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1Q84 (3-19)

时间: 2018-10-13    进入日语论坛
核心提示:第19章 牛河      彼にできて普通の人間にできないこと 風のない静かな木曜日の朝だった。牛河はいつものように六時前に
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 第19章 牛河
      彼にできて普通の人間にできないこと
 
 
 風のない静かな木曜日の朝だった。牛河はいつものように六時前に目を覚まし、冷たい水で顔を洗った。NHKラジオのニュースを聞きながら歯を磨き、電気剃刀で髭を剃った。鍋に湯を沸かしてカップ麺を作り、それを食べ終えるとインスタント・コーヒーを飲んだ。寝袋を丸めて押し入れに突っ込み、窓際のカメラの前に腰を据えた。東の空が明るくなり始めていた。温かい一日になりそうだ。
 朝に出勤していく人々の顔は、今ではすっかり頭に刻み込まれている。いちいち写真を撮るまでもない。七時から八時半のあいだに彼らは急ぎ足でアパートを出て、駅に向かう。お馴染みの顔ぶれだ。アパートの前の道を、グループを組んで登校する小学生たちの賑やかな声が牛河の耳に届いた。子供たちの声は彼に、娘たちがまだ幼かった頃のことを思い出させた。牛河の娘たちは小学校での生活を心ゆくまで楽しんでいた。ピアノやバレエを習い、友達も多かった。自分にそういう当たり前の子供たちがいるという事実が、牛河には最後までうまく受け入れられなかった。どうしてこの自分がそんな子供たちの父親であり得るのだろう?
 出勤の時間が終わると、アパートを出入りする人間はほとんどいなくなった。子供たちのにぎやかな声も消えた。牛河はリモコンのシャッターを手から放し、壁にもたれてセブンスターを吸い、カーテンの隙間から玄関を眺めた。いつものように十時過ぎに郵便配達人が赤い小型バイクに乗ってやってきて、玄関の郵便ボックスに郵便を手際よく仕分けして入れていった。牛河の見るところ、その半分くらいはジャンク・メイルだ。多くは封も切らずに捨てられてしまうのだろう。太陽が中空に近づくにつれて温度が急速に上昇し、通りを歩く人々の多くはコートを脱いでいた。
 ふかえりがアパートの玄関に現れたのは十一時過ぎだった。彼女は先日と同じ黒いタートルネックのセーターの上に、グレーのショート・コートを着て、ジーンズとスニーカーを履き、濃いサングラスをかけていた。そして大振りな緑色のショルダーバッグをたすきがけにかけていた。バッグには雑多なものが入っているらしく、いびつに膨らんでいる。牛河はもたれていた壁から離れ、三脚にセットされたカメラの前に移動し、ファインダーを覗いた。
 この少女はここを出て行くつもりだ、牛河にはそれがわかった。持ちものをバッグに詰め、別の場所に移動しようとしている。二度とここに戻るつもりはない。そういう気配があった。彼女が出て行こうと決めたのは、俺がここに潜んでいることに気づいたからかもしれない。そう思うと心臓の鼓動が速くなった。
 少女は玄関を出たところで立ち止まり、前と同じように空を見上げた。絡み合った電線と変圧器のあいだに何かの姿を探し求めた。サングラスのレンズが陽光を受けてきらりと輝いた。彼女がその[#傍点]何か[#傍点終わり]を見つけたのか、それとも見つけられなかったのか、サングラスのせいで表情が読み取れない。およそ三十秒ばかり少女は身じろぎもせず空を見上げていた。それから思い出したように首を曲げ、牛河の潜んでいる窓に視線を向けた。彼女はサングラスを取ってコートのポケットに突っ込んだ。そして眉を寄せ、窓の隅に偽装された望遠レンズに目の焦点をあわせた。彼女は知っている、と牛河はあらためて思った。俺がここに隠れていることが、自分が密かに観察されていることが、あの少女にはわかっているのだ。そして逆に、レンズからファインダーを遡って牛河を観察している。水が屈曲した配水管を逆流していくように。両腕の皮膚が粟立つ感覚があった。
 ふかえりは時おり瞬きをした。その二つの瞼は、自立した静かな生き物のようにゆっくりと思慮深く上下した。しかしそれ以外の部分に動きはない。彼女はそこに立ち、長身の孤高な鳥のように首を曲げ、ただまっすぐ牛河を見つめていた。牛河はその少女から目をそらせることができなくなっていた。世界全体がそこでいったん動きを止められたみたいだ。風もなく、音は空気を震わせることをやめていた。
 やがてふかえりは牛河を見つめるのをやめた。また顔を上げ、空のさっきと同じあたりに目をやった。しかし今度は数秒間でその観察を終えた。やはり表情は変わらない。コートのポケットから色の濃いサングラスを出して再び顔にかけると、そのまま通りに向かった。彼女の歩調は滑らかで迷いがなかった。
 すぐに出て行って、彼女のあとをつけるべきなのだろう。天吾はまだ戻っていないし、この少女の行く先を確かめるための時間的な余裕はある。どこに移ったか、知っておいて損はないはずだ。しかし牛河はなぜか床から腰を上げられなかった。身体が痺れたようになっている。ファインダー越しに送り込まれた彼女の鋭い視線が、行動を起こすのに必要とされる力を、牛河の身体からそっくり奪っていったようだ。
 まあいい、と牛河は床に座り込んだまま自分に言い聞かせた。俺が見つけなくてはならないのはあくまで青豆だ。深田絵里子は興味深くはあるが、本筋からは離れた存在だ。たまたま現れた脇役に過ぎない。ここを出ていくのなら、そのままどこにでも行かせればいいじゃないか。
 ふかえりは通りに出ると、足早に駅の方に向かった。一度も後ろを振り返らなかった。牛河は日焼けしたカーテンの隙間からその後ろ姿を見送った。彼女の背中で左右に揺れる緑色のショルダーバッグが見えなくなると、床を這うようにカメラの前を離れ、壁にもたれた。そして身体に正常な力が戻るのを待った。セブンスターを口にくわえ、ライターで火をつけた。煙を深々と吸い込んだ。しかし煙草には味がなかった。
 力はなかなか回復しなかった。いつまでも手脚に痺れが残っていた。そして気がつくと、彼の中には奇妙なスペースが生じていた。それは純粋な空洞だった。その空間が意味するのはただ欠落であり、おそらくは無だった。牛河は自分自身の内部に生まれたその見覚えのない空洞に腰を下ろしたまま、そこから立ち上がることができなかった。胸に鈍い痛みが感じられたが、正確に表現すればそれは痛みではない。欠落と非欠落との接点に生じる圧力差のようなものだ。
 彼はその空洞の底に長いあいだ座り込んでいた。壁にもたれ、味のない煙草を吸っていた。そのスペースはさっき出て行った少女があとに残していったものだった。いや、そうじゃないのかもしれない、と牛河は考える。これはもともと俺の中にあったもので、彼女はそれが存在することをただ俺に教え示したに過ぎないのかもしれない。
 牛河は自分が深田絵里子という少女に、全身を文字通り揺さぶられていることに気づいた。彼女のみじろぎひとつしない深く鋭い視線によって、身体のみならず牛河という存在そのものが根本から揺さぶられているのだ。まるで激しい恋に落ちた人のように。牛河がそんな感覚を持ったのは生まれて初めてのことだ。
 いや、そんなわけはない、と彼は思う。何故俺があの少女に恋をしなくてはならないのだ? だいたい俺と深田絵里子ほど釣り合わない組み合わせは、この世界にほかに存在するまい。わざわざ洗面所に行って鏡を見るまでもない。いや、外見的なことだけではない。何から何まであらゆる面において、俺くらい彼女から遠い地点にいる人間はまたといるまい。性的な側面でその少女に惹かれているわけでもなかった。性的な欲求についていえば、牛河は月に一度か二度、馴染みの娼婦を相手にするだけで十分だった。電話をかけてホテルの部屋に呼び出し、交わる。床屋に行くのと同じだ。
 これはおそらく魂の問題なのだ。考え抜いた末に牛河はそのような結論に達した。ふかえりと彼とのあいだに生まれたのは、言うなれば魂の交流だった。ほとんど信じがたいことだが、その美しい少女と牛河は、カモフラージュされた望遠レンズの両側からそれぞれを凝視し合うことによって、互いの存在を深く暗いところで理解しあった。ほんの僅かな時間だが、彼とその少女とのあいだに魂の相互開示ともいうべきことがおこなわれたのだ。そして少女はどこかに立ち去り、牛河はそのがらんとした洞窟に一人残された。
 あの少女は俺がカーテンの隙間から、望遠レンズを使って彼女を密かに観察していたのを知っていた。駅前のスーパーマーケットまであとをつけたことも知っていたはずだ。あのとき一度も背後を振り向かなかったけれど、俺の存在が見えていたに違いない。それでも彼女の目には牛河の行いを責める気配はなかった。彼女は遥かに深いところで俺を理解したのだ、牛河はそう感じた。
 少女は現れて、去っていった。我々は異なった方向からやってきて、たまたま進路を交差させ、束の間視線を合わせ、そして異なった方向に離れていった。俺が深田絵里子と巡り合うことはもう二度とあるまい。これはたった一度しか起こり得ないことなのだ。仮に彼女と再会することがあったとして、今ここで起こったこと以上の何を彼女に求めればいいのか? 我々は今では再び遠く離れた世界の両端に立っている。そのあいだを結ぶ言葉などどこにもありはしない。
 
 牛河は壁にもたれたまま、カーテンの隙間から人々の出入りをチェックした。ひょっとしたらふかえりは思い直して戻ってくるかもしれない。部屋に大事な忘れ物をしたことを思い出すかもしれない。しかしもちろん少女は戻ってこなかった。彼女は心を決めてよそに移ったのだ。何があろうと再びここに戻ることはない。
 牛河はその午後を、深い無力感に包まれて過ごした。その無力感にはかたちもなく重みもなかった。血液の動きが遅く鈍くなった。視野に淡い霞がかかり、手脚の関節が気怠く軋んだ。目を閉じるとふかえりの視線が残していった疼きを、肋骨の内側に感じた。疼きは海岸に次々に寄せる穏やかな波のように、やってきては去っていった。またやってきては去っていった。ときどきその痛みは顔をしかめなくてはならないほど深いものになった。しかし同時にそれは、今までに経験したことのない温もりを彼にもたらした。牛河はそのことに気づいた。
 妻も二人の娘も、芝生の庭のある中央林間の一軒家も、これほどの温かみを牛河に与えてくれることはなかった。彼の心には常に溶け残った凍土の塊のようなものがあった。彼はその堅く冷ややかな芯とともに人生を送ってきた。それを冷たいと感じることさえなかった。それが彼にとっての「常温」だったからだ。しかしどうやらふかえりの視線がその氷の芯を、一時的であるにせよ融かしてしまったらしい。それと同時に牛河は胸の奥に鈍い痛みを感じ始めた。その芯の冷たさがこれまで、そこにある痛みの感覚を鈍麻させていたのだろう。いわば精神の防衛作用のようなものだ。しかし彼は今その痛みを受け入れていた。ある意味ではそれを歓迎してもいた。彼が感じている温かみは、痛みと対になって訪れるものなのだ。痛みを受け入れない限り、温かみもやってこない。それは交換取引のようなものなのだ。
 午後の小さな日だまりの中で、牛河はその痛みとぬくもりを同時に味わった。心静かに、身動きひとつせず。風のない穏やかな冬の日だった。道を行く人々はたおやかな光の中を通り抜けていった。しかし日は徐々に西に傾き、建物の陰に隠れ、日だまりも消えてしまった。午後の温かみは失われ、やがて冷ややかな夜が訪れようとしていた。
 牛河は深い溜息をついて、それまでもたれていた壁から自分の身体をなんとか引きはがした。まだいくらか痺れは残っているが、部屋の中を移動するのに支障はない。彼はそろそろと立ち上がって手脚を伸ばし、太く短い首を様々な方向に曲げた。両手を何度も握ったり開いたりした。それから畳の上でいつものストレッチングをした。身体中の関節が鈍く音を立て、筋肉が少しずつもとあった柔軟性を取り戻していった。
 人々が仕事や学校から戻ってくる時刻だ。監視の仕事を続行しなくてはならない、牛河は自分にそう言い聞かせる。これは好き嫌いの問題ではない。正しい正しくないの問題でもない。いったんやり始めたことは最後までやり遂げなくちゃならない。そこには俺自身の命運がかかってもいるのだ。いつまでもこの空洞の底で、当てのない物思いに耽っているわけにはいかない。
 牛河はもう一度カメラの前に自らを据えた。あたりはすっかり暗くなり、玄関の照明は点灯されていた。たぶん時間がくると明かりがともるようにタイマーでセットされているのだろう。人々はうらぶれた巣に戻っていく無名の鳥たちのように、アパートの玄関に足を踏み入れていった。その中には川奈天吾の顔はない。しかし彼は遠からずここに戻ってくるだろう。いくらなんでもそんなに長く父親の看病にあたっているわけにはいかない。おそらく週があけるまでに彼は東京に戻り、職場に復帰するに違いない。あと数日のうちに。いや、今日明日にも。牛河の勘はそう告げていた。
 俺は石の湿った裏側に蠢《うごめ》いている虫けらみたいな、じめじめした薄汚い存在かもしれない。いいとも、そいつは進んで認めよう。しかし同時に俺はどこまでも有能でどこまでも我慢強い、執拗な虫けらだ。簡単にはあきらめない。手がかりひとつあれば、それをとことん追求する。垂直な高い壁をどこまでもよじ登っていく。もう一度胸の中に冷たい芯を取り戻さなくてはならない。今の俺にはそいつが必要なのだ。
 牛河はカメラの前で両手をごしごしとこすり合わせた。そして両手の十本の指が不自由なく動くことを今一度確かめた。
 世間の普通の人間にできて俺にできないことはたくさんある。そいつは確かだ。テニスをすることも、スキーをすることもそのひとつだ。会社に就職することも、幸福な家庭を営むことも。しかしその一方で、俺にできて世間の普通の人間にできないことも少しはある。そして俺はその[#傍点]少しのこと[#傍点終わり]がとても上手にできるのだ。観客の拍手や投げ銭までは期待しない。しかしとにかく世間にこの手並みをお見せしようではないか。
 九時半になって牛河はその日の監視の仕事を終えた。缶詰のチキン・スープを小鍋にあけて携行燃料の火で温め、スプーンですくって大事に飲んだ。それと一緒に冷たいロールパンを二つ食べた。リンゴをひとつ皮ごと囓った。小便をし、歯を磨き、寝袋を床に広げ、上下の下着だけになってその中に潜り込んだ。ジッパーを首のところまで上げ、虫のように丸まった。
 そのように牛河の一日は終わった。収穫と呼べるほどのものもなかった。あえて言えば、ふかえりが荷物をまとめてここを出て行くのを確認したくらいだ。彼女がどこに行ったのかはわからない。[#傍点]どこか[#傍点終わり]だ。牛河は寝袋の中で首を振る。俺には関係のないどこかだ。ほどなく寝袋の中で凍えた身体が温もり、それと同時に意識が薄れ、深い眠りが訪れた。やがて小さな凍えた核が、彼の魂に再び堅くその位置を占めた。
 
 翌日、特筆すべきことは何ひとつ起こらなかった。翌々日は土曜日だった。その日も温かく穏やかな一日だった。多くの人々は昼前まで眠っていた。牛河は窓際に座り、ラジオを小さくつけてニュースを聞き、交通情報を聞き、天気予報を聞いた。
 十時前に大きなカラスが一羽やってきて、人気のない玄関のステップにしばらく立っていた。カラスはあたりを注意深く見回し、何度か肯くような素振りを見せた。太い大きなくちばしが空中を上下し、艶やかな黒い羽が太陽の光を受けて輝いた。それからいつもの郵便配達人が赤い小型バイクに乗ってやってきて、カラスは不承不承、翼を大きく広げて飛び立っていった。飛び立つときに短く一度だけ鳴いた。郵便配達人が郵便物をそれぞれのボックスに区分けして引き上げると、今度は雀の群れがやってきた。彼らは慌ただしく玄関前のあちこちを探しまわり、あたりにめぼしいものが何もないことを見て取ると、すぐに別の場所に移っていった。そのあとには一匹の縞柄の猫がやってきた。どこか近所の家で飼われているらしく、首にノミ取りの首輪をつけていた。見かけたことのない猫だ。猫は枯れた花壇の中に入って小便をし、小便を終えるとその匂いを嗅いだ。何かが気に入らないらしく、いかにも面白くなさそうに髭をぴくぴくと震わせた。そして尻尾をぐいと立てたまま建物の裏手に姿を消した。
 昼までに何人かの住人が玄関から出て行った。身なりからするとこれからどこかに遊びに行くか、あるいはただ近所に買い物に出かけるか、どちらかのようだった。牛河は今では彼らの顔を一人ひとり、だいたい全部記憶していた。しかし牛河はそのような人々の人柄や生活についてはこれっぽっちも興味を抱かなかった。どのようなものだろうと想像を巡らせることすらなかった。
 あんたがたの人生は、あんたがた本人にとってはきっと大事な意味を持つものなのだろう。またかけがえのないものなのだろう。それはわかる。しかしこちらにとってはあってもなくてもどちらでもいいものだ。俺にとっちゃあんたがたはみんな、書き割りの風景の前を通り過ぎていくぺらぺらの切り抜き人間に過ぎない。俺があんたがたに求めるのはただひとつ「どうか俺の仕事の邪魔をしないでいてくれ。そのまま切り抜きの人間でいてくれ」ということだ。
「そうなんですよ、大梨さん」と牛河は、目の前を横切っていく、西洋梨のような形に尻の膨らんだ中年の女に、勝手につけた名前を使って呼びかけた。「あなたはただの切り抜きなんです。実体なんかありゃしない。そのことを知ってました? まあ、切り抜きにしちゃいささか肉厚ですがね」
 しかしそんなことを考えているうちに次第に、その風景に含まれる事物のすべてが「意味のないもの」であり「あってもなくてもいいもの」であるように思えてきた。それともそこにある風景そのものが、もともと実在しないものなのかもしれない。実体のない切り抜き人間に欺かれているのは、実は自分の方なのかもしれない。そう思うと牛河はだんだん落ち着かない気持ちになってきた。家具のないがらんとした部屋に閉じこもり、来る日も来る日も秘密の監視を続けているせいだ。神経だっておかしくもなる。彼はできるだけ声を出してものを考えることを心がけた。
「おはようございます、長耳さん」と彼はファインダーの中に見える長身の痩せた老人に向けて語りかけた。両耳の先端がまるで角のように白髪から突き出している。「これからお散歩ですか。歩くのは健康によろしい。お天気もいいですし、せいぜい楽しんでいらっしゃい。私だって手脚を伸ばしてのんびり散歩したいのは山々なんですが、残念ながらここに座り込んで、このろくでもないアパートの入り口を日がな見張ってなくちゃならんのです」
 老人はカーディガンを着てウールのズボンを穿き、背筋をしゃんと伸ばしていた。律義な白い犬を連れていると似合いそうだが、アパートで犬を飼うことは許されていない。老人がいなくなると、牛河はわけもなく深い無力感に襲われた。この監視は結局無駄骨に終わるかもしれない。俺の直感なんてそれこそ一文の値打ちもなく、俺はどこにもたどり着けないまま、この空虚な部屋の中で神経を摩耗させていくだけかもしれない。通りがかりの子どもたちに撫でられて、お地蔵さんの頭がすり減っていくみたいに。
 牛河は昼過ぎにリンゴをひとつ食べ、チーズをクラッカーに載せて食べた。梅干し入りのおにぎりもひとつ食べた。それから壁にもたれたまま少し眠った。夢のない短い眠りだったが、目が覚めたとき、自分がどこにいるのか思い出せなかった。彼の記憶はきっちりとした四隅を持った純粋な空き箱だった。その箱の中に入っているのは空白だけだ。牛河はその空白をぐるりと見渡した。しかしよく見るとそれは空白ではなかった。それは薄暗い一室で、がらんとして冷ややかで、家具ひとつなかった。見慣れない場所だ。傍らの新聞紙の上にはリンゴの芯がひとつある。牛河の頭は混乱した。俺はどうしてこんな奇妙なところにいるのだろう?
 それからやがて、自分が天吾の住んでいるアパートの玄関を監視していることを思い出した。そうだ、ここに望遠レンズをつけたミノルタの一眼レフがある。一人で散歩に出かけていった白髪の長耳老人のことも思い出した。鳥たちが日が暮れて林に戻るように、空っぽの箱の中に徐々に記憶が復帰してきた。二つのソリッドな事実がそこに浮かび上がっていった。
 
 (1)[#「(1)」は縦中横] 深田絵里子はここから去っていった。
 (2)[#「(2)」は縦中横] 川奈天吾はまだここに戻っていない。
 
 三階の川奈天吾の部屋には今は誰もいない。窓にはカーテンが引かれ、静寂がその無人の空間を覆っている。ときおり作動する冷蔵庫のサーモスタットのほかにその静寂を破るものはない。牛河はそんな光景をあてもなく想像した。無人の部屋を想像することは、死後の世界を想像するのにいくらか似ている。それからふと、偏執的なノックをするNHKの集金人のことが頭に浮かんだ。ずっと見張っていたが、その謎の集金人がアパートから出ていった形跡はなかった。集金人はひょっとしてたまたまこのアパートの住人だったのだろうか。それともこのアパートに住んでいる誰かが、NHKの集金人を騙ってほかの住人にいやがらせをしているのか。もしそうだとして、いったい何のためにそんなことをしなくてはならないのだ? それはおそろしく病的な仮説だった。しかしほかにどのように、この奇妙な事態に説明をつければいいのだろう。牛河には見当がつかない。
 
 川奈天吾がアパートの玄関に姿を見せたのは、その日の午後四時前だった。土曜日の夕暮れ前だ。彼は着古したウィンドブレーカーの襟を立て、紺色の野球帽をかぶり、旅行用バッグを肩にかけていた。彼は玄関先で立ち止まることもなく、あたりを見回すこともなく、まっすぐ建物の中に入っていった。牛河の意識はまだいくぶんぼんやりとしていたが、視野を通り過ぎていくその大柄な体躯を見逃すことはなかった。
「ああ、お帰りなさい、川奈さん」、牛河はそう眩きながら、モータードライブでカメラのシャッターを三度切った。「お父さんの具合はいかがでした? きっとお疲れになったことでしょう。ゆっくり休んでください。自宅に帰るっていうのはいいものです。たとえこんな[#傍点]しがない[#傍点終わり]アパートであってもね。そうそう、深田絵里子さんは、あなたのいないうちに、荷物をまとめてどこかに行ってしまわれましたよ」
 しかしもちろん彼の声は天吾には届かない。ただの独りごとに過ぎない。牛河は腕時計に目をやり、手元のノートにメモした。川奈天吾旅行より帰宅、午後三時五十六分。
 川奈天吾がアパートの入り口に姿を見せるのと同時に、どこかで扉が大きく開かれ、現実感が牛河の意識に戻った。大気が真空を満たすように、一瞬のうちに神経は研ぎ澄まされ、新鮮な活力が身体に行き渡った。彼はそこにある具象的な世界に、ひとつの有能な部品として組み込まれた。[#傍点]かちん[#傍点終わり]という心地よいセッティングの音が耳に届いた。血行の速度が上がり、適量のアドレナリンが全身に配られた。これでいい、こうこなくては、と牛河は思った。これが俺の本来の姿であり、世界の本来の姿なのだ。
 
 天吾が再び玄関に現れたのは七時過ぎだった。日が暮れると風が吹き始め、あたりは急激に冷え込んだ。彼はヨットパーカの上に革ジャンパーを着て、色の褪せたブルージーンズを穿いていた。玄関を出ると、立ち止まってあたりを見回した。しかし彼には何も見つけることはできなかった。牛河の潜んでいるあたりにも目をやったが、監視者の姿を捉えることはできなかった。深田絵里子とは違う、と牛河は思った。彼女は特別なものだ。人には見えないものが見える。しかし天吾くん、君は良くも悪くも当たり前の人間だ。君にはこの俺の姿は見えない。
 あたりの風景に普段と変わりがないことを確認すると、天吾は革ジャンパーのジッパーを首のところまで上げ、ポケットに両手を突っ込んで通りに出て行った。牛河はすぐにニット帽をかぶり、首にマフラーを巻き、靴を履いて天吾のあとを追った。
 天吾が外出したら、すぐにあとをつけるつもりでいたから、準備に時間はかからなかった。尾行はもちろん危険な選択だった。特徴のある牛河の体型と相貌は、天吾に見られたらすぐにそれとわかってしまう。しかしあたりはもうすっかり暗くなっているし、距離を置くようにすれば、簡単には見つけられないはずだ。
 天吾はゆっくりと通りを歩き、何度か背後を振り向いたが、牛河はじゅうぶん用心していたから、姿を見られることはなかった。その大きな背中は何か考えごとをしているように見えた。ふかえりがいなくなったことについて考えを巡らせていたのかもしれない。方向からすると駅に向かっているようだ。これから電車に乗ってどこかに出かけるのだろうか。となると尾行はむずかしくなる。駅は明るいし、土曜日の夜だから乗降客は多くはない。そこでは牛河の姿は致命的なまでに目立つだろう。その場合は尾行はあきらめた方が賢明だ。
 しかし天吾は駅に向かっていたのではなかった。しばらく歩いたところで、駅から遠去かる方向に角を曲がり、人通りのない道路を少し歩いてから、「麦頭」という名前の店の前に立った。若者を相手にするスナックバーのような店だ。天吾は腕時計で時刻を確かめ、数秒思案してからその店の中に入っていった。「むぎあたま」と牛河は思った。そして首を振った。まったく、なんというわけのわからない名前を店につけるんだろう。
 牛河は電柱の陰に立ってあたりを見回した。天吾はたぶんここで軽く酒を飲み、食事をするつもりなのだろう。となれば少なくとも三十分はかかるはずだ。下手をすれば一時間くらい腰を据えるかもしれない。「麦頭」の人の出入りをうかがいながら時間をつぶせる適当な場所を彼は目で探し求めた。しかしまわりには牛乳の販売店と、天理教の小さな集会場と、米屋があるだけだ。どれも既にシャッターを下ろしている。やれやれまったく、と牛河は思った。北西の強い風が、空の雲を勢いよく吹き流していた。昼間の穏やかな温かさが嘘のようだ。こんな寒風の中、三十分も一時間も何もせずに道ばたに立っているのは、当然ながら牛河の歓迎するところではなかった。
 このまま引き上げてしまおうかと牛河は思った。天吾はどうせここで食事をするだけだ。苦労して尾行する必要もない。牛河自身どこかの店に入って温かいものを食べ、そのまま部屋に戻ればいい。ほどなく天吾は帰宅するだろう。それは牛河にとっては魅力的な選択肢だった。自分が暖房の効いた店に入り、親子丼を食べているところを想像した。ここ数日、実のあるものを腹に入れていない。久しぶりに温かい日本酒を頼んでもいい。こんな寒さだ。一歩外に出れば酔いも醒めてしまう。
 しかし別のシナリオも考えられた。天吾は「麦頭」で誰かと待ち合わせているのかもしれない。その可能性は無視できなかった。天吾はアパートを出て、迷うことなくまっすぐその店に向かった。店に入る前に腕時計で時刻を確かめた。誰かがそこで彼を待っていたのかもしれない。あるいはその誰かはこれから「麦頭」にやってくるのかもしれない。もしそうだとしたら、牛河はその[#傍点]誰か[#傍点終わり]を見逃すわけにはいかなかった。たとえ両耳が凍り付いたとしても、道ばたに立って「麦頭」の出入りを監視しているしかない。牛河はあきらめて、親子丼と温かい酒のことを頭から追いやった。
 待ち合わせている相手はふかえりかもしれない。青豆かもしれない。牛河はそう思って心を引き締めた。なんといっても我慢強さが俺の身上だ。少しでも見込みがあれば、ここを先途としがみつく。雨に打たれても、風に吹かれても、太陽に焼かれても、棒で打たれても手を放さない。いったん放してしまえば、次にいつそれを握り直せるか、そんなことは誰にもわからない。彼が目の前のきつい苦痛に耐えられるのは、それよりも更にきつい苦痛が世の中に存在することを身をもって学んできたからだ。
 牛河は壁にもたれ、電柱と日本共産党の立て看板の陰に隠れて、「麦頭」の入り口を見張った。緑色のマフラーを鼻の下まで巻き付け、ピーコートのポケットに両手を突っ込んでいた。時々ポケットからティッシュ・ペーパーを出して鼻をかむほかは、身動きひとつしなかった。高円寺駅のアナウンスが時折風に乗って聞こえてきた。通り過ぎていく人々の中には物陰に潜んでいる牛河の姿を目にして、緊張のために歩を早めるものもいた。しかし暗がりの中に立っていたので、顔だちまでは見えない。そのずんぐりとした体躯が不吉な置物のようにそこに暗く浮かび上がり、人々を怯えさせるだけだ。
 天吾はそこでいったい何を飲んで、何を食べているのだろう。そんなことを考えれば考えるほど腹が減ったし、身体は冷えた。しかし想像しないわけにはいかなかった。なんでもいい、熱燗でなくてもいい、親子丼じゃなくてもいい。どこか温かいところに入って、人並みの食事をしたかった。吹きさらしの暗がりに立って、通りがかりの市民に疑わしげな視線を向けられることに比べたら、たいていのことは我慢できる。
 しかし牛河には選択の余地はなかった。天吾が食事を終えて出てくるのを寒風の中で凍えて待つよりほかに、彼のとるべき道はなかった。中央林間の一軒家と、そこにあった食卓のことを牛河は考えた。その食卓には毎晩温かい食事が出ていたはずだ。しかしそれがどんなものだったか、うまく思い出せなかった。俺はあの頃いったい何を食べていたのだろう? まるで前世の話みたいだ。昔々、小田急線中央林間駅徒歩十五分のところに、新築の一軒家と温かい食卓がありました。二人の小さな女の子がピアノを弾き、小さな芝生の庭があり、血統書付きの子犬がそこを駆け回っておりました。
 
 天吾は三十五分後に一人で店を出てきた。悪くない。少なくとももっとひどいことになる可能性だってあったのだ。牛河は自分にそう言い聞かせた。惨めな長い三十五分間だったが、惨めな長い一時間半よりは遥かにましだ。身体は冷えきっているが、まだ耳が凍りつくところまではいっていない。天吾が店内にいるあいだ、「麦頭」には牛河の注意を引くような客の出入りはなかった。若いカップルがひと組入っていっただけだ。出ていった客はいない。天吾は一人で酒を飲み、軽い食事をしただけなのだろう。牛河は来たときと同じように距離を十分にとって天吾のあとをつけた。天吾はもと来た道を辿っていた。おそらくこのままアパートの自室に戻るつもりなのだろう。
 しかし天吾は途中で道を逸れ、牛河には見覚えのない通りに足を踏み入れていった。どうやらまっすぐ帰宅するのではなさそうだ。後ろから見える彼の広い背中は、相変わらず何かの考えに耽っているようだった。おそらくは前よりも更に深く。もう背後を振り向くこともなかった。牛河はあたりの風景を観察し、番地を読み取り、道順を記憶しようと努めた。後日自分ひとりでもう一度同じ道を辿れるように。牛河にはこのあたりの土地勘はなかったが、川の流れのような車の途切れない騒音がいくぶん大きくなったことから、環状七号線に近づいていると推測できた。そのうちに天吾の足取りは心もち速くなった。目的地に近づいているらしい。
 悪くない、と牛河は思った。この男は[#傍点]どこか[#傍点終わり]に向かっている。こうこなくては。これで、わざわざ尾行してきた甲斐があったというものだ。
 天吾は住宅地の街路を足早に抜けていった。冷たい風が吹く土曜日の夜だ。人々は温かい部屋に閉じこもり、テレビの前に座って温かい飲み物を手にしている。通りを歩く人間はほとんどいない。牛河は十分な距離をとってそのあとをついていった。天吾はどちらかといえば尾行しやすい相手だ。背が高くて大柄で、人混みの中でも見逃すことがない。歩くときには歩く以外の余計なことをしない。軽く顔を伏せ、いつも頭の中で何かしらの考えを追っている。基本的に率直で正直な男だ。隠しごとができるタイプではない。たとえば俺とはぜんぜん違う。
 牛河が結婚した相手も、隠しごとが好きな女だった。いや、好きというのではないな。隠しごとを[#傍点]せずにはいられない[#傍点終わり]タイプなのだ。今何時だと尋ねても、まず正確な時刻は教えてもらえないだろう。それも牛河とは違う。牛河は必要なときにしか隠しごとはしない。仕事の一部として、必要に迫られてそうするだけだ。誰かに時刻を尋ねられれば、そしてもし不正直になるべき理由がなければ、むろん正確な時刻を教える。それも親切に教える。しかし妻は何しろあらゆる局面で、あらゆる物事についてまんべんなく嘘をついた。隠す必要のないことまで熱心に隠した。年齢だって四歳ごまかしていた。婚姻届を出す時に書類を見てわかったが、気がつかないふりをして黙っていた。どうしてそんな、いつか露見するのがわかりきっている嘘をつかなくてはならないのか、牛河には理解できない。それに牛河は年齢差を気にするような人間ではない。彼にはもっとほかに気にしなくてはならない物事がたくさんある。妻が自分より本当は七歳年上だったとして、それのいったいどこが問題なのだ?
 駅から遠ざかるにつれて、人影はいっそうまばらになっていった。やがて天吾は小さな公園に入っていった。住宅地の一角にあるぱっとしない児童公園だ。公園は無人だった。当然だ、と牛河は思う。十二月の夜の児童公園で、寒風に吹かれてひとときを過ごそうと思う人間は、世間にそう多くはいない。天吾は冷ややかな水銀灯の光の下を横切り、まっすぐ滑り台に向かった。そのステップに足をかけ、上にあがった。
 牛河は公衆電話ボックスの陰に身を潜めて天吾の行動を見守っていた。滑り台? 牛河は顔をしかめた。どうしてこんな寒い夜に、大のおとなが児童公園の滑り台に上らなくてはならないのか? ここは天吾の住んでいるアパートのすぐ近くというわけではない。彼は何らかの目的を持って[#傍点]わざわざ[#傍点終わり]ここまでやってきたのだ。とくに魅力的な公園とも言えない。狭苦しくうらぶれている。滑り台に、ぶらんこがふたつ、小さなジャングルジム、砂場。世界の終わりを何度となく照らしてきたような水銀灯がひとつ、葉をむしり取られた無骨なケヤキの木が一本。施錠された公衆便所は落書きのためのかっこうのキャンバスになっている。ここには人の心を和ませてくれるものもなければ、想像力を刺激するものもない。あるいは爽やかな五月の午後には、そういうものもいくらかあるのかもしれない。しかし風の強い十二月の夜には断じてない。
 天吾はこの公園で誰かと待ち合わせているのだろうか。誰かがここにやってくるのを待っているのだろうか。そうではあるまいと牛河は判断した。天吾の素振りにはそういう気配は見当たらなかった。公園に入ってもほかの遊具には注意を払わず、一直線に滑り台に向かった。念頭には滑り台しかないみたいだった。[#傍点]天吾は滑り台に上るためにここにやってきたのだ[#傍点終わり]。牛河の目にはそうとしか映らなかった。
 滑り台に上って考えごとをするのが、この男は昔から好きなのかもしれない。小説の筋を考えたり、数学の公式について思案したりする場所として、夜の公園の滑り台の上がいちばん適しているのかもしれない。あたりが暗ければ暗いほど、吹く風が冷たければ冷たいほど、公園が二級品であればあるほど、頭脳が活発に働くのかもしれない。世間の小説家が(あるいは数学者が)何をどう考えるのか、牛河の想像が及ぶところではない。彼の実用的な頭が告げているのは、何はともあれここで辛抱強く天吾の様子を窺っているしかないということだけだ。腕時計の針はちょうど八時を指している。
 天吾は滑り台の上で、大きな身体を折り畳むように腰を下ろした。そして空を見上げた。しばらくのあいだ頭をあちこちに動かしていたが、やがてひとつの方向に視線を据えると、そのままそちらを眺めた。頭はもうぴくりとも動かなかった。
 牛河はずっと昔に流行った坂本九の感傷的な歌を思い出した。「見上げてごらん夜の星を、小さな星を」というのが出だしの一節だ。あとの歌詞は知らない。とくに知りたいとも思わない。感傷と正義感は牛河がもっとも不得意とする領域だった。天吾も滑り台の上から、何かしらの感傷をもって夜の星を見上げているのだろうか?
 牛河も同じように空を見上げてみた。しかし星は見えない。ごく控えめに言って、東京都杉並区高円寺は星空を観察するのに適した土地とは言えない。ネオンサインや道路の照明灯が、空全体を奇妙な色合いに染めている。人によっては目をこらせば、いくつか星をそこに認めることができるかもしれない。しかしそれには並み外れた視力と集中力が必要とされるはずだ。おまけに今夜は雲の往来がことのほか激しい。それでも天吾は滑り台の上で身じろぎもせず、空の特定の一角を見上げていた。
 まったくはた迷惑な男だ、と牛河は思う。何もこんな風の強い冬の夜に、滑り台の上で空を見上げて考えごとをする必要もあるまいに。とはいえ彼には天吾を非難できる筋合いはない。牛河はあくまで自分の都合で勝手に天吾を見張り、尾行しているのだ。その結果どんな酷い目にあわされようと、それは天吾の責任ではない。天吾は一人の自由な市民として、春夏秋冬好きな場所から好きなだけ空を眺める権利を有している。
 それにしても冷えると牛河は思った。少し前から小便がしたかった。しかしここは我慢するしかない。公衆便所には頑丈そうな鍵がかかっていたし、いくら人通りがないとはいえ、電話ボックスのわきで立ち小便はできない。何でもいいから早くここを引き払ってくれないものか、牛河は足を踏みしめながらそう思った。考えごとをしているにせよ、感傷に耽っているにせよ、天体観測をしているにせよ、天吾くん、君だってかなり寒いはずだぜ。早く部屋に戻って暖まろうじゃないか。戻ったところで、お互い誰が待っているわけでもないが、こんなところにいるよりは遥かにましだろう。
 しかし天吾には腰をあげそうな気配はなかった。彼はようやく夜空を見上げるのをやめたが、今度は通りを挟んだマンションに目をやった。六階建ての新しい建物で、半分ばかりの窓に明かりがついている。天吾はその建物を熱心に眺めていた。牛河もその建物を同じように眺めてみたが、そこにはとくに彼の注意を引くものは見当たらなかった。よくある普通のマンションだ。とくに高級というほどではないが、グレードはそこそこ高そうだ。上品なデザインで、外装のタイルにも金がかかっている。玄関も立派で明るい。天吾の住んでいる解体寸前の安アパートとはものが違う。
 天吾はそのマンションを見上げながら、できたら自分もそんなところに住みたいと考えているのだろうか? いや、そんなはずはない。牛河の知る限り、天吾は住む場所にこだわるタイプではなかった。着る洋服にこだわらないのと同様。きっと今住んでいる安物のアパートにもとくに不満は感じていないはずだ。屋根があって、寒さがしのげればそれでいい。そういう男なのだ。彼が滑り台の上で考えを巡らしているのはもっと違う種類のものごとであるはずだ。
 マンションの窓をひととおり眺めてしまうと、天吾はもう一度空に視線を戻した。牛河も同じように空を見上げた。牛河の潜んでいる場所からはケヤキの枝や電線や建物が邪魔になって、空の半分ほどしか見渡せなかった。天吾が空のどの一角を見ているのか定かにはわからない。数え切れないほどの雲があとからあとから、かさにかかった軍団のように押し寄せてくる。
 やがて天吾は立ち上がり、厳しい夜間の単独飛行を終えた飛行士のように、いかにも寡黙に滑り台を降りた。そして水銀灯の照明の下を横切り、公園から出ていった。牛河は迷ったが、これ以上あとはつけないことにした。天吾はたぶんこのまま自室に戻るはずだ。それに牛河としてはどうしても小便がしたかった。彼は天吾の姿が見えなくなるのを見定めてから公園の中に入り、公衆便所の裏手の人目につかない暗がりで、植え込みに向かって立ち小便をした。彼の膀胱の容量は既に限界を越えかけていた。
 長い貨物列車が鉄橋を渡り切ることができるくらいの時間をかけてようやく小便を終えると、牛河はズボンのジッパーを上げ、目をつぶって深い安堵の溜息をついた。腕時計の針は八時十七分を指している。天吾が滑り台の上にいたのは十五分くらいのものだ。天吾の姿が見えないことを再確認してから、牛河は滑り台に向かった。そして短い湾曲した脚でそのステップを上った。冷え切った滑り台のてっぺんに腰を下ろし、天吾が見つめていたのとおおよそ同じ方向に目をやった。彼がいったい何をあんなに熱心に眺めていたのか、牛河はそれが知りたかった。
 牛河は視力は悪い方ではない。乱視が入っていて、そのせいで目つきがいくぶん左右不均衡になっているものの、眼鏡をかけなくても日常生活には支障はない。しかしいくら目を凝らしても、星はひとつも見当たらなかった。それよりは中空近くに浮かんだ、三分の二ばかりの大きさの月が牛河の注意を惹いた。月はそのアザのような暗い模様を、通り過ぎていく雲の合間にくっきりと晒していた。いつもながらの冬の月だ。冷ややかで青白く、太古から引き継がれた謎と暗示に満ちている。それは死者の目のようにまばたきひとつせず、黙して空に浮かんでいる。
 やがて牛河は息を呑んだ。そのまましばらく呼吸することさえ忘れてしまった。雲が切れたとき、そのいつもの月から少し離れたところに、もうひとつの月が浮かんでいることに気づいたからだ。それは昔ながらの月よりはずっと小さく、苔が生えたような緑色で、かたちはいびつだった。でも間違いなく月だ。そんな大きな星はどこにも存在しない。人工衛星でもない。それはひとつの場所にじっと留まっている。
 牛河はいったん目を閉じ、数秒間を置いて再び目を開けた。何かの錯覚に違いない。[#傍点]そんなものがそこにあるわけがないのだ[#傍点終わり]。しかし何度目を閉じてまた目を開いても、新しい小振りな月はやはりそこに浮かんでいた。雲がやってくるとその背後に隠されたが、通り過ぎるとまた同じ場所に現れた。
 [#傍点]これが天吾の眺めていたものなのだ[#傍点終わり]、と牛河は思った。川奈天吾はこの光景を見るために、あるいはそれがまだ存在しているのを確認するために、この児童公園にやってきたのだ。空に二つの月が浮かんでいることを彼は前から知っていた。疑いの余地はない。それを目にしても驚いた様子を見せなかった。牛河は滑り台の上で深く吐息をついた。ここはいったいどういう世界なんだ、と牛河は自らに問いかけた。[#傍点]俺はどのような仕組みの世界に入り込んでしまったのだ[#傍点終わり]? 答えはどこからもやってこない。無数の雲が風に吹き流され、大小二つの月が謎かけのように空に浮かんでいるだけだ。
 ひとつだけ間違いなく言えることがある。[#傍点]これはもともと俺のいた世界ではない[#傍点終わり]。俺の知っている地球はひとつしか衛星を持たない。疑いの余地のない事実だ。それが今では二つに増えている。
 しかしやがて牛河は、自分がこの光景に既視感のようなものを感じていることに気づいた。俺は以前どこかでこれと同じ光景を目にしている。牛河は意識を集中して、その既視感がどこからもたらされたのか、必死に記憶を探った。顔をゆがめ、歯をむき出し、両手で意識の暗い水底をさらった。そしてようやく思い当たった。『空気さなぎ』だ。その小説にもやはり二つの月が登場した。物語の最後に近いところだ。大きな月と小さな月。マザがドウタを生み出したとき、空に浮かんだ月はふたつになる。ふかえりがその物語をつくり、天吾が詳細な描写を加えた。
 牛河は思わずあたりを見回した。しかし彼の目に映るのはいつもと同じ世界だった。通りを隔てた六階建てのマンションの窓にはレースの白いカーテンが引かれ、その背後には穏やかな明かりが灯っていた。おかしなところは何ひとつない。[#傍点]ただ月の数が違っているだけだ[#傍点終わり]。
 彼は足もとを確かめながら注意深く滑り台を降りた。そして月の目を逃れるように足早に公園を出た。俺の頭がおかしくなりかけているのか? いや、そんなはずはない。俺の頭はおかしくなってなんかいない。俺の思考は新しい鉄釘のように硬く、冷徹でまっすぐだ。それは現実の芯に向けて正しい角度で的確に打ち込まれている。俺自身には何の問題もない。俺はちゃんと正気を保っている。まわりの世界が狂いを見せているだけだ。
 そしてその[#傍点]狂い[#傍点終わり]の原因を俺は見出さなくてはならない。なんとしても。
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