北の広場の中央には大きな時計塔が、まるで空を突きさすような格好で|屹《きつ》|立《りつ》していた。もっとも正確には時計塔というよりは、時計塔という体裁を残したオブジェとでも表現するべきかもしれない。|何《な》|故《ぜ》なら時計の針は一カ所に|停《と》まったきりで、それは時計塔本来の役割を完全に放棄していたからだ。
塔は四角形の石造りで、それぞれが東西南北の方位を示し、上の方に行くほど細くなっている。先端には四面の文字盤がついており、その八本の針はそれぞれに十時三十五分のあたりを指したままぴくりとも動かない。文字盤の少し下あたりに見える小窓から推測すると、塔の内部はどうやら|空《くう》|洞《どう》になっており、|梯《はし》|子《ご》か何かで上にのぼることができるようだったが、そこに入る入口らしきものはどこにも見あたらなかった。異様なほど高くそそり立っていたので、文字盤を読むためには旧橋をわたって南側まで行かねばならなかった。
北の広場を幾重にもとりかこむように、石造りや|煉《れん》|瓦《が》造りの建物が扇状に|拡《ひろ》がっていた。建物のひとつひとつには|際《きわ》|立《だ》った特徴はなく、何の装飾も表示もなく、すべての|扉《とびら》はぴたりと閉ざされて、出入りする人の姿もなかった。それは郵便を失った郵便局か、鉱夫を失った鉱山会社か、死体を失った葬儀場のようなものかもしれなかった。しかししんと静まりかえったそれらの建物には打ち捨てられたという印象は不思議になかった。|僕《ぼく》はそんな街並をとおり抜けるたびに、まわりの建物の中で僕の知ることのない人々がそっと息を殺して、僕の知ることのない作業をつづけているような気がしたものだった。
図書館もそんなひっそりとした街並の一郭にあった。図書館といってもべつに他と変ったところがあるわけではなく、ごくありきたりの石造りの建物である。それが図書館であることを示す表示や外見的特徴は何もない。陰気な色あいに変色した古い石壁や狭いひさし、あるいは|鉄《てつ》|格《ごう》|子《し》のはまった窓やがっしりとした木の扉は、穀物倉庫と言われても通りそうだった。もし門番がくわしい道筋を紙に書いてくれなかったら、僕はそれを図書館と認識することはおそらく永久になかっただろう。
「あんたには落ちつき次第まず図書館に行ってもらうことになる」と門番は街についた最初の日に僕に言った。「そこには女の子が一人で番をしているから、その子に街から古い夢を読むように言われてきたっていうんだ。そうすればあとはその子がいろいろと教えてくれるよ」
「古い夢[#「古い夢」に丸傍点]?」と僕は思わず|訊《き》きかえした。「古い夢というのはいったい何なのですか?」
門番は小型のナイフを使って木片から丸い|楔《くさび》か|木《き》|釘《くぎ》のようなものを作っていたが、その手を休めてテーブルの上にちらばった削りかすを集め、ごみ箱の中に捨てた。
「古い夢というのは、古い夢さ。図書館にいけば|嫌《いや》というほどある。好きなだけ手にとってとっくりと|眺《なが》めてみるといいやね」
門番はそれから自分が仕上げたその丸く|尖《とが》った木片をじっくりと点検し、納得がいくと背後の|棚《たな》に置いた。棚にはそれと同じような形をした尖った木片が二十ばかり一列に並んでいた。
「あんたが何を質問するかはそれはあんたの勝手だが、それに答える答えないは|俺《おれ》の勝手だよ」と門番は頭のうしろで手を組んで言った。「中には俺には答えられんこともあるしな。とにかくあんたはこれから毎日、図書館に行って古い夢を読むんだ。それがつまりあんたの仕事だよ。夕方の六時にそこに行って、十時か十一時まで夢読みをやる。夕食は女の子が用意してくれる。それ以外の時間はあんたの自由に使っていい。何の制限もない。わかったかね?」
わかった、と僕は言った。「ところでその仕事はいつまでつづくのですか?」
「さあ、いつまでつづくかな? 俺にもよくわからんね。しかるべき時期がくるまでだろうな」と門番は言った。そして|薪《まき》をつんだ中から適当な木ぎれをひっぱりだして、またナイフで削りはじめた。
「ここは貧しい小さな街だからな、ぶらぶらしている人間を養っているような余裕はない。みんなそれぞれの場所でそれぞれに働いている。あんたは図書館で古い夢を読むんだ。まさかここでのうのうと楽しく遊んで暮せると思ってきたわけじゃないだろうね?」
「働くのは苦痛じゃありません。何もしないよりは何かしていた方が楽です」と僕は言った。
「それは結構」と門番はナイフの刃先を|睨《にら》んだまま|肯《うなず》いた。「それじゃできるだけ早く仕事にとりかかってもらうとしよう。あんたはこれから先〈夢読み〉と呼ばれる。あんたにはもう名前はない。〈夢読み〉というのが名前だ。ちょうど俺が〈門番〉であるようにね。わかったかね?」
「わかりました」と僕は言った。
「門番がこの街に一人しかいないように、夢読みも一人しかいない。なぜなら夢読みには夢読みの資格が要るからだ。俺は今からその資格をあんたに与えねばならん」
門番はそう言うと食器棚から白い小さな|平《ひら》|皿《ざら》を出してテーブルの上に置き、そこに油を入れた。そしてマッチを擦って火をつけた。次に彼は刃物を並べた棚からバターナイフのような|扁《へん》|平《ぺい》な形をした奇妙なナイフをとって、その刃先を火で十分焼いた。そして火を吹き消し、ナイフを冷ました。
「これはしるしをつけるだけなんだ」と門番は言った。「だから少しも痛くないし、|怯《おび》える必要もない。あっという間に終っちまうよ」
彼は僕の右目の|瞼《まぶた》を指で押し開き、ナイフの先を僕の眼球に突きさした。しかしそれは門番が言ったように痛くはなかったし、不思議に怖くもなかった。ナイフはまるでゼリーに突きささるように僕の眼球にやわらかく音もなく食いこんだ。次に彼は僕の左の眼球に対しても同じことをした。
「夢読みが終了すれば、その傷も自然に消えちまうよ」と門番は皿やナイフを片づけながら言った。「その傷がつまりは夢読みのしるしってわけだな。しかしあんたはそのしるしをつけているあいだは光に気をつけねばならん。いいかい、その目で日の光を見ることはできないんだ。その目で日の光を見ると、あんたはそれなりの報いを受けることになる。だからあんたが外を出歩けるのは夜か曇った昼間だけってことになるな。晴れた日には部屋をできるだけ暗くして、その中にじっと|籠《こも》ってるんだ」
そして門番は僕に黒いガラスの入った眼鏡をくれて、眠るときの|他《ほか》はいつもこれをかけているようにと言った。そのようにして僕は日の光を失ったのだ。
僕が図書館の扉を押したのはその何日かあとの夕方だった。重い木の扉は|軋《きし》んだ音を立てて開き、その奥には長い廊下がまっすぐにのびていた。空気はもう何年ものあいだそこに置き去りにされていたかのように、ほこりっぽく|淀《よど》んでいた。床板は人々の歩むかたちに擦り減り、|漆《しっ》|喰《くい》の壁は電灯の色にあわせて黄色く変色していた。
廊下の両側にはいくつかの扉があったが、ドア・ノブには鎖がかかり、その上には白いほこりがつもっていた。鎖のかかっていないのはつきあたりにあるきゃしゃな作りのドアだけで、ドアにはまったすりガラスの向うに電灯の光が見えた。僕は何度かそのドアをノックしてみたが、返事はなかった。古びた|真鍮《しんちゅう》のノブに手をかけて静かにまわしてみると、ドアは音もなく内側に開いた。部屋には人影はなかった。駅の待合室をひとまわり大きくした程度のがらんとした簡素な部屋で、窓はひとつもなく、飾りらしい飾りもない。粗末なテーブルがひとつと|椅《い》|子《す》が三脚、そして旧式の鉄の石炭ストーヴがひとつあるきりだ。それから大きな柱時計とカウンター。ストーヴの上ではところどころ色のはげおちた黒い|琺《ほう》|瑯《ろう》のポットが白い湯気をたてている。カウンターのうしろには入口と同じ型のやはりすりガラスの入ったドアがあり、その奥にはやはり電灯の光が見えた。僕はそのドアをノックしてみるべきかどうか少し迷ったが、結局ノックはせずにしばらくここで|誰《だれ》かがやってくるのを待つことにした。
カウンターの上には銀色のペーパー・クリップがちらばっていた。僕はそれを手にとってしばらくもてあそんでから、テーブルの椅子に腰を下ろした。
その女の子がカウンターのうしろのドアから姿を見せたのは十分か十五分あとのことだった。彼女は手に紙ばさみのようなものを持っていた。彼女は僕の顔を見て少し驚いたようで、|頬《ほお》が一瞬赤くなった。
「ごめんなさい」と彼女は僕に言った。「誰か見えていたとは知らなかったんです。ドアをノックしていただければよかったのに。ずっと奥の部屋でかたづけものをしていたんです。なにしろいろんなものが|出《で》|鱈《たら》|目《め》にちらかっているものだから」
僕は長いあいだ言葉もなくじっと彼女の顔を見つめていた。彼女の顔は僕に何かを思いださせようとしているように感じられた。彼女の何かが僕の意識の底に沈んでしまったやわらかなおり[#「おり」に丸傍点]のようなものを静かに揺さぶっているのだ。しかし僕にはそれがいったい何を意味するのかはわからなかったし、言葉は遠い|闇《やみ》の中に|葬《ほうむ》られていた。
「御存じのようにここを訪ねてくる人はもう誰もいないんです。ここにあるのは〈古い夢〉だけで、他には何もありません」
僕は彼女の顔から目を離さずに小さく肯いた。彼女の目や彼女の|唇《くちびる》や彼女の広い額やうしろで束ねられた黒い髪のかたちから、僕は何かを読みとろうとしたが、細かい部分に目をやればやるほど、全体的な印象はぼんやりと遠ざかっていくように僕には感じられた。僕はあきらめて目を閉じた。
「失礼ですけれど、どこかべつの建物とお間違えになったのではないでしょうか? このあたりの建物はみんなよく似ていますから」と彼女は言って紙ばさみをカウンターの上のペーパー・クリップのとなりに置いた。「ここに入って古い夢を読むことができるのは夢読みだけです。それ以外の方はここに立ち入ることはできないんです」
「僕はここに夢を読みにきたんです」と僕は言った。「街からそうするように言われてね」
「申しわけありませんが眼鏡をはずしていただけますか?」
僕は黒い眼鏡をとって、顔を彼女の方にまっすぐ向けた。彼女は夢読みのしるしのある淡い色に変色したふたつの|瞳《ひとみ》をじっとのぞきこんだ。まるで体の|芯《しん》までのぞきこまれているような気がした。
「結構です。眼鏡をかけて下さい」と彼女は言った。「コーヒーをお飲みになりますか?」
「ありがとう」と僕は言った。
彼女は奥の部屋からコーヒー・カップをふたつ持ってきて、それにポットのコーヒーを|注《つ》ぎ、テーブルの向いに座った。
「今日はまだ準備ができていないので夢読みは明日から始めましょう」と彼女は僕に言った。「読む場所はここでいいかしら? 閉鎖されている閲覧室を開けることもできますけれど」
ここでいい、と僕は答えた。
「君が僕を手伝ってくれるんだね?」
「ええ、そうです。私の仕事は古い夢の番をすることと、夢読みのお手伝いをすることです」
「どこかで以前君にあったことはなかったかな?」
彼女は目をあげてじっと僕の顔を見た。そして記憶を探って、何かを僕に結びつけようと試みていたが、結局あきらめて首を振った。「おわかりのように、この街では記憶というものはとても不安定で不確かなんです。思いだせることもありますが、思いだせないこともあります。あなたのことは思いだせない方に入っているみたいです。ごめんなさい」
「いいよ」と僕は言った。「たいしたことじゃないんだ」
「でももちろんどこかでお目にかかったことはあるかもしれませんわね。私はずっとこの街に住んでいるし、なにしろ狭いところですから」
「僕はほんの何日か前にここに来たばかりだよ」
「何日か前?」と彼女はびっくりしたように言った。「じゃあそれはきっと人違いだと思うわ。だって私は生まれてからずっとこのかた街の外に出たことはありませんもの。私に似た人だったんじゃないかしら」
「たぶんね」と僕は言った。そしてコーヒーをすすった。「でもね、僕はときどきこんな風に思うことがあるんだ。僕らはみんな昔まったく違う場所に住んでまったく違う人生を送っていたんじゃないかってね。そしてそういうことを何かの加減ですっかり忘れてしまい、何も知らないままにこうして生きているんじゃないかってね。そんな風に思ったことはない?」
「ないわ」と彼女は言った。「あなたがそんな風に考えるのは、あなたが夢読みだからじゃないかしら? 夢読みというのは普通の人とはずいぶん違う考え方や感じ方をするものだから」
「どうだろう」と僕は言った。
「じゃああなたは自分がどこで何をしていたかわかるの?」
「思いだせない」と僕は言った。そしてカウンターに行って、そこにばらばらとちらばっていたペーパー・クリップをひとつ手にとって、それをしばらく眺めた。「でも何かがあったような気がする。それはたしかなんだ。そして君にもそこで会ったような気がするんだ」
図書館の天井は高く、部屋はまるで海の底のように静かだった。僕はペーパー・クリップを手にしたまま何を思うともなく、そんな部屋の中をぼんやりと見まわした。彼女はテーブルの前に座って、一人で静かにコーヒーを飲みつづけていた。
「自分がどうしてここに来たのかも、僕にはよくわからない」と僕は言った。
じっと天井を見ていると、そこから降りかかってくる黄色い電灯の光の粒子が膨んだり縮んだりしているように見えた。おそらく僕の傷つけられた瞳のせいだろう。僕の目は何かとくべつなものを見るために、門番の手によって作りかえられてしまったのだ。壁にかかった古い大きな柱時計がゆっくりと無音のうちに時を刻んでいた。
「たぶん何か理由があってここに来たんだろうけれど、それも今は思いだせない」と僕は言った。
「ここはとても静かな街よ」と彼女は言った。「だからもしあなたが静けさを求めてここに来たんだとしたら、あなたはきっとここが気に入ると思うわ」
「そうだろうね」と僕は答えた。「僕は今日ここで何をすればいいんだろう?」
彼女は首を振ってゆっくりとテーブルから立ちあがり、空になったふたつのコーヒー・カップを下げた。
「あなたが今日ここでできることは何もないわ。仕事は明日から始めましょう。それまでは家に帰ってゆっくり休んでいて下さい」
僕はもう一度天井を見あげ、それから彼女の顔を眺めた。たしかに彼女の顔は僕の心の中の何かと強く結びついているような気がした。そしてその何かが|微《かす》かに僕の心を打つのだ。僕は目を閉じて、僕のぼんやりとかすんだ心の中を探ってみた。目を閉じると、沈黙が細かいちりのように僕の体を|覆《おお》っていくのが感じられた。
「明日の六時にここに来るよ」と僕は言った。
「さよなら」と彼女は言った。
僕は図書館を出ると、旧橋の手すりにもたれて、川の水音に耳を澄ませながら、獣の消えてしまった街の姿を眺めた。時計塔や街を囲む壁や川沿いに並ぶ建物やのこぎりの歯のような形をした北の尾根の山なみは、夜の最初の淡い闇に青く染まっていた。水音の他には耳に届く音は何ひとつとしてなかった。鳥たちももうどこかにひきあげてしまったのだ。
もし僕が静けさを求めてここに来たのなら——と彼女は言った。しかしそれをたしかめることは僕にはできないのだ。
あたりがすっかり暗くなって、川沿いの道に並んだ街灯がその|灯《ひ》をともしはじめるころ、僕は人影のない街路を西の丘へと向った。