このドアはなかなか悪くない
それから二週間ばかり、火曜日の午後にやってくる無言の補給係を除けば、青豆の部屋を訪れるものはいなかった。NHKの集金人と称する人物は「必ずまた来る」と言い残していった。声にも堅い意志がうかがえた。少なくとも青豆の耳にはそう響いた。しかしあれ以来ノックはない。ここのところほかのルートをまわるのに忙しいのかもしれない。
表面的には静かで平穏な日々だ。何も起こらない、誰もやってこない、電話のベルも鳴らない。タマルは安全保持のために、電話での連絡回数をできるだけ少なくしていた。青豆は常に部屋のカーテンを引き、気配を殺し、人々の注意を引かないようにひっそりと暮らした。日が暮れても最小限の明かりしかつけない。
音を立てないように心がけながら負荷の高い運動をし、毎日雑巾で床を磨き、時間をかけて日々の食事を作る。スペイン語の語学テープを使い(タマルに頼んで補給品の中に入れてもらった)、声を出して会話の練習をする。長いあいだしゃべらないでいると、口のまわりの筋肉が退化していく。意識して口を大きく動かさなくてはならない。そのためには外国語会話の練習が役に立つ。そしてまた青豆は昔から、南米に対していくぶんロマンチックな幻想を抱いていた。もし行き先が自由に選べるなら、南米のどこか平和で小さな国で暮らしたい。たとえばコスタリカ。海岸に小さなヴィラを借りて、泳いだり本を読んだりして生活する。彼女のバッグに詰まっている現金で、贅沢さえしなければ十年くらいは暮らせるだろう。おそらく彼らもコスタリカまでは追ってくるまい。
スペイン語の日常会話を練習しながら、コスタリカの海岸での静かで安らかな生活を青豆は想像する。その生活に天吾は含まれているだろうか? 目を閉じ、カリブ海のビーチで天吾と二人で日光浴をする光景を思い浮かべる。彼女は黒い小さなビキニを着てサングラスをかけ、隣りにいる天吾の手を握っている。しかしそこには心をふるわせる現実感が欠如していた。ありきたりの観光宣伝写真にしか見えない。
やるべきことが思いつけないときには、拳銃の掃除をする。マニュアルブックの指示に従ってヘックラー&コッホをいくつかの部品に分解し、布とブラシを使って清掃し、油を差し、組み立て直す。すべてのアクションが円滑に作動することを確認する。彼女はその作業に習熟する。拳銃は今では自分の身体の一部のようにさえ感じられる。
だいたい十時にはベッドに入って本を数ページ読み、そして眠る。青豆は生まれてこの方、眠りに就くのに苦労したことがない。活字を目で追っているうちに自然に眠気がやってくる。枕もとの明かりを消し、枕に顔をつけて瞼を閉じる。よほどのことがない限り、次に瞼を開くのは翌日の朝だ。
彼女はもともと夢をあまり見ない。たとえ見たとしても、目覚めたときにはほとんど何も覚えていない。夢の微かな切れ端のようなものがいくつか、意識の壁に引っかかっていることはある。しかし夢のストーリーラインは辿れない。残っているのは脈絡のない短い断片だけだ。彼女はとても深く眠ったし、見る夢も深い場所にある夢だった。そんな夢は深海に住む魚と同じで、水面近くまでは浮かび上がってこられないのだろう。もし浮かび上がってきたとしても、水圧の違いのためにもとの形を失ってしまう。
しかしこの隠れ家に暮らすようになってからは毎晩のように夢を見た。それもはっきりとしたリアルな夢だ。夢を見て、その夢を見ながら目を覚ます。自分が身を置いているのが現実の世界なのかそれとも夢の世界なのか、しばらく判別ができない。それは青豆にとって覚えのない体験だった。枕もとのデジタル式の時計に目をやる。その数字は1時15分であったり、2時37分であったり、4時07分であったりする。目を閉じてもう一度眠ろうとする。しかし眠りは簡単には訪れない。二つの異なった世界が、彼女の意識を無音のうちに奪い合っている。まるで大きな河口で、寄せる海水と流れ込む淡水がせめぎ合うように。
仕方ない、と青豆は思う。月が二つ空に浮かんだ世界に住んでいること自体、[#傍点]本当の[#傍点終わり]現実であるかどうか疑わしいのだ。そんな世界で眠りに就いて夢を見て、それが夢であるのか現実であるのか見定められなかったとして、何の不思議があるだろう? おまけに私はこの手で何人かの男たちを殺し、狂信的な人々による厳しい追跡を受け、隠れ家に身をひそめている。当然ながらそこには緊張があり、怯えもある。この手にはまだ人を殺した感触が残っている。ひょっとして私が安らかな夜の眠りに就くことはもう二度とないのかもしれない。それは私が負うべき責任であり、支払わなくてはならない代償なのかもしれない。
大まかに言って三種類の夢を彼女は見る。少なくとも彼女が思い出せる夢はすべて、その三つのパターンに収まった。
ひとつは雷が鳴っている夢だ。闇に包まれた部屋、雷鳴はいつまでも鳴りやまない。しかし雷光はない。リーダーを殺害したあの夜と同じだ。部屋の中に何かがいる。青豆は裸でベッドに横になっていて、そのまわりを何かが俳徊している。ゆっくりとした慎重な動きだ。カーペットの毛足は長く、空気は重く淀んでいる。窓ガラスが激しい雷鳴に細かく震える。彼女は怯える。そこにいるのが何かはわからない。人かもしれない。動物かもしれない。人でも動物でもないのかもしれない。しかしやがてその何かは部屋を出て行く。ドアから出て行くのではない。窓からでもない。それでもその気配は徐々に遠ざかり、やがてすっかり消えてしまう。部屋にはもう彼女のほかには誰もいない。
手探りで枕元の明かりをつける。裸のままベッドを出て、部屋の中を調べてみる。ベッドの向かい側の壁に穴がひとつ開いている。人が一人ようやく抜けられるくらいの穴だ。しかし固定された穴ではない。かたちを変えて動き回る穴だ。震え、移動し、大きくなったり縮んだりしている。生きているように見える。[#傍点]何か[#傍点終わり]はその穴から外に出て行ったのだ。彼女は穴をのぞき込む。それはどこかに続いているようだ。しかし奥に見えるのは暗闇だけだ。切り取ってそのまま手にとれそうなほど濃密な暗闇だ。彼女には好奇心がある。しかし同時に怯えてもいる。心臓が乾いたよそよそしい音を立てている。夢はそこで終わる。
もうひとつは高速道路の路肩に立っている夢だ。そこでも彼女はやはり全裸だ。渋滞中の車から人々はその裸体を無遠慮に眺めている。ほとんどは男たちだ。でも女性も何人かいる。人々は彼女の不十分な乳房と、奇妙な生え方をした陰毛を眺め、それを詳細に批評しているようだ。眉をひそめたり、苦笑したり、あるいはあくびをしたりしている。あるいは表情を欠いた目でただ熟視している。彼女は何かで身体を覆いたかった。乳房と陰部だけでも隠したかった。布きれでもいい、新聞紙でもいい。しかしまわりには手に取れるようなものは何ひとつ見あたらない。そしてまたなんらかの事情があって(どんな事情かはわからない)、彼女は両手を自由に動かすことができなかった。ときどき思い出したように風が吹き渡り、その乳首を刺激し、陰毛を揺らせた。
おまけに——具合の悪いことに——月経が今にも始まろうとしていた。腰が気怠く重く、下腹に熱い気配があった。こんなに多くの人が見ている前で出血が始まったら、いったいどうすればいいのだろう。
そのとき銀色のメルセデス・クーペの運転席のドアが開き、品の良い中年の女性が降りてくる。明るい色のハイヒールを履き、サングラスをかけ、銀のイヤリングをつけている。やせていて、背格好はだいたい青豆と同じくらいだ。渋滞中の車の隙間を抜けてやって来ると、彼女は着ていたコートを脱ぎ、青豆の身体にかけてくれる。膝までの長さの卵色のスプリング・コートだ。まるで羽のように軽い。シンプルなデザインだが、いかにも高価そうなコートだ。サイズはまるであつらえたように青豆にぴったりだ。その女性はコートのボタンをいちばん上までとめてくれる。
「いつお返しできるかわかりませんし、それに生理の血でコートを汚してしまいそうです」と青豆は言う。
女性は何も言わずただ首を小さく振り、それから混み合った車のあいだを抜けて、銀色のメルセデス・クーペに戻っていく。運転席から彼女は青豆に向けて小さく手を上げたように見える。でもそれは目の錯覚かもしれない。青豆は軽く柔らかなスプリング・コートに包まれ、自分は護られているのだと思う。彼女の肉体はもう誰の目にも晒されていない。そしてそのときまるで待ちかねていたように、太腿を一筋の血がつたって落ちていく。温かな、とろりとした重い血だ。しかしよく見るとそれは血ではない。色がついていない。
三つ目の夢は言葉ではうまく表現できない。とりとめがなく、筋もなく、情景もない夢だ。そこにあるのはただ移動する感覚だ。彼女は絶え間なく時間を行き来し、場所を行き来する。それがいつで、どこであるかは重要な問題ではない。それらのあいだを行き来することそのものが重要なのだ。すべては流動的であり、流動的であるところに意味が生まれる。しかしその流動の中に身を置いているうちに、身体は次第に透明になっていく。手のひらが透けて、向こう側が見えるようになる。身体の中の骨や内臓や子宮も視認できるようになる。このままでは自分というものがなくなってしまうかもしれない。自分がすっかり見えなくなってしまったあとに、いったい何がやってくるのだろうと青豆は考える。答えはない。
午後二時に電話のベルが鳴り、ソファでうたた寝をしていた青豆を飛び上がらせる。
「変わりはないか?」とタマルは尋ねる。
「とくに変わりはない」と青豆は言う。
「NHKの集金人は?」
「あれっきり来ない。また来ると言ったのは、ただの脅しだったのかもしれない」
「あるいは」とタマルは言う。「NHKの受信料は銀行口座の自動引き落としにしてあるし、戸口にそのステッカーも貼ってある。集金人なら必ず目に留めるはずだ。NHKに問い合わせてみたが、向こうもそう言っていた。たぶん何かの手違いだろうと」
「こちらが相手にしなければいいだけだけど」
「いや、どんなかたちにせよ近所の注意は引きたくない。それに何かの手違いというのが気になる性格でね」
「世の中はちょっとした手違いで満ちている」
「世の中は世の中で、俺は俺だ」とタマルは言う。「どんな些細なことでもいい、何か気にかかることがあればいちおう知らせてもらいたい」
「『さきがけ』には何か動きはないの?」
「とても静かだ。まるで何もなかったように。水面下では何かが進行しているのだろうが、どんな動きなのか、外からはうかがい知れない」
「教団内部に情報源があると聞いたけれど」
「情報は入ってくるが、どれも細かい周辺情報でしかない。どうやら内部の締めつけがことのほか厳しくなっているようだ。蛇口がきっちりと堅く閉められている」
「でも彼らが私の行方を追っていることは間違いない」
「リーダー亡きあとの教団には間違いなく大きな空白が生じている。誰を後継者にして、どのような方針のもとに教団を動かしていくか、それもまだ決定されていないようだ。しかしそれでも、あんたを追跡するという点では、彼らの見解は揺らぎなく一致している。掴めている事実はその程度だ」
「あまり心温まる事実じゃない」
「事実にとって大事な要素はその重さと精度だ。温度はその次のことになる」
「とにかく」と青豆は言う。「私が捕らえられ、真相が解明されれば、そちらにも迷惑が及ぶことになる」
「だから一刻も早く、連中の手の届かないところにあんたを送り届けたいと考えている」
「それはよくわかっている。でももう少しだけ待って」
「今年いっぱいは待つと[#傍点]彼女[#傍点終わり]は言う。だからもちろん俺も待つ」
「ありがとう」
「俺に礼を言われても困る」
「いずれにせよ」と青豆は言う。「それから、次の補給品リストに入れておいてもらいたいものがひとつあるの。男の人にはちょっと言いにくいものだけど」
「俺は石の壁みたいなものだ」とタマルは言う。「おまけにメジャー・リーグ級のゲイだ」
「妊娠テストのキットがほしいの」
沈黙がある。それからタマルは言う。「そういうテストをする必要性があるとあんたは考えている」
それは質問ではない。だから青豆は返事をしない。
「妊娠する心当たりがあるということかな?」とタマルは質問する。
「そういうわけでもない」
タマルの頭の中で何かが速く回転している。耳を澄ませばその音が聞きとれる。
「妊娠する心当たりはないが、テストの必要性はある」
「そう」
「俺には謎かけのように聞こえるが」
「悪いけれど今のところそれ以上のことは言えない。普通の薬局で売ってる簡単なものでいいの。それから女性の身体や生理機能について書かれたハンドブックがあるとありがたい」
タマルはもう一度沈黙する。硬く圧縮された沈黙だ。
「どうやら電話をかけなおした方がよさそうだ」と彼は言う。「かまわないか?」
「もちろん」
彼は喉の奥で小さな音を立てる。それから電話が切れる。
電話は十五分後にかかってくる。麻布の老婦人の声を聞くのは久しぶりだ。まるであの温室に戻ったような気持ちになる。珍しい蝶が飛び、時間がゆっくりと流れる、あの生温かい空間に。
「どう、元気にしていますか?」
ペースを守って暮らしていると青豆は言う。老婦人が知りたがったので、彼女は日々の日課について、運動や食事についておおまかに話をする。
老婦人は言う。「屋外に出られないのはつらいでしょうが、あなたは意志の強い人だから、とりたてて心配はしていません。あなたならうまく乗り切れるでしょう。なるべく早くそこを出て、より安全な場所に移ってもらいたいとは思います。でもそこにどうしても留まりたいということであれば、その理由はわかりませんが、こちらとしてもできる限りあなたの意思を尊重したいと考えています」
「感謝しています」
「いいえ、感謝しなくてはならないのは私の方です。なんといってもあなたは素晴らしい仕事をしてくれた」。短い沈黙があり、それから老婦人が言う。「ところで妊娠テストのキットが必要だという話ですね」
「生理がもう三週近く遅れています」
「生理は規則正しく来る方なのかしら?」
「十歳のときに始まって、二十九日に一度、ほとんど一日の狂いもなく続いています。月の満ち欠けみたいに几帳面に。飛んだことは一度もありません」
「あなたが今置かれている状況は、通常のものではありません。そういうときには精神のバランスも、身体のリズムも変調をきたします。生理が止まったり、大きく狂ったりするのはあり得ないことではないでしょう」
「そんなことはまだ一度もありませんが、そういう可能性があることはわかります」
「そしてタマルの話によれば、妊娠する心当たりがまったくないとあなたは言う」
「私が最後に男性と性的な交渉を持ったのは六月半ばです。そのあとそれに類したことはいっさいしていません」
「それでもあなたは妊娠しているかもしれないと考えている。そこには根拠のようなものがあるのでしょうね。生理が飛んでいるという以外に」
「私はただ[#傍点]感じる[#傍点終わり]のです」
「ただ感じる?」
「そういう感触が自分の中にあるんです」
「受胎している感触がある、ということかしら?」
青豆は言う。「一度、卵子の話をなさったことがあります。つばさちゃんのところに行った夕方に。女性は生まれながらに決まった数の卵子を持っているという話を」
「覚えています。約四百個の卵子を一人の女性は与えられ、それを毎月ひとつずつ外に出していく。たしかそういう話でした」
「そのうちのひとつが受胎したという確かな[#傍点]手応え[#傍点終わり]が私にはあります。手応えという表現が正しいのかどうか、自信はありませんが」
老婦人はそれについてしばらく考える。「私は二人の子供を産みました。ですからあなたの言う[#傍点]手応え[#傍点終わり]についてはそれなりに理解ができます。しかしあなたは時期的に、男性と性的な関係を持つことなく受胎し妊娠したと言う。にわかには受け入れがたい話です」
「私にとってもそれは同じです」
「失礼なことを尋ねますが、意識のないときに誰かと性交渉を持ったという可能性は?」
「それもありません。意識は常にクリアでした」
老婦人は慎重に言葉を選ぶ。「私は前々から、あなたを冷静で、論理的な考え方をする人だと思ってきました」
「少なくともそうありたいと私も考えています」と青豆は言う。
「にもかかわらず、性交渉抜きで受胎したとあなたは考えている」
「[#傍点]そういう可能性がある[#傍点終わり]と考えています。正確に言えば」と青豆は言う。「もちろんそんな可能性を思いめぐらすこと自体、筋の通らないことかもしれませんが」
「わかりました」と老婦人は言う。「とにかく結果を待ちましょう。妊娠テストのキットは明日届けさせます。いつもの補給の要領で、いつもの時刻に受け取って下さい。念のためにいくつか種類を用意させましょう」
「ありがとうございます」と青豆は言う。
「それで、もし受胎が行われたと仮定して、それはいつ頃のことだと思いますか?」
「たぶんあの夜です。私がホテル・オークラに出向いた、嵐のような夜」
老婦人は短くため息をつく。「あなたにはそこまで特定できるのね?」
「そうです。計算をしてみると、その日はあくまでたまたまですが、私のもっとも受胎しやすい日にあたっていました」
「とすると、だいたい妊娠二ヶ月ということになりますね」
「そうなります」と青豆は言う。
「つわりのようなものは? 普通ならいちばんきつい時期だと思うんだけど」
「それはまったくありません。どうしてかはわかりませんが」
老婦人は時間をかけて慎重に言葉を選ぶ。「テストをして、もし本当に妊娠しているとわかったら、あなたはまずどのように感じるのでしょう?」
「子供の生物学的な父親は誰なのだろうとまず考えるでしょう。当然ながら私にとって大きな意味を持つ問題になります」
「でもそれが誰だか、あなたには思い当たる節がない」
「今のところはまだ」
「わかりました」と老婦人は穏やかな声で言う。「いずれにせよ、どんなことがあろうと私はいつもあなたの側についています。あなたを護るために全力を尽くします。それはよく覚えておいて下さい」
「こんなときに面倒な話を持ち出して申し訳なく思っています」と青豆は言った。
「いいえ、面倒な話なんかではありません。それは女性にとって何より大事な問題です。テストの結果を見て、それからどうすればいいか、一緒に考えましょう」と老婦人は言う。
そして静かに電話が切れる。
誰かがドアをノックする。青豆は寝室の床でヨーガをしていたが、動きを止めて耳を澄ませる。ノックの音は硬くそして執拗だ。その音には聞き覚えがある。
青豆はタンスの抽斗から自動拳銃を取り出し、安全装置を外す。スライドを引いてチェンバーに素早く弾丸を送り込む。拳銃をスエットパンツの後ろに突っ込み、足音を忍ばせて食堂に行く。両手でソフトボール用の金属バットを握りしめ、正面からドアを睨む。
「高井さん」と太いしゃがれた声が言う。「高井さん、いらっしゃいますか。こちらはみなさまのエネーチケーです。受信料をいただきにうかがいました」
バットの握りの部分には滑り止めのビニール・テープが巻かれている。
「あのですね、高井さん、繰り返すようですが、あなたが中におられることはわかっておるのです。ですから、そういうつまらないかくれんぼみたいなことはもうよしにしましょう。高井さん、あなたはそこにいて、このわたくしの声を聞いておられる」
この男は前のときとほとんど同じ言葉を繰り返している。まるでテープを再生するみたいに。
「わたくしがまたやってくると言い残していったのを、ただの脅しだと思っておられたでしょう。いえいえ、わたくしはいったん口にしたことはまもります。そして集めるべき料金があれば、必ず集めます。高井さん、あなたはそこにいて、耳を澄ませておられる。そしてこう考えておられる。このままじっとしていよう。そうすればこの集金人はやがてあきらめてどこかに行ってしまうってね」
またひとしきりドアが強く叩かれる。二十回か二十五回。この男はいったいどんな手をしているのだろうと青豆は思う。そしてどうしてドアベルを鳴らさないのだろう。
「またあなたはこう考えておられる」と集金人は彼女の心を読むように言う。「ずいぶん頑丈な手をした男だ。こんなに強く何度もドアを叩いて、手が痛くならないんだろうかってね。そしてまたこうも考えておられる。だいたいなぜノックなんかするんだろう。呼び鈴がついているんだから、それを鳴らせばいいじゃないかって」
青豆は思わず大きく顔をしかめる。
集金人は続ける。「いえいえ、わたくしとしては呼び鈴なんぞ鳴らしたくはありません。そんなもの押しても、ただカンコーンという音が響き渡るだけです。誰が押したっておんなじ一律、人畜無害な音です。その点ノックには個性があります。人が肉体を使って実際にものを叩くわけですから、ナマミの感情がこもっています。もちろん手はある程度痛みますよ。わたくしは鉄人28号じゃありませんからね。でも仕方ありません。それがわたくしの職業なのです。そして職業というのは、どのようなものであれ貴賎の別なく尊重されるべきです。そうではありませんか、高井さん?」
再びノックの音が響く。全部で二十七回、均等な間を置いてドアが強くノックされる。金属バットを握った手のひらに汗が滲む。
「高井さん。電波を受け取った人がエネーチケーの料金を払わなくちゃならないというのは、法律で決まっておることです。仕方のないことなんです。それがこの世界のルールです。ひとつ気持ちよく払っていただけませんでしょうか? わたくしだって何も好んでドアを叩いているわけじゃありませんし、高井さんだって、いつまでもこんな不愉快な目にあいたくないでしょう。なんで自分だけがこんな目に、と思いたくもなるはずだ。ですからここはひとつ、気持ちよく受信料を払ってしまいましょうよ。そうすればまたもとの静かな生活が戻ってきます」
男の声は廊下に大きく反響する。この男は自分の饒舌《じょうぜつ》を楽しんでいるのだと青豆は思う。受信料を払わない人間を嘲り、からかい、罵倒することを楽しんでいる。そこには歪んだ喜びの響きが感じられる。
「高井さん、しかしあなたも強情なお方ですね。感心してしまいます。深い海の底の貝みたいに、どこまでも頑なに沈黙を守っておられる。でもあなたがそこにおられることがわたくしにはわかっております。あなたは今そこにいて、ドア越しにこちらをじっと睨んでおられる。緊張してわきの下に汗もかいておられる。どうです、そうではありませんか?」
ノックが十三回続く。そして止む。自分がわきの下に汗をかいていることに青豆は気づく。
「よろしい。今日はこのあたりで引き上げましょう。しかしまた近々うかがいます。わたくしもどうやらだんだんこのドアが気に入ってきたようだ。ドアにもいろいろありましてね。このドアはなかなか悪くありません。叩き心地がよろしい。このぶんじゃ定期的にここに来てノックしないと落ち着かなくなりそうです。それでは高井さん、そのうちにまた」
そのあとに沈黙が訪れる。集金人は行ってしまったようだ。しかし足音は聞こえない。立ち去ったふりをしてドアの前に立っているのかもしれない。青豆はバットを両手でいっそう強く握りしめる。そのまま二分ばかり待つ。
「まだいますよ」と集金人が口を開く。「ははは、もう行ってしまったと思われたでしょう。でもまだおります。嘘をつきました。申し訳ありませんね、高井さん。わたくしはそういう人間なのです」
咳払いの音が聞こえる。わざとらしい耳障りな咳払いだ。
「わたくしは長くこの仕事をしております。そうするとだんだんドアの向こうにいる人の姿が見えるようになってきます。嘘ではありませんよ。少なからぬ人がドアの奥に隠れて、NHKの受信料を払わずにすませようとします。わたくしは何十年もそんな人たちの相手をしてまいりました。あのですね、高井さん」
彼は三度、これまでにないほど強い勢いでノックをする。
「あのですね、高井さん、あなたは砂をかぶった海底のひらめみたいに、とても上手に隠れておられる。そういうのを擬態って言います。でもそんなことをしても、最後まで逃げおおせることはできません。必ず誰かがやってきてこのドアを開けます。本当ですよ。みなさまのエネーチケーのベテラン集金人であるこのわたくしが保証いたします。どんなに巧妙に隠れていても、擬態なんぞ所詮ごまかしに過ぎません。なにひとつ解決しやしません。ほんとですよ、高井さん。そろそろわたくしは行きます。大丈夫、今度は嘘ではありません。本当にいなくなります。しかしまた近々やってまいります。ノックの音がしたら、それはわたくしです。それでは高井さん、ごきげんよう」
やはり足音は聞こえない。五分間彼女は待つ。それからドアの前に行って、耳を澄ませる。そして覗き穴から外を見る。廊下には人の姿はない。集金人は本当に引き上げたようだ。
青豆は金属バットを台所のカウンターにたてかける。拳銃のチェンバーから弾丸を抜き、安全装置をかけ、厚いタイツにくるんで抽斗に戻す。そしてソファに横になって目を閉じる。男の声がまだ耳元で響いている。
[#ゴシック体]でもそんなことをしても、最後まで逃げおおせることはできません。必ず誰かがやってきてこのドアを開けます。本当ですよ。[#ゴシック体終わり]
この男は少なくとも「さきがけ」の人間ではない。彼らはもっと静かに最短距離をとって行動する。マンションの廊下で大声を出し、思わせぶりなことを言って、相手を警戒させるような真似はしない。それは彼らのやり方ではない。青豆は坊主頭とポニーテイルの姿を思い浮かべる。彼らは音も立てずに忍び寄ってくるはずだ。気づいたときにはすぐ背後に立っている。
青豆は首を振る。静かに呼吸をする。
本物のNHKの集金人かもしれない。しかし受信料が自動引き落とし支払いになっていることを示すステッカーに気づかないのはおかしい。それがドアの脇に貼られていることを青豆は確認していた。精神を病んだ人物かもしれない。でもそれにしても、男の口にする言葉には不思議なリアリティーがあった。この男は確かに、ドア越しに私の気配を感じ取っているように思える。私の抱えた秘密を、あるいはその一部を敏感に嗅ぎ取っているみたいだ。しかし自力でドアを開けて、部屋に入ってくることはできない。ドアは内側から開けられなくてはならない。そして何があろうと私にはこのドアを開けるつもりはない。
いや、そこまで断言はできない。私はいつかこのドアを内側から開けることになるかもしれない。もし天吾が児童公園にもう一度姿を見せたら、私は迷うことなくこのドアを開き、公園に向けて駆け出すだろう。たとえ何がそこに待ち受けていようと。
青豆はベランダのガーデンチェアに身を沈め、いつものように目隠し板の隙間から児童公園を眺める。ケヤキの下のベンチには制服を着た高校生のカップルが座り、生真面目な顔つきで何ごとかを語り合っている。二人の若い母親がまだ幼稚園に上がっていない子供たちを砂場で遊ばせている。二人は子供たちからおおむね目を離すことなく、それでも熱心に立ち話をしている。どこにでもある午後の公園の光景だ。無人の滑り台のてっぺんに、青豆は長いあいだ視線を注いでいる。
それから青豆は手のひらを下腹部にあてる。瞼を閉じ耳を澄ませ、声を聞きとろうとする。そこには間違いなく何かが存在している。生きている小さな何かだ。彼女にはそれがわかる。
ドウタ、と彼女は小さく口に出してみる。
マザ、と何かがこたえる。