北軽井沢へ来ています。
岸田先生の山荘をお借りして、一と夏、ゆっくり休養するつもりで出かけて来たのですが、ここの自然はあらあらしく、明暗ともに激しいので、こっちまで、もうすっかり健康を回復したような気分になって、いささか体をもてあましています。
昔ここには、美しい球形の藁屋根をもったオランダの農家風の山荘が建っていました。学生時代に、加藤道夫達と一緒に、はじめてここへ来た時には、なんだか、外国の高原へでも来たような気がしたものです。
冷たい乾燥した空気、楡《にれ》や白樺の林をのぼってくる渓流のひびき、近い山肌を渡ってゆく青い雲の影。放牧の牛や馬の群れ——が見えなかったのは残念でしたが、とにかく、奥さんの注いで下さったブルゴーニュのグラスを、おそるおそる舐めながら(笑わないでくれたまえ、ぼくはそれまで酒というものを、一滴も口にしたことがなかったので)、先生がアントワーヌや、コポーや、ピエトフなどの話をなさるのを、固くなって聴いているうちに、だんだん顔が火照ってきて困ったことを、おぼえています。葡萄酒の効き目だけではなかったようです。
その藁屋根の家は、惜しいことに、戦後間もなく焼失してしまいましたが、今、この山小屋の家のヴェランダに腰をおろしていると、渓流のひびきも山肌の雲の影も、あの頃とすこしも違っていないような気がします。
渝《かわ》らないのは自然ばかりではなく、新しく建てられたこの家も、いつの間にか、十年近い歳月を閲《けみ》しているわけですが、戸口の脇の壁には、その十年の昔のままに、先生の雨外套がかかっています。釣竿があります。早くに亡くなられた奥さんの縁のひろい麦藁帽子があります。本棚には、「ルナール日記」の幾冊かが、何気なく背をならべています。すべてが、昔のままです。こちらの方は、むろん、衿子さんや今日子さん達の心づくしに違いありません。
家の横手に、低い野茨の垣に沿ったささやかな空地があり、その向うの木立の陰に、これは文字通りの山小屋が、かなり古びた板庇をのぞかせています。
この建物は、先生が、医療の便のわるい土地柄を考えて、ゆくゆくは、小さな診療所にでもするつもりで、村はずれに捨てられたようになっていた古い小屋を、わざわざ引いてこられたものだそうです。
こういう辺鄙なところにも、自分から進んで赴いてくる医者が、ないとは限るまい。もしそれが、世を拗《す》ねた初老の医者ででもあれば、なおさら、冬籠りの相手にも恰好だろう。——そんな空想まで、先生はなさったようですが、これはとうとう実現されずに終ってしまいました。いかにも、先生らしい夢です。
そこには、今、別荘番のおばさんが住んでいます。おばさんは、毎朝、自分のつくった新鮮な野菜をとどけてくれます。別荘の人達は、このおばさんによって雑用の果される便宜をよろこびながら、相変らず、医療の便のわるいことを歎いています。
実生活のうえでも、仕事のうえでも、それが実現しなかったために、かえって、いつまでも人を誘いこむ力を失わずにいるような夢を、先生は生涯もちつづけられたように思われます。こういう夢は、理想と呼ぶ方が適切でしょう。
実際、演劇運動の指導者としての先生のお仕事は(作家としての、ではありません)、作品として見ると、尽きない蹉跌の連続、挫折の歴史であるように、ぼくには思われます。ことによると、先生には、何か、失意の趣味とでもいうようなものがあったのではないかと、そんな臆測までしてみたくなるくらいです。
演劇の教師として、劇団の首脳として、先生は、誰も真似手のない独創的な構想を立てられながら、それが実行に移されてゆくうちに、そこに託されたご自分の理想が、中途半端な、出来合いじみた現実と化してゆくことに我慢がならず、途中で投げ出してしまわれるようなことが、たびたびあったように思われます。近くは、文学立体化運動と呼ばれた「雲の会」の場合なども、その一例といえるでしょう。俳優の教育、劇団の経営、舞台の組織、万事がそうだったといっても、言い過ぎではないかも知れません。
毅然とした理想家であり、すぐれてストイックであった先生が、反面、ゆたかな寛容の精神の持主であったことは、むしろ当然ですが、その寛容さにはまた、ずいぶん思い切ったところがあり、先生の演劇そのものに対する厳しい態度と、その実行における、他者に対する寛容な態度とは、奇妙なコントラストを示していました。
若い俳優に大役をあたえたり、まったく未経験の美術家に装置を委嘱したりするのを、人は、先生の新しい演劇的野心のあらわれと受けとりがちでしたが、それは先生が、誰も注目したことのないところへ注目した結果にすぎず、先生の舞台的作品は、ほとんど常に、未知の夢のために、未知の演劇的可能性のために解放された客間のような観を呈していました。
しかし演劇とは夢ではなく、一種の夢の実現であり、稽古をつづけてゆくうちに、愉しみにしていた若い俳優の演技は、先生の眼の前で徐々に、実現しない夢の陰画からつくられた貧弱な陽画のような、たよりない姿勢にかわりはじめるのです……
すべてこういうことを、先生の実行者としてのエネルギーの不足の結果として捉えることは容易ですが、演劇に対する先生の潔癖な考え方と、そこに由来する果断な自己放棄とは、おそらく、非常に徹底したものだったので、先生はそれらの破綻のある実行を終始一貫つづけることによって、来るべき演劇のための未完の構図をより大きく、より魅力あるものに仕上げたともいえるのです。
「雲の会」の主張は、かえってその自然消滅した後に、いくらか実現されたようです。それまで劇場とあまり縁のなかった文学者、美術家、音楽家の演劇への参加と活動とは、戦後の新劇の一時期を、かなり特徴のあるものにしました。
しかしその動きもこの頃は、いくらか停滞気味のように思われます。先生ならば、またそろそろ、新しい企てをおこす時期にあたっているのかも知れません。
きみとはいつも別れ際に、お互いに、「そのうち、ゆっくり」と言い合うくせに、この頃は、一度も落ちついて話し合ったことがないようです。こちらは今、不本意ながら、大いにゆっくりしている所ですから、都合がついたら、一度、遊びに来ませんか。外国旅行後の話を、いろいろききたいものです。
——一九五六年一〇月 悲劇喜劇——