨拶《あいさつ》ののち手短に岩戸神楽の縁起を語り、それから今夕の舞について説明をする。
 四つの舞のうち初めの三つ、すなわち手力雄、鈿女、戸取はAコース三十三番と対照してみれば二十四番、二十五番、二十六番に相当する。いよいよ天の岩戸が開く直前の様子を示す踊りである。そして最後の一つ御神体は二十番の舞、天の岩戸とは別種の神話を基としている。アマテラス大御神たちの親であるイザナギの命、イザナミの命がどれほど睦《むつま》じい仲であったか、それを伝える舞である。Aコースでは参集の観客たちが眠くなるころに設定されていて、ちょっとエロチック。イザナギの命、イザナミの命が観客席へ入り込んで来て、男神は女性に、女神は男性にふざけ半分にからみついたりする。場内に「キャー、キャー」と嬌声《きようせい》が起こり、眠気もしばしさめようというもの。村社会ではささやかな男女交流の場であったにちがいない。それがBコースの最後にある御神体の舞だ。
 神官はつけ加えて、
「この神社の神楽舞は、私たち近在の神社にある者が代わり番で務めております。素人ですから不行届きもありましょうが、お許しください。では、どうぞ」
 大太鼓の係が二人、横笛の係が一人、右手に入って、ピーヒャラドンドン、ピーヒャラドンドン。左手から褐色の髪に白い面をつけたタヂカラオの命が登場する。この舞は力強さが身上だ。白赤緑の幣《ぬさ》を振り神楽鈴を鳴らし、髪を乱して狭い舞台を跳ね踊る。ときどき背後の岩戸のあたりに近づいて、
 ——このあたりかな——
 アマテラス大御神が隠れているスポットを確かめるように首を傾けるのだが、その所作が愛敬《あいきよう》たっぷり。おかしい。
 この舞はざっと十五分くらい。Aコースでは三、四十分をかける舞だ。三十三あるものを四つに縮め、三十分を十五分に縮め……かくて徹夜の演《だ》し物《もの》が一時間に収まる、という仕様である。
 鈿女は、その名の通りウズメの命の登場で赤い頭巾《ずきん》に白い面、白装束で陽気に、かわいらしく踊る。古事記に記されたウズメの命ほど激しくはない。卑猥《ひわい》なんか……とんでもない。そこそこのお色気くらい。優しく舞っているけれど、
 ——これは男だなあ——
 多分、小柄な神官ではあるまいか。そもそも神楽宿の舞台は女人《によにん》禁制のはず。手首のあたりは、やっぱり男の性《さが》を現わしていた。
 戸取ではふたたびタヂカラオの命が現われて、これは赤い面、髪も乱れて長く、ズボンのような袴《はかま》も猛々《たけだけ》しい行動にふさわしい。長い荒神杖《こうじんづえ》を振って最前よりさらに荒々しく踊り、最後は激しい気あいをかけて岩戸のパネルを剥《は》ぎ、頭上に掲げて歓喜し、岩戸の中をあらわにする。
 中には小さな神殿。ご家庭の神棚に鎮座するものを想像していただければ遠くない。
 ——たしかタヂカラオの命は頭上に掲げた岩を投げ捨て、それが信州の戸隠《とがくし》神社になったって、聞いたこと、あったなあ——
 毎度のことながら神話はスケールが大きい。耳学問ながら宮崎県から長野県まで飛ぶのである。
 しかし高千穂神社の神楽殿では、パネルは静かに隅のほうに立てかけられ、手荒く投げ捨てられることはなかった。明日も明後日もずーっと続けなければならないのだ。舞台装置は大切に扱わなくちゃあ。
 こうしてめでたく天《あま》の岩戸が開いたが、これだけではちょっと地味すぎる。三十三番あるうち岩戸の開く直前がハイライトであることは確かだが、それだけでは観光客に対するサービスが足りないような気がしないでもない。
 そこで御神体の舞。
 イザナギの命はわらを束ねた一端に竹棒を刺して杵《きね》のような形のものを持って現われる。イザナミの命は桶《おけ》と笊《ざる》。睦じく手を取り合い、相手にたすきをかけてやり、米をとぎ、酒を造る。酒ができたところで仲よく飲み始める。酔うにつれ睦じさの中に少しずつドキッとするような所作が混じる。
 イザナギの命が客席に降りて来て、女性客にからみつく。ここでも嬌声があがる。イザナミの命は舞台の上から手をかざして眺め、イザナギの命を見つけて、
 ——駄目よ、浮気をしちゃあ——
 とばかりに引き戻す。
 ところが、そのイザナミの命も観客席へ入って男性客にちょっかいを出す。今度はイザナギの命がやきもちをやき、捜して連れ帰る。
 二人はさらに酒を飲み、酔い痴《し》れて抱き合い、寝転がり……上下になって腰まで使いだしたところで、はい、ストップ。イザナギの命はわら束を枕《まくら》に眠り、やがてイザナミの命が引き起こし二人で踊ったのち、イザナミの命は立ち去る。イザナギの命がひとしきり神への感謝をソロで踊ってジ・エンドとなる。
 ——なるほどね——
 やっぱりこの御神体の舞があったほうが艶《つや》があって興趣も盛りあがる。
「これにて終了でございます。ありがとうございました」
 挨拶を告げる神官に、
「これはなんというんですか」
 と指をさして尋ねた。
 岩戸|神楽《かぐら》の舞台には、天井のすぐ下、注連縄を張った上あたりに白い紙の飾りものが万国旗のように連ねてある。半紙ほどの大きさ。鋭利な刃物を当て切り絵のように切って、いろいろなデザインを描いている。干支《えと》に因《ちな》んだものが多いが、そればかりではない。
「えりものと呼んでます。彫り物と書いて」
「きれいですね」
 質問をしているうちに神楽殿を出るのが遅れてしまった。観客はみんな足早に帰って行ったらしく境内はすでに森閑としている。肩をすぼめながら人通りのない町を歩いた。
 夜空の星が美しい。
 ——これでいいのかな——
 と思ったのは、万事簡便が重宝される今日このごろ、神楽までコンパクト版で賞味してよいのかな、というテーマである。退屈さそのものが大衆の文化なのだ。Aコースは、もっと多彩で、風俗の匂いが溢《あふ》れている。
 それにしても、さっきよりさらに寒くなった。今朝の天気予報では平年より暖かいほうだと言っていたのに……。
 ——徹夜はつらいからなあ——
 灯《あか》りをつけている居酒屋を見つけ、熱燗《あつかん》をあおって神々に祝いを捧《ささ》げた。
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