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クライマーズ・ハイ07

时间: 2018-10-19    进入日语论坛
核心提示:     7 午前三時──。 悠木は編集局の大部屋を出て、灯の落ちた階段を上がった。四階の廊下の突き当たりが宿直室だ。エ
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 午前三時──。
 悠木は編集局の大部屋を出て、灯の落ちた階段を上がった。四階の廊下の突き当たりが宿直室だ。エアコンのスイッチを入れて壁際の簡易ベッドに転がった。車を運転して家まで帰れる自信がなかった。ただの頭痛とは違う。脳が肥大し、内側から頭蓋を圧迫している。そんな感覚がずっと続いていた。
 死者五百二十人。
 世界最大の航空機事故。
 全権デスクの任は想像以上に重かった。自分の能力を遥かに超えていると悠木は思った。戦いは始まったばかりだ。JAL123便が群馬県上野村の御巣鷹山に墜落してから三十二時間。まだ朝刊を二度送り出したに過ぎない。
 六時に起こしてくれ。枕元の内線電話で不寝番の記者に頼むと、悠木は汗染みの広がったネクタイを首から引き抜き、片方の手で枕を首の下にあてがった。饐《す》えた臭いに包まれる。若い記者たちの体臭が、泊まり番を卒業して久しい悠木を郷愁と喪失感との狭間に誘い込む。この簡易ベッドは年若い事件記者にとっての止まり木だ。夜討ち朝駆けの合間に羽を休め、しかし、脳は眠ることなく、野心に彩られた短い夢を見る。
 脳裏に佐山の鋭角な顔が浮かんでいた。
 真夏の炎天下、道なき道を十二時間かけて御巣鷹山に登った。文字通り決死の覚悟で夜の山を下り、地元紙「北関」の意地を貫いて現場雑観を電話送稿してきた。だが、今から数時間後、県内の家庭に配られる朝刊に佐山の署名記事は載っていない。等々力……。「大久保連赤」世代のスター記者は、新たな世代のスター記者の誕生を望まなかったということだ。
 佐山は北関の歴史に名を刻み損ねた。
 その反動がどう出るか。佐山は事件取材にとりわけ秀でた、押しも押されもせぬ北関の中核記者だ。我《が》の強さにしても局内で一、二を争う。佐山の出方によっては今後の事故取材に支障をきたす。
 報いてやることだ。漠然と思い、悠木は寝返りとともに佐山の顔を消し去った。
 安西のことが気掛かりだった。
 倒れて病院に入院した……。いったいどこで倒れたのか。原因は何か。
 二人で衝立岩に登るはずだった。安西が運び込まれたのは前橋市内の県央病院だという。とすれば悠木と同様、安西も谷川岳には向かわなかったということか。
〈目を開けたまま、でも眠ってるんだって……〉
 燐太郎のか細い声が耳に残っていた。
 午前七時から紙面建ての会議だ。終われば少しは時間が空く。そうしたらいったん自宅へ寄り、その足で病院へ行ってみよう。妻の小百合に話を聞けば様子はわかる。大したことがなければいいが……。いや、あの豪快無比な安西に限って……。
 思い巡らすうち、悠木は自分の寝息を聞いた気がした。
 数秒後のことに感じた。体を激しく揺さぶられた。
「おい、起きろ!」
 悠木はバネ仕掛けの人形のように上半身を起こした。目脂《めやに》で瞼《まぶた》が張りつき、すぐには目を開けられなかった。だが声でわかった。広告部長の暮坂《くらさか》──。
 シャツの袖で目を擦った。思った通り、暮坂の角張った赤ら顔が眼前にあった。
「こいつァ、どういうことだ。説明しろ!」
 いきなり新聞を胸に突きつけられた。今朝の朝刊だ。第二社会面──社会面の右側の頁が開かれている。
「何がです?」
 やっと言葉が出た。壁の時計を見た。六時十分。三時間ほど眠っていた。
「すっとぼけるんじゃねえ。広告だよ、広告! 二社面の全五段が飛んじまってるだろうが!」
 記憶が呼び覚まされた。
 昨夕、共同通信から事故現場の写真が続々と送られてきた。どれも捨てがたかった。全部入れろと整理部に指示した。しばらくして、整理部員が全部は入らないと言ってきた。悠木は怒鳴り返した。だったら広告を外してぶち込め──。
 昨夜のうちに、上を通して「外す」と広告局に通告してもらうつもりでいた。だが、忘れた。佐山の安否と安西の入院騒ぎに気を取られて、すっかり頭から消し飛んでいた。
 完全に目が覚めた。悠木は両足を床に下ろしてベッドの縁に腰掛けた。
「すみません。外しました」
「上の指示か」
「いえ。私の判断です」
「なぜそんな勝手な真似しやがった!」
「落とせない現場写真がありました」
「お前、自分が何をしでかしたかわかってんのか」
 凄みながら、暮坂は懐から四つ折りにした用紙を取り出してベッドの上に手荒く開いた。今朝の朝刊に載るはずだった広告のゲラだ。
≪「高崎マーシャル」本日オープン──≫
 北関東最大の売り場面積を誇るショッピングモールのオープンを知らせる広告だった。
 血の気が引くのがわかった。オープン広告がオープンの日に掲載されなかったということなのだ。
 悠木は改めて頭を下げた。
「迂闊でした」
「謝って済むか。取り返しがつかねんだよ。お前、いったいどう責任取る気だ」
 暮坂は嵩《かさ》に掛かった。
「この広告はなァ、向こうの販促担当が上毛にしか出さないって言うのをウチの池山が口説きに口説いて取ってきたんだよ。その苦労がパーじゃねえか。そのうえ、池山は米つきバッタみてえに床に額こすりつけなきゃならねえんだぞ。その気持ちがわかるかお前に?」
「すみません。事故が大きかったものですから、気が回りませんでした」
「事故が大きかったァ? ふざけるな。天皇のXデーならともかく、飛行機が落っこちたぐらいで広告外す馬鹿がどこにいるよ」
 悠木は暮坂の顔を見た。
 飛行機が落っこちたぐらいで……?
 暮坂は悠木より二つ上で元々は編集畑の人間だ。政治部が長く、部長昇進の餌に釣られて昨春一階フロアに下りた。広告生え抜きの人間が言うのならともかく──。
 悠木は身を乗り出した。
「部長だってわかるでしょう。普通の事故じゃない」
 暮坂は顎を突き出した。
「それがどうした。大久保や連赤の時だって広告を外したことはなかったぞ。記事の一本や二本、写真の一枚や二枚落としたって広告は載せるんだ。俺たちはそれでオマンマ食ってるんだからな」
 悠木は目線を逸らした。
「なんだそのツラは? おい、悠木。お前全五段広告が幾らか知ってるのか」
 新聞は縦に十五段で作られる。だから全五段は頁の三分の一を占める大きな広告だ。
「知りません」
「百二万五千円だ」
「そうですか」
「そうですかじゃねえだろう。だから編集の連中はいつまで経っても苦労知らずのボンボンだって言われるんだよ」
「ボンボン……?」
「一円も稼がねえで、俺たちに食わせてもらってるんだ。そう言われたって仕方ねえだろう」
 編集出身者の言い草とも思えなかった。広告局に移ってたかだか一年半。手のひらを返したようなこの態度はどうしたことか。
 悠木の体温は上がっていた。
「新聞社は新聞が商品でしょうが。こっちはその新聞を作ってるんだ、稼いでないなんて言わせませんよ」
「青いことをほざくな。購読料なんて微々たるもんだ。広告収入がなけりゃあ幾ら天下国家を語ったところで新聞は一日たりとも出せねえんだよ」
「新聞本体がちゃんとしてなきゃ広告なんぞ一つもつかんでしょうが」
 悠木が声を荒らげると、暮坂は一瞬|怯《ひる》み、だが、それを覆い隠すように広告のゲラを激しく目の前で振った。
「屁理屈を言うな! どうするんだ? お前が払うのか、この損失」
「背負いますよ。総務を通して月賦で請求して下さい。ただし言っておきますが、ゆうべの状況と同じことが起こったら、俺はまた広告を外しますよ」
 売り言葉に買い言葉だった。悠木はもはや自らの非を認める気にもならなかった。
「なんだと? もう一遍言ってみろ!」
「部長も編集あがりなら忘れんで下さい。紙面制作の一切の権限は編集局にある。口出しは無用に願います」
「てめえ──」
 枕元の電話が鳴り出さなかったら掴み合いになっていた。
 社の不寝番ではなく、上野村役場で寝泊まりしている戸塚からだった。藤岡支局の五年生記者だ。
〈御巣鷹山の臨時ヘリポートが間もなく完成するそうです〉
「遺体の搬出が始まるってことだな?」
〈ええ、八時半をメドに開始です〉
「事故調の連中はそっちに着いたか」
〈はい……?〉
「運輸省の事故調査委員会のメンバーだ。到着したら一応マークしてくれ」
 受話器を置き、目線を戻すと、暮坂は白けた顔でドアの前に立っていた。
「まったくよ、お前は話せる男だって聞いてたがな」
 含みのある言い方だった。聞き返す間も与えず、暮坂は苛立った靴音を残して廊下に消えた。
 話せる男? 誰がそんなことを暮坂に言った……?
 ネクタイを締める間だけ考えた。悠木は立ち上がりかけたが、これみよがしに床の真ん中に広げられたオープン広告のゲラに気づいて膝を折った。摘み上げ、真っ二つに引き裂くと、会議用の頭に切り換えて宿直室を後にした。
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