あなたの王国が
私たちにもたらされますように
先生はふかえりの方を向いて、「エリ、悪いけれどお茶をいれて持ってきてくれないか」と言った。
少女は立ち上がって応接室を出て行った。静かにドアが閉められた。天吾がソファの上で呼吸を整え、意識を立て直すのを、先生は何も言わずに待っていた。先生は黒縁の眼鏡を外し、それほど清潔とも見えないハンカチでレンズを拭き、かけなおした。窓の外の空を何か小さな黒いものが素速く横切っていった。鳥かもしれない。あるいは誰かの魂が世界の果てまで吹き飛ばされていったのかもしれない。
「申し訳ありません」と天吾は言った。「もう大丈夫です。なんともありません。お話を続けて下さい」
先生は肯いて話し始めた。「激しい銃撃戦の末に分派コミューン『あけぼの』が壊滅したのは一九八一年のことだ。今から三年前だ。エリがここにやってきた四年後にその事件は起こった。しかし『あけぼの』の問題はとりあえず今回のことには関係しない。
エリが私たちと一緒に暮らすようになったのは十歳のときだ。うちの玄関先に何の予告もなく現れたエリは、私がそれまでに見知っていたエリとは一変していた。もともと無口で、知らない人にはうちとけない子供ではあった。それでも小さい頃から私にはなついていて、よく話をしてくれた。しかしそのときの彼女は、誰に対しても口をきけない状態になっていた。言葉そのものを失ってしまったようだった。話しかけても、それに対して肯くか首を振るか、その程度のことしかできなかった」
先生の話し方はいくらか早口になり、声の響きもより明瞭になっていた。ふかえりが席を外しているあいだにある程度話を進めようという気配がうかがえた。
「この山の上まで辿り着くにはずいぶん苦労があったようだ。いくらかの現金と、うちの住所を書いた紙は持っていたが、なにしろずっと孤立した環境の中で育ってきたし、その上まともに口がきけないわけだからね。それでもメモを片手に交通機関を乗り継いで、ようやくうちの玄関先までやって来た。
彼女の身に何か良くないことが起こったと一目でわかった。手伝いをしてくれている女性と、アザミが二人でエリの面倒を見てくれた。数日後エリがいちおう落ち着きをみせると、私は『さきがけ』に電話をかけ、深田と話をしたいと言った。しかし深田は今電話には出られない状態にあると言われた。どんな状態なのかと尋ねても、教えてもらえなかった。それでは奥さんと話したいと言った。奥さんも電話には出られない、と言われた。結局どちらとも話はできなかった」
「エリさんをお宅に引き取っていることを、そのとき先方に言ったのですか?」
先生は首を振った。「いや、じかに深田に言うのでない限り、エリがここにいることは黙っていた方がいいような気がした。もちろんそれからも何度となく、深田に連絡を取ろうと試みた。あらゆる手段を尽くした。しかし何をしても駄目だった」
天吾は眉をひそめた。「つまりこの七年、一度も彼女の両親と連絡が取れなかったということですか?」
先生は肯いた。「七年間、まったくの音信不通だ」
「エリさんの両親は七年間、娘の行方を捜そうともしなかったのですか?」
「ああ、それはどう考えても不可解な話だ。というのは深田夫妻はエリのことを何よりも慈しみ、大事にしていたからだ。そしてエリが誰かを頼っていくとしたら、行き先は私のところしかない。彼ら夫婦はどちらも実家との縁を切っており、エリは祖父や祖母の顔も知らずに育った。エリが頼れるところといえばうちしかないんだ。そしてエリは何かあったらうちに来るように彼らに教えられていた。なのに二人からは一言の連絡もない。考えられないことだ」
天吾は尋ねた。「『さきがけ』は開放的なコミューンだとさっきおっしゃいました」
「そのとおり。『さきがけ』は開設以来、一貫して開放的なコミューンとして機能してきた。しかしエリが脱出してくる少し前から、『さきがけ』は外部との交流を閉ざす方向に徐々に向かっていた。最初にその徴候に気がついたのは、深田との連絡が滞り始めたときだ。深田は昔から筆まめな男で、私に長い手紙を寄越し、コミューン内部の出来事や、自分の心境などについてあれこれ書いてきた。それがあるときから途絶えた。手紙を出しても返事がこない。電話をかけてもなかなか取りついでもらえない。取り次いでもらえても、会話は短く制限されるようになっていた。そして深田も、まるで誰かに立ち聞きされているのを知っているような素っ気ない話し方をした」
先生は膝の上で両手を合わせた。
「私は『さきがけ』に何度か足を運んだ。エリのことで深田と話し合う必要があったし、電話も手紙も駄目となれば、あとは直接行ってみるしかない。しかし敷地の中には入れてもらえなかった。入り口で文字通りけんもほろろに追い払われた。どれだけかけあっても相手にされなかった。『さきがけ』の敷地はいつの間にか高いフェンスでまわりを囲まれており、部外者はみんな門前払いされた。
コミューンの内部でいったい何が持ち上がっているのか、外からは見当がつかなかった。武闘派の『あけぼの』が秘密主義をとるのはわかる。彼らは武力革命を目指していたし、隠さなくてはならないこともあった。しかし『さきがけ』は平和に有機農法の農業を営んでいただけだし、最初から一貫して、外部の世界に対して友好的な姿勢をとっていた。だから地元でも好感を持たれていたのだ。ところが今では、そのコミューンはまるで要塞だった。中にいる人々の態度や顔つきも一変したようだった。近隣の人々も私と同じように『さきがけ』の変化に困惑していた。そんな中で深田夫妻の身によからぬことが起こったのではないかと思うと、心配でしかたなかった。しかしその時点ではエリを引き取って大事に育てることのほか、私にできることはなかった。そのようにして七年が経過した。何ひとつ事情が明らかにならないまま」
「深田さんが生きているかどうか、それすらわからない?」と天吾は尋ねた。
先生は肯いた。「そのとおりだ。手がかりはまったくない。できるだけ悪いことは考えたくない。しかし深田から七年間にわたってひと言の連絡も届かないというのは、普通では考えられないことだ。彼らの身に何かが起こったとしか思えない」、彼はそこで声を落とした。「内部に強制的に拘束されているのかもしれない。あるいはもっとひどいことになっているのかもしれない」
「もっとひどいこと?」
「最悪の可能性も決して排除はできない、ということだよ。『さきがけ』はもう以前のような平和な農業共同体ではないんだ」
「『さきがけ』という団体が、危険な方向に進み始めたということですか?」
「私にはそのように思える。地元の人たちによれば、『さきがけ』に出入りする人の数は以前よりも遥かに増えたらしい。車が頻繁に出たり入ったりしている。東京ナンバーの車が多い。田舎には珍しい大型の高級車もしばしば見られる。コミューンの構成人員の数も急激に増えたらしい。建物や施設の数も増え、その内容も充実している。近隣の土地を安い値段で積極的に買い増し、トラクターや掘削機やコンクリート・ミキサーなんかも導入している。農業は前と同じように続けているし、それは貴重な収入源になっているはずだ。『さきがけ』ブランドの野菜はますます名を知られるようになり、自然素材を売り物にするレストランなどにも直接出荷するようになった。高級スーパーマーケットとも契約を結んだ。利益もそれなりにあがっていたはずだ。しかしそれと並行して、農業以外の[#傍点]何か[#傍点終わり]がそこで進行しているようだった。いくらなんでも農作物の販売だけで、そのような規模拡大のための資金がまかなえるわけはない。そして『さきがけ』の内部で何が進行しているにせよ、その徹底した秘密主義からして、世間に公にしづらいものじゃないかというのが地元の人々の抱いている印象だった」
「彼らがまた政治的な活動を始めたということですか?」と天吾は尋ねた。
「政治的な運動ではないはずだ」と先生は即座に言った。「『さきがけ』は政治とは別の軸で動いていた。だからこそ彼らはある時点で『あけぼの』を切り離さざるを得なかったんだ」
「しかしその後『さきがけ』の中で何かが起こり、エリさんはそこから脱出せざるを得なくなった」
「何かが起こったんだ」と先生は言った。「重要な意味を持つ出来事が。両親を捨てて、身ひとつで逃げ出さなくてはならなかったようなことが。しかしエリはそれについて何ひとつ語ろうとはしない」
「ショックを受けたか、心に傷を負ったかして、うまく言葉にできないということでしょうか?」
「いや、ショックを受けているとか、何かに怯えているとか、両親と離され一人ぼっちになって不安だとか、そんな雰囲気はなかった。ただ無感覚なだけだ。それでもエリはうちでの生活に支障なく馴染んでいった。むしろ拍子抜けするくらいすんなりと」
先生は応接室のドアに目をやった。それから天吾の顔に視線を戻した。
「エリの身に何があったにせよ、心を無理にこじ開けるようなことはしたくなかった。この子に必要なのはおそらく時間の経過なのだと思った。だからあえて何も質問しなかったし、無言のままでいても、気にしない風を装っていた。エリはいつもアザミと一緒だった。アザミが学校から帰ってくると、食事もそこそこに二人きりで部屋に閉じこもった。そこで二人で何をしていたのか、私は知らない。あるいは二人のあいだだけには会話のようなものが成立していたのかもしれない。しかし私はとくに詮索はしなかったし、好きにさせておいた。それに口をきかないことをべつにすれば、生活を共にする上で問題はまったくなかった。頭のいい子だし、言うこともよく聞いてくれた。アザミとは無二の親友になった。ただしその時期、エリは学校には通えなかった。ひと言もしゃべれない子供を学校にやることはできないからね」
「先生とアザミさんはそれまで二人暮らしだったのですか?」
「妻は十年ばかり前に死んだ」と先生は言った。そして少し間を置いた。「車の追突事故で、即死だった。私たち二人があとに残された。遠縁にあたる女性がこの近所に住んでいて、家事全般はこの人がやってくれている。娘たちの面倒も見てくれる。妻を亡くしたことは、私にとってもアザミにとっても厳しくつらいことだった。あまりにも突然な死に方だったし、心の準備をする余裕もなかったからね。だからエリがうちに来て一緒に暮らすようになったのは、そこに至る経緯がどうであれ嬉しいことだった。たとえ会話はなくても、彼女がいてくれるだけで私たちは不思議に安らかな気持ちになれた。そしてこの七年のあいだに、エリも少しずつではあるけれど言葉を取り戻していった。うちに来た頃に比べれば会話能力は目に見えて向上した。他の人には普通じゃない奇妙なしゃべり方に聞こえるだろう。しかし私たちからすれば格段の進歩だ」
「エリさんは今、学校に通っているのですか?」
「いや、学校には通っていない。いちおうかたちとして籍を置いているだけだ。学校生活を続けるのは現実的に無理だった。だから私や、うちに来る学生たちが暇を見つけては、個人的に勉強を教えた。とはいっても所詮は細切れなもので、系統的な教育と呼べるものではまったくない。自分では本を読むことがむずかしかったので、機会があれば声に出して読んでやるようにした。市販の朗読テープも与えた。それが彼女の与えられた教育のほぼすべてだ。しかし驚くほど聡明な子だ。自分が吸収しようと決めたものは素速く、深く有効に吸収できる。そういう力は圧倒的に優れている。しかし興味のないことにはとんと見向きもしない。その差はとても大きい」
応接室のドアはまだ開かなかった。湯を沸かし、お茶をいれるのに時間がかかっているのだろう。
「そしてエリさんはアザミさんを相手に『空気さなぎ』を物語ったわけですね?」と天吾は尋ねた。
「さっきも言ったように、エリとアザミは夜になると部屋に二人で閉じこもっていた。何をやっていたのかはわからない。それは二人だけの秘密だった。しかしどうやらあるときから、エリが物語を語ることが、二人のコミュニケーションの主要なテーマになっていたらしい。エリが語ることをアザミがメモかテープにとり、それを私の書斎にあるワードプロセッサーを使って文章にしていった。その頃からエリは徐々に感情を取り戻していったようだ。全体を膜のように被っていた無関心さが消え、顔にもわずかに表情が戻り、以前のエリに近くなってきた」
「そこから回復が始まったのですね?」
「全面的にではない。あくまで部分的にだ。しかしそのとおり。おそらくは物語を語ることによって、エリの回復が始まったのだろう」
天吾はそのことについて考えた。それから話題を変えた。
「深田夫妻の消息が途絶えていることについて、警察には相談されたのですか?」
「ああ、地元の警察に行ったよ。エリの話はせず、中にいる友人と長期間にわたって連絡が取れない、ひょっとして拘束されているのではないかという話をした。しかしその時点では彼らにも手の出しようがなかった。『さきがけ』の敷地は私有地であり、そこで犯罪行為があったという確証がない限り、警察は中に足を踏み入れることはできない。いくらかけあっても相手にしてもらえなかった。そして一九七九年を境に、内部に捜査の手を入れるのは事実上不可能になった」
先生はそのときのことを思い出すように、何度か首を振った。
「一九七九年に何かがあったのですか?」と天吾は質問した。
「その年に『さきがけ』は宗教法人の認可を受けた」
天吾はしばらくのあいだ言葉を失った。「宗教法人?」
「実に驚くべきことだ」と先生は言った。「『さきがけ』はいつの間にか宗教法人『さきがけ』になっていたんだ。山梨県知事が正式にその認可を与えた。いったん宗教法人という名前がつくと、その敷地内に警察が捜査に入るのは大変むずかしくなる。憲法で保障された信仰の自由を脅かすことになるからね。そしてどうやら『さきがけ』は法務担当者を置いて、かなり確固とした防御態勢を整えているらしかった。地方の警察では太刀打ちができない。
私も警察で宗教法人の話を聞かされて、ひどく驚いた。寝耳に水というか、最初のうちとても信じられなかったし、関係書類を見せてもらい、事実を自分の目で確認したあとでも、簡単には呑み込めなかった。深田とは古いつきあいだ。性格や人柄は承知している。私は文化人類学をやっていた関係で、宗教とのかかわりは浅くない。しかし彼は私とは違って根っから政治的人間で、理詰めで話を進める男だ。どちらかといえば宗教全般を生理的に嫌悪していた。たとえ戦略上の理由があったとしても、宗教法人の認可など受けるはずがない」
「それに宗教法人の認可を受けるのは、たやすいことではないはずです」
「必ずしもそうではない」と先生は言った。「数多くの資格審査があり、役所の煩雑な手続きをひとつひとつ通過しなくてはならないことは確かだが、裏の方から政治的な働きかけをすれば、そのような関門をクリアすることはある程度簡便になる。何がまともな宗教で、何がカルトかという線引きはもともと微妙なものだ。確たる定義はなく、解釈ひとつだ。そして解釈の余地があるところには、常に政治力や利権が介入する余地が生まれる。いったん宗教法人の認証を受ければ、税金の優遇措置も受けられるし、法的にもあつく保護される」
「ともあれ『さきがけ』はただの農業コミューンであることをやめて、宗教団体になった。それも恐ろしく閉鎖的な宗教団体になった」
「新宗教。もっと率直な言葉で言えば、カルト団体になったわけだ」
「よくわかりませんね。それだけの転換がなされるには、何か大きなきっかけがあったはずです」
先生は自分の手の甲を眺めた。手の甲にはねじくれた灰色の毛がたくさん生えていた。「そのとおり。そこには転換のための大きな契機があったに違いない。私もそれについて長いあいだ考え続けてきた。様々な可能性を考えてみた。しかしさっぱりわからない。その契機とはいったいどんなものだったのだろう? 彼らは徹底した秘密主義をとっていて、内部の事情はうかがい知れないようになっている。そして『さきがけ』の指導者であった深田の名前も、以来まったく表面に出てこなくなった」
「そして三年前に銃撃事件が起こり、『あけぼの』は壊滅した」と天吾は言った。
先生は肯いた。「『あけぼの』を事実上切り捨てた『さきがけ』は生き残り、宗教団体として確実に発展を遂げている」
「つまり、銃撃事件は『さきがけ』にさほど打撃を与えなかったということですね」
「そうだよ」と先生は言った。「それどころか、逆に宣伝になったくらいだ。頭の働く連中だ。すべてを自分たちの都合の良い方向に変えてしまう。しかしいずれにせよ、それはエリが『さきがけ』を出たあとで起こったことだ。さっきも言ったとおり、エリとは直接の関わりを持たない事件であるはずだ」
話題を換えることが要求されているようだった。
「『空気さなぎ』はお読みになりました?」と天吾は質問した。
「もちろんだ」
「どう思われました?」
「興味深い物語だ」と先生は言った。「すぐれて暗示的でもある。しかしそれが何を暗示しているのか、正直なところ私にはわからない。盲目の山羊が何を意味しているのか、リトル・ピープルとは、空気さなぎとは何を意味しているのか」
「その物語はエリさんが『さきがけ』の中で経験した、あるいは目撃した具体的な何かを示唆しているのだと思われますか?」
「あるいはそうかもしれない。しかしどこまでが現実でどこからが幻想なのか、見定めることがむずかしい。ある種の神話のようでもあるし、巧妙なアレゴリーのようにも読みとれる」
「リトル・ピープルは[#傍点]本当にいる[#傍点終わり]とエリさんは僕に言いました」
先生はそれを聞いて、しばらくむずかしい顔をしていた。そして言った。「つまり君は『空気さなぎ』に描かれた物語は[#傍点]実際に[#傍点終わり]起こったことだと考えているのか」
天吾は首を振った。「僕が言いたいのは、その物語は細部まできわめてリアルに克明に描かれているし、それが小説にとってひとつの大きな強みになっているということです」
「そして君は、君の文章なり文脈を使ってその物語をリライトすることによって、それが示唆する[#傍点]何か[#傍点終わり]をより明確なかたちに置き換えようとしている。そういうことかな?」
「うまくいけばということですが」
「私の専門は文化人類学だ」と先生は言った。「学者であることは既にやめたが、精神は今でも身体に染み着いている。その学問の目的のひとつは、人々の抱く個別的なイメージを相対化し、そこに人間にとって普遍的な共通項を見いだし、もう一度それを個人にフィードバックすることだ。そうすることによって、人は自立しつつ何かに属するというポジションを獲得できるかもしれない。言っていることはわかるかな?」
「わかると思います」
「おそらくそれと同じ作業を君は要求されている」
天吾は両手を膝の上で広げた。「むずかしそうです」
「しかしやってみるだけの価値はありそうだ」
「僕にその資格があるかどうかさえわかりません」
先生は天吾の顔を見た。彼の目には今では特別な光があった。
「私が知りたいのは『さきがけ』の中でエリの身に何が起こったのかということだ。そしてまた深田夫婦がどのような運命を辿ったのかということだ。この七年間、私はそれを解明しようと自分なりに努めてきたが、結局手がかりひとつ掴めなかった。そこに立ちはだかった壁は私の歯が立たぬほどぶ厚く堅固なものだった。あるいは『空気さなぎ』という物語の中に、謎を解明するための鍵が隠されているかもしれない。たとえわずかな可能性であっても、その可能性があるのなら、進んでそれに賭けたい。君にその資格があるかどうかまでは私にはわからん。しかし君は『空気さなぎ』を高く評価しているし、深くのめりこんでいる。それはひとつの資格になるかもしれない」
「イエスかノーではっきり確認しておきたいことがひとつあります」と天吾は言った。「今日ここにうかがったのはそのためです。『空気さなぎ』を書き直す許可を、僕は先生から与えられたのでしょうか?」
先生は肯いた。そして言った。「君が書き直した『空気さなぎ』を私も読んでみたい。エリも君のことをずいぶん信用しているようだ。そんな相手は君のほかにはいない。もちろんアザミと私を別にすればということだが。だからやってみるといい。作品は君に一任しよう。つまり答えはイエスだ」
いったん言葉が途切れると、沈黙はまるで決められた運命のように、その部屋に重く腰を据えた。そのときにちょうどふかえりがお茶を運んできた。二人の話が終わるのを見計らっていたみたいに。
帰り道は一人だった。ふかえりは犬を散歩させるために外に出て行った。天吾は電車のやってくる時刻にあわせてタクシーを呼んでもらい、二俣尾駅まで行った。そして立川で中央線に乗り換えた。
三鷹駅で、天吾の向かいに親子連れが座った。ござつばりとした身なりの母と娘だった。どちらの着ているものも決して高価な衣服ではないし、新しくもない。しかし清潔で、手入れが行き届いている。白いところはあくまで白く、アイロンもきれいにかけてある。娘は小学校の二年生か三年生か、そんなところだ。目の大きな、顔立ちの良い女の子だ。母親は痩せて、髪をうしろでまとめ、黒縁の眼鏡をかけ、色槌せたぶ厚い布製バッグを持っていた。バッグの中には何かがたっぷり詰まっているようだ。彼女もなかなか整った顔をしているのだが、両目の外側の脇に神経的な疲れがにじみ出ていて、それが彼女をおそらくは実際以上に老けて見せていた。まだ四月の半ばだというのに、日傘を持っていた。傘はまるで干からびた棍棒のようにぎゅっと堅く巻かれていた。
二人はシートに腰掛けたまま、終始黙り込んでいた。母親は頭の中で何かの段取りを組み立てているみたいに見えた。隣りに座った娘は手持ちぶさたで、自分の靴を見たり、床を見たり、天井の吊り広告を見たり、向かいに座っている天吾の顔をちらちら見たりしていた。どうやら彼の身体の大きさとくしゃくしゃした耳に興味を持っているらしかった。小さな子供たちはよくそういう目で天吾を見た。害のない珍しい動物でも見るみたいに。その少女は身体も頭もほとんどまったく動かさず、目だけを活発に動かして、まわりのいろんなものを観察していた。
母子は荻窪駅で電車を降りた。電車がスピードを緩めると、母親は日傘を手に、何も言わずにさっと席を立った。左手に日傘、右手に布バッグ。娘もすぐにそれに従った。素早く席を立ち、母親の後ろから電車を降りた。席を立つときに、もう一度ちらりと天吾の顔を見た。そこには何かを求めるような、何かを訴えるような、不思議な光が宿っていた。ほんの微かな光なのだが、それを見てとることが天吾にはできた。この女の子は何かの信号を発しているのだ——天吾はそう感じた。しかし言うまでもないことだが、たとえ信号を送られたとしても、天吾には何をすることもできない。事情もわからないし、関わりあう資格もない。少女は荻窪駅で母親とともに電車を降り、ドアが閉まり、天吾はそこに腰を下ろしたまま次の駅に向かった。少女が座っていた座席には、模擬試験を受けた帰りらしい中学生の三人組が座った。そして大声で賑やかに話を始めた。しかしそれでも少女の静かな残像はまだしばらくのあいだそこに残っていた。
その少女の目は、天吾に一人の少女のことを思い出させた。彼が小学校の三年生と四年生の二年間、同じクラスにいた女の子だ。彼女もさっきの少女と同じような目をしていた。その目で天吾をじっと見つめていた。そして……
その女の子の両親は「証人会」という宗教団体の信者だった。キリスト教の分派で、終末論を説き、布教活動を熱心におこない、聖書に書いてあることを字義通りに実行する。たとえば輸血は一切認めない。だからもし交通事故で重傷を負ったりしたら、生き延びる可能性はぐっと狭まる。大きな手術を受けるのもまず無理だ。そのかわり世に終末が訪れたときには、神の選民として生き残ることができる。そして至福の世界を千年間にわたって生きることができる。
その女の子もさっきの少女と同じような、大きな綺麗な目をしていた。印象的な目だ。顔立ちも良い。しかし彼女の顔にはいつも不透明な薄皮のようなものがかぶせられていた。存在の気配を消すためだ。必要がない限り、人前では口をきかなかった。感情を顔に出すこともない。薄い唇は常にまっすぐ堅く結ばれていた。
天吾が最初にその少女に関心を持ったのは、彼女が週末になると母親と一緒に布教活動をしていたからだった。「証人会」の家では、子供も歩けるようになれば、両親とともに布教活動に携わることを求められる。三歳くらいから主に母親と一緒に歩いて、家を一軒一軒まわり、「洪水の前」という小冊子を配り、「証人会」の教義を説明する。現在の世界にどれほど多くの滅びのしるしが現れているかという事実を、人々にわかりやすく説明する。彼らは神のことを「お方さま」と呼んだ。もちろん大抵の家では門前払いを食わされる。鼻先でドアをばたんと閉められる。彼らの教義はあまりにも偏狭で、一方的で、現実離れしているからだ——少なくとも世間の大部分の人の考える現実からはかけ離れている。しかしほんのたまに、まともに話を聞いてくれる人もいる。それがたとえどんな話であれ、話し相手を求めている人々が世間には存在する。そしてその中には、それもまたほんのたまにではあるけれど、集会に出席してくれる人もいる。そのような千にひとつの可能性を求めて、彼らは家から家へと玄関のベルを押してまわる。そんな努力を続け、ほんのわずかでも世界を覚醒に向かわせることが、彼らに与えられた神聖な責務なのだ。そしてその責務が厳しければ厳しいほど、敷居が高ければ高いほど、彼らに与えられる至福もより輝かしいものになる。
その少女は母親とともに布教にまわっていた。母親は「洪水の前」を詰めた布の袋を片方の手に持ち、だいたいは日傘をもう片方の手に持っていた。その数歩あとに少女が従っていた。彼女はいつものようにまっすぐ唇を結び、無表情だった。天吾は、父親に連れられてNHK受信料の集金ルートをまわりながら、何度かその少女と通りですれ違った。天吾は彼女の姿を認め、相手も天吾の姿を認めた。そのたびに少女の目の中で何かがこっそりと光ったように見えた。しかしもちろん口をきいたりすることはなかった。挨拶ひとつしなかった。天吾の父親は集金の成績を上げることに忙しかったし、少女の母親は来るべき世の終末を説いてまわることに忙しかった。少年と少女はただ日曜日の通りで、親たちに引っ張られるようにして足早にすれ違い、一瞬視線を交わすだけだった。
彼女が「証人会」信者であることはクラスの全員が知っていた。彼女は「教義上の理由」からクリスマスの行事にも参加しなかったし、神社や仏教の寺院を訪れるような遠足や修学旅行にも参加しなかった。運動会にも参加しなかったし、校歌も国歌も歌わなかった。そのような極端としか思えない行動は、クラスの中で彼女をますます孤立させていった。また彼女はお昼の給食を食べる前に、必ず特別なお祈りを唱えなくてはならなかった。それも大きな声で、誰にも聞こえるようにはっきりと唱える必要があった。当然のことながら、まわりの子供たちはそのお祈りを気味悪がった。彼女だってきっとそんなことは人前でやりたくなかったはずだ。しかし食事の前にはお祈りは唱えるものとたたき込まれていたし、ほかの信者が見ていないからといって、それを怠ることはできなかった。「お方さま」は高いところから、すべてを細かくごらんになっていたからだ。
[#ここから1字下げ]
天上のお方さま。あなたの御名がどこまでも清められ、あなたの王国が私たちにもたらされますように。私たちの多くの罪をお許しください。私たちのささやかな歩みにあなたの祝福をお与え下さい。アーメン。
[#ここで字下げ終わり]
記憶は不思議なものだ。二十年も前のことなのに、その文句をひと通り思い出せる。[#ゴシック体]あなたの王国が私たちにもたらされますように[#ゴシック体終わり]。そのお祈りを耳にするたびに「それはいったいどんな王国なのだろう」と小学生の天吾は考えたものだ。そこにはNHKはあるのだろうか? きっとあるまい。NHKがなければもちろん集金もない。とすれば、その王国が一刻も早く来てくれた方がいいのかもしれない。
天吾は彼女と一度も口をきいたことはなかった。同じクラスにいても、天吾が彼女に直接話しかける機会はまったくなかったからだ。少女はいつもみんなから離れたところにぽつんと一人でいたし、必要のないかぎり誰とも口をきかなかった。わざわざ彼女のところに行って話しかけられるような雰囲気はなかった。しかし天吾は心の中では彼女に同情していた。休みの日も親に連れられて家から家へと玄関のベルを押してまわらなくてはならないという、特異な共通点もあった。布教活動と集金業務の違いこそあれ、そんな役割を押しつけられることがどれほど深く子供の心を傷つけるものか、天吾にはよくわかっていた。日曜日には子供は、子供たち同士で心ゆくまで遊ぶべきなのだ。人々を脅して集金をしたり、恐ろしい世界の終わりを宣伝してまわったりするべきではないのだ。そんなことは——もしそうする必要があるならということだが——大人たちがやればいい。
天吾は一度だけ、ちょっとした成り行きで、その少女に助けの手を差し伸べたことがあった。四年生の秋のことだ。理科の実験のときに、彼女は同じ実験テーブルにいた同級生からきつい言葉を投げかけられていた。実験の手順を間違えたからだ。どんな間違いだったかよく覚えてはいない。そのときに一人の男子が「証人会」の布教活動をしていることで彼女を揶揄《やゆ》した。家から家をまわり、馬鹿げたパンフレットを渡して回っていることで。そして彼女のことを「お方さま」と呼んだ。それはどちらかといえば珍しい出来事だった。というのは、みんなは彼女をいじめたり、からかったりするよりは、むしろ[#傍点]存在しないもの[#傍点終わり]として扱い、頭から無視していたからだ。しかし理科の実験のような共同作業となれば、彼女だけを除外するわけにはいかない。そのときに彼女に投げかけられた言葉は、かなり毒のあるものだった。天吾はとなりのテーブルの班にいたのだが、どうしてもそれを聞き捨てにしておけなかった。なぜかはわからない。しかしただそのままにしておくことができなかったのだ。
天吾はそちらに行って、彼女に自分の班に移って来るように言った。深く考えることなく、ためらうこともなく、ほとんど反射的にそうした。そして彼女に実験の要領をていねいに説明してやった。少女は天吾の言うことを注意深く聞き、それを理解し、もう同じ失敗はしなかった。同じクラスに二年いて、天吾が彼女と口をきいたのはそれが初めてだった(そして最後だった)。天吾は成績もよかったし、身体も大きく力も強かった。みんなに一目置かれていた。だから彼女をかばったことで天吾をからかったりするものは——少なくともその場ではということだが——ひとりもいなかった。しかし「お方さま」の肩を持ったせいで、彼のクラスの中での評価は無言のうちに目盛りひとつぶん落ちたようだった。その少女と関わることによって、汚れがいくらか伝染したと思われたのだろう。
しかし天吾はそんなことは気にもとめなかった。彼女がごく普通の女の子であることが、天吾にはよくわかっていたからだ。もし両親が「証人会」の信者でなかったとしたら、彼女はごく当たり前の女の子として育ち、みんなに受けいれられていたことだろう。きっと仲の良い友だちもできていたはずだ。でも両親が「証人会」の信者であるというだけで、学校ではまるで透明人間のような扱いを受けている。誰も彼女に話しかけようとしない。彼女を見ようとさえしない。天吾にはそれはずいぶん不公平なことに思えた。
天吾と少女はそのあととくに口をきかなかった。口をきく必要もなかったし、そんな機会もなかったからだ。しかし何かの拍子に目が合うと、彼女の顔には微かな緊張の色が浮かんだ。天吾にはそれがわかった。あるいは彼女は、天吾が理科の実験のときに自分に対して行ったことを、迷惑に感じているのかもしれない。そのまま何もせず放っておいてくれればよかったのに、と腹を立てているのかもしれない。天吾にはそのあたりはうまく判断できなかった。まだ子供だったし、相手の表情から細かい心理の動きを読みとることまではできない。
そしてあるときその少女は天吾の手を握った。よく晴れた十二月初めの午後だった。窓の外には高い空と、白いまっすぐな雲が見えた。放課後の掃除が終わったあとの教室で、天吾と彼女はたまたま二人きりになっていた。ほかには誰もいなかった。彼女は何かを決断したように足早に教室を横切り、天吾のところにやってきて、隣りに立った。そして躊躇することなく天吾の手を握った。そしてじっと彼の顔を見上げた(天吾の方が十センチばかり身長が高かった)。天吾も驚いて彼女の顔を見た。二人の目が合った。天吾は相手の瞳の中に、これまで見たこともないような透明な深みを見ることができた。その少女は長いあいだ無言のまま彼の手を握りしめていた。とても強く、一瞬も力を緩めることなく。それから彼女はさっと手を放し、スカートの裾を翻し、小走りに教室から出ていった。
天吾はわけのわからないまま、言葉を失ってしばらくそこに立ちすくんでいた。彼が最初に思ったのは、そんなところを誰かに見られなくてよかったということだった。もし誰かに見られたら、どんな騒ぎが持ち上がるか見当もつかない。彼はあたりを見まわし、まずほっとした。それから深く困惑した。
三鷹駅から荻窪駅まで向かいの席に座っていた母子も、あるいは「証人会」の信者だったのかもしれない。これからいつもの日曜日の布教活動に向かうところだったのかもしれない。膨らんだ布バッグの中には「洪水の前」のパンフレットが詰まっているようにも見えた。母親の持っていた日傘と、少女の目に浮かんだきらりとした光が、天吾に同級生の無口な少女のことを思い出させた。
いや、あの電車の中の二人は「証人会」信者なんかじゃなく、何かの習い事に行く途中のごく当たり前の母子に過ぎなかったのかもしれない。布バッグの中身はピアノの楽譜だか、お習字のセットだか、そんなものだったのかもしれない。おれはきっと、いろんなことに敏感になりすぎているんだ、と天吾は思った。そして目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。日曜日には時間が奇妙な流れ方をし、光景が不思議な歪み方をする。
家に帰り、簡単な夕食を作って食べた。考えてみれば昼食も食べていなかった。夕食のあと小松に電話しようと思った。きっと会見の結果を聞きたがっているに違いない。しかしその日は日曜日で、彼は会社には出ていない。そして天吾は小松の自宅の電話番号を知らなかった。まあいいさ、どうなったか知りたければ、向こうから電話をかけてくるだろう。
時計の針が十時をまわり、そろそろベッドに入ろうかと思っていたときに、電話のベルが鳴った。小松からだろうと推測したが、受話器をとると年上の人妻のガールフレンドの声が聞こえた。
「ねえ、あまり時間がとれないんだけど、あさっての午後にちょっとだけでもお宅に行っていいかしら」と彼女は言った。
背後でピアノ音楽が小さく聞こえた。どうやら夫はまだ帰宅していないらしい。いいよ、と天吾は言った。彼女が来れば『空気さなぎ』の改稿作業は一時中断されることになる。しかし声を聞いているうちに、自分が彼女の身体を強く求めていることに、天吾は気づいた。電話を切って台所に行き、ワイルド・ターキーをグラスに注ぎ、流し台の前に立ったままストレートで飲んだ。それからベッドに入り、本を数ページ読み、そして眠った。
天吾の長い奇妙な日曜日は、そのように終わりを告げた。