まだ温もりが残っているうちに
午前中に東京駅を出る特急列車に乗り、天吾は館山に向かった。館山で各駅停車に乗り換え、千倉まで行った。きれいに晴れ上がった朝だ。風はなく、海にも波はほとんど見えなかった。夏もすでに遠くなり、半袖のシャツの上にコットンの薄手のジャケットというかっこうでちょうどいい。海水浴客の姿の消えた海辺の町は、思いのほか閑散としてひと気がなかった。本当に猫の町になってしまったみたいだ、と天吾は思った。
駅前で簡単に食事を済ませ、それからタクシーに乗った。療養所に着いたのは一時過ぎだった。このあいだと同じ中年の看護婦が受付で天吾を出迎えた。昨夜も電話に出た女性だ。田村看護婦。彼女は天吾の顔を覚えていて、最初の時よりも少しだけ愛想がよかった。わずかに微笑みさえした。天吾が今回は小綺麗な服装をしてきたことも、いくらか影響しているかもしれない。
彼女はまず食堂に天吾を案内し、コーヒーを出してくれた。「ここで少し待っていてください。先生が見えますから」と彼女は言った。十分ばかり後に担当の医師が、タオルで手を拭きながらやってきた。硬い髪に白髪が混じりかけていて、年齢は五十前後だろう。何かの作業をしていたらしく、白衣は着ていなかった。グレーのスエットシャツに、お揃いのスエットパンツ、履き古したジョギング・シューズという格好で、体格も良く、療養所の医師というよりは、二部リーグからどうしても上がることのできない大学運動部のコーチのように見えた。
医師の話は、昨夜電話で話したこととおおむね同じだった。残念ながら今のところ、医学的に打つべき手はもうほとんどありません、と医師は残念そうに言った。表情や言葉遣いからして、彼の心情は本物であるように見えた。
「息子さんが声をかけてあげて、励ましてあげて、生きようという意欲を盛り上げてあげるしか、もう方法は残されていないようです」
「こちらが話していることは父に聞こえるのでしょうか?」と天吾は尋ねた。
医師はぬるい日本茶を飲みながらむずかしい顔をした。「正直なところ、それは私にもわかりません。お父さんは昏睡状態にあります。呼びかけても身体的な反応はまったくありません。しかしたとえ深い昏睡状態にあっても、人によってはまわりの話し声が聞こえる場合もありますし、その内容をある程度理解できることもあります」
「でも見た目ではその違いはわからないのですね」
「わかりません」
「夕方の六時半くらいまでここにいられます」と天吾は言った。「そのあいだ父のそばにいて、できるだけ話しかけてみるようにします」
「もし何か反応らしきものがありましたら教えてください」と医師は言った。「私はこのあたりのどこかにいますから」
若い看護婦が、父親が寝かされている部屋に天吾を案内した。彼女は「安達」という名札をつけていた。父親は新しい棟の一人部屋に移されていた。より重度の患者のための棟だ。歯車がひとつ前に進んだわけだ。これより先の移動場所はない。狭くて細長い、素っ気のない部屋で、ベッドが部屋の面積の半分近くを占めていた。窓の外には防風の役目を果たす松林が広がっている。密に茂った松林はその療養所を、活気のある現実の世界と隔てる大きな仕切り壁のようにも見えた。看護婦が出て行くと、天吾は天井に顔を向けて眠り込んでいる父親と二人きりになった。彼はベッドのわきに置かれた小さな木製のスツールに腰を下ろし、父親の顔を見た。
ベッドの枕元には点滴液のスタンドがあり、ビニールパックの中の液体がチューブで腕の血管に送り込まれている。尿道にも排泄のためのチューブが挿入されている。しかし見たところ排尿量は驚くほど少なかった。父親は先月見たときよりも、更にひとまわり小さく縮んで見えた。すっかり肉の削げた頬と顎には、おおよそ二日分の白い髭が生えている。もともと目は落ちくぼんでいる方だったが、そのくぼみは前よりいっそう深くなっていた。何か専門的な道具を使って、眼球をその穴の中から手前に引っ張り出す必要があるのではないかと思えるほどだった。両目のまぶたはその深い穴の中で、シャッターでも下ろされたみたいに堅く閉じられ、口はわずかに半開きになっていた。息づかいは聞こえなかったが、耳をすぐそばまで寄せると微かな空気のそよぎが感じ取れた。最低限のレベルの生命維持がそこで密かになされているのだ。
天吾には、昨夜の電話で医師が口にした「まるで列車が少しずつ速度を落として停止に向かうときのように」という表現がひどくリアルなものとして感じ取れた。父親という列車は徐々にスピードを落とし、惰性が尽きるのを待ち、何もないがらんとした平原の真ん中に静かに停止しようとしている。ただひとつの救いは、車内にはもう、一人の乗客も残ってはいないということだ。列車がこのまま停止しても、そのことで苦情を申し立てる人間はいない。
何かを話しかけなくては、と天吾は思った。しかし何を、どのように、どんな声で話しかければいいのか、天吾にはわからなかった。しゃべろうと思っても、意味を持つ言葉がまったく頭に浮かんでこない。
「お父さん」と彼はとりあえず小さな声で囁くように言った。しかしあとの言葉が続かなかった。
彼はスツールから立ち上がり、窓際に行って、よく手入れをされた芝生の庭と、松林の上に広がる高い空を眺めた。大きなアンテナの上にカラスが一羽とまって、陽光を身に受けながら、思慮深げにあたりを睥睨《へいげい》していた。ベッドの枕元には目覚まし時計のついたトランジスタ・ラジオが置かれていたが、父親はそのどちらの機能をも必要としてはいなかった。
「天吾です。さっき東京から来ました。僕の声が聞こえますか?」、彼は窓際に立ったまま、父親を見下ろすようにして言った。反応はまったくない。彼の発した声は束の間空気を震わせたあと、部屋にしっかりと腰を据えた空白の中に跡形もなく吸い込まれていった。
この男は死のうとしている、と天吾は思った。深く落ちくぼんだ目を見れば、それがわかった。彼はもう生命を終えようと心を決めたのだ。そして目を閉じ、深い眠りについた。何を語りかけたところで、どれだけ励ましたところで、その決心をくつがえすことは不可能だろう。医学的に見ればまだ生きている。しかしこの男にとってすでに人生は終了していた。そして努力してそれを延長するための理由も意志も、彼の中にはもう残されていなかった。天吾にできるのは、父親の希望を尊重し、そのまま静かに安らかに死なせてやることくらいだ。その男はとても穏やかな顔をしていた。今のところ苦しみはまったく感じていないようだ。医師が電話で言ったように、それがただひとつの救いだった。
それでも天吾は父親に何かを話しかけなくてはならなかった。ひとつにはそれが医師と約束したことであったからだ。医師はどうやら親身になって父親の面倒を見てくれているようだった。そしてもうひとつ、そこには——ぴたりとしたうまい表現が思いつけないのだが——礼儀の問題があった。もうずいぶん長いあいだ、天吾は父親とまとまった話をしていなかった。日常会話さえろくに交わしていなかった。最後に話らしい話をしたのはたぶん中学生のときだ。そのあと天吾はほとんど家に寄りつかなくなり、用事があって帰っても父親と顔を合わせることをできるだけ避けるようになった。
しかしその男は今、深い昏睡状態に入り込んだまま、彼の前でひっそりと死んでいこうとしていた。自分が本当の父親ではないということを天吾に事実上打ち明け、それでようやく肩の荷を下すことができて、どことなくほっとしているようにも見えた。我々はそれぞれの肩の荷を下ろせたわけだ。ぎりぎりのところで。
おそらく血のつながりはないにせよ、天吾を戸籍上の実の息子として引き受け、自活できるようになるまで面倒を見てくれたのはこの男なのだ。それだけの恩義はある。自分がこれまでどのように生きてきたか、どんなことを考えて生きてきたか、それをいちおう報告しておく義務はあるはずだ。天吾はそう思った。いや、義務というのではない。それはあくまで[#傍点]礼儀の問題[#傍点終わり]なのだ。言っていることが相手の耳に届くかどうか、それが何かの役に立つかどうか、そんなこととは関係なく。
天吾はもう一度ベッドの脇のスツールに腰を下ろし、彼がこれまでに送ってきた人生のあらましを語り始めた。高校に入学し、家を出て柔道部の寮で暮らし始めたころからの話だ。そのときから彼の生活と、父親の生活はほとんどすべての接点を失い、二人はお互いが何をしているのか、まったく関知しないという状態になっていった。そのような大いなる空白をできるだけ埋めておいた方がいいかもしれない。
しかし天吾の高校時代の生活については、語るべきことはたいしてない。彼は柔道部が強いことで定評のある千葉県内の私立高校に入学した。もっと程度の高い高校に行くことは楽にできたのだが、その高校の出してきた条件がいちばん良かった。学費免除待遇、その上に三食付きの寮も用意されていた。天吾はその学校で柔道部の中心選手となり、練習の合間に勉強をし(とくに熱心に勉強をしなくても、その学校でならトップクラスの成績を楽に保つことはできた)、休暇中には部の仲間たちと肉体労働のアルバイトをして小遣い銭を稼いだ。やるべきことがたくさんあり、とにかく朝から晩まで時間に追われる日々だった。三年間の高校生活については、忙しかったという以外にこれといって語るべきこともない。特に楽しいこともなかったし、親しい友だちもできなかった。学校も何かと規則が多く、まったく好きになれなかった。柔道部の仲間たちとは適当に調子をあわせてつきあっていたが、基本的に話は合わなかった。正直に言って天吾は、柔道という競技に心からのめり込んだことは一度もなかった。自活するためには柔道で良い成績を残すことが必要だったから、まわりの期待を裏切らないように、真面目に練習に打ち込んでいただけだ。それはスポーツというよりは生き残っていくための現実的な方便だった。仕事と言ってもいいくらいのものだ。一刻も早くこんなところを卒業してしまいたい、もっとまともな暮らしを送りたいと思いながら、彼は高校の三年間を送った。
しかし大学に入ってからも柔道は続けた。基本的には高校時代と同じ生活だ。柔道部の活動を続けていれば、寮に入ることができたし、寝る場所と食べるものには(あくまで最低限のレベルではあるけれど)困らなかったからだ。奨学金はもらったが、奨学金だけではとても生活していけない。だから柔道を続ける必要があった。もちろん専攻は数学だった。それなりに勉強はしたから、大学でも成績は良かったし、指導教授に大学院に進むことを勧められもした。しかし三年生、四年生と進むにつれて、学問としての数学に対する情熱のようなものが、天吾の中から急速に失われていった。数学そのものは相変わらず好きだった。しかしその研究を職業とすることは、どうしても気が進まなかった。柔道の場合と同じだ。アマチュアとしてはなかなかのものだが、それに一生を懸けようというほどの資質も意欲も持ち合わせていない。自分でもそれがわかっていた。
数学に対する関心が薄れてしまうと、そして大学の卒業も目前に迫り、それ以上柔道を続ける理由が消滅してしまうと、これから何をすればいいのか、どんな道に進めばいいのか、天吾にはさっぱりわからなくなった。彼の人生はその中心を失ってしまったようだった。もともと中心のない人生ではあったけれど、それまでは他人が彼に対して何かを期待し、要求してくれた。それに応えることで彼の人生はそれなりに忙しく回っていた。しかしその要求や期待がいったん消えてしまうと、あとには語るに足るものは何ひとつ残らなかった。人生の目的もない。親友の一人もいない。彼は凪のような静謹の中に取り残され、何ごとに対しても神経をうまく集中することができなくなった。
大学にいるあいだにガールフレンドは何人かできたし、性的体験も持った。天吾は一般的な意味でハンサムではないし、社交的な性格でもなく、とくに話が面白いわけでもない。いつも金に不自由していたし、着るものも見栄えがしなかった。しかしある種の植物の匂いが蛾を引き寄せるように、ある種の女性を天吾は引き寄せることができた。それもかなり強く。
二十歳になった頃に(学問としての数学に対する熱意を失い始めたのとほぼ同じ時期だ)その事実を彼は発見した。自分から何もしなくても、彼に関心を持って近づいてくる女性たちが必ず身近にいた。彼女たちは彼の太い腕に抱かれたがっていた。あるいは少なくとも、そうされることを拒否はしなかった。最初のうちはそのような仕組みがよく理解できず、けっこう戸惑わされたのだが、やがてコツのようなものを飲み込み、その能力をうまく使いこなせるようになった。そしてそれ以来、天吾が女性に不自由することはほとんどなくなった。しかし彼自身はそのような女性たちに対して、積極的な恋愛感情を持つことがなかった。ただ彼女たちとつきあって、肉体的な関係を持つだけだ。お互いの空白を埋め合うだけだ。不思議といえば不思議なことだが、彼に心を惹かれる女性に、彼が心を強く惹かれることは一度としてなかった。
天吾はそのような経緯を、意識のない父親に向かって語った。最初は言葉を選びながらゆっくりと、そのうちに滑らかに、最後にはいくらかの熱を込めて。性的な問題についても彼はできるだけ正直に語った。今更恥ずかしがることもあるまいと天吾は思った。父親は姿勢を崩すことなく、仰向けになったまま深い眠りを続けていた。息づかいも変わらなかった。
三時前に看護婦がやってきて、点滴液の入ったビニールパックを交換し、尿のたまった袋を新しいものに換え、体温を測った。がっしりとした体つきの三十代半ばの看護婦だった。胸も大きい。彼女の名札には「大村」とあった。髪を固く束ね、そこにボールペンを差していた。
「何か変わったことはありませんでしたか?」と彼女は、そのボールペンで紙ばさみの表に数字を記録しながら天吾に尋ねた。
「何もありません。ずっと眠り込んだきりです」と天吾は言った。
「何かあったらそのボタンを押してください」と彼女は枕元に下がった呼び出しスイッチを示した。そしてボールペンをまた髪の中に差し込んだ。
「わかりました」
看護婦が出て行った少し後で、ドアに短くノックがあり、眼鏡をかけた田村看護婦が戸口から顔を出した。
「食事はいかがですか。食堂にいけば何か食べられますが」
「ありがとう。でもまだおなかはすいていません」と天吾は言った。
「お父さんの具合はいかが?」
天吾は肯いた。「ずっと話をしていました。聞こえているのか聞こえていないのか、よくわかりませんが」
「話しかけるのはいいことです」と彼女は言った。そして励ますように微笑んだ。「大丈夫、きっとお父さんには聞こえています」
彼女はそっとドアを閉めた。狭い病室の中で、天吾と父親はまた二人きりになった。
天吾は話を続けた。
大学を卒業し、都内の予備校に勤め、数学を教えるようになった。彼はもう将来を嘱望される数学の神童でもなく、有望な柔道選手でもなかった。ただの予備校講師だ。でもそれが天吾には嬉しかった。彼はそこでやっと一息つくことができた。生まれて初めて、誰に気兼ねをすることもなく、自分一人の自由な生活を送ることができるのだ。
彼はやがて小説を書き始めた。いくつかの作品を書いて、出版社の新人賞に応募した。そのうちに小松という癖のある編集者と知り合い、ふかえり(深田絵里子)という十七歳の少女の書いた『空気さなぎ』をリライトする仕事を持ちかけられた。ふかえりには物語は作れたが、文章を書く能力がなかったから、天吾がその役を引き受けた。彼はその仕事をうまくこなし、作品は文芸誌の新人賞を取り、本になり、大ベストセラーになった。『空気さなぎ』は話題になりすぎて選考委員に敬遠され、芥川賞をとることはできなかったが、小松の率直な表現を借りるなら「そんなもの要らん」くらい本は売れた。
自分の語っていることが父親の耳に届いているのかどうか、天吾には自信はなかった。もし耳に届いているとしても、それが理解されているかどうか知るべくもなかった。反応もなく、手応えもない。そしてもし理解されているとしても、父親がそんな話に興味を持っているのかどうかはわからない。ただ「うるさい」と感じているだけかもしれない。他人の人生の話なんてどうでもいい、このまま静かに眠らせておいてくれ、そう思っているかもしれない。しかし天吾としては、とにかく頭に浮かんだことを話し続けるしかなかった。この狭い病室で顔を突き合わせていて、ほかにやるべきことも思いつかない。
父親は相変わらず微動だにしない。彼の一対の目は、暗く深い穴の底で堅く閉じられている。雪が降ってきて、その穴が白くふさがれるのを、ただじつと待ち受けているようにも見える。
「今のところまだうまくいっているとは言えないけど、僕はできればものを書いて生活していきたいと思っている。他人の作品のリライトなんかじゃなく、自分の書きたいものを自分の書きたいように書くことでね。文章を書くことは、とくに小説を書くことは、僕の性格に合っていると思う。やりたいことがあるというのはいいものだよ。僕の中にもやっとそういうものが生まれてきたんだ。書いたものが名前つきで活字になったことはまだないけれど、たぶんそのうちになんとかなるだろう。自分で言うのもなんだけど、書き手としての僕の能力は決して悪くないと思う。少しは評価してくれる編集者もいる。そのことについてはあまり心配していない」
それに僕にはどうやらレシヴァとしての資質がそなわっているらしい、と言い添えるべきなのかもしれない。なにしろ自分の書いているフィクションの世界に現実に引きずり込まれたくらいだ。しかしそんなややこしい話をここで始めるわけにはいかない。それはまた別の話だ。彼は話題を変えることにした。
「僕にとってもっと切実な問題は、これまで誰かを真剣に愛せなかったということだと思う。生まれてこの方、僕は無条件で人を好きになったことがないんだ。この相手になら自分を投げ出してもいいという気持ちになったことがない。ただの一度も」
天吾はそう言いながら、目の前にいるこの貧相な老人はその人生の過程において、誰かを心から愛した経験があるのだろうか、と考えた。あるいは彼は天吾の母親のことを真剣に愛していたのかもしれない。だからこそ血の繋がりがないことを知りながら、幼い天吾を自分の子供として育てたのかもしれない。もしそうだとしたら、彼は精神的には天吾よりもずっと充実した人生を送ったということになる。
「ただ例外というか、一人の女の子のことをよく覚えている。市川の小学校で三年生と四年生のとき同じクラスだった。そう、二十年も前の話だよ。僕はその女の子にとても強く心を惹かれた。ずっとその子のことを考えてきたし、今でもよく考える。でもその子と実際にはほとんど口をきいたこともなかった。途中で転校していって、それ以来会ったこともない。でも最近あることがあって、彼女の行方を捜してみようという気になった。自分が彼女を必要としていることにようやく気がついたんだ。彼女と会っていろんな話をしたかった。でも結局その女の子の行方はつきとめられなかった。もっと前に捜し始めるべきだったんだろうね。そうすれば話は簡単だったかもしれない」
天吾はそこでしばらく沈黙した。そして今までに語ったものごとが父親の頭に落ち着くのを待った。というよりむしろ、それが彼自身の頭に落ち着くのを待った。それから再び話を続けた。
「そう、僕はそういうことについてはとても臆病だった。たとえば自分の戸籍を調べなかったのも同じ理由からだ。母親が本当に亡くなったのかどうか、調べようと思えば簡単に調べられた。役所に行って記録をみればすぐにわかることだからね。実際に何度も調べようと思った。役所まで足を運んだこともあった。でも僕にはどうしても書類を請求することができなかった。事実を目の前に差し出されることが怖かったんだ。自分の手でそれを暴いてしまうことが怖かった。だからいつか何かの成り行きで、自然にそれが明らかにされるのを待っていた」
天吾はため息をついた。
「それはともかく、その女の子のことはもっと早いうちに捜し始めるべきだった。ずいぶん回り道をした。でも僕にはなかなか腰を上げることができなかった。僕は、なんと言えばいいんだろう、心の問題についてはとても臆病なんだ。それが致命的な問題点だ」
天吾はスツールから立ち上がり、窓際に行って、松林を眺めた。風はやんでいた。海鳴りも聞こえなかった。一匹の大きな猫が庭を歩いていた。腹の垂れ方からすると、妊娠しているようだ。猫は木の根もとで横になり、脚を広げて腹をなめ始めた。
彼は窓際にもたれかかったまま、父親に向かって言った。
「でもそれとは別に、僕の人生は最近になってようやく変化を遂げつつあるみたいだ。そういう気がする。正直に言って、僕は長いあいだお父さんのことを恨みに思っていた。小さい頃から、自分はこんな惨めな狭苦しいところにいるべき人間じゃない、もっと恵まれた環境に相応しい人間だと考えていた。自分がこんな扱いを受けるのはあまりにも不公平だと感じてきた。同級生たちはみんな幸福な、満ち足りた生活を送っているみたいに見えた。僕より能力も資質も劣る連中が、僕とは比べものにならないほど楽しそうに暮らしていた。あなたが自分の父親でなければよかったのにとその頃、真剣に願っていた。これは何かの間違いで、あなたは実の父親ではないはずだと、いつも想像していた。血なんか繋がっているはずがないと」
天吾はもう一度窓の外に目をやって、猫の姿を見た。猫は自分が見られていることも知らず、無心にそのふくらんだ腹をなめていた。天吾は猫を見ながら話を続けた。
「今ではそんなことは思わない。そんな風には考えない。僕は自分に相応しい環境にいて、自分に相応しい父親を持っていたのだと思うよ。嘘じゃなく。ありのままを言えば、僕はつまらない人間だった。値うちのない人間だった。ある意味では僕は、自分で自分を駄目にしてきたんだ。今となってはそれがよくわかる。小さい頃の僕はたしかに数学の神童だった。それはなかなか大した才能だったと自分でも思うよ。みんなが僕に注目したし、ちやほやもしてくれた。でもそれは結局のところ、どこか意味あるところに発展する見込みのない才能だった。それはただ[#傍点]そこにあった[#傍点終わり]だけなんだ。僕は小さい頃から身体が大きくて柔道が強かった。県の大会では常にいいところまで行った。しかしより広い世界に出て行けば、僕より強い柔道選手はいくらもいた。大学では全国大会の代表選手にも選ばれなかった。それで僕はショックを受けて一時期、自分が何ものであるかがわからなくなった。でもそれは当然のことだ。実際に何ものでもなかったんだから」
天吾は持ってきたミネラル・ウォーターの蓋をあけて、それを一口飲んだ。そしてまたスツールに腰を下ろした。
「この前も言ったけど、あなたには感謝している。僕はあなたの本当の子供じゃないと思っている。ほとんどそう確信している。そして血の繋がりのない僕を育ててくれたことについて感謝している。男一人で小さな子供を育てるのは簡単じゃなかったはずだ。NHKの集金に連れまわされたことについては、今思い出してもうんざりするし、胸も痛む。嫌な記憶しかない。でもきつとあなたには、それ以外に僕とコミュニケーションをとる手段が思いつけなかったんだろう。なんて言えばいいんだろう、それがあなたにとっては[#傍点]もっともうまくできる[#傍点終わり]ことだったんだ。あなたと社会との唯一の接点のようなものだった。きっとその現場を僕に見せたかったんだろう。今になれば僕にもそれがわかる。もちろん子連れの方が集金しやすいという計算もあった。でもただそれだけじゃなかったはずだ」
天吾はまた少し間をとって、自分の言ったことを父親の頭に浸み込ませた。そしてそのあいだに自分の考えをまとめた。
「しかし子供のときにはそんなことはもちろんわからない。ただ恥ずかしく、つらかっただけだ。日曜日、同級生たちが楽しそうに遊んでいるときに、集金についてまわらなくちゃならないことがね。日曜がやって来るのが嫌でしょうがなかった。でも今はある程度理解できている。あなたのやったことが正しかったとまでは言わない。僕の心は傷つけられた。子供にとってはきついことだ。しかしもうすでに起こってしまったことだ。気にしなくていい。それにそのおかげで、僕はそれなりにタフになれたような気がする。この世の中を生きていくのは楽な作業じゃない。僕はそのことを身をもって学んだ」
天吾は両手を開いて、手のひらをしばらく眺めた。
「僕はこれからもなんとか生きていく。これまでよりはたぶんもっとうまく、それほど無駄な回り道もしないで生きていけるんじゃないかと思う。お父さんがこれからどうしたいのか、僕にはわからない。このまま静かに、そこでずっと眠っていたいのかもしれない。二度と目を覚まさないで。もしそうしたいのなら、そうすればいい。もしそう望んでいるのなら、その邪魔をすることはできない。ただぐっすり眠らせておくしかない。でもそれはそれとして、あなたに向けていちおうこれだけのことは話しておきたかったんだ。僕がこれまでやってきたこと。僕が今考えていること。こんな話は聞きたくもなかったかもしれない。もしそうだとしたら、迷惑なことをして悪かったと思う。でもいずれにせよ、これ以上話すべきことはない。言っておいた方がいいと思うことはだいたい言ったと思う。もう邪魔はしない。あとはぐっすり好きなだけ眠ればいい」
五時過ぎに髪にボールペンを差した大村看護婦がまたやってきて、点滴の量をチェックした。今度は体温は測らなかった。
「何か変わりはありませんでした?」
「とくにありません。ただ眠り続けています」と天吾は言った。
看護婦は肯いた。「もうすぐ先生が見えます。川奈さん、今日は何時頃までここにいられます?」
天吾は腕時計に目をやった。「夕方七時前の電車に乗ります。だから六時半くらいまではいられます」
看護婦は表に記入し終えると、またボールペンを髪に戻した。
「昼過ぎからずっと話しかけているんです。でもなんにも聞こえていないみたいだ」と天吾は言った。
看護婦は言った。「看護婦になる教育を受けているときにひとつ教わったことがあります。明るい言葉は人の鼓膜を明るく震わせるということです。明るい言葉には明るい振動があります。その内容が相手に理解されてもされなくても、鼓膜が物理的に明るく震えることにかわりはありません。だから私たちは患者さんに聞こえても聞こえなくても、とにかく大きな声で明るいことを話しかけなさいと教えられます。理屈はどうであれ、それはきつと役に立つことだからです。経験的にもそう思います」
天吾はそれについて少し考えた。「ありがとう」と天吾は言った。大村看護婦は軽く肯いて、素早い足取りで部屋を出て行った。
天吾と父親はそれから長いあいだ沈黙を守っていた。天吾にはもうそれ以上話すべきことがなかった。しかし沈黙はとくに居心地の悪いものではなかった。午後の光が徐々に薄らぎ、夕暮れの気配があたりに漂った。最後の日差しが部屋の中を、無音のうちにこっそり移ろっていった。
月が二個あることは父親に話したっけな、と天吾はふと考えた。まだ言っていないような気がした。天吾は今、ふたつの月が空に浮かんでいる世界に生きている。「それは何度見てもとても不思議な風景なんだよ」と天吾は言いたかった。でも今ここでそんな話を持ち出しても仕方ないだろうという気がした。空に月がいくつあろうが、父親にとってはもうどうでもいいことだ。それは天吾がこれから一人で対処していかなくてはならない問題だ。
それにこの世界に(あるいは[#傍点]その[#傍点終わり]世界に)月が一個しかなくても、二個あっても、三個あっても、結局のところ天吾という人間はたった一人しかいない。そこにどんな違いがあるだろう。どこにいたって、天吾は天吾でしかない。固有の問題を抱え、固有の資質をもった、一人の同じ人間に過ぎない。そう、話のポイントは月にあるのではない。彼自身にあるのだ。
三十分ばかりあとに再び大村看護婦がやってきた。彼女の髪にはなぜかもうボールペンははさまれていなかった。ボールペンはどこに行ったのだろう? そのことが何故かとても気にかかった。二人の男性の職員が移動用のベッドを転がして一緒にやってきた。どちらもずんぐりとして、顔色が浅黒かった。そしてまったく口をきかなかった。外国人のようにも見えた。
「川奈さん、お父さんを検査室にお連れしなくてはなりません。そのあいだここでお待ちいただけますか?」と看護婦は言った。
天吾は時計を見た。「何か具合が良くないんですか?」
看護婦は首を振った。「いえ、そうじゃありません。この部屋には検査用の機械がないので、そちらまで運ぶだけです。特別なことじゃありません。そのあとで先生からお話があるはずです」
「わかりました。ここで待っています」
「食堂に行けば温かいお茶が飲めます。少し休んだ方がいいですよ」
「ありがとう」と天吾は言った。
二人の男たちは点滴のチューブをつけたまま、父親の痩せた身体をそっと抱きかかえるようにして車輪のついたベッドに移した。二人は点滴のスタンドと一緒にベッドを廊下に出した。とても手際がいい。そしてやはり終始無言だった。
「それほど長くはかかりませんから」と看護婦は言った。
しかし父親は長いあいだ戻ってこなかった。窓から入ってくる光はだんだん弱いものになっていった。でも天吾は部屋の明かりをつけなかった。明かりをつけると、そこにある何か大事なものが損なわれてしまうような気がしたからだ。
ベッドには父親のかたちがくぼみになって残っていた。それほどの体重はないはずだが、それでも父親はそのはっきりとしたかたちをあとに残していった。そのくぼみを眺めているうちに、天吾は自分がこの世界にひとりぼっちでとり残されてしまったような気がしてきた。いったん日が暮れてしまったら、もう二度と夜明けが来ないのではないかという気さえした。
スツールに座り、夕闇の前触れの色に染まりながら、天吾は同じ姿勢のまま長いあいだもの思いに耽っていた。それからふと、自分が本当は何も考えていないことに思い当たった。ただあてのない空白の中に身を沈めていただけだ。彼はゆっくりと椅子から立ち上がり、洗面所に行って用を足した。冷たい水で顔も洗った。ハンカチで顔を拭き、鏡に自分の顔を映してみた。看護婦に言われたことを思い出し、下の食堂に行って温かい日本茶を飲んだ。
二十分ばかり時間をつぶして病室に帰ったとき、父親はまだそこに戻されていなかった。しかしそのかわり、父親が残していったベッドのくぼみの上には、見かけたことのない白い物体が置かれていた。
それは全長が一メートル四〇か五〇センチあり、美しい滑らかな曲線を描いていた。一見して落花生の殻に似たかたちをしており、表面は柔らかな短い羽毛のようなもので覆われている。そしてその羽毛は微かな、しかしむらのない滑らかな輝きを発していた。刻一刻と暗さを増していく部屋の中で、淡い青の混じった光がほんのりとその物体を包んでいた。まるで父親があとに残していった個人的なかりそめの空間を埋めるかのように、ベッドの上にひそやかにそれは横たわっていた。天吾は戸口で足を止め、ドアノブに手を置いたままその不思議な物体をひとしきり見つめた。彼の唇は動きらしきものを見せかけたが、言葉は出てこなかった。
いったいこれは何だ? 天吾はそこに立ちすくんだまま目を細め、自分に問いかけた。どうして父親のかわりにここにこんなものが置かれているのだろう。医師や看護婦の持ち込んだものではないことは一目見ればわかった。そのまわりには現実の位相から外れた、何か特殊な空気が漂っていた。
それから天吾ははっと気づいた。[#傍点]空気さなぎだ[#傍点終わり]。
天吾が空気さなぎを目にしたのはそれが初めてだった。小説『空気さなぎ』の中で彼はそれを詳細に文章で描写したが、もちろん実物を目撃したわけではないし、それを実在するものとして想定したわけでもなかった。しかしそこにあるのは、彼が頭の中で想像し、描写したとおりの空気さなぎだった。胃が金具で締めつけられるような激しい既視感があった。天吾はともあれ部屋の中に入り、ドアを閉めた。誰かに見られない方がいい。それから口の中に溜まっていた唾液を呑み込んだ。喉の奥で不自然な音がした。
天吾はゆっくりとベッドに近寄り、一メートルほどの距離を置いて、その空気さなぎの姿を用心深く観察した。そしてそれが、小説を書くときに天吾が絵に描いた空気さなぎそのままのかたちをしていることを認めた。彼は文章で「空気さなぎ」の形状を描写する前に、まず鉛筆で簡単なスケッチをした。自分の中にあるイメージを視覚的なかたちにした。それを文章に転換していった。『空気さなぎ』の改稿作業をしているあいだずっと、その絵は机の前の壁にピンでとめられていた。それはかたちとしてはさなぎというよりは、むしろ[#傍点]まゆ[#傍点終わり]に近い。しかしふかえりにとって(そしてまた天吾にとっても)それは「空気さなぎ」という名前でしか呼ぶことのできないものだった。
そのときに天吾は、空気さなぎの外見的特徴の多くを自分で創作し、付け加えた。たとえば中央部分の優美なくびれや、両端についているふっくらとした装飾的な丸い瘤《こぶ》。それらはあくまで天吾の考えついたことだった。ふかえりのオリジナルの「語り」にはそんな言及はない。ふかえりにとって空気さなぎとはどこまでも空気さなぎであり、いわば具象と概念の中間にあるものであり、それを言語的に形容する必要性をほとんど感じなかったようだ。だから天吾が自分でその細かい形状を考案しなくてはならなかった。そして天吾が今目にしているその空気さなぎには、しっかり中央部のくびれがあり、両端に美しい瘤がついていた。
これは俺がスケッチに描き、文章にした空気さなぎそのままだ、と天吾は思った。空に浮かんだ二つの月の場合と同じだ。彼が文章にしたかたちが、なぜか細部までそのまま現実のものとなっている。原因と結果が錯綜している。
神経がねじれるような奇妙な感覚が四肢にあり、肌がざわざわと粟だった。ここにある世界のどこまでが現実でどこからがフィクションなのか、見分けがつかなくなっていた。いったいどこまでがふかえりのものであり、どこからが天吾のものなのだろう。そしてどこからが「我々」のものなのだろう。
さなぎのいちばん上の部分には縦にまっすぐ、一筋の裂け目が走っていた。空気さなぎは今まさにふたつに割れようとしていた。二センチほどの隙間がそこに生じていた。身を屈めてのぞき込めば、中に何があるのか目にすることができそうだ。しかしそうする勇気は天吾にはなかった。彼はベッドの脇のスツールに腰を下ろし、肩をわずかに上下させながら呼吸を整え、空気さなぎを見守っていた。その白いさなぎは灰かな光を発しながら、そこにじつとしていた。それは与えられた数学の命題のように、天吾が近づくのを静かに待っていた。
さなぎの中にはいったい何があるのだろう?
それは彼に何を見せようとしているのだろう?
小説『空気さなぎ』では、主人公の少女は自分自身の分身をそこに見出す。ドウタだ。そして少女はドウタをあとに残して、一人でコミュニティーを飛び出す。でも天吾の空気さなぎ(おそらくそれは[#傍点]彼自身の[#傍点終わり]空気さなぎなのだ、と天吾は直感的に判断した)の中には、いったい何が入っているのだろう。それは善きものなのだろうか、あるいは悪しきものなのだろうか。彼をどこかに導くものなのだろうか、それとも彼を損ない妨げるものなのだろうか? そしていったい誰がこの空気さなぎをここに送り届けてきたのだろう?
自分に行動が求められていることは、天吾にもよくわかっていた。しかし立ち上がってさなぎの内側をのぞき込むだけの勇気が、どうしてもかき集められなかった。天吾は恐れていた。そのさなぎの中にある何かは、自分を傷つけるかもしれない。自分の人生を大きく変えてしまうかもしれない。そう思うと小さなスツールの上で、天吾の身体は逃げ場を失った人のように硬くこわばった。そこにあるのは、彼に父母の戸籍を調べさせなかったり、あるいは青豆の行方を捜させたりしなかったのと同じ種類の怯えだった。自分のために用意された空気さなぎの中に何が入っているか、彼はそれを[#傍点]知りたくなかった[#傍点終わり]。知らないままで済ませられるものなら、済ませてしまいたかった。できることならこの部屋からすぐに出て行って、そのまま電車に乗って東京に戻ってしまいたかった。そして目をつぶり、耳を塞ぎ、自分だけのささやかな世界に逃げ込んでしまいたかった。
しかしそれができないことは、天吾にもわかっていた。もしその中にあるものの姿を目にしないままここを立ち去ってしまったら、俺は一生そのことを後悔するに違いない。その[#傍点]何か[#傍点終わり]から目を背けたことで、おそらくいつまでも自分自身を赦すことができないだろう。
どうすればいいのかわからないまま、天吾はスツールに長いあいだ腰掛けていた。前に進むこともできず、後ろにさがることもできなかった。膝の上で両手を組み、ベッドの上の空気さなぎを見つめ、ときどき逃がれるように窓の外に目をやった。日はすでに落ち、淡い夕闇がゆっくりと松林を包んでいった。相変わらず風はない。波の音も聞こえない。不思議なくらい静かだ。そして部屋が暗さを増していくにつれて、その白い物体が発する光はより深く、より鮮やかになっていった。天吾にはそれ自体が生きているもののように感じられた。そこには生命の穏やかな輝きがあった。固有の温もりがあり、密やかな響きがあった。
天吾はようやく心を決めてスツールから立ち上がり、ベッドの上に身を屈めた。このまま逃げ出すわけにはいかない。いつまでも怯えた子供のように、前にあるものごとから目を背けて生きていくことはできない。真実を知ることのみが、人に正しい力を与えてくれる。それがたとえどのような真実であれ。
空気さなぎの裂け目はさっきと変わりなくそこにあった。その隙間は前に比べて大きくも小さくもなっていない。目を細めて隙間からのぞき込んでみたが、中に何があるのか見届けることはできなかった。中は暗く、途中に薄い膜がかかっているみたいだ。天吾は呼吸を整え、指先が震えていないことを確かめた。それからその二センチほどの空間に指を入れ、両開きの扉を開くときのように、ゆっくりと左右に押し広げた。これという抵抗もなく、音もなく、それは簡単に開いた。まるで彼の手で開かれるのを待ち受けていたみたいに。
今では空気さなぎ自身が発する光が、雪明かりのように内部を柔らかく照らし出していた。十分な光量とは言えないにせよ、中にあるものの姿を認めることはできた。
天吾がそこに見出したのは、美しい十歳の少女だった。
少女は眠り込んでいた。寝間着のようにも見える装飾のない簡素な白いワンピースを着て、平らな胸の上に小さな両手を重ねて置いている。それが誰なのか、天吾には一目でわかった。顔がほっそりとして、唇は定規を使って引いたような一本の直線を描いている。かたちの良い滑らかな額に、まっすぐに切りそろえられた前髪がかかっている。何かを求めるようにこっそりと宙に向けられた小さな鼻。その両脇にある頬骨はいくらか横に張っている。まぶたは閉じられているが、それが開いたときそこにどんな一対の瞳が現れるのか、彼にはわかっていた。わからないわけがない。彼はこの二十年間、その少女の面影をずっと胸に抱いて生きてきたのだ。
青豆、と天吾は口に出した。
少女は深い眠りに就いていた。どこまでも深い自然な眠りのようだ。呼吸もほんの微かなものでしかなかった。彼女の心臓は人の耳には届かないほどのはかない鼓動しか打っていなかった。そのまぶたを持ちあげるだけの力は、彼女の中にはなかった。まだ[#傍点]そのとき[#傍点終わり]が来ていないのだ。彼女の意識はここではない、どこか遠い場所に置かれていた。しかしそれでも、天吾の口にした言葉は少女の鼓膜をわずかに震わせることができた。それは彼女の名前だった。
青豆はその呼びかけを遠い場所で耳にする。天吾くん、と彼女は思う。はっきりとそう口にも出す。しかしその言葉が、空気さなぎの中にいる少女の唇を動かすことはない。そして天吾の耳に届くこともない。
天吾は魂を奪われた人のように、ただ浅い呼吸を繰り返しながら、飽くことなく少女の顔を見つめていた。少女の顔はとても安らかに見えた。そこには哀しみや苦しみや不安の影はいささかもうかがえなかった。小さな薄い唇は今にもそっと動き出し、何か意味ある言葉をつくり出しそうに見えた。そのまぶたは今にも開けられそうに見えた。天吾はそうなることを心から祈った。正確な祈りの言葉こそ持たなかったけれど、彼の心はかたちのない祈りを宙に紡ぎ出していた。しかし少女には眠りから目覚める気配は見えなかった。
青豆、ともう一度天吾は呼びかけてみた。
青豆に言わなくてはならないことがいくつもあった。伝えなくてはならない気持ちもあった。彼はそれを長い歳月にわたって抱えて生きてきたのだ。しかし今ここで天吾にできるのは、ただ名前を口にすることだけだ。
青豆、と彼は呼びかけた。
それから思い切って手を伸ばし、空気さなぎの中に横たわっている少女の手に触れた。そこに自分の大きな大人の手をそっと重ねた。その小さな手がかつて、十歳の天吾の手を堅く握りしめたのだ。その手が彼をまっすぐに求め、彼に励ましを与えた。淡い光の内側で眠っている少女の手には、紛れもない生命の温もりがあった。青豆はその温もりをここまで伝えに来てくれたのだ。天吾はそう思った。それが彼女が二十年前に、あの教室で手渡してくれたパッケージの意味だった。彼はようやくその包みを開き、中身を目にすることができたのだ。
青豆、と天吾は言った。[#傍点]僕は必ず君をみつける[#傍点終わり]。
空気さなぎが輝きを徐々に失って夕闇の中に吸い込まれるように消え、少女である青豆の姿が同じように失われてしまったあとでも、それが現実に起こったことなのかどうかうまく判断できなくなったあとでも、天吾の指にはまだ小さな手の感触と、親密な温もりが残されていた。
それが消えることはおそらく永遠にないだろう。天吾は東京に向かう特急列車の中でそう思った。これまでの二十年間、天吾はその少女の手が残していった感触の記憶とともに生きてきた。これからも同じように、この新たな温もりとともに生きていくことができるはずだ。
山の迫った海岸線に沿って、特急列車が大きなカーブを描いたとき、空に並んで浮かんだ二個の月が見えた。静かな海の上に、それらはくっきりと浮かんでいた。大きな黄色い月と、小ぶりな緑色の月。輪郭はあくまで鮮やかだが、距離感がつかめない。その光を受けて海面の小波《さざなみ》が、割れて散ったガラスのように神秘的に光った。二つの月はそれから、カーブにあわせて窓の外をゆっくりと移動して、その細かな破片を無言の示唆として残し、やがて視野から消えていった。
月が見えなくなると、もう一度胸に温もりが戻ってきた。それは旅人の行く手に見える小さな灯火のような、ほのかではあるが約束を伝える確かな温もりだった。
これからこの世界で生きていくのだ、と天吾は目を閉じて思った。それがどのような成り立ちを持つ世界なのか、どのような原理のもとに動いているのか、彼にはまだわからない。そこでこれから何が起ころうとしているのか、予測もつかない。しかしそれでもいい。怯える必要はない。たとえ何が待ち受けていようと、彼はこの月の二つある世界を生き延び、歩むべき道を見いだしていくだろう。この温もりを忘れさえしなければ、この心を失いさえしなければ。
彼は長いあいだそのまま目をつぶっていた。やがて目を開き、窓の外にある初秋の夜の暗闇を見つめた。海はもう見えなくなっていた。
青豆をみつけよう、と天吾はあらためて心を定めた。何があろうと、そこがどのような世界であろうと、彼女がたとえ誰であろうと。