僕《ぼく》は夜明け前に目を覚まして、街が白い雪にすっぽりと包まれていることを知った。それは素晴しい|眺《なが》めだった。白一色の風景の中に時計塔が黒くそびえ立ち、その下をまるで暗い帯のように川が流れている。太陽はまだ上ってはいなかったし、空は厚い雲に一分の|隙《すき》もなく|覆《おお》われている。僕はコートを着て手袋をはめ、人気のない道を街へと下った。雪は僕が眠りに就いたすぐあとから音もなく降りはじめ、僕が目を覚ます少し前に降り|止《や》んだようだった。雪の上にはまだ足跡ひとつない。手にとってみると、それはまるで粉砂糖のようにやわらかく、さらりとした感触の雪だった。川岸にたまった水は薄く凍りついて、その上にまばらに雪が積っていた。
僕の吐く白い息の|他《ほか》には街には動くものひとつなかった。風もなく、鳥の姿さえ見えない。|靴《くつ》|底《ぞこ》が雪を踏む音だけが、まるで合成された効果音のように不自然なほど大きく家々の石壁に響きわたっていた。
門の近くまで来ると、広場の前に門番の姿が見えた。門番はいつか影と二人で修理をしていた荷車の下にもぐりこんで、車軸に機械油を差しているところだった。荷台にはなたね油を入れるのに使う陶製のかめ[#「かめ」に丸傍点]がいくつか並んで、倒れないようにロープで側板にしっかりと固定されていた。それほど大量の油をいったい門番が何につかうつもりなのか僕は不思議に思った。
門番は荷車の下から顔を出し、手をあげて僕にあいさつをした。彼は|機《き》|嫌《げん》が良さそうに見えた。
「ずいぶん早いじゃないか。いったいどんな風の吹きまわしかね?」
「雪景色を見にきたんですよ」と僕は言った。「丘の上から眺めているととても|綺《き》|麗《れい》に見えたものだから」
門番は声をあげて笑い、いつものように僕の背中にその大きな手を置いた。彼は手袋さえはめてはいなかった。
「あんたも変った人だな。これから先雪景色なんて|嫌《いや》ってほど見られるというのにわざわざ見物に下りてくるなんてな。たしかに変ってるよ」
それから彼はスティーム・エンジンのような大きな白い息をはきながら、じっと門のあたりを眺めていた。
「しかしまあ、あんたはちょうどいいところに来たようだな」と門番は言った。「望楼に上ってみな。|面《おも》|白《しろ》いものが見られるよ。この冬の初ものさ。もう少ししたら角笛を吹くから、外の景色をよく見てな」
「初もの?」
「まあ見てりゃわかるさ」
僕はわけのわからぬままに門のわきの望楼に上って、外の世界の風景を眺めた。りんご林の上にはまるで雲がそのまま舞い下りたように雪が積っていた。北の尾根も東の尾根も|地《じ》|肌《はだ》のおおかたを白く染めて、傷あとのようなかたちに岩の隆起した筋を残しているだけだった。
望楼のすぐ下にはいつもと同じように獣たちが眠っていた。彼らは脚を畳むように折り曲げてじっと地面にうずくまり、雪と同じ色をした純白の角をまっすぐ前方に突きだし、それぞれの静かな眠りを|貪《むさぼ》っていた。獣たちの背中にもたっぷりと雪が積っていたが、彼らはそれには気づきもしないようだった。彼らの眠りはおそろしく深いのだ。
やがて少しずつ頭上の雲が切れて、太陽の光が地表を照らしはじめたが、僕はそのまま望楼に立って、まわりの風景を眺めつづけた。光はスポットライトのように部分的なものにすぎなかったし、門番の言った「面白いもの」というのを僕としてもたしかめてみたかったのだ。
やがて門番が門を開けて、いつものように角笛を長く一度、短かく三度吹き鳴らした。獣たちはその最初の一音で目を覚まし、首をあげてその音の流れてくる方向に目を向けた。その白い息の量から彼らの体が新しい一日の活動を始めたらしいことがわかった。眠っているときの獣たちはほんのわずかしか呼吸をしないのだ。
最後の角笛の一音が大気の中に吸いこまれてしまうと、獣たちは立ちあがった。まず前脚をゆっくりとたしかめるように伸ばし、上体を上げ、次に後脚を伸ばした。それから何度か角を空中に突き出し、最後にふと気づいたように身ぶるいして体に積った雪を地面に払いおとした。そして門に向けて歩を進める。
獣たちが門の中に入ってしまったあとで、僕は門番が僕に見せようとしたものがいったい何であったのかを理解することができた。眠っているように見えた獣たちの何頭かは、同じ姿勢のまま凍りついて死んでいたのだ。そんな獣たちは死んだというよりはまるで何か重要な命題について深く考えこんでいるように見えた。しかし彼らにとっての答は存在しなかった。彼らの鼻や口からは一筋の白い息ものぼらなかった。彼らの肉体はその活動を停止し、彼らの意識は深い|闇《やみ》の中に吸いこまれてしまったのだ。
他の獣たちが門に向けて立ち去ってしまったあとには、まるで大地に生じた小さな|瘤《こぶ》のようなかたちに数頭の死体が残された。白い雪の死衣が彼らの体を包んでいた。一本の角だけが妙に生々しく宙を射していた。生き残った獣たちの多くは彼らのそばを通りすぎるときに、あるものは深く首を沈め、あるものは|蹄《ひづめ》を小さく鳴らした。彼らは死者たちを|悼《いた》んでいるのだ。
僕は朝日が高く上り、壁の影がずっと手前に引いて、その光が静かに大地の雪を溶かしはじめるまで、ずっと彼らのひっそりとした|死《し》|骸《がい》を眺めていた。朝の太陽が彼らの死さえも溶かし去り、死んだように見えた獣たちはそのままふと立ちあがっていつもの朝の行進を始めるように思えたからだった。
しかし彼らが立ちあがることはなく、雪溶けの水に|濡《ぬ》れた金色の毛が日光を受けていつまでもきらきらと光っているだけだった。やがて僕の目が痛みはじめた。
望楼を下り川を渡り、西の丘を上って部屋に|戻《もど》ってみると、朝の光が自分で思っていたよりずっと強く目を痛めているらしいことがわかった。目を閉じるとあとからあとからとめどもなく涙がこぼれ、音を立てて|膝《ひざ》の上に落ちた。冷たい水で目を洗ってみたが効果はなかった。僕は窓の重いカーテンを閉め、じっと目をつぶったまま、距離感の失われた闇の中に浮かんでは消えていく奇妙な形をした線や図形を何時間も眺めていた。
十時になると老人がコーヒーをのせた盆を手に僕の部屋をノックし、ベッドにうつぶせになっている僕の姿を見て、冷やしたタオルで|瞼《まぶた》をこすってくれた。耳のうしろがずきずきと痛んだが、それでも涙の量はいくぶん少なくなったようだった。
「いったいどうしたんだね?」と老人は僕にたずねた。「朝の光は君が考えているよりずっと強いんだ。とくに雪の積った朝はね。〈夢読み〉の目が強い光に耐えられないことはわかっているはずなのに、どうして外になんて出たりしたんだ?」
「獣たちを見に行ったんですよ」と僕は言った。「ずいぶん死んでいました。八頭か九頭、いやもっとかな」
「これからもっと沢山死ぬことになるさ。雪が降るたびにね」
「|何《な》|故《ぜ》そんなに簡単に死んでしまうんですか?」
僕は仰向けになったままタオルを顔の上からはずして老人に|訊《たず》ねてみた。
「弱いんだよ。寒さと飢えにね。昔からずっとそうだった」
「死に絶えはしないんですか?」
老人は首を振った。「|奴《やつ》らはこれまで何万年もここで生きのびてきたし、これから先もそうだろう。冬のあいだに沢山のものが死ぬが、春になれば子供が生まれてくる。新しい生命が古い生命を押し出していくというだけのことなのさ。この街にはえている木や草だけで養える獣の数は限られているからね」
「彼らはどうしてべつの場所に移らないんですか? 森に入れば木はいくらでもはえているし、南に行けばそんなに雪も降らない。ここに執着する必要はないと思うんだけれど」
「それは私にもわからん」と老人は言った。「しかし獣たちはここの街を離れることはできないんだ。彼らはこの街に付属し、捕われているんだ。ちょうど私や君と同じようにな。彼らはみんな彼らなりの本能によって、この街から|脱《ぬ》け出すことができないということをちゃんと知ってるんだ。あるいは彼らはこの街にはえている木や草しか食べられんのかもしれん。あるいは南に向う途中に広がっている石灰岩の荒野を越えることができないのかもしれん。しかしいずれにせよ、獣たちはここを離れることはできないんだ」
「死体はどうなるのですか?」
「焼くんだよ。門番がね」と老人はかさかさした大きな手をコーヒー・カップで暖めながらそう答えた。「これからしばらくは、それが門番の仕事の中心になる。まず死んだ獣の頭を切りとり、脳や目をとりだしてから大きな|鍋《なべ》で煮て綺麗な頭骨を作る。残りの死体は積みかさねてなたね油をかけ、火をつけて焼いてしまうんだ」
「そしてその頭骨は古い夢を入れられて、図書館の書庫に並べられていくわけですね?」と僕はじっと目を閉じたまま老人に訊ねた。「何故ですか? 何故頭骨なんですか?」
老人は何も答えなかった。彼が床を歩く木の|軋《きし》みだけが聞こえた。軋みはベッドからゆっくりと遠ざかり、窓の前で|停《と》まった。そして沈黙はそれからもまたひとしきりつづいた。
「それは君が古い夢とは何かということを理解したときにわかる」と老人は言った。「何故古い夢が頭骨の中に入っているかということがね。私には君にそれを教えることはできん。君は夢読みだ。その答は君自身がみつけねばならんのだ」
僕はタオルで涙を|拭《ふ》いてから目を開けた。|窓《まど》|際《ぎわ》に老人の姿がぼんやりとかすんで見えた。
「冬は様々な事物の姿を明確にしていく」と老人はつづけた。「好むと好まざるとにかかわらず、そうなっていくんだ。雪は降りつづけるし、獣たちは死につづける。|誰《だれ》にもそれを停めることはできん。午後になれば獣たちを焼く灰色の煙が立ちのぼるのが見えるよ。冬のあいだはそれが毎日のようにつづくんだ。白い雪と灰色の煙がね」