『ブルータス』に僕の名前と写真が載ったことで、それから十日ほどのあいだに何人かの昔の知り合いが僕を訪ねて店にやってきた。中学や高校の同級生たちだ。それまで僕は、書店に入ってそこに置いてある膨大な数の雑誌を見るたびに、いったい誰がそんなものをいちいち読んでいるんだろうといつも不思議に思っていた。でも自分が雑誌にでてみてよくわかったのだが、人々は僕が想像していたよりずっと熱心に雑誌を読んでいた。意識してあたりを見回してみると、美容院や、銀行や、喫茶店や、電車の中や、ありとあらゆるところで、まるで何かに取りつかれたように人々は雑誌を手にして開いていた。あるいは人々は何もしないで時間を潰すのが怖いので、何でもいいからとりあえずその辺にあるものを手に取って読んでいるのかもしれない。
昔の知りあいとの再会は、結果的にはあまり楽しいものとは言えなかった。彼らと会って話をするのが嫌だったわけではない。僕だってもちろん昔の友だちに会うのは懐かしかった。彼らの方も僕に会えたことを喜んでくれた。でも結局、彼らが口にする話題は、今の僕にとってはみんなどうでもいいことだった。故郷の町がどうなろうと、他の同級生たちが今どのような道を歩んでいようと、もうそんなことにはまったく興味が持てなかった。僕はかつて自分がいた場所や時間からあまりにも遠く離れてしまったのだ。そして彼らの口にすることは否応なしに、イズミのことを僕に思い出させた。僕は故郷の町での昔の話が出るたびに、イズミがその豊橋の小さなマンションでひとりでひっそりと暮らしている情景を思い浮かべることになった。彼女はもう可愛くはないよ[#「彼女はもう可愛くはないよ」に傍点]、と彼は言った。子供たちは彼女のことを怖がるんだ[#「子供たちは彼女のことを怖がるんだ」に傍点]、と彼は言った。そのふたつの台詞は、僕の頭の中にいつまでも鳴り響いていた。そしてイズミは今でも僕のことを許してはいないのだ。
雑誌が出てからしばらくのあいだ、店の宣伝のためとはいえ自分がそんな取材を気楽に引き受けてしまったことを真剣に後悔していた。僕はその記事をイズミには読んでほしくなかった。僕か何の傷を負うこともなく、こんな風にすんなりとうまく生きていることを知ったら、イズミはいったいどんな気持ちがするだろう。
でも一カ月も経つと、わざわざ僕を訪れてくる人ももういなくなった。それが雑誌の良いところだ。あっという間に有名になる。でもあっという間に忘れられてしまう。僕はほっと胸を撫でおろした。少なくともイズミは何も言ってこなかった。きっと彼女は『ブルータス』なんか読まないのだろうと僕は思った。
でも一カ月半が経過して、雑誌のことをほとんど忘れかけたころになって、最後の知り合いが僕のところにやってきた。島本さんだった。
彼女は十一月初めの月曜日の夜に、僕の経営するジャズ・クラブ(『ロビンズ・ネスト』というのがその店名だ。僕の好きな古い曲の名前から取った)のカウンターで、ひとりで静かにダイキリを飲んでいた。僕も同じカウンターに席三つぶん離れて座っていたのだが、それか島本さんであることにまったく気づかなかった。ずいぶん綺麗な女の客が来ているなと感心していたくらいだった。これまでに一度も見たことのない客だった。前に見たとしたらまず間違いなく覚えている。それくらい目立つ女だった。そのうちに誰か待ち合わせの相手が来るんだろうと僕は思った。もちろん女性の一人客が来ないというわけではない。彼女たちのあるものは男の客に声をかけられるのを予想し、ある場合には期待している。様子を見ればそれはだいたいわかる。でも経験的にいって、本当に綺麗な女は絶対に一人で酒を飲みにきたりはしない。彼女たちにとっては男に声をかけられるのは楽しいことでもなんでもないからだ。彼女たちにとってはそれはただ面倒なだけなのだ。
だから僕はそのときその女にはほとんど注意を払わなかった。最初にちらっと見て、それから折りにふれて何度か目をやっただけだった。彼女はうっすらと化粧をして、品の良いいかにも高価そうな服を着ていた。青い絹のワンピースの上に、淡いベージュのカシミアのカーディガンをかけていた。まるで玉葱の薄皮のように軽そうなカーディガンだった。そしてワンピースの色によく似た色合いのバッグをカウンターの上に置いていた。年齢は見当がつかない。ちょうどいい歳としかいいようがなかった。
彼女ははっとするほどの美人だったが、かといって女優やモデルには見えなかった。僕の店にはそういった人々もよく顔を見せたが、彼女たちには自分はいつも他人の目に曝されているのだという意識があって、そういったいかにもという雰囲気が体のまわりに仄かに漂っている。でもその女は違っていた。彼女はとても自然に寛いでいて、まわりの空気によく馴染んでいた。彼女はカウンターに頬杖をつき、ピアノ・トリオの演奏に耳を澄ませ、まるで美しい文章を吟味するみたいにカクテルを少しずつ飲んでいた。そしてときどきちらっと僕の方に視線を向けた。僕はその視線を何度かはっきりと体に感じていた。でも彼女が本当に僕を見ているのだとは思わなかった。
僕はいつもと同じようにスーツを着て、ネクタイをしめていた。アルマーニのネクタイとソプラニ・ウオーモのスーツ、シャツもアルマーニだ。靴はロセッティ。僕はとくに服装に凝るたちではない。必要以上に服に金を費やすのは馬鹿馬鹿しいことだと基本的には考えている。
普通に生活している分には、ブルージーンとセーターがあればそれでこと足りる。でも僕には僕なりのささやかな哲学がある。店の経営者というものは、自分の店の客にできればこういう恰好をして来てほしいと望む恰好を自分でもしているべきなのだ。僕がそうすることによって、客の方にも従業員の方にも、それなりの緊張感のようなものが生まれるのだ。だから僕は店に顔を出すときには意識的に高価なスーツを着て、必ずネクタイをしめた。
僕はそこでカクテルの味見をしなから、店の客に注意を払い、ピアノ・トリオの演奏を聴いていた。始めのうち店はけっこう混んでいたが、九時すぎから激しい雨が降り始め、客足がばったりととまった。十時にはテーブルは数えるほどしか埋まっていなかった。でも女はまだそこにいて、ひとりで黙ってダイキリを飲んでいた。僕は彼女のことがだんだん気になってきた。どうやら彼女は誰かと待ち合わせをしているわけではないようだった。彼女は時計に目をやるわけでもないし、戸口の方を眺めるわけでもなかった。
やがて女がバッグを手にスツールを下りるのが見えた。時計はもう十一時に近くなっていた。地下鉄で帰るならそろそろ腰を上げる頃合いだった。でも彼女は引き上げるわけではなかった。彼女はゆっくりとさりげなくこちらにやってきて、僕の隣のスツールに腰をかけた。微かに香水の匂いがした。スツールに体を馴染ませると、彼女はバッグからセイラムの箱を出して、一本口にくわえた。僕はそんな彼女の動きを目の端でぼんやりと捉えていた。
「素敵なお店ね」と彼女は僕に言った。
僕は読んでいた本から顔をあげて、よくわけのわからないまま彼女を見た。でもそのとき何かが僕を打つのが感じられた。胸の中の空気が突然ずっしりと重くなったような気がした。僕は吸引力のことを考えた。これはあの吸引力なのだろうか[#「これはあの吸引力なのだろうか」に傍点]?
「ありがとう」と僕は言った。たぶん彼女は僕がここの経営者だということを知っているのだろう。「気に入ってもらえると嬉しいですね」
「ええ、すごく気に入ったわ」、彼女は僕の顔を覗き込むようにして、にっこりと微笑んだ。素敵な微笑みだった。唇がすっと広がり、目の脇に小さな魅力的な皺が寄った。その微笑みは僕に何かを思い出させた。
「演奏も素敵だし」と彼女はピアノ・トリオを指して言った。「ところで火はお持ちかしら?」
と彼女は言った。
僕はマッチもライターも持っていなかった。僕はバーテンダーを呼んで店のマッチを持ってこさせた。そして彼女のくわえた煙草の先に火をつけた。
「ありがとう」と彼女は言った。
僕は正面から彼女の顔を見た。そして僕はそこでようやく気がついたのだ。それが島本さんであることに。「島本さん」と僕は乾いた声で言った。
「思い出すのにけっこう時間がかかったのね」と彼女はしばらく間を置いてから、おかしそうに言った。「ずいぶんじゃない。もう永遠にわかってもらえないのかと思ってたわ」
僕は長いあいだ、まるで噂でしか聞いたことのない極めて珍しい精密機械を前にしたときのように、言葉もなく彼女の顔を見つめていた。僕の目の前にいるのはたしかに島本さんだった。でもその事実を事実として呑み込むことができなかった。僕はそれまであまりにも長く島本さんのことを考えつづけていた。そして彼女と会うことはもう二度とあるまいと思っていたのだ。
「それ素敵なスーツね」と彼女は言った。「とてもよく似合っているわよ」
僕はただ黙って頷いた。うまく口をきくことができなかったのだ。
「ねえハジメくん、あなたは前よりはずいぶんハンサムになったわね。体もがっしりしたし」
「泳いでいるんだよ」と僕はやっと声を出すことができた。「中学校のときに始めて、それ以来ずっと泳いでる」
「泳げるのって楽しいでしょうね。昔からずっとそう思っていたわ。泳げるのって楽しいんだろうなって」
「そうだね。でも、習えば誰だって泳げるようになるんだよ」と僕は言った。でもそう言い終わった途端に、僕は彼女の脚のことを思い出した。俺はいったい何を言っているんだ[#「俺はいったい何を言っているんだ」に傍点]、と僕は思った。僕は混乱して、何かもう少しましなことを言おうとした。でも言葉はうまく出てこなかった。僕はズボンのポケットに手をつっこんで煙草の箱を探した。それから自分が五年前に煙草をやめていたことを思い出した。
島本さんはそんな僕の動作を何も言わずにじっと眺めていた。それから手を上げてバーテンダーを呼び、新しいダイキリを注文した。彼女は人に何かを頼むときには、いつもにっこりと大きく微笑んだ。それは本当に素敵な笑顔だった。そのへんにある何もかもをお盆に載せて持っていきたくなるような笑顔だった。もし他の女が同じことをしたら厭味な感じになっていたかもしれない。でも彼女が微笑むと、世界じゅうが微笑んでいるように見えた。
「君は今でも青い服を着ているんだね」と僕は言った。
「そうよ。私は昔からずっと青い服が好きなの。よく覚えているのね」
「君についてなら大抵のことは覚えているよ。鉛筆の削り方から、紅茶に角砂糖を幾つ入れるかまでね」
「幾つ入れたかしら?」
「二つ」
彼女は少し目を細めるようにして僕の顔を見ていた。
「ねえハジメくん」と島本さんは言った。「どうしてあのとき、あなたは私のあとをつけたりしたの? 八年ばかり前のことだったと思うけれど」
僕は溜め息をついた。「あれが君だったのかどうか、僕にはわからなかったんだ。歩き方は君にそっくりだった。でも君じゃないようにも見えた。僕には確信が持てなかった。だからあとをついていったんだ。あとをつけたと言うわけじゃない。機会を見て声をかけようと思っていたんだよ」
「じゃあどうして声をかけなかったの。どうして直接たしかめてみなかったの? そうすれば話は早かったでしょう」
「どうしてそうしなかったのか、自分でもよくわからない」と僕は正直に言った。
「でもあのときはどうしてもそれができなかった。声そのものが出てこなかったんだよ」
彼女はほんの少しだけ唇を噛んだ。「あのときには、あれがあなただとは気がつかなかったの。私はずっと誰かにあとをつけられていて、怖いという思いしか頭の中になかったの。本当よ。とても怖かったわ。でもタクシーに乗ってしばらくして、やっと一息ついてから、突然はっと思い当たったの。あれはひょっとしてバジメくんだったんじゃないかって」
「ねえ、島本さん」と僕は言った。「僕はあのときに預かったものがあるんだ。あの人が君とどういう関係なのかは知らないけれど、僕はそのときに——」
彼女は人さし指を上にあげて、唇にあてた。そしてそっと首を振った。その話はもうやめましょう[#「その話はもうやめましょう」に傍点]、お願いだから二度とそのことは訊かないで[#「お願いだから二度とそのことは訊かないで」に傍点]、というように。
「あなたは結婚しているんでしょう?」と島本さんは話題を変えるようにそう言った。
「子供が二人いる」と僕は言った。「どちらも女の子だよ。まだ小さいけれど」
「素敵ね。あなたにはきっと女の子の方が似合っていると思うわ。どうしてかと訊かれても理由はうまく説明できないけれど、なんとなくそういう気がするのよ。女の子の方が合ってるだろうって」
「そんなものかな」
「なんとなくね[#「なんとなくね」に傍点]」と島本さんは言って微笑んだ。「でもとにかく、自分の子供は一人っ子にしないことにしたのね?」
「とくにそういうつもりもない。成り行きでそうなっちゃっただけだよ」
「どんな気持ちがするものかしら。娘が二人いるって?」
「なんだか変なものだよ。上の子が行っている幼稚園じゃ、そこにいる子供の半分以上が一人っ子なんだ。僕らの子供の頃とは時代がすっかり変わっちゃったんだね。都会では一人っ子であることが、むしろ当たり前なんだよ」
「私たちはきっと生まれた時代が早すぎたのね」
「そうかもしれない」と僕は言った。そして笑った。「たぶん世界が我々に近づいているんだろう。でも子供たちがいつも家の中で二人で遊んでいるのを見ていると、ときどきなんだか不思議な気持ちになることがある。こういう育ち方というのかあるんだなと感心しちゃうんだよ。僕は小さい頃からいつも一人で遊んでいたからね、子供というのはみんな一人で遊んでいるものだと思っていた」
ピアノ・トリオが『コルコヴァド』の演奏を終えて、客がばらばらと拍手をした。いつもそうなのだが、真夜中に近くなると演奏はだんだんうちとけてきて、親密なものになっていった。ピアニストは曲と曲の合間に赤ワインのグラスを手にし、ベーシストは煙草に火をつけた。
島本さんはカクテルを一口飲んだ。「ねえ、ハジメくん。正直に言うと、私はここに来ることについてはずいぶん迷ったのよ。ほとんど一カ月近く迷って、悩んでいたの。私はどこかでぱらぱらと雑誌を見ていて、あなたがここでお店をやっていることを知ったの。最初は何かの間違いじゃないかって思っていたわ。だってほら、あなたはバーの経営をするようなタイプにはとても見えなかったもの。でも名前もあなただったし、写真の顔もあなただった。懐かしいご近所のハジメくんだった。私はたとえ写真だけでもあなたともう一度巡りあえてとても嬉しかった。でも現実のあなたと会うのかいいことなのかどうか、私にはわからなかった。会わない方がおそらくお互いのためにいいんじゃないかという気がしたのよ。あなたがこうして元気でやっていることがわかったんだから、もうそれで十分じゃないかって」
僕は黙って彼女の話を聞いていた。
「でもせっかくあなたの所在がわかったんだから、ちらっと姿を見るだけでもいいからここに来てみようと思ったの。そして私はあの椅子に座って、すぐそこにいるあなたのことを見ていたの。もしあなたが私のことにずっと気がつかなかったら、そのまま黙って帰ってしまおうと思っていたのよ。でもどうしても我慢できなかったの。懐かしくて、声をかけないわけにはいかなかったの」
「どうしてだろう」と僕は言った。「つまり、どうして僕に会わない方がいいと思ったんだろう?」
彼女は指でカクテル・グラスの縁を撫でながら、しばらく考えていた。「もし私に会ったら、たぶんあなたは私のことをいろいろと知りたがるだろうと思ったの。たとえば結婚しているかとか、どこに住んでいるかとか、これまで何をしてきたのかとか、そういうようなこと。違う?」
「まあ自然な話のなりゆきとしてね」
「もちろん、それが自然な話のなりゆきだと私も思う」
「でも君はそういうことについてあまり喋りたくないんだね?」
彼女は困ったように微笑んで、そして頷いた。島本さんはいろんな種類の微笑みを身につけているようだった。「そう、私はそういうことについてあまり喋りたくないの。その理由は訊かないでね。とにかく私は自分の身の上については喋りたくないの。でもそういうのはたしかに自然じゃないし、変なものよね。なんだかわざと秘密めかしているみたいだし、気取っているみたいでもあるし。だから私はあなたに会わない方がいいだろうと思ったのよ。私はあなたに気取った変な女だと思われたくなかったの。それが私がここに来たくなかった理由のひとつ」
「他の理由は?」
「がっかりしたくなかったからよ」
僕は彼女が手にしたグラスを眺めていた。それから僕は彼女のまっすぐな肩までの髪を眺め、かたちのいい薄い唇を眺めた。彼女のどこまでも深い黒い瞳を見た。そしてその瞼にはいかにも思慮探そうな小さな線が見えた。その線はずっと遠くに見える水平線のように感じられた。
「昔のあなたのことがとても好きだったから、今のあなたに会ってがっかりしたくなかったの」
「僕は君をがっかりさせたかな?」
彼女は首を小さく振った。「あなたのことをあそこからずっと見ていたの。最初のうちはなんだか別の人みたいに見えたの。すごく大きくなっていたし、スーツも着ていたし。でもよく見ていると、ちゃんと昔のハジメくんだった。ねえ、知ってる? あなたの動作って、十二のときからほとんど変わってないみたいよ」
「知らなかったね」と僕は言った。僕は笑おうと思ったのだが、うまく笑うことができなかった。
「手の動かし方とか、目の動かし方とか、爪先でこつこつ何かを叩く癖とか、気むずかしそうに眉をひそめるところとか、昔からぜんぜん変わってないんだもの。アルマーニのスーツを着るようになっても中身はあまり変わってないみたいね」
「アルマーニじゃない」と僕は言った。「シャツとネクタイはアルマーニだけれど、スーツは違う」
島本さんはにっこり笑った。
「ねえ島本さん」と僕は言った。「僕はずっと君に会いたかったんだ。君と会って話をしたかった。君に話したいことがいっぱいあったんだ」
「私もあなたに会いたかったのよ」と彼女は言った。「でもあなたが[#「あなたが」に傍点]来なかったのよ。それはわかっているでしょう? 中学校に入ってあなたが別の町に越していったあと、私はずっとあなたか来てくれるのを待っていたのよ。なのにどうして来てくれなかったの。私はとても寂しかったわ。きっとあなたは新しいところで新しい友だちを作って、私のことなんか忘れてしまったんだと思っていたわ」
島本さんは煙草を灰皿にこすりつけて消した。彼女は爪に透明なマニキュアを塗っていた。まるで精巧な作り物のような爪だった。つるりとして、無駄がない。
「僕は怖かったんだよ」と僕は言った。
「怖かった?」と島本さんは言った。「いったい何が怖かったの? 私のことが怖かったの?」
「違うよ。君が怖かったわけじゃない。僕が怖かったのは拒否されることだったんだ。僕はまだ子供だった。君が僕を待ってくれているなんて僕にはうまく想像できなかったんだ。僕は君に拒否されることが本当に怖かった。君の家に遊びにいって、君に迷惑に思われるのがとても怖かった。だからつい足が遠のいてしまったんだ。そこで辛い思いをするくらいなら、本当に親密に君と一緒にいたときの記憶だけを抱えて生きていた方がいいような気がしたんだ」
彼女はちょっとだけ首をかしげた。そして手のひらの上でカシュー・ナッツを転がした。
「なかなかうまくいかないものね」
「なかなかうまくいかない」と僕は言った。
「私たちはもっと長いあいだ友だちでいることだってできたのにね。本当のことをいうと、私は中学校に上がっても、高校に上がっても、大学に行っても、友だちというものが一人もできなかったの。どこにいてもいつも一人だった。だから私はいつもそばにあなたかいてくれたらどんなにいいだろうって思っていたの。たとえそばにいてくれなくても、手紙をやりとりするだけでも良かったのよ。そうすればずいぶんいろんなことが変わっていたと思うわ。いろんなことがもっとずっと耐えやすくなっていたと思う」、島本さんは少し間を置いて黙っていた。「どうしてかはわからないけれど、でも中学校に上がった頃から私はどうしても学校でうまくやっていくことができなくなったの。そしてうまくいかないから、私も余計に自分の中に閉じこもるようになったの。悪循環というやつね」
僕は頷いた。
「小学校の頃まではなんとかうまくいってたと思うんだけれど、上の学校にあがったらぜんぜん駄目だった。ずっと井戸の底で暮らしているみたいだった」
それは大学に入ってから、有紀子と結婚するまでの十年ばかりのあいだ、僕がずっと感じつづけていたことでもあった。一度何かがうまくいかなくなる。するとそのうまくいかないことが別のうまくいかないことを生み出す。そして状況はどこまでも悪くなりつづける。どうあがいても、そこから抜け出すことができなくなってしまうのだ。誰かがやってきて、そこからひっばりだしてくれるまで。
「私はまず脚が悪かった。だから普通の人が普通にできることが、私にはできなかったの。それから本ばかり読んでいて、なかなか他人に心を開こうとしなかった。その上に何というか、外観が目立ったの。だから大抵の人は私のことを精神的に屈折した倣慢な女だと思っていたのね。あるいは本当にそうだったのかもしれないけれど」
「たしかに君は綺麗すぎるかもしれない」と僕は言った。
彼女は煙草をとりだして口にくわえた。僕はマッチを擦ってそれに火をつけた。
「本当に私のことを綺麗だと思う?」と島本さんは言った。
「思うよ。そんなことはきっといつも言われつけていると思うけど」
島本さんは笑った。「そんなことはないわよ。それに正直言って私は自分の顔がそれほど好きなわけでもないの。だからあなたにそう言われるととても嬉しいわ」と彼女は言った。「とにかく私はだいたいにおいて女の子にはあまり好かれないのよ、残念ながら。私は何度も思ったわ。べつに綺麗だなんて言われなくてもいいから、ごく普通の女の子になって、ごく普通に友だちを作りたいって」
島本さんは手をのばして、カウンターの上の僕の手にちょっとだけ触れた。「でも良かったわ。あなたが幸せに暮らしていて」
僕は黙っていた。
「幸せなんでしょう?」
「幸せなのかどうかは、自分ではよくわからないね。でも少なくとも不幸だとは思わないし、孤独でもない」と僕は言った。それからちょっと間を置いて付け加えた。「でも僕はときどき何かの拍子にふと思うことがあるんだ。君の家の居間でふたりで音楽を聴いているときが僕の人生でいちばん幸せな時代じゃなかっただろうかってね」
「ねえ、あのレコードは今でもずっと持っているのよ。ナット・キング・コール、ビング・クロスビー、ロッシーニ、『ペール・ギュント』、その他いろいろ。全部一枚残らず揃ってるわよ。お父さんが死んだときに形見にもらってきたの。す、ごく大事に聴いていたから今でも傷ひとつついていないわ。私がどれくらい丁寧にレコードを扱っていたかあなた覚えているでしょう?」
「お父さんは亡くなったんだね」
「五年前に直腸癌で死んだの。ひどい死に方だったな。すごく元気な人だったのにね」
僕は何度か島本さんの父親に会ったことがあった。彼女の家の庭に生えていた樫の木のようにがっしりとした感じの人だった。
「お母さんは元気なの?」と僕は尋ねた。
「ええ、たぶん元気だと思う」
僕は彼女の口調の中に込められた何かが気になった。「お母さんとはうまくいっていないの?」
島本さんはダイキリを飲み干して、そのグラスをカウンターに置き、バーテンダーを呼んだ。そして僕に尋ねた。「ねえ、何かここのお勧めのカクテルはないの?」
「オリジナルのカクテルが幾つかあるよ。店の名前と同じで『ロビンズ・ネスト』っていうのがあってそれかいちばん評判がいい。僕が考案したんだ。ラムとウオッカがベースなんだ。口当たりはいいけれど、かなりよくまわる」
「女の子を口説くのによさそうね」
「ねえ島本さん、君にはよくわかってないようだけれど、カクテルという飲み物はだいたいそのために存在しているんだよ」
彼女は笑った。「じゃあそれをいただくことにするわ」
カクテルが運ばれてくると、彼女はしばらくその色あいを眺めてから、一口そっとすすり、しばらく目を閉じて味を体にしみこませていた。「とても微妙な味がする」と彼女は言った。「甘くもないし、辛くもない。さっぱりしたシンプルな味だけど、奥行きのようなものがある。あなたにこういう器用な才能があったとは知らなかった」
「僕は棚ひとつ作れない。車のオイル・フィルターも取り替えられない。切手だってまっすぐに貼れない。電話のダイヤルもしょっちゅう押し違えている。でもオリジナルのカクテルは幾つか作った。評判もいいんだよ」
彼女はカクテル・グラスをコースターの上に置いて、しばらくその中をじっとのぞきこんでいた。彼女がカクテル・グラスを傾けると、そこに映った天井のダウン・ライトの光が微かに揺れた。
「お母さんとはもうずっと会っていないの。十年ばかり前にいろいろと面倒なことがあって、それ以来ほとんど会っていないの。お父さんのお葬式でいちおう顔を合わせるだけは合わせたけれど」
ピアノ・トリオがオリジナルのブルースの演奏を終えて、ピアノが『スタークロスト・ラヴアーズ』のイントロを弾き始めた。僕が店にいるとそのピアニストはよくそのバラードを弾いてくれた。僕がその曲を好きなことを知っていたからだ。エリントンの作った曲の中ではそれほど有名な方ではないし、その曲にまつわる個人的な思い出があったわけでもないのだが、何かのきっかけで耳にしてから、僕はその曲に長いあいだずっと心を引かれつづけていた。学生時代にも教科書出版社に勤めていた頃にも、夜になるとデューク・エリントンのLP『サッチ・スウィート・サンダー』に入っている『スタークロスト・ラヴァーズ』のトラックを何度も何度も繰り返して聴いたものだった。そこではジョニー・ホッジスがセンシティヴで品の良いソロを取っていた。その気だるく美しいメロディーを聴いていると、当時のことがいつもいつも僕の頭によみがえってきた。あまり幸せな時代とは言えなかったし、僕は満たされない思いを抱えて生きていた。僕はもっと若く、もっと飢えていて、もっと孤独だった。でも僕は本当に単純に、まるで研ぎ澄まされたように僕自身だった。その頃には、聴いている音楽の一音一音が、読んでいる本の一行一行が体にしみ込んでいくのが感じられたものだった。神経は楔のように鋭く尖り、僕の目は相手を刺すようなきつい光を含んでいた。そういう時代だったのだ。『スタークロスト・ラヴァーズ』を聴くと、僕はいつもその頃の日々と、鏡に映った自分の目を思い出した。
「実を言うと、中学校の三年生になったときに、君に会いにいったことがあるんだ。一人ではとても耐えられそうにもないくらい寂しくなったんだよ」と僕は言った。「電話をかけてみたんだけど通じなかった。だから電車に乗って君の家まで行ってみた。でももう別の人の表札が出ていた」
「私たちはあなたが引っ越していってから二年後に、父の仕事の関係で藤沢に越したの。江ノ島のすぐ近くに。そしてそのあとはそこにずっと住んでいたの。私が大学に入るまで。私は引越すときにあなたに転居先を書いた葉書を出しておいたんだけれど、それは届かなかった?」
僕は首を振った。「来たとしたら、僕はもちろん返事を書いていたはずだよ。不思議だね。きっとどこかで手違いがあったんだろう」
「それとも私たちかただ単に運が悪いだけかもしれないわね」と島本さんは言った。
「手違いが多くていつもいつもすれ違っている。でもそれはともかく、あなたの話をして。あなたのこれまでの人生について聞かせて」
「たいして面白い話じゃないよ」と僕は言った。
「面白くなくてもいいから聞きたいのよ」
僕はこれまで自分がどういう人生を歩んできたかをおおまかに彼女に話した。高校時代にカールフレンドを作ったのだけれど、最後に彼女を深く傷つけてしまったこと。詳しい事情まではいちいち話さなかった。でもある出来事があって、それが彼女を傷つけたこと、そしてまた同時に僕自身をも傷つけたことを僕は説明した。東京の大学に入り、卒業してから教科書の出版社に入ったこと。でも二十代を通じて僕はずっと孤独な日々を送っていたこと。友だちと呼べるような人間もいなかったこと。僕は何人かの女性とつきあった。でも僕は少しも幸せにはなれなかった。高校を出てから三十歳に近くなって有紀子とめぐり会って結婚するまで、誰かを本当には好きになったことはただの一度もなかった。僕はその頃よく島本さんのことを考えていた。君と会ってたとえ一時間でもいいから話をすることができたらどんなに素晴らしいだろうといつも思っていたんだよ、僕がそう言うと、彼女は微笑んだ。
「私のことをよく考えていたの?」
「そうだよ」
「私もあなたのことをよく考えたわ」と島本さんは言った。
「いつも、辛くなると。あなたは私にとっては、生まれてからこのかた、ただ一人の友だちだったみたいな気がするの」。そして彼女はカウンターに片手で頬杖をついて、体の力を抜いたようにしばらく目を閉じていた。彼女の指には指輪はひとつもはめられていなかった。彼女の睫毛がときどき小さく震えるのが見えた。やがて彼女はゆっくりと目を開け、腕時計を見た。僕も自分の腕時計を見た。時刻はもう十二時に近くなっていた。
彼女はバッグを手に取り、小さな動作でスツールから下りた。
「おやすみなさい。あなたに会えてよかった」
僕は彼女を入口まで送っていった。「タクシーを拾ってあげようか? もしタクシーで帰るんなら、雨だからつかまえにくいと思うんだ」と僕は尋ねた。
島本さんは首を振った。「大丈夫よ、気にしないで。それくらいは自分でできるから」
「本当にがっかりしなかった?」と僕は訊いた。
「あなたに?」
「そう」
「しなかったわよ、大丈夫」と島本さんは笑って言った。「安心しなさい。でもそのスーツ、本当にアルマーニじゃないの?」
それから僕は島本さんか前のように脚を引きずっていないことに気がついた。歩き方はそれほど早くはないし、注意して観察すればそこには技巧的なものがうかがえた。でも彼女の歩き方には不自然なところはほとんど見受けられなかった。
「四年ほど前に手術をして治したのよ」と島本さんはまるで言い訳するように言った。「完全に治ったとはとても言えないけれど、昔ほどひどくはなくなったわ。大変な手術だったけど、まあなんとかうまくいったの。いろんな骨を削ったり、継ぎ足したり」
「でもよかったね。もう脚が悪いようには見えないもの」と僕は言った。
「そうね」と彼女は言った。「たぶんそれでよかったんだと思う。少し遅すぎたかもしれないけれど」
僕はクロークで彼女のコートを受け取って、それを着せた。並んでみると、彼女はもうそれほど身長が高くなかった。十二の頃に僕と同じくらいの背丈があったことを思うと、ちょっと不思議な気がした。
「島本さん、また君に会えるかな?」
「たぶんね」と彼女は言った。そしてかすかな微笑みを口もとに浮かべた。風のない日に静かに立ちのぼる小さな煙のような微笑みだった。「たぶん」
そして彼女はドアを開けて出ていった。僕は五分ばかりあとで階段を上がって通りに出てみた。彼女かうまくタクシーを捕まえることができたか気になったのだ。外にはまだ雨が降りつづいていた。島本さんはもうそこにはいなかった。通りにはもう人けはなかった。車が濡れた路面にヘッドライトの光をぼんやりと滲ませているだけだった。
あるいは僕は幻のようなものを見ていたのかもしれない、と思った。僕はそこに立ったまま、通りに降る雨を長いあいだ眺めていた。僕は自分がもう一度十二の少年に戻ってしまったような気がした。子供の頃、僕は雨降りの日には、よく何もせずにじっと雨を見つめていた。何も考えずに雨を見つめていると、自分の体が少しずつほどけて、現実の世界から抜け落ちていくような気がしたものだった。おそらく雨降りの中には、人を催眠術にかけてしまうような特殊な力があるのだ。少なくともその頃の僕にはそう感じられた。
でもそれは幻ではなかった。店に戻ったとき、島本さんの座っていた席にはまだグラスと灰皿が残っていた。灰皿の中には口紅のついた吸殻が、そっと消されたかたちのままで何本か入っていた。僕はその隣に膜を下ろして、目を閉じた。音楽の響きが少しずつ遠のいて、僕は一人になった。その柔らかな暗闇の中では、まだ雨が音もなく降り続いていた。