魯の平公が出かけようとしていた。側近の臧倉(ぞうそう)という者が尋ねた。
臧倉「通常、殿がお出でになられるときには必ず家臣に行かれる所をお告げになられます。なのに今日は、すでにお車に乗っていらっしゃりながら、まだ家臣に外出先をお知らせになっておられません。僭越ながら、外出先をお教えいただけませんか。」
魯平公「うむ。孟子に会見に行く。」
臧倉「ええっ!なにものですか、殿が御身を軽軽しくされて、たかが一庶民に殿から先にお会いになられる孟子とは。まさか賢者とでもお思いになっておられるか。礼儀というものは賢者から由来します。それなのにあの孟子は、母親の葬儀の規模が父親よりも越えていました。(いきあたりばったり、かって気ままな人物で、筋がありません。)殿、会見なさってはなりません。」
魯平公「、、、そうだな。」
しばらくして、孟子の弟子の楽正子(がくせいし。魯公に仕えたようである。このときすでに仕えていたかは不明)が公に謁見しに入ってきて、言った。
楽正子「殿、どうして孟軻(もうか。孟子の本名。身内が他人に言うから、自分の師でも本名を呼び捨てにしている)に会見なさらないのですか。」
魯平公「ある者が小生に告げて、『孟子は、母親の葬儀の規模が父親よりも越えていた』と言ったのです。それで、気が変わって取りやめにしました。」
楽正子「ええっ!なにですか、殿のおっしゃる『越えていた』とは。父親は士(一般家臣)の礼で葬り、母親は大夫(上級家臣)の礼で葬ったからですか。父親は鼎(かなえ)のお供え三種類だったのが、母親はお供え五種類だったからですか。」
魯平公「いや。棺と死装束があまりにも立派過ぎたことです。」
楽正子「それならば越えたとは申せません。父親の時は金がなくて、母親の時は余裕があったからです。」
楽正子は戻って孟子に仔細を告げて言った。
楽正子「克(こく。楽正子の名)は魯公に先生のとりなしをいたしまして、魯公は出かけるところだったのですが、側近の臧倉なる輩がいて公のご来訪を阻止したもようです。」
孟子「そうか。だがな、行くも行かせるものがあり、止めるも止まらせるものがあるのだ。人が行き、人が止まるのは実は人のなすところではない。余が魯公に会見できなかったのは、天命なのだ。臧倉ごとき小者の力で、余が公に会うことを阻止できはしない。」