その流れはすばやく岩のあいだを抜け、ところどころに小さな滝を作り、あるいはまたたまりの中に静かに身を休めていた。たまりの水面には鈍い太陽の光が弱々しく反射していた。下流に目をやると、そこには古い鉄橋が見えた。鉄橋とは言っても、車が一台通るのがやっとという小さな狭い橋だ。その黒々とした無表情な鉄骨は、二月の凍てついた沈黙の中に重く沈みこんでいた。温泉に行く客と旅館の従業員と、森林を管理する係員だけがその橋を使う。僕らがそこを渡ったとき、誰ともすれ違わなかったし、そのあとも、何度うしろを振り返っても、鉄橋を渡る人の姿を見ることはなかった。僕らは旅館に寄って簡単な昼食を済ませたあとその橋を渡り、川に沿って歩いた。島本さんは分厚いピーコートの襟をまっすぐに立て、マフラーを鼻のすぐ下あたりまでぐるぐると巻いていた。彼女はいつもとは違って、山の中を歩くためのカジュアルな恰好をしていた。髪を後ろで束ね、靴もしっかりとしたワークブーツを履いていた。そして緑色のナイロンのショルダー・バッグを肩からたすきにかけていた。そういう恰好をすると彼女はまるで高校生のように見えた。川原のあちこちには真っ白な雪が固くこわばって残っていた。鉄橋のてっぺんには二羽のからすがじっと腰を据えて川を見下ろし、ときおり何かを非難するみたいに、硬く鋭い声で噴いた。その声は葉を落とした林の中に冷え冷えと反響し、川面を渡り、僕らの耳を刺した。
川に沿って、狭い未舗装の道が長く続いていた。どこまで続いているのか、どこに通じているのかはわからないけれど、それはひどくひっそりとして人けのない道だった。あたりに人家らしきものの姿はなく、ところどころに丸裸になった畑が目につくだけだった。畑の畝には雪が溜まって、何本ものくっきりとした白い筋を描いていた。からすはいたるところにいた。からすたちは、僕らが道をやってくるのを見ると、まるで他の仲間にむかって信号でも発するみたいに短く何度か噂いた。近づいていってもからすたちはなかなか逃げようとはしなかった。僕は彼らの凶器のようなするどい嘴と、生々しい色あいの足をすぐ間近に見ることができた。
「まだ時間はある?」と島本さんが尋ねた。「もう少しこのまま歩いていていいかしら?」
僕は腕時計に目をやった。「大丈夫、まだ時間はあるよ。あと一時間くらいはここにいられると思う」
「とても静かなところね」、彼女はあたりをゆっくりと見回してそう言った。彼女が口を開くと、硬くて白い息がぽっかりと空中に浮かんだ。
「こんな川でよかったのかな?」
彼女は僕の顔を見て微笑んだ。「あなたには私の求めているものが隅から隅までぴったりとわかっているみたいに見えるわ」
「色から形からサイズまで」と僕は言った。「僕は昔から川に関してはすごく趣味がいいんだ」
彼女は笑った。そして手袋をはめた手でやはり手袋をはめた僕の手を握った。
「でもまあよかった。ここまで来てこの川じゃ困ると言われても、どうしょうもないからね」と僕は言った。
「大丈夫よ。もっと自分に自信を持ちなさいよ。あなたはそんなにひどい間違いはしないから」と島本さんは言った。
「でも、こうして二人で並んで歩いていると、なんだか昔みたいだと思わない。よく一緒に学校から家まで歩いて帰った」
「君は昔ほど脚が悪くないよ」
島本さんはにっこりと笑って僕の顔を見た。「あなたがそう言うと、なんだか私の脚が治ったことを残念がっているみたいに聞こえるけれど」
「そうかもしれないね」と言って僕も笑った。
「本当にそう思うの?」
「冗談だよ。君の脚が良くなって本当に良かったと思ってる。ただなんとなく懐かしく思いだしていたんだよ。君の脚が悪かった頃のことを」
「ねえバジメくん」と彼女は言った。「あなたにはこのことでものすごく感謝してるの。それはわかってね」
「たいしたことじゃないよ」と僕は言った。「ただ飛行機に乗ってピクニックに来ただけだ」
島本さんはしばらくじっと前を向いて歩いていた。「でもあなたは奥さんに嘘をついて出てきたんでしょう?」
「まあね」と僕は言った。
「そしてそれはあなたにとってはけっこうきついことだったんでしょうやあなたは奥さんに嘘をつきたくなんかなかったんでしょう」
僕はどう答えていいのかわからないので黙っていた。近くの林の中でまたからすが鋭い囁き声を上げた。
「私はきっとあなたの生活を乱しているのね。それは私にもよくわかっているのよ」と島本さんは小さな声で言った。
「ねえ、もうその話はやめよう」と僕は言った。「せっかくここまで来たんだから、もっと明るい話をしよう」
「たとえばどんな話?」
「そういう恰好をしていると君は高校生みたいに見える」
「ありがとう」と彼女は言った。「本当に高校生だと嬉しいんだけれど」
僕らは上流に向けてゆっくりと道を歩いていった。僕らはそれからしばらくのあいだ何も喋らずに、ただ歩くことに神経を集中していた。彼女はまだそれほど速くは歩けないようだったが、ゆっくり歩いているぶんには不自由はなさそうだった。でも島本さんは僕の手をしっかりと握っていた。道は硬く凍りついていたので、僕らの履いたゴム底の靴はほとんど音らしい音を立てなかった。
たしかに島本さんの言うように十代の頃に、あるいは二十代の頃に、二人でこんな風に歩けたらどんなに素敵だったろうなと僕は思った。日曜日の午後に二人で手を握りあって、川筋に沿った誰もいない道をどこまでもどこまでも歩いて行けたなら、僕はどれほど幸せな気持ちになれたことだろう。でも僕らはもう高校生ではなかった。僕には妻と子供がいて、仕事があった。そしてここに来るためには妻に嘘をつかなくてはならなかった。僕はこれから車に乗って空港まで帰り、夕方の六時半に東京に着く飛行機に乗り、妻の待っている家に急いで帰らなくてはならない。
やがて島本さんは立ち止まり、手袋をはめた手をこすりあわせながらゆっくりとあたりを見回した。彼女は上流を見て、下流を見た。対岸には山並みが連なり、左手にはすっかり葉を落とした雑木林が続いていた。人の姿はどこにも見えなかった。僕らが休んだ温泉旅館の姿も、鉄橋の姿も、今ではもう山かげに隠れてしまっていた。思い出したようにときおり、雲の切れ目から太陽が顔を見せた。からすの声と、川の水音の他には何も聞こえなかった。僕はそんな風景を眺めながら、きっといつかこの光景を、どこかで目にすることになるんだろうなとふと思った。それはいわば既視感の逆だった。いつか自分はこれと同じ風景を見たと思うのではなくて、いつか自分はこれと同じ光景にどこかでめぐり会うだろうという予感があるのだ。その予感は長い手を伸ばして、しっかりと僕の意識の根元を握っていた。僕はそのグリップを感じることができた。そしてその手の先の方にあるのは僕自身だった。将来に存在しているはずの、いくつも歳を取った僕自身だった。でももちろん、僕にはその自分自身の姿を見ることはできなかった。
「このあたりがいいわ」と彼女は言った。
「何をするのに?」と僕は聞いた。
島本さんはいつものかすかな微笑みを浮かべて僕を見た。「私がやろうとしていることをするのによ」と彼女は言った。
それから僕らは土手を川のへりにまで下りた。小さなたまりがあり、その表面には薄い氷がはっていた。たまりの底には何枚かの落ち葉が、死んだうすっぺらな魚のように、静かに横たわっていた。僕は川原に落ちていた丸い石をひとつ手に取って、それを手のひらの中でしばらく転がしていた。島本さんは両手の手袋を取ってそれをコートのポケットにしまった。それからショルダー・バッグのファスナーを開けて、ぶ厚い上等な布でできた袋のようなものを取り出した。その袋の中には小さな壺が入っていた。彼女はその壺の紐をほどき、そっと蓋を開けた。そしてしばらくのあいだ中をじっとのぞきこんでいた。
僕は何も言わずにじっとそれを見ていた。
中には白い灰が入っていた。島本さんはその壺の中の灰をゆっくりと、外にこぼさないように注意深く、左の手のひらの上に落とした。それは結局、彼女の手のひらにすっかり入ってしまうくらいの量しかなかった。何かを、誰かを焼いた灰だろうと僕は思った。風のない静かな午後だったので、その白い灰はいつまでも彼女の手の中にあった。それから島本さんは空っぽになった壺をバッグの中に戻し、人差し指の先にその灰を少しつけ、指を口もとにはこんでそっと嘗めた。そして僕の顔を見て、微笑もうとした。でも彼女はうまく微笑むことができなかった。彼女の指はまだその唇の上にあった。
彼女が川辺にしゃがんでその灰を水に流しているあいだ、僕は隣に立ってそれを見守っていた。彼女の手の中にあった少しばかりの灰は、あっというまに川の流れに運び去られてしまった。僕と島本さんは川原に立って、その水の行方をじっと眺めていた。彼女はしばらくじっと手のひらを眺めていたが、やがてそこについていた灰を水の上で払い、手袋をはめた。
「本当に海まで流れると思う?」と島本さんが訊いた。
「たぶんね」と僕は言った。でも僕にはその灰が海までちゃんと流れつくという確信はなかった。海に出るまでにはまだかなりの距離がある。それはどこかのたまりに沈澱し、そのままそこに留まることになるかもしれなかった。でももちろん、そのうちのいくらかはちゃんと海に辿り着くだろう。
彼女はそれから、そのへんに落ちていた板きれを使って地面の柔らかそうなところを掘りはじめた。僕もそれを手伝った。小さな穴ができると、島本さんはその布袋に入った壺を埋めた。どこかでからすの囁く声が聞こえた。おそらく彼らは僕らのしていることを最初から最後までじっと見ているんだろう。かまわない、見たければ見ればいいんだと僕は思った。何も悪いことをしているわけじゃない。僕らは何かを焼いた灰を川に流しているだけなんだ。
「雨になるかしら?」と島本さんは靴の先で地面をならしながら言った。
僕は空を見上げた。「まだしばらくはもつだろう」と僕は言った。
「ちがうのよ。私が言ってるのは、あの子の灰が海に流れついて、それが水に混じって蒸発して、それが雲になって、そして雨になって地上に降るのかしらということ」
僕はもう一度空を見上げた。そして川の流れに目をやった。
「あるいはそうなるかもしれないね」と僕は言った。
僕らはレンタカーで空港に向った。天候が急速に変わりはじめていた。頭上はどんよりとした雲に覆われて、さっきまでところどころに見えていた空はもうまったく見えなくなってしまっていた。今にも雪が降り出しそうな天気だった。
「あれは私の赤ん坊の灰なのよ。私が生んだ、ただ一人の赤ん坊の灰」と島本さんは独り言を言うように言った。
僕は彼女の顔を見て、それからまた前を見た。トラックが雪解けの泥水を跳ね返すせいで、ときどきワイパーを動かさなくてはならなかった。
「生まれてすぐに、次の日には死んでしまったの」と彼女は言った。「たった一日だけしか生きていなかったのよ。二度か三度抱いただけ。とても綺麗な赤ん坊だった。やわらかくて……。原因はよくわからなかったんだけれど、うまく呼吸ができなかったの。死んだときにはもう色が変わってしまっていた」
僕には何を言うこともできなかった。僕は左手をのばして、彼女の手の上に置いた。
「女の子だったのよ。名前はまだなかったわ」
「亡くなったのはいつのことだったの?」
「去年のちょうど今ごろ」と島本さんは言った。
「二月」
「かわいそうに」と僕は言った。
「どこにも埋めたくなかったの。暗いところになんかやりたくなかったの。しばらく私の手元に置いてから、川から海に流して、雨にしてしまいたかったの」
そして島本さんは黙り込んだ。そのままずっと長いあいだ黙り込んでいた。僕も何も言わずに運転を続けた。きっと何も喋りたくないのだろうと僕は思った。僕は彼女をそのままそっとしておいてやりたかった。しかしそのうちに島本さんの様子が少しおかしいことに僕は気がついた。彼女は奇妙な音を立てて息をしているのだ。それはどちらかと言えば機械音に似た音だった。最初のうち僕は何か車のエンジンに悪いところがあるのかと思ったほどだった。でもその音は間違いなく僕の隣のシートから聞こえてきていた。それは嗚咽でもなかった。まるで彼女の気管支に穴が開いて、息をするたびにそこから空気が漏れているような音だった。
僕は信号を待っているときに彼女の横顔を見た。島本さんの顔は紙のように真っ白になっていた。そして顔ぜんたいが、何かを塗られたみたいに不自然にこわばっていた。彼女はヘッドレストに頭をもたせかけて、じっと前を睨んでいた。身動きひとつせず、ときどき半ば義務的に小さく瞬きをするだけだった。僕はそのまましばらく車を走らせてから、目についた適当な場所に入ってとめた。そこは閉鎖されたボウリング場の駐車場だった。がらんとした飛行機の格納庫のような建物の屋根には巨大なボウリングのピンの看板が立っていた。まるで世界の果てまで来てしまったような荒涼とした情景だった。広大な駐車場には僕らの車しかとまっていなかった。
「島本さん」と僕は声をかけた。「ねえ、島本さん。大丈夫?」
彼女はそれには答えなかった。シートにもたれていつまでもその奇妙な音を立てて呼吸をつづけているだけだった。僕は彼女の頬に手をつけてみた。頬はまるでまわりの光景に染まってしまったように冷たく、血の気がなかった。額にもやはり熱がなかった。僕は息が詰まりそうになった。ひょっとして彼女はこのままここで死んでしまうんじゃないかと思った。彼女の目には表情というものがまったく浮かんでいなかったのだ。僕はその瞳の中をじっと覗き込んでみた。でもそこにはまったく何も見えなかった。瞳の奥は死そのもののように暗く冷たかった。
「島本さん」と僕はもう一度大きな声で呼んでみた。でも反応はなかった。ほんの微かな反応さえなかった。その目はどこも見ていなかった。意識があるのかどうかもわからない。救急病院に連れていった方がよさそうだと僕は思った。病院なんかに行っていたらたぶん間違いなく飛行機には乗り遅れるだろう。でもそんなことを考えている場合ではないのだ。島本さんはこのまま死んでしまうかもしれない。何があろうが彼女を死なせるわけにはいかなかった。
でも車のエンジンをかけたところで、島本さんが何か言おうとしていることに僕は気づいた。僕はエンジンを停め、彼女のくちもとに耳を寄せてみたが、それでも彼女の言っていることはよく聞き取れなかった。それは言葉というよりはすきま風のようにしか聞こえなかった。彼女は力を振りしぼるようにその言葉を何度も繰り返した。僕は意識を集中してそこに何かの言葉を聞き取ろうとした。彼女はどうやら「くすり」と言っているようだった。
「薬を飲みたいの?」と僕は訊いた。
島本さんは小さく頷いた。見えるか見えないかというくらいの微かな頷きだった。それが彼女に出来る最大の動作であるようだった。僕は彼女のコートのポケットを探した。そこには財布やハンカチやキイホールダーについた幾つかの鍵が入っていた。でも薬はなかった。それから僕はショルダー・バッグを開けてみた。バッグの内ポケットに薬の紙袋かあり、その中に小さなカプセルが四錠入っていた。僕はそのカプセルを彼女に見せた。
「これでいいの?」
彼女は目を動かさずに頷いた。
僕は車の背もたれを後ろに倒して彼女の口を開き、そこにカプセルをひとつ押し込んだ。でも彼女の口の中はからからに乾いていて、とてもそれを喉の奥に押しやることはできなかった。僕は飲み物の自動販売機のようなものかどこかにないかとあたりを見回してみた。でもそんなものは見当たらなかったし、これからどこかに探しに行くような時間的な余裕もなかった。近くにある水気のものといえば雪だけだった。雪ならありがたいことにそのへんにいくらでもあった。僕は車を下りて、軒下に固まっている雪の汚れてなさそうな部分を、島本さんのかぶっていた毛糸の帽子の中に入れて持ってきた。そしてそれを少しずつ自分の口に含んで溶かした。溶かすのに時間がかかったし、そのうちに舌先の感覚がなくなってきたが、そうする以外に何の方法も思いつけなかった。それから僕は島本さんの口を開け、水を口移しに移した。移し終わると彼女の鼻をつまみ、その水を無理に呑み込ませた。彼女はむせながらも、それを何とか呑み込んでいった。何度かそれをやっているうちに、彼女はようやくそのカプセルを喉の奥に流しこめたようだった。
僕はその薬の袋を見てみた。でもそこには何も書かれていなかった。薬の名前も、彼女の名前も、服用の指示も、なにひとつ書かれていなかった。奇妙なものだな、と僕は思った。薬の袋には普通は何かそれなりの情報が書きしるしてあるものなのだ。間違えて服用しないように、あるいは他人か服用させるときに事情がわかるように。でもとにかく僕はその袋をバッグの内ポケットに戻し、そのまましばらく彼女の様子を見ていた。何の薬かはわからないし、何の症状かもわからないけれど、このようにしていつも薬を持ち歩いているからには、それなりの効果はあるのだろう。少なくともこれは突発的な事態ではなく、ある程度予期された症状なのだ。
十分ほどで、彼女の頻にようやく少しずつ赤みがさしてきた。僕はそこにそっと自分の頬をつけてみた。ほんの少しではあるけれど、そこにはもとの温かみが戻ってきたようだった。僕はほっと息をついてシートに体をもたせかけた。彼女はなんとか死なないですんだのだ。僕は彼女の肩を抱いて、ときどきその頬に僕の頬をつけた。そして彼女がゆっくりとこちらの世界に戻ってくるのをたしかめていた。
「ハジメくん」とやがて小さな乾いた声で島本さんは言った。
「ねえ、病院に行かなくて大丈夫やその方がいいんなら救急病院はみつけられるけれど」と僕は訊いた。
「行かなくていい」と島本さんは言った。「もう大丈夫。薬を飲めばそれで治るの。もう少しすれば普通になるから、気にしなくていい。それよりも時間はまだ大丈夫や早く空港に行かないと飛行機に遅れるわよ」
「大丈夫だよ。時間のことは心配しなくてもいい。落ちつくまでもう少しここにじっとしていればいいよ」と僕は言った。
僕はハンカチで彼女の口もとをぬぐった。島本さんはその僕のハンカチを手に取って、しばらくそれをじっと見ていた。「あなたは誰にでもこんなに親切なの?」
「誰にでもじゃない」と僕は言った。「君だからだよ。誰にでも親切にするわけじゃない。誰にでも親切にするには僕の人生は限られすぎている。君ひとりに対して親切にするにも、僕の人生は限られているんだ。もし限られていなかったら、僕はもっといろんなことを君にしてあげられると思う。でもそうじゃない」
島本さんは顔をこちらに向けて僕をじっと見た。
「ハジメくん、私はあなたを飛行機の時間に遅らせるためにわざとこんなことをしたわけじゃないのよ」と島本さんは小さな声で言った。
僕はびっくりして彼女の顔を見た。「もちろんだよ。そんなことは言わなくてもわかっているよ。君は具合が悪かったんだ。それは仕方ないじゃないか」
「ごめんなさい」と島本さんは言った。
「あやまることはないよ。君が悪いわけじゃないんだもの」
「でも私はあなたの足を引っ張っているわ」
僕は彼女の髪を撫で、身をかがめてその頻にそっと口づけした。できることなら僕は彼女の全身をしっかりと抱きしめ、その体温を僕の肌で確かめたかった。しかし僕にはそうすることができなかった。僕は彼女の頬に唇をつけただけだった。彼女の頬は温かく、柔らかく湿っていた。「君は何も心配しなくていいよ。最後には何もかもちゃんとうまくいくから」と僕は言った。
僕らが空港に着いてレンタカーを返したときには、飛行機の搭乗時間はもうとっくに過ぎてしまっていたが、ありがたいことに飛行機の離陸が遅れていた。東京行きの便はまだ滑走路にいて、乗客を乗せていなかった。僕らはそれを知ってほっと安堵の息をついた。でもそのかわり、今度は一時間以上搭乗を待たされることになった。エンジンの整備の関係だとカウンターの係員は言った。それ以上の情報を彼らも与えられてはいなかった。いつ整備が終わるかはわかりません。私たちも何も知らないんです。空港に着いた頃にちらちらと降り始めていた雪は、今では激しく降りしきっていた。このまま飛行機が飛ばないという可能性だってじゅうぶんありそうだった。
「もし今日のうちに東京に帰れなくなったら、ハジメくんはどうするの?」と彼女が僕に言った。
「心配しなくてもいいよ。飛行機はちゃんと飛ぶよ」と僕は言った。しかし飛行機が飛びたつという確証はもちろん何もなかった。もし仮にそんなことになったらと考えると、僕は気が重くなった。そうなると僕は何かうまい言い訳を考えださなくてはならない。何故僕が石川県なんかに来ているのかについて。でもそれはまあそのときのことだ、と僕は思った。そうなったらまたそのときにゆっくりと考えればいい。今とりあえず僕が考えなくてはならないのは、島本さんのことだ。
「君の方はどうなの? もし今日じゅうに東京に戻れないようなことがあったら」と僕は島本さんに尋ねてみた。
彼女は首を振った。「私のことは気にしなくていいのよ」と彼女は言った。「私はなんとでもなるの。問題はあなたの方だと思う。あなたの方はとても困るんでしょう」
「多少はね。でもそんなこと君は気にしなくていい。飛ばないと決まったわけじゃないんだから」
「こんなことが起こるだろうというのはわかっていたのよしと島本さんは自分に言い聞かせるように静かな声で言った。「私がいると、そのまわりでは決まってろくでもないことばかり起こるの。いつものことなの。私が関わるだけで、何もかも駄目になっていくの。それまでは何の問題もなく運んでいたものが、突然みんなうまく行かなくなるの」
僕は空港のベンチに座って、飛行機が欠航したときに有紀子にかけなくてはならない電話のことを考えた。その言い訳の文句を頭の中でいろいろと考えた。でも結局のところどんな風に説明したところで無駄だろうと僕は思った。スイミング・クラブの集まりに出ると言って日曜日の朝に家を出て、石川県の空港で雪に降りこめられているのだ。言い訳のしょうがない。
「家を出たら、突然日本海が見たくなって、そのまま羽田に行っちゃったんだ」と言うこともできた。でもそれはあまりにも馬鹿げていた。そんなことを言うくらいなら何も言わない方がましだ。あるいは本当のことを言ってしまった方がましだ。そしてそのうちに、僕は自分が本心では飛行機が飛ばないことを期待しているのに気づいて愕然とした。僕はこのまま飛行機が飛ばず、雪に降りこめられてしまうことを求めていた。僕は心の底で、僕と島本さんが二人でここに来たことが妻にばれてしまうことを望んでいた。僕は何も言い訳をしない。僕はもう嘘をつかない。僕はただここに島本さんと二人で残る。そうなれば僕はこのあと、流れのままに身をまかせてしまえばいいのだ。
結局飛行機は一時間半遅れて離陸した。飛行機の中で島本さんは僕にもたれてずっと眠っていた。あるいはじっと目を閉じていた。僕は彼女の肩に腕をまわして抱いていた。彼女は眠りながらときどき泣いているように見えた。彼女はずっと黙っていたし、僕も何も話しかけなかった。僕らが口をきいたのは、飛行機が着陸態勢に入ってからだった。
「ねえ島本さん、君は本当にもう大丈夫なの?」と僕は訊ねた。
彼女は僕の腕の中で頷いた。「大丈夫。薬を飲めばもう大丈夫なの。だから気にしないで」、そして彼女は僕の肩にそっと頭をもたせかけた。
「でも何も訊かないでね。どうしてあんなことになったとか、そういうことを」
「いいよ、何も訊かないよ」と僕は言った。
「今日のことは本当にありがとう」と彼女は言った。
「今日のどんなこと?」
「あそこまで連れていってくれたこと。口移しに水を飲ませてくれたこと。私に我慢してくれたこと」」
僕は彼女の顔を見た。僕のすぐ前に彼女の唇があった。それはさっき僕が水を飲ませるときに口づけした唇だった。そしてその唇はもう一度あらためて僕を求めているように見えた。その唇は微かに開かれ、そのあいだから綺麗な白い歯が見えた。水を飲ませるときにほんの少しだけ触れた彼女の柔らかな舌の感触を、僕はまだ覚えていた。その唇を見ていると、僕はひどく息苦しくなって、もうそれ以上何かを考えることができなくなった。体の芯が熱くなるのが感じられた。彼女は僕を求めているのだ、と僕は思った。そして僕も彼女を求めていた。でも僕はなんとか自分を押し止めた。僕はここで踏みとどまらなくてはならないのだ。ここから先に行くと、もうもとに戻ってくることはできなくなってしまうかもしれない。でも踏みとどまるにはかなりの努力が必要だった。
僕は空港から家に電話をかけた。時刻はもう八時半だった。ごめん、遅くなって、うまく連絡がつかなかったんだ、今から一時間くらいで帰るよ、と僕は妻に言った。
「ずっと待っていたんだけど、我慢できなくなって夕御飯は先に食べちゃったわよ。鍋ものだったんだけど」と妻は言った。
僕は空港の駐車場に置いておいたBMWに彼女を乗せた。「どこまで送ればいいのかな?」
「もしよかったら青山でおろして。私はそこから適当に一人で帰るから」と島本さんは言った。
「本当に一人で帰れる?」
彼女はにっこりと微笑んで頷いた。
外苑で首都高速を下りるまで、僕らはほとんど口をきかなかった。僕はヘンデルのオルガン・コンチェルトのテープを小さな音で聴いていた。島本さんは膝の上に両手をきちんと並べて置いて、じっと窓の外を見ていた。日曜日の夜だったから、まわりの車の中にはどこかに遊びに行った帰りらしい家族連れの姿が見えた。僕はいつもよりこまめにギアを上げたり下げたりした。
「ねえハジメくん」と島本さんは青山通りに出る手前で口を開いた。「私はあのとき実は飛行機がもう飛ばなければいいと思っていたのよ」と彼女は言った。
僕も同じことを考えていたんだよ、と僕は言いたかった。でも結局何も言わなかった。僕の口はからからに乾いていて、言葉がうまく出てこなかった。僕は黙って頷いて、彼女の手をそっと握っただけだった。僕は青山一丁目の角に車を停めて彼女を下ろした。彼女がそこで下ろしてくれと言ったのだ。
「また会いに行っていい?」と島本さんは車を下りるときに僕に小さな声で尋ねた。「私のことをまだ嫌いじゃない?」
「待っているよ」と僕は言った。「近いうちに会おう」
島本さんは頷いた。
青山通りに車を走らせながら、もしこのまま二度と彼女に会えなかったら、きっと頭がおかしくなってしまうだろうなと僕は思った。彼女が車を下りてしまうと、世界が一瞬がらんどうになってしまったような気がしたのだ。