均衡そのものが善なのだ
青豆は寝室の床に敷かれたカーペットの上に、持参した青いスポンジのヨーガマットを広げて敷いた。そして男に上着を脱ぐように言った。男はベッドから降りてシャツを脱いだ。シャツを脱ぐと、その体躯はシャツを着ているときより更に大きく見えた。胸は厚いが贅肉のたるみはなく、筋肉が盛り上がっていた。一見して健康な肉体以外の何ものでもない。
彼は青豆に指示されたとおり、ヨーガマットの上にうつぶせになった。青豆はまず手首に指を当て、男の脈拍を測った。鼓動は深く太い。
「何か日常的に運動をしておられるのですか?」と青豆は尋ねた。
「とくに何も。ただ呼吸をしているだけだ」
「ただ呼吸をしている?」
「普通とは少し違う呼吸だが」と男は言った。
「さっき暗がりの中でなさっていたような呼吸ですね。全身の筋肉を使って、深く繰り返す呼吸」
男はうつぶせになったまま小さく肯いた。
青豆には今ひとつ肪に落ちなかった。それはたしかにかなりの体力を必要とする激しい呼吸だった。それでも、ただ呼吸をするだけで、これほど無駄のない力強い肉体を維持することができるものだろうか。
「これから私がすることは多少の苦痛を伴います」と青豆は抑揚のない声で言った。「痛くなければ効果のないことだからです。しかし痛みの程度を調整することはできます。ですから苦痛を感じたら我慢せず声を出してください」
男は少し間を置いてから言った。「わたしがまだ味わったことのない苦痛があるなら、どんなものだか見てみたい」、そこには軽い皮肉の響きが聞き取れた。
「どんな人にとっても、苦痛は楽しいものではありません」
「しかし痛みを伴うやり方のほうが効果が大きい。そうじゃないのかな? 意味ある苦痛ならわたしは耐えられる」
青豆は淡い闇の中で暫定的な表情を浮かべた。そして言った。「わかりました。とりあえずお互いに様子を見てみましょう」
青豆はいつものように肩脾骨のストレッチングから開始した。彼女が男の肉体に手を触れてまず気づいたのは、その筋肉のしなやかさだった。健康で上質な筋肉だ。彼女が普段ジムで相手にしている、疲労し硬直した都会人の筋肉とは、そもそもの作りが違う。しかし同時に、そこにもともとあるべき自然な流れが、何かによって阻まれているという強い感触があった。川の流れが流木やごみによって一時的に堰《せ》き止められてしまっているみたいに。
青豆は肘を挺子にして、男の肩をしぼりあげた。最初はゆっくりと、それから真剣に力を込めて。男の身体が痛みを感じているのがわかった。それもかなりの痛みだ。どんな人間でもうめき声くらいは上げる。しかし男はまったく声を出さなかった。呼吸も乱れなかった。顔をしかめている様子もない。我慢強いのだ、と青豆は思った。どこまで相手が我慢できるか、青豆は試してみることにした。更に遠慮なく力を入れると、肩脚骨の関節がやがて[#傍点]ごきっ[#傍点終わり]という鈍い音を立てた。線路のポイントが切り換えられるような手応えがあった。男の息が一瞬止まったが、それはすぐにもとの静かな呼吸に戻った。
「肩胛骨がひどく詰まっていたんです」と青豆は説明した。「でも今ではそれは解消されました。流れは回復しています」
彼女は指の第二関節までを肩岬骨の裏側に突っ込んだ。もともとが柔軟にできている筋肉だ、いったん詰まっていたものが取り除かれれば、すぐに健常な状態に戻る。
「ずいぶん楽になったような気がする」と男は小さな声で言った。
「相当な痛みを伴ったはずですが」
「耐え難いほどではない」
「私もどちらかといえば我慢強い方ですが、もし同じことをやられたら、きつと声くらいは出すと思います」
「痛みは多くの場合、別の痛みによって軽減され相殺される。感覚というのはあくまで相対的なものだ」
青豆は左側の肩脾骨に手をやり、指先で筋肉を探り、それが右側とほぼ同じ状態にあることを知った。どこまで相対的になれるものか様子を見てみよう。「今度は左側をやります。たぶん右側と同じくらいの痛みがあるはずです」
「あなたにまかせる。わたしのことなら気にかけなくていい」
「手加減はしなくていいということですね」
「その必要はない」
青豆は同じ手順で、左側の肩脾骨まわりの筋肉と関節を矯正した。言われたとおり手加減はしなかった。いったん手加減をしないと決めたら、青豆は躊躇することなく最短距離を歩む。しかし男の反応は右側の時よりもさらに冷静なものだった。彼は喉の奥でくぐもった音を立てただけで、ごく当たり前のようにその痛みを受容した。けっこう、どこまで耐えられるか見てみましょう、と青豆は思った。
彼女は男の全身の筋肉を手順に従って解きほぐしていった。すべてのポイントは彼女の頭の中のチェック・リストに記入されている。そのルートを…機械的に、順序通りたどっていけばいいだけだ。夜中に懐中電灯を持ってビルを巡回する、有能な恐れを知らぬ警備員のように。
どの筋肉も多かれ少なかれ、[#傍点]詰まって[#傍点終わり]いた。厳しい災害に襲われたあとの土地みたいだ。多くの水路が堰き止められ、堤が崩されている。普通の人間が同じような目に遭ったら、たぶん立ち上がることもできないだろう。呼吸をすることだってままならないかもしれない。頑丈な肉体と強い意志がこの男を支えている。どのようなあさましい行いをこの男がなしてきたにせよ、ここまで激しい苦痛に黙して耐えていることに対して、青豆は職業的な敬意を抱かないわけにはいかなかった。
彼女はそれらの筋肉をひとつひとつ締め上げ、強制的に動かし、極限まで曲げたり伸ばしたりした。そのたびに関節が鈍い音を立てた。それが拷問に近い作業であることを彼女は承知していた。彼女はこれまで多くのアスリートの筋肉ストレッチングを手がけてきた。肉体的な苦痛とともに生きてきたようなタフな連中だ。しかしどんなに強靭な男たちも、青豆の手にかかれば、必ずどこかの時点で悲鳴をあげた。あるいは悲鳴に似たものをあげないわけにはいかなかった。中には小便をもらしたものだっていた。ところがこの男はうめき声ひとつ出さない。たいしたものだ。それでも首筋に汗がにじみ出てくることで、相手の感じている苦痛を推し量ることはできた。彼女自身もうっすらと汗をかき始めていた。
身体の裏側の筋肉をほぐすのに三十分近くかかった。それが終わると青豆は一息つき、額に浮かんだ汗をタオルでぬぐった。
奇妙なものだ、と青豆は思った。私はこの男を殺害するためにここにやってきた。バッグの中には特製の極細アイスピックが入っている。その針の先端をこの男の首筋のしかるべき箇所にあて、柄の部分を[#傍点]こん[#傍点終わり]と叩けば、それですべては終わる。何が起こったのかわからないまま相手は瞬時に命を失い、別の世界に移動する。そして彼の肉体は結果的にすべての痛みから解放される。なのに私は全力を尽くして、この男が現実の世界で感じている苦痛を、少しなりとも軽減しようと努めている。
たぶんそれが[#傍点]私に与えられた仕事[#傍点終わり]だからだ、と青豆は思う。目の前に為すべき仕事があれば、それを達成するために全力を尽くさないわけにはいかない。それが私という人間なのだ。問題のある筋肉を正常化することを仕事として与えられれば、全力を尽くしてそれにあたる。ある人物を殺害しなくてはならないのなら、そしてそのための正しい理由があるのなら、私は全力を尽くしてそれにあたる。
しかし当然ながら、そのふたつを同時におこなうことはできない。その二つの行為はそれぞれに対立する目的を持ち、それぞれに相容れない方法を要求する。だから一度に[#傍点]どちらか[#傍点終わり]しかできない。今の私はとにかくこの男の筋肉を少しでもまともな状態に戻そうとしている。私はその作業に意識を集中し、持てる力を総動員している。あとのことは、それが終わったあとにあらためて考えればいい。
それと同時に、青豆は好奇心を抑えることができなかった。この男の抱え込んでいるという[#傍点]普通ではない[#傍点終わり]持病、そのために激しく阻害を受けている健康で上質な筋肉、彼が「恩寵の代償」と呼ぶところの[#傍点]すさまじい痛み[#傍点終わり]に耐えることのできる強い意志と剛健な肉体。そんなものごとが彼女の好奇心をかきたてた。自分がこの男に対して何ができるのか、それに対して彼の肉体がどんな対応を見せるのかを、青豆は見届けたかった。それは職業的好奇心であり、同時に個人的な好奇心でもあった。それに今この男を殺害してしまったら、私はすぐにもここを引き上げなくてはならない。あまりに早く仕事が終わってしまうと、隣室の二人組は不審に思うかもしれない。ひととおり終えるのに短くても一時間はかかるでしょうと、前もって告げてあるのだ。
「半分は終わりました。これから残りの半分をやります。あおむけになっていただけますか?」と青豆は言った。
男は陸に打ち上げられた大きな水生動物のように、ゆっくりと仰向けになった。
「痛みは確実に遠のいている」と男は大きく息を吐いてから言った。「これまで受けたどんな治療もここまでは効かなかった」
「あなたの筋肉は[#傍点]被害を受けて[#傍点終わり]います」と青豆は言った。「原因はわかりませんが、かなり深刻な被害です。その被害を受けた部分をなるべくもとに近い状態に戻そうとしています。簡単なことではありませんし、痛みも伴います。でもある程度のことはできます。筋肉の素質はいいし、あなたは苦痛に耐えることができる。しかしなんといってもこれは対症療法です。抜本的な解決にはなりません。原因を特定しない限り、同じことが何度でも起こるでしょう」
「わかっている。何も解決はしない。同じことは何度も起こるだろうし、そのたびに状況は悪化していくだろう。しかしたとえ一時的な対症療法であったとしても、今ここにある痛みが少しでも軽減されれば、何よりありがたいことだ。それがどれくらいありがたいことなのか、あなたにはおそらくわかるまい。モルヒネを使うことも考えた。しかし薬物はできるだけ使いたくない。長期間にわたる薬物の摂取は頭脳の機能を破壊する」
「残りを続けます」と青豆は言った。「同じように手加減なしでやってかまわないのですね?」
「言うまでもない」と男は言った。
青豆は頭を空っぽにして、一心に男の筋肉に取り組んだ。彼女の職業的記憶には、人体のすべての筋肉の成り立ちが刻み込まれていた。それぞれの筋肉がどのような機能を果たし、どのような骨に結びついているか。どのような特質を持ち、どのような感覚を備えているか。それらの筋肉や関節を青豆は順番に点検し、揺り動かし、効果的に締め上げていった。仕事熱心な宗教裁判の審問官たちが、人体のあらゆる痛点をくまなく試していくのと同じように。
その三十分後に、二人はそれぞれに汗をかき、激しく息をついていた。まるで奇跡的なまでに深い性行為を成し遂げた恋人たちのように。男はしばらくのあいだ口をきかなかったし、青豆も言うべき言葉を持たなかった。
「大げさなことは言いたくないが」と男がやっと口を開いた。「まるで体中の部品を交換されたような気がする」
青豆は言った。「今夜、あるいは揺り戻しのようなことがあるかもしれません。夜中に筋肉が激しくひきつって、悲鳴をあげるかもしれません。しかし心配なさることはありません。明日の朝になれば普通に戻っています」
もし明日の朝というものがあるなら、と青豆は思った。
男はヨーガマットの上であぐらを組んで、身体の調子を試すように何度か深呼吸をした。そして言った。「あなたにはたしかに特別な才能が具わっているようだ」
青豆はタオルで顔の汗を拭きながら言った。「私がやっているのは、あくまで実際的なことです。筋肉の成り立ちや機能について大学のクラスで学び、その知識を実践的に膨らませてきました。技術をあちこち細かく改良して、自分なりのシステムを編み出してきました。ただ目に見える、理にかなったことをしているだけです。そこでは真実とはおおむね目に見えるものであり、実証可能なものです。もちろんそれなりの痛みを伴いますが」
男は目を開けて、興味深そうに青豆を見た。「あなたはそのように考えている」
「何のことですか?」と青豆は言った。
「真実とはあくまで目に見えて、実証可能なものであると」
青豆は唇を軽くすぼめた。「すべての真実がそうであると言っているわけではありません。[#傍点]私が職業として携わっている分野においては[#傍点終わり]そうだということです。もちろんすべての分野でそうであれば、ものごとはもっとわかりやすくなるのでしょうが」
「そんなことはない」と男は言った。
「どうしてでしょう?」
「世間のたいがいの人々は、実証可能な真実など求めてはいない。真実というのはおおかたの場合、あなたが言ったように、強い痛みを伴うものだ。そしてほとんどの人間は痛みを伴った真実なんぞ求めてはいない。人々が必要としているのは、自分の存在を少しでも意味深く感じさせてくれるような、美しく心地良いお話なんだ。だからこそ宗教が成立する」
男は何度か首を回してから話を続けた。
「Aという説が、彼なり彼女なりの存在を意味深く見せてくれるなら、それは彼らにとって真実だし、Bという説が、彼なり彼女なりの存在を非力で倭小なものに見せるものであれば、それは偽物ということになる。とてもはっきりしている。もしBという説が真実だと主張するものがいたら、人々はおそらくその人物を憎み、黙殺し、ある場合には攻撃することだろう。論理が通っているとか実証可能だとか、そんなことは彼らにとって何の意味も持たない。多くの人々は、自分たちが非力で倭小な存在であるというイメージを否定し、排除することによってかろうじて正気を保っている」
「しかし人の肉体は、すべての肉体は、わずかな程度の差こそあれ非力で倭小なものです。それは自明のことじゃありませんか」と青豆は言った。
「そのとおりだ」と男は言った。「あらゆる肉体は程度の差こそあれ非力で倭小なものであり、いずれにせよほどなく崩壊し、消え失せてしまう。それは紛れもない真実だ。しかし、それでは人の精神は?」
「精神についてはできるだけ考えないようにしています」
「どうして?」
「とくに考える必要がないからです」
「どうして精神についてとくに考える必要がないのだろう? 自らの精神について考えることは、それが実効性を持つか持たないかは別にして、人の営みの中で不可欠な作業ではないのかな」
「私には愛があります」と青豆はきっぱりと言った。
やれやれ、私はいったい何をしているのだろう、と青豆は思った。私は自分がこれから殺害しようとしている男を相手に愛について語っている。
静かな水面に風が波紋を描くように、男の顔に微かな笑みに似たものが広がった。そこには自然な、そしてどちらかといえば好意的な感情が表れていた。
「愛があればそれで十分だと?」と男は訊ねた。
「そのとおりです」
「あなたの言うその愛とは、誰か特定の個人を対象としたものなのかな?」
「そうです」と青豆は言った。「一人の具体的な男性に向けられたものです」
「非力で綾小な肉体と、騎りのない絶対的な愛——」と彼は静かな声で言った。そして少し間をおいた。「どうやらあなたは宗教を必要としないみたいだ」
「必要としないかもしれません」
「なぜなら、あなたのそういうあり方自体が、言うなれば宗教そのものだからだよ」
「あなたはさっき、宗教とは真実よりはむしろ美しい仮説を提供するものなのだと言いました。あなたの主宰する宗教団体はどうなのですか?」
「実を言えば、わたしは自分のやっていることを宗教行為だとは考えていない」と男は言った。
「わたしがやっているのは、ただそこにある声を聞き、人々に伝達することだ。声はわたしにしか聞こえない。それが聞こえるのは紛れもない真実だ。しかしそのメッセージが[#傍点]真実である[#傍点終わり]という証明はできない。わたしにできるのは、それに付随したささやかないくつかの恩寵を実体化することくらいだ」
青豆は唇を軽く噛み、タオルを下に置いた。それはたとえばどんな恩寵なのですか、と尋ねてみたかった。しかし思いとどまった。話が長くなりすぎる。彼女には終えなくてはならない大事な作業が残っている。
「もう一度うつぶせになっていただけますか? 最後に首の筋肉をほぐします」と青豆は言った。
男はヨーガマットの上に再び大きな身を横たえ、太い首筋を青豆に向けた。
「いずれにせよ、あなたはマジック・タッチを持っている」と彼は言った。
「マジック・タッチ?」
「普通ではない力を発する指だ。人間の身体の特殊なポイントを探りあてることのできる鋭い感覚だ。それは特別な資格であり、ごく限られた数の人間にしか与えられない。学習や訓練によって得られるものではない。わたしも種類こそ違え、同じ成り立ちのものを手にしている。しかしすべての恩寵がそうであるように、人は受け取ったギフトの代価をどこかで払わなくてはならない」
「そんな風に考えたことはありません」と青豆は言った。「私はただ学習し、自己訓練を積んで、技術を手に入れただけです。誰かから与えられたものではありません」
「論議をするつもりはない。しかし覚えておいた方がいい。神は与え、神は奪う。あなたが与えられたことを知らずとも、神は与えたことをしっかり覚えている。彼らは何も忘れない。与えられた才能をできるだけ大事に使うことだ」
青豆は自分の両手の十本の指を眺めた。それからその指を男の首筋にあてた。指先に意識を集中した。[#傍点]神は与え[#傍点終わり]、[#傍点]神は奪う[#傍点終わり]。
「もう少しで終わります。これが今日の最後の仕上げです」、彼女は乾いた声で、男の背中に向かってそう告げた。
遠くで雷鳴が聞こえたような気がした。顔を上げて窓の外を見た。何も見えない。そこには暗い空があるだけだ。しかしすぐにもう一度同じ音が聞こえた。静かな部屋の中にそれは虚ろに響いた。
「今に雨が降り出す」と男は感情のこもらない声で告げた。
青豆は男の太い首筋に手を当て、そこにある特別なポイントを探った。それには特殊な集中力が必要とされる。彼女は目を閉じ、息を止め、そこにある血液の流れに耳を澄ませた。指先は皮膚の弾力や体温の伝わり方から、詳細な情報を読み取ろうとした。たったひとつしかないし、とても小さな点だ。その一点を見出しやすい相手もいれば、見出しにくい相手もいる。このリーダーと呼ばれる男は明らかに後者のケースだった。喩えるなら、まっ暗な部屋の中で物音を立てないように留意しながら、手探りで一枚の硬貨を求めるような作業だ。それでもやがて青豆はその点を探り当てる。そこに指先を当て、その感触と正確な位置を頭に刻み込む。地図にしるしをつけるように。彼女にはそういう特別な能力が授けられている。
「そのまま姿勢を変えずにいて下さい」と青豆はうつぶせになった男に声をかけた。そして傍らのジムバッグに手を伸ばし、小さなアイスピックの入ったハードケースを取り出した。
「流れが詰まっている場所が首筋に一カ所だけ残っています」と青豆は落ち着いた声で言った。
「私の指の力だけではどうしても解決のできない一点です。この部分の詰まりを取り除くことができれば、痛みはずいぶん軽減されるはずです。簡単な鍼をそこに一本だけ打ちたいと思います。微妙な部分ですが、これまで何度もやってきたことですし、間違いはありません。かまいませんか?」
男は深く息をついた。「全面的にあなたに身を任せている。わたしの感じている苦痛を消し去ってくれるものであれば、それが何であろうと受け入れる」
彼女はケースからアイスピックを取り出し、先に刺した小さなコルクを抜いた。先端はいつものように鋭く致死的に尖っている。彼女はそれを左手に持ち、右手の人差し指でさきほど見つけたポイントを探った。間違いない。この一点だ。彼女は針の先端をそのポイントにつけ、大きく息を吸い込んだ。あとは右手をハンマーのように柄に向けて振り下ろし、極細の針先をそのポイントの奥に[#傍点]すとん[#傍点終わり]と沈み込ませるだけだ。それですべては終わる。
しかし[#傍点]何か[#傍点終わり]が彼女を押しとどめた。青豆は宙に浮かべた右手の拳をなぜかそのまま振り下ろすことができなかった。これですべては終わる、と青豆は思った。ただの一撃で、私はこの男を「あちら側」に送り込むことができる。それから涼しい顔をしてこの部屋を出て、顔と名前を変え、別の人格を獲得する。私にはそれができる。恐怖もなく、良心の痛みもない。この男は疑いの余地なく死に値する、あさましい行いを繰り返してきた。しかし彼女には何故かそれができなかった。彼女の右手をためらわせているのはとりとめのない、それでいて執拗な疑念だった。
[#傍点]あまりにも簡単に物ごとが運びすぎている[#傍点終わり]、本能が彼女にそう告げていた。
理屈も何もない。彼女にはただそれがわかる。何かがおかしい、何かが不自然だ。様々な要素を持つ力が青豆の中でぶつかりあい、せめぎあっていた。彼女は薄暗がりの中で激しく顔を歪めた。
「どうした」と男が声をかけた。「わたしは待っているんだよ。その最後の仕上げを」
そう言われて青豆は、自分が[#傍点]それ[#傍点終わり]をためらっている理由にようやく思い当たった。[#傍点]この男は知っているのだ[#傍点終わり]、私が彼に対してこれから何をやろうとしているのかを。
「ためらう必要はない」と男は穏やかな声で言った。「それでいい。あなたが求めていることは、まさにわたしの求めていることだ」
雷鳴は続いていた。しかし稲妻は見えない。遠い砲声のような音が轟いているだけだ。戦場はまだ彼方にある。男は続けた。
「それこそが完壁な[#傍点]治療[#傍点終わり]だ。あなたは筋肉のストレッチングをとても丁寧にやってくれた。わたしはその腕に純粋な敬意を払う。しかしあなた自身が言ったように、あくまで対症療法に過ぎない。わたしの痛みは既に、生命を根もとから絶つことによってしか解消することのできないものになっている。地下室に行って、メインスイッチを切るしかない。あなたはわたしのために、それをやってくれようとしている」
青豆は左手に針を持ち、その先端を首筋の特別なポイントにあて、右手を宙に振り上げたままの姿勢を保っていた。前に進むことも、後ろに退くこともできない。
「あなたがやろうとしていることを阻止しようと思えば、いくらでもできる。簡単なことだ」と男は言った。「右手を下ろしてごらん」
青豆は言われたとおり、右手を下ろそうとした。しかしぴくりとも動かなかった、右手は石像の手のように空中に凍り付いていた。
「望んで得たことではないが、わたしにはそのような力が具わっている。ああ、もう右手を動かしてもかまわないよ。これであなたはまたわたしの生命を左右できるようになった」
青豆は右手が再び自由に動かせることに気づいた。彼女は手を握り、それから手を開いた。違和感はない。催眠術のようなものなのだろう。しかしその力は強力だ。
「わたしはそのような特殊な力を与えられた。しかし見返りとして、彼らはわたしに様々な要求を押しつけた。彼らの欲求はすなわちわたしの欲求になった。その欲求はきわめて苛烈なものであり、逆らうことはできなかった」
「[#傍点]彼ら[#傍点終わり]」と青豆は言った。「それはリトル・ピープルのこと?」
「あなたは[#傍点]それ[#傍点終わり]を知っている。よろしい。話は早くなる」
「知っているのは名前だけ。リトル・ピープルが何ものかを、私は知りません」
「リトル・ピープルが何ものかを正確に知るものは、おそらくどこにもいない」と男は言った。
「人が知り得るのはただ、彼らがそこに存在しているということだけだ。フレイザーの『金枝篇』を読んだことは?」
「ありません」
「興味深い本だ。それは様々な事実を我々に教えてくれる。歴史のある時期、ずっと古代の頃だが、世界のいくつもの地域において、王は任期が終了すれば殺されるものと決まっていた。任期は十年から十二年くらいのものだ。任期が終了すると人々がやってきて、彼を惨殺した。それが共同体にとって必要とされたし、王も進んでそれを受け入れた。その殺し方は無惨で血なまぐさいものでなくてはならなかった。またそのように殺されることが、王たるものに与えられる大きな名誉だった。どうして王は殺されなくてはならなかったか? その時代にあっては王とは、人々の代表として〈声を聴くもの〉であったからだ。そのような者たちは進んで[#傍点]彼ら[#傍点終わり]と[#傍点]我々[#傍点終わり]を結ぶ回路となった。そして一定の期間を経た後に、その〈声を聴くもの〉を惨殺することが、共同体にとっては欠くことのできない作業だった。地上に生きる人々の意識と、リトル・ピープルの発揮する力とのバランスを、うまく維持するためだ。古代の世界においては、統治することは、神の声を聴くことと同義だった。しかしもちろんそのようなシステムはいつしか廃止され、王が殺されることもなくなり、王位は世俗的で世襲的なものになった。そのようにして人々は声を聴くことをやめた」
青豆は宙に上げた右手を無意識に開閉しながら、男の言うことに耳を傾けていた。
男は話し続けた。「[#傍点]彼ら[#傍点終わり]はこれまで様々な名前で呼ばれてきたし、おおかたの場合、どんな名前でも呼ばれなかった。[#傍点]彼らはただそこにいた[#傍点終わり]。リトル・ピープルという名前はあくまで便宜的なものに過ぎない。当時まだ幼かったわたしの娘が彼らを『小さな人たち』と呼んだ。彼女が彼らを連れてきた。わたしがその名前を『リトル・ピープル』に変えた。その方が言い易かったからだ」
「そしてあなたは王になった」
男は鼻から強く息を吸い込み、しばらくそれを肺に保存していた。それからゆっくりと吐いた。
「王ではない。〈声を聴くもの〉になったのだ」
「そしてあなたは今、惨殺されることを求めている」
「いや、惨殺である必要はない。今は一九八四年、ここは大都市の真ん中だ。とくに血なまぐさくなる必要はない。ただあっさり命を奪ってくれればいい」
青豆は首を振って身体の筋肉を緩めた。針の先端はまだ首筋の一点に当てられていたが、その男を殺したいという気持ちはどうしても湧いてこなかった。
青豆は言った。「あなたはこれまでに多くの幼い少女をレイプした。十歳になるかならないかの女の子たちを」
「そのとおりだ」と男は言った。「一般的な概念からすれば、そう捉えられてもやむを得ないところはある。世俗の法をとおして見ればわたしは犯罪者だ。まだ成熟を迎えていない女たちと肉体的に交わった。わたしがそれを求めたわけではないにせよ」
青豆はただ大きく息をしていた。体内で続いている激しい感情的な対流を、どのように鎮《しず》めればいいのか、青豆にはわからなかった。彼女の顔は歪められ、その左手と右手は、別のものごとを希求しているようだった。
「あなたに命を奪ってもらいたいとわたしは思う」と男は言った。「どのような意味合いにおいても、わたしはもうこれ以上この世界に生きていない方がいい。世界のバランスを保つために抹消されるべき人間なのだ」
「あなたを殺せば、そのあとどうなるのですか?」
「リトル・ピープルは声を聴くものを失う。わたしの後継者はまだいない」
「どうしてそんなことが信じられるの」と青豆は唇の間から吐き出すように言った。「あなたは都合の良い理屈をつけて、汚らわしい行いを正当化しているただの性的変質者かもしれない。リトル・ピープルなんて最初からいないし、神の声もないし、恩寵もない。あなたは世間にいくらでもいる、予言者や宗教家を名乗ったけちな詐欺師かもしれない」
「置き時計がある」と男は顔を上げることなく言った。「右手のチェストの上だ」
青豆は右に目をやった。そこには腰までの高さの曲面仕上げのチェストがあり、その上には大理石でできた置き時計があった。見るからに重そうだ。
「それを見ていてくれ。目を離さないように」
青豆は言われたように、首を曲げたままその置き時計を注視していた。彼女の指の下で、男の全身の筋肉が石のように硬く引き締まるのが感じられた。信じがたいほど激しい力がそこには込められていた。そしてその力に呼応するように、置き時計がそろそろとチェストの表面を離れ、宙に浮かび上がるのが見えた。時計は五センチばかり持ち上がり、ためらうように細かく震えながら、空中に位置を定め、十秒ほど浮かんでいた。それから筋肉がその力を失い、置き時計は鈍い音を立ててチェストの上に落ちた。まるで地球に重力があることを突然思い出したみたいに。
男は長い時間をかけて、深い疲弊の息を吐いた。
「こんなささやかなことでも、ずいぶん力が必要なんだ」、彼は体内にあったすべての空気を吐き終えてからそう言った。「寿命が削りとられるほどの。しかしわかってもらえるだろうか、少なくともわたしは[#傍点]けちな詐欺師[#傍点終わり]ではない」
青豆は返事をしなかった。男は大きく呼吸をしながら、体力を回復させていた。置き時計は何事もなかったように、チェストの上で黙々と時を刻み続けていた。位置が少し斜めにずれただけだ。秒針が一回りするあいだ青豆はそれをじつと見守っていた。
「あなたは特別な能力を持っている」と青豆は乾いた声で言った。
「見ての通りだ」
「たしか『カラマーゾフの兄弟』に悪魔とキリストの話が出てきます」と青豆は言った。「荒野で厳しい修行をするキリストに、悪魔が奇蹟をおこなえと要求します。石をパンに変えてみろと。しかしキリストは無視します。奇蹟は悪魔の誘惑だから」
「知っているよ。わたしも『カラマーゾフの兄弟』は読んだ。そう、もちろんあなたの言うとおりだ。このような派手な見せびらかしは何も解決しない。しかし限られた時間のあいだにあなたを納得させる必要があった。だからあえてやって見せた」
青豆は黙っていた。
「この世には絶対的な善もなければ、絶対的な悪もない」と男は言った。「善悪とは静止し固定されたものではなく、常に場所や立場を入れ替え続けるものだ。ひとつの善は次の瞬間には悪に転換するかもしれない。逆もある。ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』の中で描いたのもそのような世界の有様だ。重要なのは、動き回る善と悪とのバランスを維持しておくことだ。どちらかに傾き過ぎると、現実のモラルを維持することがむずかしくなる。そう、[#傍点]均衡そのものが善なのだ[#傍点終わり]。わたしがバランスをとるために死んでいかなくてはならないというのも、その意味合いにおいてだ」
「あなたをここで殺す必要を私は感じません」と青豆はきっぱりと言った。「もうご存じかもしれませんが、私はあなたを殺すつもりでここに来ました。あなたのような人間の存在を許すことはできない。何があろうとこの世から抹殺するつもりでいました。しかし今ではもうその[#傍点]つもり[#傍点終わり]はありません。あなたはひどく苦しんでいるし、その苦しみが私にはわかる。あなたはそのまま苦痛に苛まれ、ぼろぼろになって死ぬべきなのです。自分の手であなたに安らかな死を与える気持ちにはなれません」
男はうつぶせになったまま小さく肯いた。「もし君がわたしを殺したら、わたしの人々は君をどこまでも追い詰めるだろう。彼らは狂信的な連中だし、強く執拗な力を持っている。わたしがいなくなれば、教団そのものは求心力を失っていくだろう。しかしシステムというのはいったん形作られれば、それ自体の生命を持ち始めるものだ」
青豆は男がうつぶせになったまま語るのを聞いていた。
「君の友だちには悪いことをしてしまった」と男は言った。
「私の友だち?」
「手錠を持った女友だちだよ。なんといったっけな」
青豆の中に出し抜けに静けさが訪れた。そこにはもうせめぎ合いはなかった。重い沈黙がたれ込めているだけだ。
「中野あゆみ」と青豆は言った。
「不幸なことになってしまった」
「あなたが[#傍点]それ[#傍点終わり]をしたの?」と青豆は冷ややかな声で言った。「あなたがあゆみを殺したの?」
「いや、違う。わたしが殺したわけではない」
「でもあなたはなぜか知っている。あゆみが誰かに殺されたことを」
「リサーチャーがそれを調べた」と男は言った。「誰が彼女を殺したかまではわからない。わかっているのは、君の友だちの婦人警官がどこかのホテルで、誰かに絞殺されたことだけだ」
青豆の右手は再び硬く握りしめられた。「でもあなたは『君の友だちには悪いことをしてしまった』と言った」
「わたしにはそれを阻止できなかったということだ。誰が彼女を殺したにせよ、ものごとの脆弱《ぜいじゃく》な部分がいつも最初に狙われることになる。狼たちが、羊の群れの中のいちばん弱い一頭を選んで追い立てるように」
「つまり、あゆみは私の脆弱な部分だったということ?」
男は返事をしなかった。
青豆は両目を閉じた。「でも、何故あの子を殺さなくてはならなかったの? とても良い子だった。ひとに危害を加えるようなこともなかった。どうしてなの。私が[#傍点]このこと[#傍点終わり]に関わったから? なら私ひとりを破壊すれば済むことじゃない」
男は言った。「彼らには君を破壊することはできない」
「どうして」と青豆は尋ねた。「なぜ彼らには私を破壊することができないの?」
「すでに特別な存在になっているからだ」
「特別な存在」と青豆は言った。「どのように特別なの?」
「君はそれをやがて発見することになるだろう」
「やがて?」
「時が来れば」
青豆は顔をもう一度歪めた。「あなたの言っていることは理解できない」
「いずれ理解するようになる」
青豆は首を振った。「いずれにせよ、彼らは今のところ私を攻撃することができない。だから私のまわりにある[#傍点]脆弱な部分[#傍点終わり]を狙った。私に警告を与えるために。私にあなたの命を奪わせないように」
男は黙っていた。それは肯定の沈黙だった。
「ひどすぎる」と青豆は言った。そして首を振った。「あの子を殺したところで、現実は何ひとつ変わりやしないのに」
「いや、彼らは殺人者ではない。自分で手を下して誰かを破壊するようなことはしない。君の友人を殺したのは、おそらくは彼女自身の内包していたものだ。遅かれ早かれ同じような悲劇は起こっただろう。彼女の人生はリスクをはらんでいた。彼らはただそこに刺激を与えただけだ。タイマーの設定を変更するように」
タイマーの設定?
「あの子は電気オーヴンなんかじゃない。生身の人間よ。リスクをはらんでいようがいまいが、私にとっては大事な友だちだった。あなた方はそれをいとも簡単に奪っていった。意味もなく、冷酷に」
「その怒りは正当なものだ」と男は言った。「それをわたしに向ければいい」
青豆は首を振った。「あなたの命をここで奪ったところで、あゆみが戻ってくるわけじゃない」
「しかしそうすることによって、リトル・ピープルに一矢報いることはできる。言うなれば復讐することができる。彼らはまだわたしの死を望んでいない。わたしがここで死ねば空白が生じる。少なくとも後継者ができるまでの一時的な空白がね。彼らにとっては痛手になる。同時にそれは君にとっても益となることだ」
青豆は言った。「復讐ほどコストが高く、益を生まないものはほかにない、と誰かが言った」
「ウィンストン・チャーチル。ただしわたしの記憶によれば、彼は大英帝国の予算不足を言い訳するためにそのように発言したんだ。そこには道義的な意味合いはない」
「道義なんてどうでもいい。私が手を下すまでもなく、あなたはわけのわからないものに身体を食い尽くされ、苦しみ抜いて死ぬでしょう。それについて私が同情する理由は何もありません。世界が道義を失ってぼろぼろに崩れたとしても、それは私のせいじゃない」
男はもう一度深い息をついた。「なるほど。君の言い分はよくわかった。それではこうしようじゃないか。一種の取り引きだ。もしここでわたしの命を奪ってくれるなら、かわりに川奈天吾くんの命が助かるようにしてあげよう。わたしにもまだそれくらいの力は残されている」
「天吾」と青豆は言った。身体から力が抜けていった。「あなたは[#傍点]そのこと[#傍点終わり]も知っている」
「わたしは君についての何もかもを知っている。そう言っただろう。[#傍点]ほとんど[#傍点終わり]何もかもということだが」
「でもそこまであなたに読みとれるわけはない。天吾くんの名前は私の心から一歩も外に出ていないのだから」
「青豆さん」と男は言った。そしてはかない溜息をついた。「心から一歩も外に出ないものごとなんて、この世界には存在しないんだ。そして川奈天吾くんは現在、[#傍点]たまたま[#傍点終わり]というべきか、我々にとって少なからぬ意味を持つ存在になっている」
青豆は言葉を失っていた。
男は言った。「しかし正確に言えば、それはただの偶然ではない。君たち二人の運命が、ただの成り行きによってここで邂逅したわけではない。君たちは入るべくしてこの世界に足を踏み入れたのだ。そして入ってきたからには、好むと好まざるとにかかわらず、君たちはここでそれぞれの役割を与えられることになる」
「この世界に足を踏み入れた?」
「そう、この1Q84年に」
「1Q84年?」と青豆は言った。顔はもう一度大きく歪められた。[#傍点]それは私の作った言葉じゃないか[#傍点終わり]。
「そのとおり。君が作った言葉だ」と男は青豆の心を読んだように言った。「わたしはただそれを使わせてもらっているだけだ」
1Q84年、と青豆は口の中でその言葉を形作った。
「心から一歩も外に出ないものごとなんて、この世界には存在しない」とリーダーは静かな声で繰り返した。