「ふん。こいつらがざわざわざわざわ云っていたのは、ほんの昨日のようだったがなあ。大低雪に潰されてしまったんだな。」
木霊は、明るい枯草の丘の間を歩いて行きました。
丘の窪みや皺に、一きれ二きれの消え残りの雪が、まっしろにかがやいて居ります。
木霊はそらを見ました。そのすきとおるまっさおの空で、かすかにかすかにふるえているものがありました。
「ふん。日の光がぷるぷるやってやがる。いや、日の光だけでもないぞ。風だ。いや、風だけでもないな。何かこう小さなすきとおる蜂のようなやつかな。ひばりの声のようなもんかな。いや、そうでもないぞ。おかしいな、おれの胸までどきどき云いやがる。ふん。」
木霊は、ずんずん草をわたって行きました。
丘のかげに六本の柏の木が立っていました。風が来ましたので、その去年の枯れ葉はザラザ〔以下原稿無し〕
*
〔下書稿、冒頭数枚なし〕
おかしいな。おれの胸までどきどき云いやがる。ふん。」
若い木霊はずんずん草をわたって行きました。
丘のかげに六本の柏の木が立っていました。風が来ましたのでその去年の枯れ葉はザラザラ鳴りました。
若い木霊はそっちへ行って高く叫びました。
「おおい。まだねてるのかい。もう春だぞ、出て来いよ。おい。ねぼうだなあ、おおい。」
風がやみましたので柏の木はすっかり静まってカサっとも云いませんでした。若い木霊はその幹に一本ずつすきとおる大きな耳をつけて木の中の音を聞きましたがどの樹もしんとして居りました。そこで
「えいねぼう。おれが来たしるしだけつけて置こう。」と云いながら柏の木の下の枯れた草穂をつかんで四つだけ結び合いました。
そして又ふらふらと歩き出しました。丘はだんだん下って行って小さな窪地になりました。そこはまっ黒な土があたたかにしめり湯気はふくふく春のよろこびを吐いていました。
一疋の蟇がそこをのそのそ這って居りました。若い木霊はギクッとして立ち止まりました。
それは早くもその蟇の語を聞いたからです。
「鴾の火だ。鴾の火だ。もう空だって碧くはないんだ。
桃色のペラペラの寒天でできているんだ。いい天気だ。
ぽかぽかするなあ。」
若い木霊の胸はどきどきして息はその底で火でも燃えているように熱くはあはあするのでした。木霊はそっと窪地をはなれました。次の丘には栗の木があちこちかがやくやどり木のまりをつけて立っていました。
そのまりはとんぼのはねのような小さな黄色の葉から出来ていました。その葉はみんな遠くの青いそらに飛んで行きたそうでした。
若い木霊はそっちに寄って叫びました。
「おいおい、栗の木、まだ睡ってるのか。もう春だぞ。おい、起きないか。」
栗の木は黙ってつめたく立っていました。若い木霊はその幹にすきとおる大きな耳をあててみましたが中はしんと何の音も聞こえませんでした。
若い木霊はそこで一寸意地悪く笑って青ぞらの下の栗の木の梢を仰いで黄金色のやどり木に云いました。
「おい。この栗の木は貴様らのおかげでもう死んでしまったようだよ。」
やどり木はきれいにかがやいて笑って云いました。
「そんなこと云っておどそうたって駄目ですよ。睡ってるんですよ。僕下りて行ってあなたと一諸に歩きましょうか。」
「ふん。お前のような小さなやつがおれについて歩けると思うのかい。ふん。さよならっ。」
やどり木は黄金色のべそをかいて青いそらをまぶしそうに見ながら
「さよなら。」と答えました。
若い木霊は思わず「アハアハハハ」とわらいました。その声はあおぞらの滑らかな石までひびいて行きましたが又それが波になって戻って来たとき木霊はドキッとしていきなり堅く胸を押えました。
そしてふらふら次の窪地にやって参りました。
その窪地はふくふくした苔に覆われ、所々やさしいかたくりの花が咲いていました。若い木だまにはそのうすむらさきの立派な花はふらふらうすぐろくひらめくだけではっきり見えませんでした。却ってそのつやつやした緑色の葉の上に次々せわしくあらわれて又消えて行く紫色のあやしい文字を読みました。
「はるだ、はるだ、はるの日がきた、」字は一つずつ生きて息をついて、消えてはあらわれ、あらわれては又消えました。
「そらでも、つちでも、くさのうえでもいちめんいちめん、ももいろの火がもえている。」
若い木霊ははげしく鳴る胸を弾けさせまいと堅く堅く押えながら急いで又歩き出しました。
右の方の象の頭のかたちをした潅木の丘からだらだら下りになった低いところを一寸越しますと、また窪地がありました。
木霊はまっすぐに降りて行きました。太陽は今越えて来た丘のきらきらの枯草の向うにかかりそのななめなひかりを受けて早くも一本の桜草が咲いていました。若い木霊はからだをかがめてよく見ました。まことにそれは蛙のことばの鴾の火のようにひかってゆらいで見えたからです。桜草はその靱やかな緑色の軸をしずかにゆすりながらひとの聞いているのも知らないで斯うひとりごとを云っていました。
「お日さんは丘の髪毛の向うの方へ沈んで行ってまたのぼる。
そして沈んでまたのぼる。空はもうすっかり鴾の火になった。
さあ、鴾の火になってしまった。」
若い木霊は胸がまるで裂けるばかりに高く鳴り出しましたのでびっくりして誰かに聞かれまいかとあたりを見まわしました。その息は鍛冶場のふいごのよう、そしてあんまり熱くて吐いても吐いても吐き切れないのでした。
その時向うの丘の上を一疋のとりがお日さまの光をさえぎって飛んで行きました。そして一寸からだをひるがえしましたのではねうらが桃色にひらめいて或いはほんとうの火がそこに燃えているのかと思われました。若い木霊の胸は酒精で一ぱいのようになりました。そして高く叫びました。「お前は鴾という鳥かい。」
鳥は「そうさ、おれは鴾だよ。」といいながら丘の向うへかくれて見えなくなりました。若い木霊はまっしぐらに丘をかけのぼって鳥のあとを追いました。丘の頂上に立って見るとお日さまは山にはいるまでまだまだ間がありました。鳥は丘のはざまの蘆の中に落ちて行きました。若い木霊は風よりも速く丘をかけおりて蘆むらのまわりをぐるぐるまわって叫びました。
「おおい。鴾。お前、鴾の火というものを持ってるかい。持ってるなら少しおらに分けて呉れないか。」
「ああ、やろう。しかし今、ここには持っていないよ。ついてお出で。」
鳥は蘆の中から飛び出して南の方へ飛んで行きました。若い木霊はそれを追いました。あちこち桜草の花がちらばっていました。そして鳥は向うの碧いそらをめがけてまるで矢のように飛びそれから急に石ころのように落ちました。そこには桜草がいちめん咲いてその中から桃色のかげろうのような火がゆらゆらゆらゆら燃えてのぼって居りました。そのほのおはすきとおってあかるくほんとうに呑みたいくらいでした。
若い木霊はしばらくそのまわりをぐるぐる走っていましたがとうとう
「ホウ、行くぞ。」と叫んでそのほのおの中に飛び込みました。
そして思わず眼をこすりました。そこは全くさっき蟇がつぶやいたような景色でした。ペラペラの桃色の寒天で空が張られまっ青な柔らかな草がいちめんでその処々にあやしい赤や白のぶちぶちの大きな花が咲いていました。その向うは暗い木立で怒鳴りや叫びががやがや聞えて参ります。その黒い木をこの若い木霊は見たことも聞いたこともありませんでした。木霊はどきどきする胸を押えてそこらを見まわしましたが鳥はもうどこへ行ったか見えませんでした。
「鴾、鴾、どこに居るんだい。火を少しお呉れ。」
「すきな位持っておいで。」と向うの暗い木立の怒鳴りの中から鴾の声がしました。
「だってどこに火があるんだよ。」木霊はあたりを見まわしながら叫びました。
「そこらにあるじゃないか。持っといで。」鴾が又答えました。
木霊はまた桃色のそらや草の上を見ましたがなんにも火などは見えませんでした。
「鴾、鴾、おらもう帰るよ。」
「そうかい。さよなら。えい畜生。スペイドの十を見損っちゃった。」と鴾が黒い森のさまざまのどなりの中から云いました。
若い木霊は帰ろうとしました。その時森の中からまっ青な顔の大きな木霊が赤い瑪瑙のような眼玉をきょろきょろさせてだんだんこっちへやって参りました。若い木霊は逃げて逃げて逃げました。
風のように光のように逃げました。そして丁度前の栗の木の下に来ました。お日さまはまだまだ明るくかれ草は光りました。
栗の木の梢からやどり木が鋭く笑って叫びました。
「ウワーイ。鴾にだまされた。ウワーイ。鴾にだまされた。」
「何云ってるんだい。小っこ。ふん。おい、栗の木。起きろい。もう春だぞ。」
若い木霊は顔のほてるのをごまかして栗の木の幹にそのすきとおる大きな耳をあてました。
栗の木の幹はしいんとして何の音もありません。
「ふん、まだ、少し早いんだ。やっぱり草が青くならないとな。おい。小こ、さよなら。」若い木霊は大分西に行った太陽にひらりと一ぺんひらめいてそれからまっすぐに自分の木の方にかけ戻りました。
「さよなら。」とずうっとうしろで黄金色のやどり木のまりが云っていました。