「たとえばどんな?」
彼女は何かを言おうとして一瞬息を吸いこんだが、すぐにあきらめて首を振った。
「今はちょっと説明している暇はないわ。とにかく思いきり前に走って。それしか助かる道はないのよ。おなかの傷は少し痛むかもしれないけど、死ぬよりはましでしょ?」
「たぶんね」と私は言った。
我々はロープでお互いの体をつなぎあわせたまま、全速力で|溝《みぞ》の中を前方にむけて走った。彼女が手にしたライトが彼女の歩調にあわせて大きく上下に揺れ、溝の両側に切りたったまっすぐな高い壁に折れ線グラフのようなぎざぎざの模様を描いた。私の背中ではナップザックの中身ががらがらと音を立てて揺れていた。|缶《かん》|詰《づめ》や水筒やウィスキーの|瓶《びん》や、そんないろいろなものだ。できることなら必要なものだけ残してあとはぜんぶ|放《ほう》りだしてしまいたかったが、立ち止まる余裕はとてもなかった。私は腹の傷の痛みについて思いを巡らす暇すらなく、彼女のあとについてひたすら走りつづけた。ロープで体をつなぎあわせている以上、私の方だけ適当にスピードを緩めるというわけにはいかないのだ。彼女の吐く息の音と私のナップザックの揺れる音が細長く切りこまれた|闇《やみ》の中に規則ただしく響きわたり、やがてそれにかぶさるように地鳴りの音が高まってきた。
我々が前に進むにつれて、その音はより大きく、より明確になってきた。我々が音源に向って一直線に突き進んでいることと、音量自体が少しずつ巨大化していることがその原因だった。はじめのうち地の底の地鳴りのように思えたその音は、やがては巨大な|喉《のど》から|洩《も》れる激しいあえぎのようなものに変った。肺からしぼりだされた大量の息が喉の奥で声にならない声にかわるときのあの音だ。そしてそれを追いかけるように固い岩盤が|軋《きし》むような音が続き、地面が不規則に震えはじめた。何かはわからないが、我々の足もとで不吉なことが進行しつつあり、それは今にも我々を|呑《の》みこもうとしているのだ。
その音源に向って走りつづけるのは身のすくむ思いだったが、娘がそちらの方向を選んだ以上、私には|選《え》りごのみすることはできなかった。とにかく行けるところまで行ってしまうしかないのだ。
幸いなことに道には曲り角もなければ障害物もなく、路面はボウリング・レーンのように平らだったので、我々は余計なことに気を使わずに走りつづけることができた。
あえぎは徐々に間隔を狭めていった。それは激しく地底の闇を揺さぶりながら、ある宿命的なポイントに向って突き進んでいるようだった。ときおり巨大な岩と岩が圧倒的な力で押しつけられてこすりあわされるような音も聞こえた。闇の中に押しこめられていたありとあらゆる力が身もだえしながらそのくびきをはずそうと苦闘しているかのようだった。
音はひとしきりつづいたあとで突然とまった。一瞬の間があり、そのあとに何千人もの老人があつまってみんなで歯のすきまから息を吸いこんでいるような奇妙なざわめきがあたりに|充《み》ちた。その|他《ほか》には何の音も聞こえない。地鳴りも、あえぎも、岩のこすれあう音も、岩盤の軋みも、すべてがやんでいた。ひゅうひゅうひゅう[#「ひゅうひゅうひゅう」に丸傍点]というその耳ざわりな空気音だけが暗黒の闇の中に鳴り響いていた。それはまるで獲物がもっとそばに近づくのを力をたくわえながらじっと待ち受けている獣のひそやかな歓喜の吐息のようにも聞こえたし、無数の地底の虫が何かの予感に駆られてその不気味な体を|手《て》|風《ふう》|琴《きん》のように伸縮させているみたいにも聞こえた。いずれにせよ、それは私がこれまでに耳にしたこともないほどの激しい悪意に充ちたおぞましい音だった。
私がその音についていちばんおぞましく思ったことは、それが我々二人を拒否するというよりは手招きしているように感じられたことだった。彼らは我々が近づいていることを知っていて、その喜びに邪悪な心を震わせているのだ。そう思うと、私は走りながら背筋が凍りついてしまうような恐怖を感じた。たしかにそれは地震なんかではなかった。彼女が言うように、地震よりもっとずっとおそろしいものなのだ。しかしそれが何であるのか私には見当もつかなかった。状況はずっと以前から私の想像力の領域を超え、いわば意識の辺境へと至っていた。私にはもう何も想像することはできなかった。ただ能力の極限にまで肉体を行使し、想像力と状況のあいだに横たわる深い底なしの溝をひとつひとつ跳び越えていくしかなかった。何もしないよりは何かをしつづける方がずっとましなのだ。
ずいぶん長いあいだ我々は走りつづけたような気がするが、正確なところはわからない。それは三、四分程度のものだったような気もするし、三十分か四十分だったかもしれない。恐怖とそれのもたらす混乱が私の肉体の中の正常な時間の感覚を|麻《ま》|痺《ひ》させていた。どれだけ走っても、私は疲労感を覚えなかったし、腹の傷の痛みは既に意識の|隅《すみ》にものぼらないようになっていた。両手の|肘《ひじ》が妙にこわばりついているような気がしたが、私が走りながら感じることのできた肉体的な感覚はそれだけだった。走りつづけているという意識さえ私の中にはほとんどと言っていいほど存在しなかった。脚はごく自然に前に踏み出され、それが地面を|蹴《け》った。私はまるで濃密な空気のかたまりに背後から押しだされるように前方へ前方へと走りつづけた。
そのときの私にはわからなかったのだけれど、私の両肘のこわばりは耳から派生していたものなのだと思う。私はそのおぞましい空気音に意識を傾けまいとしてごく自然に耳の筋肉を緊張させ、それがこわばりとなって肩から肘へとつづいていたのだ。そのことに気がついたのは私の体が彼女の肩に激突し、彼女を地面に押し倒し、その上を乗り越えるようにして前方に転がったときだった。彼女が大声で叫んだ警告を私の耳は聴きとることができなかったのだ。たしかに何かが聴こえたような気はしたのだが、私は耳の聴きとる物理的な音声とそこから何かしらの意味をよみとって認識する能力とのあいだをつなぐ回路にふたをしていたので、彼女の警告を警告として認識することができなかったのだ。
私が硬い地面に頭からぶつかるように放り出された一瞬に考えついたのはまずそのことだった。私は無意識のうちに聴力を調節していたのだ。これはなんだかまるで「音抜き」みたいじゃないか、と私は思った。極限状態に追いこまれると、人間の意識というものは様々な奇妙な能力を発揮するものらしかった。あるいは私は少しずつ進化に近づいているのかもしれない。
次に——というより正確に表現するならそれにオーバーラップするようにということになるが——私が感じたのは圧倒的とでもいうべき側頭部の痛みだった。私の目の前で暗闇がはじけるように飛び散り、時間が歩みをとめ、その時空の|歪《ゆが》みに私の体がねじこまれてしまったような気がした。それほどの激しい痛みだった。頭の骨が割れるか欠けるかへこむかしてしまったに違いないと私は思った。あるいは私の|脳《のう》|味《み》|噌《そ》がどこかに吹きとんでしまったのだ。それで私自身はもう既に死んでいるのに、私の意識だけが寸断された記憶に従ってとかげの|尻《しっ》|尾《ぽ》みたいに苦痛に|悶《もだ》えているのだ。
しかしその一瞬が過ぎてしまうと、私は自分が生きていることをきちんと認識することができた。私は生きて呼吸をつづけ、その結果として頭部にすさまじい痛みを感じることができるのだ。私の目からは涙がこぼれていて、|頬《ほお》を|濡《ぬ》らすのが感じられた。涙は頬をつたって硬い岩盤の上に落ち、|唇《くちびる》の端にも流れてきた。これほどひどく頭を打ったのは生まれてはじめてのことだった。
私はよほどそのまま気を失ってしまおうかと思ったが、何かが私をその苦痛と暗黒の世界につなぎとめた。それは私が何かをやりかけている途中だったというぼんやりとした記憶の切れはしだった。そう——私は何かをやりかけていたのだ。私は走っていて、その途中でつまずいて転倒したのだ。私は何かから逃げようとしていたのだ。私はここで眠りこんでしまうわけにはいかないのだ。記憶はみじめなくらい|漠《ばく》|然《ぜん》としたぼろぼろの切れはしだったが、私は全身の力をこめてその切れはしに両手でしがみついた。
私は本当にそれにしがみついていたのだ。しかしやがて意識が回復するにつれて、しがみついているものが単なる記憶の切れはしではないことに私は気づいた。私はナイロンのロープにしっかりとしがみついていたのだ。一瞬自分が風に吹かれる重い|洗《せん》|濯《たく》ものになったような気がした。風や重力やその他のあらゆる力が私を地面に|叩《たた》き落とそうとしているのに抗して、自らの洗濯ものとしての使命を果すべく努力しているのだ、と私は思った。どうしてそんなことを思いついたのか、自分でもよくわからなかった。たぶん自分の置かれた状況を様様な便宜的な形に置きかえる癖が身についてしまったからだろう。
その次に私が感じたのは、私の下半身が私の上半身とはかなり違った状況に置かれているという事実だった。正確に言うと、私の下半身にはほとんど何の感触もないのだ。私は自分の上半身の感触をそれなりにきちんと統御することができるようになっていた。私の頭は痛み、私の頬と唇は冷たく硬い岩盤に押しつけられ、私の両手はしっかりとロープをつかみ、私の胃は喉のあたりまで上昇し、私の胸は何かのでっぱりのようなものにひっかかっていた。そこまではわかるのだが、それから下の体がいったいどうなっているのか、私にはまるで見当もつかなかった。
私の下半身はもうなくなっているのかもしれない、と私は思った。地面に投げ出されたショックでちょうど傷口のあたりから私の体はふたつにちぎれ、下半身がどこかに吹きとんでしまったのだ。私の脚——と私は思った——私の|爪《つま》|先《さき》、私の腹、私のペニス、私の|睾《こう》|丸《がん》、私の……、しかしどう考えてみてもそれは不自然だった。下半身を全部|失《な》くしていたとしたら、私の感じる痛みはこの程度で済むわけがないのだ。
私はもっと冷静に状況を認識するべく試みることにした。私の下半身はちゃんと存在するのだ。それはただ何かを感じることのできない状況下にあるだけなのだ。私はしっかりと目を閉じて波のようにあとからあとから押し寄せてくる頭の痛みをやりすごし、神経を下半身に集中した。存在しないかのように感じられる下半身に神経を集中しようとする努力は、なんだか|勃《ぼっ》|起《き》しないペニスを勃起させようとする努力に似ているような気がした。それは何もない空間に力を押しこめているようなものなのだ。
私はそうしながら図書館で働いている髪の長い胃拡張の女の子のことを考えていた。やれやれ、なんだって私は彼女とベッドに入ったときにうまく勃起することができなかったのだろう、と私はまた思った。あのあたりからすべての調子が狂いはじめたのだ。しかしいつまでもそんなことを考えているわけにもいかなかった。ペニスを有効に勃起させることだけが人生の目的ではないのだ。それはずっと昔にスタンダールの『パルムの僧院』を読んだときに私が感じたことでもあった。私は勃起のことを頭の中から追い払った。
私の下半身は何かしら中途|半《はん》|端《ぱ》な状況に置かれているのだ、と私は認識した。たとえば宙ぶらりになっているような……そう、私の下半身は岩盤の向う側の空間にぶらさがり、私の上半身がそれが落下するのをかろうじて阻止しているのだ。そして私の両手はそのためにしっかりとロープを握りしめているのだ。
目を開けるとまぶしいライトの光が私に向けられているのがわかった。太った娘がライトで私の顔を照らしているのだ。
私はロープをつかんだ手に思いきり力をこめて、下半身を岩盤の上にのせようと努力した。
「早く」と娘がどなった。「早くしないと二人とも死んじゃうわよ」
私は足をなんとか岩盤の上にかけようと試みたが、それは思ったようにうまくいかなかった。足をのせようにも、ひっかかりというものがないのだ。しかたなく私は手に持っていたロープを思いきって離し、両肘をしっかりと地面につけ懸垂の要領で体全体を上方にひきあげることにした。体はいやに重く、地面は血で濡れたみたいに妙にぬるぬるとしていた。どうしてぬるぬるとしているのかわからなかったが、そんなことを気にするほどの余裕もなかった。腹の傷が岩のかどで擦れて、まるでもう一度あらためてナイフで裂きなおされているような痛みを感じた。|誰《だれ》かが|靴《くつ》の底で私の体を思いきり踏みつけているみたいだった。私の体と私の意識と私の存在を、粉々になるまで踏みつぶそうとしているのだ。
それでもなんとか私は自分の体を一センチずつ上に引きあげることに成功しているようだった。ベルトが岩盤の端を|捉《とら》え、それと同時にベルトに結ばれたナイロンのロープが私の体を前方にひっぱろうとしているのが|判《わか》った。しかしそれは現実的には私の作業を助けているというよりは、腹の傷を刺激して私の意識の集中を妨げていた。
「ロープをひっぱるな!」と私は光のやってくる方に向ってどなった。「なんとか自分でやるから、もうロープはひっぱらないでくれ」
「大丈夫?」
「大丈夫さ。なんとかなる」
私はベルトのバックルで岩盤の端を捉えたまま全身の力をふりしぼって片足を上に持ちあげ、そのわけのわからない暗黒の穴から脱出することに成功した。私が無事に穴から|脱《ぬ》け出したことを確かめてから、彼女は私のそばにやってきて、私の体の各部がちゃんとついているかどうか確認するように私の体に手をまわした。
「ひっぱりあげてあげられなくてごめんなさい」と彼女は言った。「二人とも下に落っこちてしまわないように、そこの岩にしがみついているのが精いっぱいだったものだから」
「それはいいけど、どうしてこんな穴があることを前もって教えといてくれなかったんだ?」
「教える暇がなかったのよ。だから|停《と》まってって大きな声でどなったでしょ」
「聞こえなかった」と私は言った。
「とにかく一刻も早くここを抜けなきゃ」と娘は言った。「ここには沢山穴があるから、注意してここを通り抜けるの。そうすれば目的地はもうすぐだから。でも早くしないと血を吸いとられてそのまま眠りこんで死んでしまうわよ」
「血?」
彼女はさっき私が|危《あやう》く落下しそうになった穴にライトをあてた。穴はまるでコンパスを使って描いたような|綺《き》|麗《れい》な円形で、直径は約一メートルというところだった。彼女がライトをまわすと、それと同じような大きさの穴が地面に見渡す限り並んでいることがわかった。その格好は巨大な|蜂《はち》の巣を思わせた。
道の両側にずっとつづいていた切り立った岩の壁はすっぱりと消滅し、前方にはその無数の穴の開いた平面が広がっていた。穴と穴のあいだを縫うように、地面がつづいていた。いちばん広いところで幅一メートル、狭いところでは三十センチほどのあぶなっかしい通路だったが、注意さえすればなんとか渡っていくことはできそうに見えた。
問題はその地面が揺れて見えることだった。それは奇妙な|眺《なが》めだった。しっかりとしているはずの硬い岩盤が、まるで流砂のようにくねくねと身をよじらせているみたいに見えるのだ。最初私は自分が頭を強く打ったせいで目の神経がおかしくなってしまったのだと思った。それで懐中電灯の光で自分の手を照らしてみたのだが、手は揺れもせず、よじれてもいなかった。それはいつもどおりの私の手だった。とすれば私の神経が損なわれているというわけではないのだ。本当に地面が動いているのだ。
「|蛭《ひる》よ」と彼女は言った。「穴から蛭の大群が|這《は》いあがってきたのよ。ぐずぐずしていると血をぜんぶ吸いとられて抜けがらみたいになっちゃうわよ」
「やれやれ」と私は言った。「これが君の言っていた大変なこと[#「大変なこと」に丸傍点]なのかい?」
「違うわ。蛭はただの先ぶれにすぎないのよ。本当に|凄《すご》いことはこのあとにやってくるの。急いで」
我々は体をロープで結びあわせたまま、蛭だらけの岩盤の上に足を踏みだした。テニス・シューズのゴム底が無数の蛭を踏みつけるぬるぬるとした感触が脚から背中へと這いあがってきた。
「足を踏みはずさないでね。この穴に落ちたら最後よ。この中には蛭の大群がそれこそ海みたいにたまっているから」と彼女は言った。
彼女は私の肘をしっかりとつかみ、私は彼女のジャケットの|裾《すそ》を手に握りしめていた。幅三十センチほどしかないぬるぬるとして滑りやすい岩盤の上を暗闇の中で|辿《たど》っていくのは実に至難の業だった。踏みつぶした蛭のどろどろとした体液が靴の裏にゼリーのようにぶ厚くこびりついて、そのせいで足場をしっかりと固めることができないのだ。さっき転倒したときに服についたらしい蛭が首筋や耳のまわりにはりついて血を吸うのがはっきりと感じられたが、私にはそれを振り払うこともできなかった。私は左手で懐中電灯を握りしめ、右手で彼女の服の裾をつかんでいたし、どちらの手をも離すわけにはいかないのだ。懐中電灯で足場をたしかめながら歩いていると、いやでも蛭の群をじっと眺めることになった。そこには気が遠くなりそうなほどの数の蛭がいた。そしてそんな蛭の群があとからあとから、暗黒の穴を這いあがってくるのだ。
「きっとやみくろたちはその昔いけにえをこの穴にほうりこんだんだろうね」と私は娘にたずねてみた。
「そのとおりよ。よくわかるわね」と彼女は言った。
「その程度の見当はつくさ」と私は言った。
「蛭はあの魚の使者だと思われていたのよ。要するに手下のようなものね。だから彼らは魚にいけにえを|捧《ささ》げるように、蛭にもいけにえを捧げていたの。血や肉のたっぷりとついた新鮮ないけにえをね。だいたいはどこかで捕えられてつれてこられた地上の人間がいけにえにされたんだけど」
「今ではその風習はなくなったんだろうね?」
「ええ、たぶんね。彼らは人間の肉は自分で食べて、いけにえのしるしとして頭だけを切りとって蛭と魚に捧げるようになったんだと祖父は言っていたわ。少くともこの場所が聖域になってからは、誰もここには入ってこなくなったの」
我々はいくつもの穴を越え、おそらく何万という数のぬるぬるとした蛭を靴で踏みつぶした。私も彼女も何度か足を踏みはずしそうになったが、そのたびに我々はお互いの体を支えてなんとか難をしのぐことができた。
ひゅうひゅうというあのいやな空気音は暗い穴の底の方から|湧《わ》きあがってくるようだった。それは夜の樹木のように穴の底から触手をのばし、我々のまわりを完全にとりかこんでいた。耳をじっと澄ませると、それはひょおうひょおう[#「ひょおうひょおう」に丸傍点]という音に聞こえた。まるで首を切りとられた人々の群がぽっかりと開いた|喉《のど》|笛《ぶえ》を鳴らしながら何かを訴えかけているようだ。
「水が近づいているのよ」と彼女は言った。「蛭はその先ぶれにすぎないの。蛭がどこかに姿を消してしまったら、その次には水がやってくるわ。この穴のぜんぶから今に水が吹きだしてきて、このあたり一帯は沼になってしまうの。蛭はそれを知っているから穴から抜け出そうとしているわけ。水の来る前になんとか祭壇にたどりつくのよ」
「君はそのことを知っていたんだろう?」と私は言った。「どうして前もってそれを教えておいてくれなかったんだ?」
「実をいうと私にもはっきりとはわからなかったの。水は毎日出るってわけじゃなくて、一カ月に二回か三回っていうところなの。まさかよりによって今日がその日だったなんてね」
「悪いことはかさなるものなんだよ」と私は朝からずっと考えていたことを口に出した。
穴の縁から穴の縁へと、細心の注意を払いながら我々は前進をつづけた。しかし歩いても歩いても、その穴は終らなかった。地の果てまでそれは延々とつづいているのかもしれない。靴の裏にはもうほとんど足で地面を踏む感触がなくなるくらいにたっぷりと蛭の|死《し》|骸《がい》がこびりついていた。一歩一歩に神経を集中していると頭の|芯《しん》がぼんやりとして、体のバランスをとるのがだんだんむずかしくなってくる。肉体の能力は極限状態にあっては往々にして伸長されるものだが、精神の集中力というものは本人が考えているよりはずっと限定されたものなのだ。それがどのような危機的な状況であろうと、同じ質の状況が延々とつづけば、それに対する集中力は必然的に低下しはじめる。時間が経過するにつれて危機に対する具体的な認識や死に対する想像力も鈍り、意識の中の空白が目立つようになってくる。
「もう少しよ」と娘が私に声をかけた。「もう少しで安全な場所に逃げこめるわ」
私は声を出すのが|億《おっ》|劫《くう》だったので、何も言わずに|肯《うなず》いた。そして肯いてから、|暗《くら》|闇《やみ》の中で肯いても何の意味もないことに気づいた。
「ちゃんと聞こえてる? 大丈夫?」
「大丈夫。吐き気がするだけなんだ」と私は答えた。
吐き気はずいぶん前からつづいていた。地面にうごめく蛭の群や、彼らの放つ異臭や、ぬるぬるとした体液や、不気味な空気音や、暗闇や、体の疲れや眠りへの欲望や、そんなものが|渾《こん》|然《ぜん》一体となって、私の胃を鉄の輪のように締めつけていた。むかむかとした|臭《にお》いのする胃液が舌のつけねのあたりまであがってきていた。私の神経の集中力はどうやらその限界に近づきつつあるようだった。三オクターブぶんしかキイがなくて、五年も調律をしていないピアノを弾いているような気分だった。|俺《おれ》はいったいもう何時間この暗闇を歩きまわっているんだろう、と私は思った。外の世界は今何時なのだろう? 空はもう白んでいるのだろうか? 朝刊は配りはじめられているのだろうか?
私には時計に目をやることすらできなかった。懐中電灯で地面を照らしながら両足を片方ずつ前に送っていくだけで精いっぱいだった。私は少しずつ白んでいく夜明けの空が見たかった。そしてあたたかいミルクを飲み、朝の樹木の|匂《にお》いをかぎ、朝刊のページをめくるのだ。暗闇や蛭や穴ややみくろはもううんざりだった。私の体の中のすべての臓器と筋肉と細胞は光を求めていた。どんなにささやかな光でもいい。どんなみじめな切れはしでもいいから懐中電灯の光なんかじゃないまともな光が見たかった。
光のことを考えると私の胃は何かに握りしめられたように縮みあがり、口の中が|嫌《いや》な臭いのする息で|充《み》ちた。まるで腐ったサラミ・ピツァのような臭いだ。
「ここを抜ければ好きなだけ吐かせてあげるから、もう少し我慢して」と娘が言った。そして私の肘を強く握りしめた。
「吐かないよ」と私は口の中でうめいた。
「信じなさい」と彼女は言った。「これはみんな過ぎていくことなのよ。悪いことはかさなるものかもしれないけれど、いつかは終ることなのよ。永遠につづくことじゃないわ」
「信じるよ」と私は答えた。
しかしその穴は永遠につづくように私には思えた。まるで同じところをぐるぐるとまわっているような気さえする。私はもう一度刷りたての朝刊のことを考えた。指にインクのあとがついてしまいそうなほど新しい朝刊だ。中に折り込みの広告が入っていて、とてもぶ厚い。朝刊には何もかもが載っている。地上の生命の営みについての何もかもだ。首相の起床時間から株式市況から一家心中から夜食の作り方、スカートの丈の長さ、レコード評、不動産広告に至るまでの何もかもである。
問題は私が新聞をとっていないことだった。私は三年ほど前に新聞を読む習慣をやめてしまったのだ。どうして新聞を読まなくなってしまったのか自分でもよくわからないが、とにかくやめてしまったのだ。たぶん私の生活が新聞記事やTVの番組とは無縁の領域で進行していたせいだろう。私は与えられた数字を頭の中でこねくりまわして別の姿に転換させるという部分だけで世間とかかわり、あとの時間は一人で古くさい小説を読んだり、昔のハリウッド映画をヴィデオで|観《み》たり、ビールやウィスキーを飲んだりして過してきた。だから新聞や雑誌に目をとおす必要というものがなかったのだ。
しかしこの光を失ったわけのわからない暗闇の中で、無数の穴と無数の蛭に囲まれて、私はひどく朝刊が読みたかった。日のあたる場所に腰を下ろして、新聞を|隅《すみ》から隅まで|猫《ねこ》がミルクの|皿《さら》を|舐《な》めるみたいに一字残らず読みつくすのだ。そして太陽の下で世界の人々が営みつづける生の様々な断片を体の中に吸い込み、細胞のひとつひとつをうるおわせてやるのだ。
「祭壇が見えてきたわ」と彼女が言った。
私は目を上げようとしたが、足が滑ってうまく顔を上にあげることができなかった。祭壇がどんな色をしてどんな形をしていようが、とにかくそこに|辿《たど》りつかないことには話にならないのだ。私は最後に残った集中力を結集して注意深く歩を進めた。
「あと十メートルかそこらよ」と娘が言った。
ちょうどその彼女のことばにあわせるように穴の底から吹き上ってくるひょおうひょおう[#「ひょおうひょおう」に丸傍点]という空気音が消えた。それはまるで地面の底にいる誰かがよく切れる巨大ななた[#「なた」に丸傍点]をふるってその音源を一刀のもとに断ち切ったような、不自然で唐突な終り方だった。何の前ぶれもなく、何の余韻もなく、長いあいだ地を圧するかのごとく地の底から吹きあげていた耳ざわりな空気音は一瞬のうちにかき消えてしまったのだ。それは音が消えるというよりは、その音を含んでいた空間自体がすっぽりと消滅してしまったような感じだった。その消え方があまり唐突だったせいで、私は一瞬体のバランスを崩し、危く足をすべらせてしまうところだった。
耳が痛くなってしまいそうなほどの静寂があたりを|覆《おお》った。暗黒の中に突然出現した静寂はどのような不快で不気味な音にもまして不吉だった。音に対しては、それがどのような音であれ、我々は相対的な立場を保つことができる。しかし沈黙はゼロであり、無である。それは我々をとりかこみながら、しかもそれは存在しないのだ。私の耳の中に空気の圧力が変化するときのような|漠《ばく》|然《ぜん》とした圧迫感が生じた。私の耳の筋肉が突然の状況の変化にうまく対応できず、その能力のパワーを上げて、沈黙の中に何かしらの信号を読みとろうとしているのだ。
しかしその沈黙は完全だった。音は一度途切れたきり、二度とは浮かびあがってこなかった。私も彼女もそのままの姿勢で静止し、沈黙の中に耳を澄ませた。私は耳の圧迫感をとるために口の中の|唾《つば》を|呑《の》みこんでみたが、あまり効果はなく、プレイヤーの針をターンテーブルのかどにぶっつけたときのような不自然に誇張された音が耳の中に響きわたっただけだった。
「水は引いてしまったのかな?」と私は|訊《き》いてみた。
「これから水が吹き出すのよ」と娘は言った。「さっきの空気音は曲りくねった水路にたまった空気が水圧で押し出される音よ。それがぜんぶ押しだされちゃったから、あとは水を妨げるものは何もないわ」
娘は私の手をとって、最後のいくつかの穴を越えた。気のせいか岩盤の上を移動する蛭の数は以前よりいくぶん少なくなっているような気がした。五つか六つの穴を越えたところで我々は再びがらんとした平地の上に出た。そこにはもう穴もなく、蛭の姿もなかった。蛭たちは我々とは逆の方向に避難したらしかった。私はなんとか最悪の部分をのりきることができたのだ。たとえここで出水に襲われて死んでしまうにせよ、蛭の穴に落ちて死ぬよりはずっとましだ。
私は|殆《ほと》んど無意識のうちに手をのばして首筋にはりついた蛭をはがそうとしたが、娘が私の腕をつかんでそれを止めた。
「それはあと。先に塔に上らなきゃ|溺《おぼ》れ死ぬわよ」と彼女は言って、私の腕をとったまま急ぎ足で先に進んだ。「五匹や六匹の蛭くらいで死にはしないし、それに蛭を無理にもぎとったら皮膚まではがれちゃうわ。知らないの?」
「知らなかった」と私は言った。私は水路標識灯の底についたおもり[#「おもり」に丸傍点]のように暗く愚かなのだ。
二十歩か三十歩進んだところで彼女は私を押しとどめ、手にした大型ライトで我々の眼前にそびえたった巨大な〈塔〉を照らしだした。〈塔〉はのっぺりとした円筒形で、一直線に頭上の闇に向ってそびえたっていた。それはちょうど灯台と同じように基部から上部に向けて少しずつ細くなっているように見えたが、実際にどの程度の高さのものなのかは私にはわからなかった。隅から隅までライトをあてて全体の構造を|把《は》|握《あく》するにはそれはあまりにも大きすぎたし、我々には確かめるに十分な時間の余裕はなかった。彼女は〈塔〉の表面にざっと光をすべらせただけで、あとは何も言わずにそこまで走りより、〈塔〉のわきについた階段のようなものをつたって上にのぼりはじめた。もちろん私もあわててそのあとを追った。
その〈塔〉は少し離れたところから不十分な光で見るぶんには、人々が長い年月と驚嘆すべき技巧をかけて築きあげた|精《せい》|緻《ち》かつ壮麗なモニュメントのように思えるのだが、実際にそばに寄って手を触れてみると、ごつごつとしていびつなただの岩塊にすぎないことがわかった。自然の|浸蝕《しんしょく》作用が作りあげたただの偶然の所産にすぎないのだ。
やみくろたちがその岩塊のまわりにねじ山のようにらせん状に刻みこんだ階段も、階段と呼ぶにはいささかやくざすぎる|代《しろ》|物《もの》だった。|不《ふ》|揃《ぞろ》いで不規則で、やっと片足を置けるほどの幅しかなく、ときどき一段ぶんなくなっていたりもした。欠けているぶんは手近な岩のでっぱりに足をかけて代用するわけだが、我々は転落しないように両手で岩をつかんで体を支えていなければならなかったから、懐中電灯の光をあてていちいち階段の次のステップを確認することもできず、踏み出した足が何も足場を|捉《とら》えずにそのまま下につき抜けてしまいそうになることもしばしばであった。暗闇でも目の|利《き》くやみくろたちはともかく、我々にとってはおそろしく|厄《やっ》|介《かい》で不便な代物である。岩壁にぴったりとはりつきながら、一歩また一歩と我々はとかげのように注意深く歩をすすめなくてはならなかった。
三十六段のぼったところで——私には階段の段数を数える癖があるのだ——足もとの闇の中で奇妙な音が響きわたるのが聞こえた。まるで|誰《だれ》かが巨大なロースト・ビーフをのっぺりとした壁に思いきり投げつけたときの音のようだった。|扁《へん》|平《ぺい》で湿り気があって、しかも有無を言わせぬ決意のようなものがこめられた音。そしてそれから、ドラマーが振り下ろそうとしたスティックを宙でとめて一拍置くような|暫《ざん》|定《てい》|的《てき》とも言えそうなかんじの一瞬の沈黙があった。いやにしん[#「しん」に丸傍点]とした不気味な一瞬だった。私は何かがやってくるのを待って、両手でしっかりと手もとの岩のでっぱりをつかんで、岩壁にしがみついた。
次にやってきたのは紛れもない水音だった。我々が通り抜けてきた無数の穴から上にむけて水が|一《いっ》|斉《せい》に吹きあげる音だった。それも生半可な量の水ではない。私は小学生の|頃《ころ》にニュース映画で見たダムの開通式の場面を思いだした。知事だかなんだかがヘルメット姿で機械のボタンを押すと水門が開き、水煙と|轟《ごう》|音《おん》とともに、|遥《はる》かなる|虚《こ》|空《くう》にむけて太い水の柱が吹きだすのだ。まだ映画館でニュース映画と漫画映画が上映されていた頃の話だ。私はそのニュース・フィルムを見ながら、もし自分が何かの理由でその圧倒的な量の水を吹きだすダムの下にいたとしたらどんなことになるものかと想像して子供心にぞっとしたものである。しかしそれから約四半世紀の歳月を経て、実際に自分がそういう立場に置かれることになるかもしれないなんてなかなか思いつくものではない。子供というものは自分が世間に起りうる大抵の種類の|災《さい》|厄《やく》からある種の神聖な力によって最終的には保護されていると考えがちなものなのだ。少くとも私の子供時代はそうだった。
「いったいどのあたりまで水は上ってくるんだろう?」と私は私の二歩か三歩上にいる娘に声をかけてみた。
「かなり[#「かなり」に丸傍点]よ」と彼女は手短かに答えた。「助かりたければ少しでも上に行くしかないわ。とにかくいちばん上までは水は来ないわ。私にわかっているのはそれだけ」
「いちばん上までは何段くらいあるんだろうね?」
「ずいぶん[#「ずいぶん」に丸傍点]よ」と彼女は答えた。立派な答だ。想像力に訴えてくる何かがある。
我々は可能なかぎりのスピードで〈塔〉のねじ山を上りつづけた。水の音からすると、我我のしがみついているその〈塔〉はがらんとした平面のまん中に直立していて、そのまわりをぐるりと蛭穴がとりまいているようだった。とすると、我々はちょうど巨大な噴水の中央に建てられた装飾的な棒のようなものを上へ上へとのぼりつめていることになる。そして彼女の説が正しければ、その広場のようながらんとした空間は沼のように水びたしになり、その水面のまん中に〈塔〉の上半分だか先端だかが島としてとり残されることになるのだ。
ストラップで肩からかけた彼女のライトが腰の上で不規則に揺れ、その光線が闇の中に|出《で》|鱈《たら》|目《め》な図形を描きだしていた。私はその光を目標に階段を上りつづけた。ステップの数は途中でわからなくなってしまったが、とにかく百五十か二百は上ったはずだった。最初のうち足もとの岩盤を|叩《たた》きつける激しい音を立てて空中から落下していた水はやがて|滝《たき》|壺《つぼ》に落下する水流のような音に変り、そのころにはもうふたをかぶせられたようなごぼごぼというくぐもった音に変化していた。水位は確実に上昇しているのだ。足もとが見えないせいで、水面がどのあたりまで来ているのかはわからなかったが、今この瞬間にひやりとした水が私の足首を洗ったとしても何の不思議もないような気がした。
何から何までが悪い気分のときに見る悪い気分のする夢に似ていた。何かが私を追いかけているのだが、私の足はうまく前に進まず、その何かは私のすぐうしろにまで迫っていて、私の足首をぬるぬるとした手でつかもうとしているのだ。夢としても救いようのない夢なのに、それがまるっきりの現実となれば事情はもっとひどかった。私はステップを無視して両手でしっかりと岩をつかみ、それにぶらさがるような要領で体を前へと進めた。
いっそのこと水につかって水面を泳ぎながら上までのぼったらどうだろう、と私はふと思った。その方が楽だし、だいいち落下する心配もない。しばらく頭の中でその思いつきを検討してみたが、私の思いつく考えにしては質はそれほど悪くなさそうに思えた。
しかし私がその考えを伝えると、彼女は即座に「それは無理よ」と言った。「水面の下にはかなり強い水流が|渦《うず》|巻《ま》いているし、そんなのに巻きこまれたら泳ぐどころじゃないわよ。二度と浮かびあがってはこられないし、もしうまく浮かびあがれたとしても、こんなまっ|暗《くら》|闇《やみ》の中じゃどこにも泳ぎつけないわ」
要するにどれだけもどかしくとも一歩一歩のぼりつめていくしか手はないのだ。水音はモーターが少しずつ減速していくように刻一刻とその音程を低め、音の響きは鈍いうめきのようなものへと変化していった。水位は休むことなく上昇しつづけているのだ。まともな光さえあれば、と私は思った。どんなささやかな光でもいい。まともな光さえあればこんな岩場は楽に上りきることもできるし、水がどのあたりまで来ているのか確かめることもできる。そしてとにかくいつ足首を|捉《とら》えられるかわからないという悪夢の中の恐怖に支配されることもないのだ。私は心の底から暗闇というものを憎んだ。私を追いつめ駆りたてているのは水ではないのだ。それは水面と私の足首とのあいだに横たわる暗闇なのだ。その暗闇が私の体の中に冷ややかで底しれぬ恐怖を吹きこんでいるのだ。
私の頭の中ではまだニュース・フィルムがまわりつづけていた。スクリーンの上の巨大なアーチ状のダムはその眼下のすり|鉢状《ばちじょう》の底に向けていつまでも放水をつづけていた。ムービー・カメラは様々な角度から|執《しつ》|拗《よう》にその光景を捉えていた。上方から正面から、そして真横から、レンズは舐めつくすようにそのほとばしる水流に|絡《から》みついていた。ダムのコンクリートの壁に水流の影がうつっているのが見えた。水の影はまるで水そのものであるかのようにその姿をのっぺりとした白いコンクリートの上に踊らせていた。その影をじっと見ていると、やがてそれは私自身の影に変っていった。私自身の影がその湾曲したダムの壁の上で踊っているのだ。私は映画館の|椅《い》|子《す》に腰かけ、そんな私自身の影をじっと|眺《なが》めていた。それが私自身の影であることはすぐにわかったが、映画館の一観客である私にはそれに対してどのように行動すればいいのかがわからなかった。私はまだ九歳か十歳の無力な少年だった。あるいは私はスクリーンにかけよって私の影をとり|戻《もど》すべきだったのかもしれなかったし、あるいは映写室にとびこんでそのフィルムを奪いとるべきだったのかもしれない。しかしそうすることが正当なことなのかどうか、私には判断できなかった。それで私は何もせずに、じっとそのまま私自身の影を眺めつづけていた。
私の影はいつまでも私の眼前で踊りつづけていた。それはまるで|陽炎《かげろう》に揺れる遠くの風景のように静かに不規則に身をくねらせていた。影は口をきくこともできず、手まねで何かを伝えることもできないようだった。しかしその影はたしかに私に何かを伝えようとしていた。影は私がそこに座って彼の姿を見ていることをちゃんと知っているのだ。しかし彼もまた私と同じように無力だった。彼はただの影にすぎないのだ。
私以外の観客は誰もそのダムの壁にうつった水流の影が実は私の影であることに気づいてはいないようだった。私のとなりには兄が座っていたのだが、彼もそれが私の影であることには気づいていなかった。もし気づいていたとしたら、彼は絶対にそのことを私に耳打ちしていたはずだ。なにしろ映画を見ながらうるさいくらい耳打ちする兄だったのだから。
私の方も誰にもそれが私の影であることを教えたりはしなかった。彼らはおそらく私の言うことを信じないだろうという気がしたのだ。それに影は私にだけ[#「私にだけ」に丸傍点]その何かしらのメッセージを伝えたがっているように見えた。彼は違う場所と違う時間から、映画のスクリーンという媒体をとおして、私に向って何かを語りかけているのだ。
湾曲したコンクリートの壁の上で、私の影は孤独で、誰からも見捨てられていた。彼がどのようにしてそのダムの壁にまでたどりついたのか、そしてこれからどうするつもりなのか、私にはわからなかった。やがて闇がおとずれ、彼はその中にのみこまれてしまうのだろう。あるいは彼はその奔流に押し流されて海にたどりつき、そこでまた私の影としてのつとめを果すのかもしれない。そう思うと、私はひどく|哀《かな》しい気持になった。
じきにダムのニュースは終り、画面はどこかの国の王様の|戴《たい》|冠《かん》|式《しき》の光景にかわった。飾りものを頭のてっぺんにつけた何頭もの馬が美しい馬車を引いて石敷きの広場を横切っていた。私は地面の上に新たなる私自身の影を求めたが、そこには馬と馬車と建物の影しかうつってはいなかった。
私の記憶はそこで終っていた。しかし私にはそれが本当に私の身にかつて起ったことなのかどうか判断することはできなかった。なぜなら私は今ここでふと思いだすまで、一度としてそんな事実を過去の記憶として思い浮かべることがなかったからだ。あるいはそれは私がこの異様な暗闇の中で水音を聞きながら勝手に作りあげた心象風景なのかもしれなかった。私は昔、心理学の本の中でそのような|類《たぐ》いの心理作用について書かれた文章を読んだことがある。人間は極限状態に追い込まれたとき、往々にして荒々しいリアリティーから自己を防衛するために白日夢を頭の中に描き出すことがある——というのが、その心理学者の説だった。しかし作りあげられた心象風景というには、私のその目にしたイメージはあまりにも克明で生々しく、私の存在そのものにかかわってくるような強い力を持っていた。私はそのとき私をとりかこんでいた|匂《にお》いや音をはっきりと思い起すことができた。そして九歳か十歳の私が感じたとまどいや混乱やつかみどころのない恐怖感を身のうちに感じとることができた。誰が何と言おうと、それは本当に私の身に起ったことなのだ。それは何かの力によって意識の奥に封じこめられていたのだが、私自身が極限状態に追いこまれたことによってそのたが[#「たが」に丸傍点]が外れ、表面に浮上してきたのだ。
何かの力?
それはおそらく私のシャフリング能力をつけるための脳手術に起因しているに違いない。彼らが私の記憶を、意識の壁の中に押しこんでしまったのだ。彼らは長いあいだ私の記憶を私の手から奪い去っていたのだ。
そう考えると、私はだんだん腹が立ちはじめた。誰にも私の記憶を奪う権利なんてないのだ。それは私の、私自身の記憶なのだ。他人の記憶を奪うことは他人の年月を奪うのと同じことなのだ。腹が立つにつれて、私は恐怖なんてどうでもいいような気分になってきた。何はともあれとにかく生き延びるのだ、と私は決意した。私は生きのびてこの気違いじみた暗闇の世界を脱出し、私の奪われた記憶を洗いざらいとり戻すのだ。世界が終ろうがどうなろうが、そんなことはどうでもいい。私は完全な私自身として再生しなければならないのだ。
「ロープよ!」と突然娘が叫んだ。
「ロープ?」
「ねえ、早くここに来てみて。ロープがさがってるわ」
私は急いで三段か四段階段を上り、彼女のそばに行って、手のひらで壁面を|撫《な》でてみた。そこにはたしかにロープがあった。それほど太くはないが登山用の|頑丈《がんじょう》なロープで、その先端が私の胸のあたりにぶらさがっていた。私はそれを片手でつかんで、用心深く少しずつ力を入れてひっぱってみた。それは手ごたえからするとしっかりと何かに結びつけてあるようだった。
「きっと祖父よ」と娘が叫んだ。「祖父が私たちのためにロープをたらしてくれているのよ」
「念のためにもう一周上ってみよう」と私は言った。
我々は足場をたしかめるのももどかしく、〈塔〉のねじ山を一回転した。ロープはやはり同じ位置に垂れ下がっていた。ロープには三十センチおきに足をかけるための結びめがついていた。これが〈塔〉の先端まで本当につづいていたとしたら、我々はずいぶん時間を節約できることになる。
「祖父よ。間違いないわ。すごく細かいところに気のつく人なの」
「まったくね」と私は言った。「ロープはのぼれる?」
「もちろんよ」と彼女は言った。「ロープのぼりは子供の頃からすごく得意だったのよ。言わなかった?」
「じゃあ先にのぼって」と私は言った。「君が上りついたら下に向けてライトを点滅してくれ。そうしたら|僕《ぼく》が上りはじめる」
「そんなことしてたら水が来ちゃうわ。二人で一緒に上った方がいいんじゃない?」
「山のぼりでは一つのロープには一人の人間というのが原則なんだ。ロープの強度のこともあるし、一本のロープに二人がしがみつくとそれだけ上りにくくて時間もかかる。それにたとえ水がやってきても、ロープさえ握っていればなんとか上までたどりつけるだろう」
「あなたって見かけより勇敢な人なのね」と彼女は言った。
私は彼女がもう一度キスしてくれるかもしれないと思って暗闇の中でなんとなくじっと待っていたが、彼女は私にはかまわずにするするとロープを上りはじめた。私は両手で岩をつかんだまま、彼女のライトがふらふらと|出《で》|鱈《たら》|目《め》に揺れながら上にのぼっていくのを見上げていた。それはまるで|泥《でい》|酔《すい》した魂がよろめきながらとっかえつっかえ空に戻っていくような眺めだった。それをじっと見ていると私はウィスキーがひとくち飲みたくなったが、ウィスキーは背中のナップザックの中だったし、不安定な姿勢のまま身をひねってナップザックを外し、ウィスキーの|瓶《びん》をとりだすのはどう考えても不可能だった。それで私はあきらめて、自分がウィスキーを飲んでいるところを頭の中に想像してみることにした。清潔で静かなバーと、ナッツの入ったボウルと、低い音で流れるMJQの『ヴァンドーム』、そしてダブルのオン・ザ・ロックだ。カウンターの上にグラスを置いて、しばらく手をつけずにじっとそれを眺める。ウィスキーというのは最初はじっと眺めるべきものなのだ。そして眺めるのに飽きたら飲むのだ。|綺《き》|麗《れい》な女の子と同じだ。
そこまで考えたところで、私は自分がもうスーツもブレザーコートも持っていないことに気づいた。あの頭のおかしい二人組が私の所有していたまともな洋服をナイフでぜんぶ切り裂いてしまったのだ。やれやれ、と私は思った。私はいったい何を着てバーに行けばいいのだ。バーに行く前にまず洋服を作る必要がある。ダーク・ブルーのツイードのスーツにしよう、と私は決めた。品の良いブルーだ。ボタンが三つで、ナチュラル・ショルダーで、|脇《わき》のしぼりこまれていない昔ながらのスタイルのスーツ。一九六〇年代のはじめにジョージ・ペパードが着ていたようなやつだ。シャツはブルー。しっくりとした色あいの、少しさらしたようなかんじのブルー。|生《き》|地《じ》は厚めのオックスフォード綿で、|襟《えり》はできるだけありきたりのレギュラー・カラー。ネクタイは二色のストライプがいい。赤と緑。赤は沈んだ赤で、緑は青なのか緑なのかよくわからない、|嵐《あらし》の海のような緑だ。私はどこかの気の|利《き》いたメンズ・ショップでそれだけを|揃《そろ》え、それを着てどこかのバーに入り、スコッチのオン・ザ・ロックをダブルで注文するのだ。|蛭《ひる》もやみくろも|爪《つめ》のはえた魚も、地下の世界で好きなように暴れまわればいい。私は地上の世界でダーク・ブルーのツイードのスーツを着て、スコットランドからやってきたウィスキーを飲むのだ。
ふと気がつくと水音は消えていた。水はもう穴から吹きあげるのをやめたのかもしれない。あるいは水位が高くなりすぎて、水音が聞こえなくなっただけなのかもしれない。しかしそれは私にとってはどうでもいいことのように思えた。水が上ってきたいのなら上ってくればいい。何があろうと生きのびようと私は決意したのだ。そして私の記憶をとりかえすのだ。もう誰にも私をこづきまわすことはできないのだ。私は世界じゅうに向けてそうどなってみたかった。もう誰にも私をこづきまわすことはできないのだ、と。
しかしこんな地の底の暗闇の中で岩にしがみつきながらどなってみたところで何かの役に立つとは思えなかったので、私はどなるのをやめ、首をねじって上の方を見上げてみた。彼女は私が予測したよりはずっと上の方に進んでいた。何メートルほどの距離があるのかはわからないが、デパートの階数にすれば三階か四階ぶんはありそうだった。婦人服売り場か呉服売り場か、そのあたりだ。いったいこの岩山はぜんぶでどれくらいの高さがあるのだろう、と私はうんざりした気分で考えてみた。これまでに彼女と二人で上ってきたぶんだけでも相当な高さになっているはずなのに、この上にまだずっとつづきがあるとしたら、全体としてみれば相当に高い岩山であるに違いない。私は一度気紛れに高層ビルを26階ぶん歩いて上ったことがあるが、今回の岩のぼりもそれくらいののぼり[#「のぼり」に丸傍点]ではあるような気がした。
いずれにせよ暗くて下が見えないのはかえって幸いだった。いくら山のぼりに慣れているとはいえ、何の装備もなく普通のテニス・シューズをはいてこんな高いところに危っかしくはりついていたら、怖くて下を見られたものではない。高層ビルのまん中あたりで命綱もゴンドラもなくガラス|拭《ふ》きをしているのと同じことなのだ。何も考えずにやみくもに上へ上へと上りつづけているうちはいいが、一度立ちどまってしまうと高さのことがだんだん気になりはじめてきた。
私はもう一度首をひねって頭上を見上げてみた。彼女はまだ上りつづけているらしく、ライトが同じようにふらふらと揺れているのが見えたが、それはさっきよりはずっと上の方に遠ざかっていた。たしかに本人が言うように、彼女はロープのぼりが得意であるようだった。それにしてもずいぶんな高さだ。実に|馬《ば》|鹿《か》馬鹿しいほど高い。だいたいなんだってあの老人はこんな大仰な場所に逃げこんだりしたんだろう、と私は思った。もっとあっさりとした簡単な場所で我々が来るのをじっと待っていてくれたら、こんなひどい目にあわずにすんだのだ。
そんなことを考えながらぼんやりしていると、頭の上の方から誰かの声が聞こえたような気がした。見上げてみると黄色い小さな光が飛行機の尾灯のようにゆっくりと点滅しているのが見えた。どうやら彼女はやっと頂上にたどりつけたようだった。私は片手でロープをつかみ、もう片方の手でポケットの懐中電灯をひっぱり出し、上に向けて同じような合図を送った。それから私はついでに光を下に向けて水面がどれくらいまで上ってきているのかたしかめてみようとしたが、私の電灯の弱い光ではほとんど何も見とおすことはできなかった。暗闇が濃すぎて、よほど近くに寄って見ないかぎりそこに何があるのかまるでわからないのだ。腕時計は午前四時十二分を指していた。まだ夜は明けていない。朝刊も配られてはいない。電車も動いてはいない。地上では人々は何も知らずにぐっすりと眠っているはずだった。
私は両手でロープをたぐり寄せ、一度深呼吸してから、ゆっくりと上りはじめた。