頭の中にあるどこかの場所で
電話のベルが鳴った。目覚まし時計の数字は時刻が二時四分であることを告げていた。月曜日の未明、午前二時四分だ。あたりはもちろん真っ暗で、天吾は深い眠りの中にいた。夢ひとつない穏やかな眠りだった。
彼がまず思い浮かべたのはふかえりだった。こんなとんでもない時刻に電話をかけてくる人間といえば、とりあえず彼女しかいない。それからややあって小松の顔が頭に浮かんだ。小松も時刻に関してはそれほど常識的とは言えない。しかしそのベルの鳴り方は小松らしくなかった。どちらかといえば切迫した、事務的な響きのする鳴り方だ。それに小松とは顔をつき合わせてたっぷり話をして、数時間前に別れたばかりだ。
その電話を無視して寝てしまうことも、ひとつの選択肢としてあった。どちらかといえば天吾はそうしたかった。しかし電話のベルはそこにあるあらゆる選択肢を叩き潰すかのように、いつまでも鳴り止まなかった。このまま夜が明けるまで鳴り続けているかもしれない。彼はベッドから起き上がり、何かに足をぶっつけながら受話器を取った。
「もしもし」と天吾はよく回らない舌で言った。頭には脳味噌のかわりに、冷凍されたレタスが収まっているみたいだ。レタスを冷凍してはいけないということを知らない人間がどこかにいるのだ。一度冷凍されて解凍されたレタスは、ぱりぱりとした食感を失ってしまう。それこそがおそらくはレタスにとっての最良の資質であるというのに。
受話器を耳に当てると風の吹く音が聞こえた。流れに身を屈めて透明な水を飲む、美しい鹿たちの毛を軽く逆立てながら、狭い谷間を吹き抜けていく気まぐれな一陣の風だ。しかしそれは風の音ではなかった。機械を通して誇張された誰かの息づかいだ。
「もしもし」と天吾は繰り返した。いたずら電話かもしれない。回線の具合が悪いのかもしれない。
「もしもし」とその誰かは言った。聞き覚えのない女の声だった。ふかえりではない。年上のガールフレンドでもない。
「もしもし」と天吾は言った。「川奈ですが」
「天吾くん」と相手は言った。ようやく話がかみ合ったようだ。しかし相手が誰なのかまだわからなかった。
「どなたですか?」
「アダチクミ」と相手は言った。
「ああ、君か」と天吾は言った。フクロウの鳴き声が聞こえるアパートに住んでいる、若い看護婦の安達クミだ。「どうしたの?」
「寝てた?」
「うん」と天吾は言った。「君は?」
無意味な質問だ。寝ている人間にはもちろん電話をかけることはできない。どうしてこんな馬鹿げたことを口にするのだろう。きっと頭の中にある凍えたレタスのせいだ。
「私は勤務中」と彼女は言った。そしてひとつ咳払いをした。「ねえ、川奈さんがさきほど亡くなったの」
「川奈さんが亡くなった」と天吾はよくわからないまま反復した。ひょっとして自分が死んでいることを誰かに告げられているのだろうか。
「天吾くんのお父さんが息を引き取ったの」と安達クミは言い直した。
天吾はとくに意味もなく受話器を右手から左手に移し替えた。「息を引き取った」と彼はまた反復した。
「仮眠室でうとうとしていたら、一時過ぎに呼び出しのベルが鳴った。お父さんの病室のベルだった。お父さんはずっと意識がなかったから、自分でベルを押せるわけないし、変だなと思ったんだけど、とにかくすぐ行ってみた。でも行ったときにはもう呼吸が止まっていた。心拍も停止していた。当直の先生を起こして、応急処置をしたけどだめだった」
「つまり父親がベルを押したということ?」
「たぶん。ほかには誰も押した人はいないから」
「死因は?」と天吾は尋ねた。
「そういうのは私からはなんとも言えない。でも苦しみのようなものはなかったみたい。顔はすごく安らかだった。なんていうかな、秋の終わりごろに風もないのに木の葉が一枚落ちるみたいな、そんな感じ。こういう言い方はまずいのかもしれないけど」
「何もまずくない」と天吾は言った。「それでよかったんだと思う」
「天吾くんは今日、こちらに来れるかな?」
「行けると思う」。月曜日から予備校の講義を再開することになっているが、父親が亡くなったとなれば、それはなんとでもなるはずだ。
「いちばん早い特急に乗るよ。十時前には着けるだろう」
「そうしてもらえるとありがたい。いろいろとジツムみたいなことがあるから」
「実務」と天吾は言った。「何か具体的に準備していった方がいいものはあるかな?」
「川奈さんの身内っていうと、天吾くん一人だけ?」
「たぶんそういうことになる」
「じゃあ、とりあえずジツインを持ってきて。必要なことがあるかもしれない。それから印鑑証明は持っている?」
「たしか予備があったと思う」
「それも念のために持ってきて。ほかに要るものはとくにないと思う。お父さんは全部ご自分で準備してられたみたいだから」
「全部準備していた?」
「うん。まだ意識のあるうちに葬儀の費用から、お棺に入るときの服から、納骨する場所まで、自分でそっくり細かく指定してらした。とても手回しの良い人だった。実際的というか」
「そういうタイプの人だったんだ」と天吾は指でこめかみをさすりながら言った。
「私は朝の七時に当直があけて、うちに帰って眠る。でも田村さんと大村さんは朝から勤務しているから、そこで天吾くんに細かい説明をしてくれると思う」
田村さんは眼鏡をかけた中年看護婦、大村さんは髪にボールペンを挿した看護婦だ。
「いろいろとお世話になったみたいだ」と天吾は言った。
「どういたしまして」と安達クミは言った。それからふと思い出したように、口調をあらためて付け加えた。「このたびはどうもご愁傷様でした」
「ありがとう」と天吾は言った。
眠れそうになかったから、天吾は湯を沸かし、コーヒーをつくって飲んだ。それで頭が少しまともになった。腹が減ったような気がしたので、冷蔵庫にあったトマトとチーズでサンドイッチを作って食べた。暗闇の中でものを食べているときのように、食感こそあるもののほとんど味はなかった。それから時刻表を取りだし、館山行きの特急の出発時刻を調べた。二日前、土曜日の昼に「猫の町」から帰ってきたばかりなのに、またそこに戻らなくてはならない。でも今回はおそらく一泊か二泊で済むはずだ。
時計が四時を指すと、天吾は洗面所で顔を洗い、髭を剃った。ヘアブラシを使って、まっすぐに立っているひとかたまりの髪をなんとか寝かせつけようとしたが、例によってうまくいかなかった。まあいい。昼前にはたぶん落ち着いているだろう。
父親が息を引き取ったことは、とくに天吾の心を揺さぶらなかった。彼は意識のない父親と二週間ばかりをともに過ごした。父親はそのとき自分が死に向かっていることを既成事実として受け入れているように見えた。妙な言い方だが、彼はそれを決めた上で、自らスイッチを切って昏睡状態に入ったみたいだった。何が彼にそのような昏睡をもたらしたのか、医師たちは原因を特定できなかった。しかし天吾にはわかっていた。父親は死ぬことに決めたのだ。あるいはこれ以上生きようという意思を放棄した。安達クミの表現を借りるなら「一枚の木の葉」として、意識の明かりを消し、すべての感覚の扉を閉ざして、季節の刻み目の到来を待ったのだ。
千倉駅からタクシーに乗り、海辺の療養所についたのは十時半だった。前日の日曜日と同じような穏やかな初冬の一日だった。温もりのある日差しが、枯れかけた庭の芝生をねぎらうように照らし、見たことのない三毛猫が一匹そこで日向ぼっこをしながら、時間をかけて尻尾を丹念に舐めていた。田村看護婦と大村看護婦が玄関で彼を出迎えてくれた。二人はそれぞれに静かな声で天吾を慰めてくれた。天吾は礼を言った。
父親の遺体は、療養所の目立たない一画にある、目立たない小部屋に安置されていた。田村看護婦が先に立って天吾をそこに案内した。父親は移動式のベッドの上に仰向けに寝かされ、白い布をかけられていた。窓のない真四角な部屋で、白い壁を天井の蛍光灯がいっそう白く照らしていた。腰までの高さのキャビネットがあり、その上に置かれたガラスの花瓶には、白い菊の花が三本さしてあった。花はおそらくその日の朝に活けられたのだろう。壁には丸形の時計がかかっていた。埃をかぶった古い時計だが、指している時刻は正確だった。それは何かを証言する役目を担っているのかも知れない。そのほかには家具もなく装飾もない。たくさんの老いた死者たちが同じようにこの簡素な部屋を通過していったのだろう。無言のままここに入ってきて、無言のままここを出て行く。その部屋には実務的ではあるが、それなりに厳粛な空気が大事な申し送り事項のように漂っていた。
父親の顔は生きているときとさして変わりはなかった。間近に対面しても、死んでいるという実感はほとんどなかった。顔色も悪くないし、たぶん誰かが気を利かせて髭を剃ってくれたのだろう、顎と鼻の下は妙につるりとしていた。意識を失って深く眠っていることと、命を失っていることのあいだには、今のところそれほどの違いはない。栄養補給と、排泄の処理が不要になっただけだ。ただこのまま放っておけば数日のうちに腐敗が始まる。そしてそれが生と死を分ける大きな違いになってくる。しかしもちろんそうなる前に遺体は火葬に付される。
以前に何度か話したことのある医師がやってきて、まず悔やみの言葉を述べ、それから父親の死の経緯を説明してくれた。親切に時間をかけて説明してくれたが、ひとことで言ってしまえば「死因はよくわからない」ということだった。どれだけ検査をしても、具体的に悪いところは見つからなかった。検査の結果はむしろ父親が健康体であることを示していた。ただ認知症にかかっているだけだ。ところがなぜかあるとき昏睡に陥り(その原因は不明のままだ)、意識の戻らないまま身体全体の機能が少しずつ、しかし休むことなく低下を続けた。そしてその低下曲線がある定められたラインをまたいだところで、それ以上生命を維持することが困難になり、父親は避けがたく死の領域に入っていった。わかりやすいと言えばわかりやすい話だが、医師という専門的な立場からすれば少なからず問題がある。死因をひとつに特定できないからだ。老衰という定義がもっとも近いが、父親はまだ六十代半ばだったし、老衰を病名にするには若すぎた。
「私が担当医としてお父様の死亡診断書を書くことになります」とその医師は遠慮がちに言った。
「死因につきましては『長期にわたる昏睡によって引き起こされた心不全』というかたちにさせていただければと思うのですが、よろしいでしょうか?」
「でも実際には父の死因は『長期にわたる昏睡によって引き起こされた心不全』ではない。そういうことですか?」と天吾は尋ねた。
医師はいくらか困った顔をした。「ええ、心臓には最後まで、これといって障害は見当たりませんでした」
「しかしほかの臓器にも障害らしきものは見当たらなかったわけですね」
「そういうことです」と医師は言いにくそうに言った。
「しかし書類には明確な死因が必要とされる?」
「そのとおりです」
「専門的なことはよくわかりませんが、とにかく今は心臓は停止しているわけですね?」
「もちろんです。心臓は停止しています」
「それは一種の不全状態ですね」
医師はそれについて考えを巡らせた。「心臓が活動していることを正常とするなら、それはたしかに不全状態にあります。おっしゃるとおりです」
「じゃあ、そのように記入しておいて下さい。『長期にわたる昏睡によって引き起こされた心不全』でしたっけ。それでかまいません。異議はありません」
医師はほっとしたようだった。三十分あれば死亡診断書は用意できると彼は言った。天吾は礼を言った。医師は去り、あとには眼鏡をかけた田村看護婦が残った。
「しばらくお父様とお二人だけにしましょうか?」と田村看護婦は天吾に尋ねた。そう尋ねるのが決まりなので、いちおう尋ねているという事務的な響きが聞き取れた。
「いや、その必要はありません。ありがとう」と天吾は言った。ここで死んだ父親と二人だけにされても、とりたてて語り合うべきこともない。生きているときだってろくになかったのだ。死んでから急に話題が生まれるというものでもない。
「それでは場所を変えて、今後の段取りについてお話をしたいのですが、かまいませんか?」と田村看護婦は言った。
かまわないと天吾は言った。
田村看護婦は出ていく前に、遺体に向かって軽く手を合わせた。天吾も同じことをした。人は死者に自然な敬意を払う。相手はついさっき、死ぬという個人的な偉業を成し遂げたばかりなのだ。それから二人はその窓のない小部屋を出て、食堂に移った。食堂には誰もいなかった。庭に面した大きな窓から明るい陽光が差し込んでいた。天吾はその光の中に足を踏み入れ、ほっと一息つくことができた。そこにはもう死者の気配はなかった。それは生きている人々のための世界だった。たとえそれがどれほど不確実で不完全な代物であれ。
田村看護婦は温かいほうじ茶を湯飲みに入れて出してくれた。二人はテーブルをはさんで座り、しばらく無言でそのほうじ茶を飲んだ。
「今夜はどこかに泊まるの?」と看護婦は尋ねた。
「泊まるつもりでいます。宿はまだ予約してないけど」
「よかったら、お父さんがこれまでいらした部屋に泊まっていけば? 今は誰も使ってないし、それなら宿泊費もかからないでしょう。もしいやじゃなければだけど」
「べつにいやじゃないけど」と天吾は少し驚いて言った。「でもそんなことをしてもいいんですか?」
「かまわないわよ。あなたさえよければ、うちの方は誰も気にしないから。あとでベッドの用意をさせます」
「それで」と天吾は切り出した。「僕はこれから何をすればいいのでしょう?」
「担当医から死亡診断書をもらったら、役場に行って火葬許可証をもらい、それから除籍手続きをして下さい。それがとりあえずはいちばん大事なこと。ほかに年金の手続きだとか、預金口座の名義変更だとか、あれこれあると思うけど、それについては弁護士さんと話し合って」
「弁護士?」と天吾は驚いて言った。
「川奈さんは、つまりあなたのお父さんは、自分が死んだあとの手続きに関して、弁護士さんとお話をされていました。弁護士といっても、そんなにたいそうなものじゃありません。うちの療養所はお年寄りが多いし、判断能力に問題がある場合も多いので、財産分与などに関する法律的なトラブルを回避するために、地元の法律事務所と提携して法律相談をおこなっています。公証人を立てて遺言状の作成とか、そういうこともやっています。費用もたいしてかかりません」
「父は遺言状を残したのですか?」
「それは弁護士さんと話し合って下さい。私の口からは言えないことだから」
「わかりました。その人には近く会えますか?」
「今日の三時にここに来ていただくように、既に連絡をしてあります。それでいいかしら。急がせるみたいだけど、あなたも忙しいだろうし、勝手に手配しました」
「ありがたいです」、天吾は彼女の手際の良さに感謝した。彼のまわりにいる年上の女性はなぜかみんなそれぞれ手際がよかった。
「その前にとにかく町の役場に行って、除籍をして火葬許可証をもらってきてね。それがないと話が進まないから」と田村看護婦は言った。
「じゃあ、これから市川まで行かなくちゃなりませんね。父の本籍地は市川市になっているはずだから。でもそうなると三時までにはここに戻れそうにないな」
看護婦は首を振った。「お父様はここに入られてすぐ、住民票と本籍地を市川市から千倉町に移されたの。いざというときに手間が省けるだろうと」
「手回しがいい」と天吾は感心して言った。まるで最初からここで死ぬことになるとわかっていたみたいだ。
「本当に」と看護婦は言った。「そこまでなさる方はあまりいません。みんな、こんなところにいるのはほんの一時的なものだと考えるんです。でもね……」と言いかけて途中でやめ、あとの言葉を示唆するように、両手を体の前で静かに合わせた。「とにかくあなたは市川まで行く必要はありません」
天吾は父親の病室に案内された。父親が最後の数ヶ月を過ごした個室だ。シーツは剥がされ、上掛けと枕は持ち去られ、ベッドは縞模様の入ったマットレスだけになっていた。机の上には簡素なライト・スタンドが置かれ、狭いクローゼットには空のハンガーが五本かかっていた。本棚には一冊の本もなく、それ以外の私物もすべてどこかに運び去られていた。といっても、どんな私物がそこにあったのか天吾にはまるで思い出せなかった。彼は床にバッグを置き、部屋の中をひととおり見渡した。
部屋にはまだ薬品の匂いが微かに残っていた。病人が残していった息づかいをかぎ取ることさえできた。天吾は窓を開け、部屋の空気を入れ換えた。日焼けしたカーテンが風に吹かれて、遊戯をしている少女のスカートのように揺れた。それを見ているうちに、ここに青豆がいて、何も言わず自分の手をただしっかり握ってくれていたらどんなに素晴らしいだろうと天吾はふと思った。
彼はバスに乗って千倉町の役場に行き、窓口で死亡診断書を見せ、火葬許可証を受け取った。死亡時刻から二十四時間が経過すれば火葬に付すことができる。死亡による除籍届けも出した。その証明書ももらった。手続きに時間はいくらかかかったが、ものごとの原理はあっけないほど簡単だった。省察というほどのものは求められない。自動車の廃車届けを出すのと同じだ。役所でもらった書類を田村看護婦がオフィスのコピー機で三部ずつコピーしてくれた。
「二時半に、弁護士さんがお見えになる前に、善光社という葬儀社の人がここに来ます」と田村看護婦が言った。「その人に火葬許可証のコピーを一通わたして下さい。あとのことはすべて善光社さんがはからってくれます。お父さんが生前に担当者と話し合って段取りを決めておられました。必要な費用も積み立ててあります。だからとくに何もしなくていいんです。もちろん天吾さんの方にそれで異存がなければだけど」
異存はないと天吾は言った。
父親が残した身の回りのものはほとんどなかった。古い衣服、何冊かの本、それくらいだ。
「何か形見のようなものはほしい? といっても、目覚まし付きラジオか、古い自動巻の腕時計か、老眼鏡か、その程度のものだけど」と田村看護婦は尋ねた。
何もほしくはない、適当に処分してくれてかまわない、と天吾は言った。
ぴったり二時半に黒い背広を着た葬儀社の担当者が、密やかな足取りでやってきた。五十代前半の痩せた男だった。両手の指が長く、瞳が大きく、鼻の脇に黒い乾燥したいぼがひとつあった。日差しの下で長い時間を過ごしたみたいに、耳の先までまんべんなく日焼けしていた。何故かはわからないが、太った葬儀屋を天吾はこれまで目にしたことがない。その男は天吾に葬儀のおおよその手順を説明した。言葉遣いは丁寧で、しゃべり方はとてもゆっくりしていた。今回の件に関しては急ぐことは何ひとつありません、と彼は示唆しているようだった。
「お父様はご生前、できるだけ飾り気のないご葬儀を望んでおられました。用の足りる簡素な棺に入れて、ただそのまま火葬に付してもらいたい。祭壇やらセレモニーやらお経やら戒名やらお花やらあいさつやら、そんなものは一切省いてくれとおっしゃっておられました。墓も要らない。遺骨はこのあたりの適当な共同の施設に納めてもらいたいと。ですから、もしご子息様にご異存がなければ……」
彼はそこで言葉を切って、大きな黒い目で訴えかけるように天吾の顔を見た。
「父がもしそれを望んでいたのであれば、こちらとしては異存はありません」と天吾はその目をまっすぐ見ながら言った。
担当者は肯き、軽く目を伏せた。「それでは、今日がいわゆる通夜ということになりまして、当社で一晩ご遺体を安置いたします。ですので、これから当社にご遺体を運ばせていただきます。そして明日の午後一時に、近くの火葬場においてご火葬という次第になりますが、それでよろしいでしょうか?」
「異存はありません」
「ご子息様は火葬にお立ち会いになられますか?」
「立ち会います」と天吾は言った。
「火葬には立ち会いたくないという方もおられますし、それはご自由ですが」
「立ち会います」と天吾は言った。
「けっこうです」と相手は少しほっとしたように言った。「それでは、こういうところでなんですが、これは生前にお父様にお見せいたしましたのと、同じ内容のものになります。ご承認いただければと思います」
担当者はそう言うと、長い指を昆虫の脚のように動かして、書類ばさみのなかから計算書を取りだし、天吾に手渡した。葬儀についてほとんど知識のない天吾が見ても、それがかなり安上がりな葬儀であることは理解できた。天吾にはもちろん異存はなかった。彼はボールペンを借りてその書類にサインをした。
弁護士が三時少し前にやってくると、葬儀担当者と弁護士は天吾の前でしばらく世間話をした。専門家と専門家とのあいだで交わされるセンテンスの短い会話だ。何が話されているのか、天吾にはよくわからなかった。二人は前からの知り合いであるようだった。小さな町だ。きっとみんながみんなを知っているのだろう。
遺体安置室のすぐ近くに目立たない裏口があり、葬儀社のライトバンはそのすぐ外に停めてあった。運転席以外のドアのガラスはすべて黒く塗りつぶされ、真っ黒な車体には文字もマークもない。痩せた葬儀屋は助手を兼ねた白髪の運転手と二人で、天吾の父親を車輪付き寝台に載せ替え、車のところまで押していった。ライトバンは特別仕様で天井を一段高くしてあり、レールを使って寝台部分だけをそのまま載せられるようになっていた。後部の両開きドアが業務的な音を立てて閉まり、担当者が天吾に向かって丁寧に一礼し、それからライトバンは去っていった。天吾と弁護士と田村看護婦と大村看護婦の四人が、その真っ黒なトヨタ車の後部ドアに向けて手を合わせた。
弁護士と天吾は食堂の隅で向かい合って話をした。弁護士はおそらくは四十代の半ばで、葬儀屋とは対照的に丸々と太っていた。顎がほとんどなくなりかけている。冬なのに額にうっすらと汗をかいていた。夏にはきっとひどいことになるのだろう。グレーのウールの背広からは防虫剤のつんとする匂いが漂ってきた。額が狭く、その上にある髪は真っ黒で、必要以上にふさふさしている。肥満した体躯とふさふさしすぎた髪の組み合わせは、いかにもそぐわなかった。瞼が重く膨らんで、目は細かったが、よく見るとその奥には親切そうな光が浮かんでいた。
「お父様から遺言状を託されております。遺言状と言いましても、そんな大層なものではありません。推理小説に出てくる遺言状とは違います」、弁護士はそう言ってひとつ咳払いをした。「どちらかといいますと、簡便なメモに近いものです。ええ、私の口からまずその内容をざっと簡単に説明させていただきます。遺言状にはまず、ご自身の葬儀の手はずが指示されております。その内容については、さきほどここにおられた善光社さんからご説明があったと思いますが?」
「説明は受けました。簡素な葬儀です」
「けっこうです」と弁護士は言った。「それがお父様の望んでおられたことでした。すべてをでき得る限り簡素に収めること。葬儀の費用は積立金で充当されますし、医療費用等についても、お父様がこの施設に入られるときに一括して預けられた保証金でまかなわれます。天吾さんには金銭的に何のご負担もかからないようになっています」
「誰にも借りはないということですね?」
「そのとおりです。すべては前もって支払い済みです。それから千倉町郵便局のお父様の口座にお金が残されておりまして、それは息子さんである天吾さんが相続されます。その名義変更の手続きが必要になります。名義変更にはお父様の除籍届けと、天吾さんの戸籍抄本及び印鑑証明が必要です。それを持って直接千倉町郵便局に行き、必要書類に自筆で書き込みをしていただくことになります。その手続きにけっこう時間がかかるはずです。ご存じのように日本の銀行とか郵便局はなにしろ書式にうるさいところですから」
弁護士は上着のポケットから大きな白いハンカチを出して、額の汗を拭いた。
「財産の相続に関してお伝えしなくてはならないのはそれくらいです。財産と申しましても、その郵便貯金のほかには、生命保険も株券も不動産も宝石も書画骨董の類も、何ひとつありません。とてもわかりやすいと申しますか、ええ、手間がかかりません」
天吾は黙って肯いた。いかにも父親らしい。しかし父親の貯金通帳を引き継ぐのは、天吾には気の滅入ることだった。重く湿った毛布を何枚か重ねて引き渡されるような気分だ。できればそんなものは受け取りたくなかった。しかしこの太った、髪のふさふさした人の好さそうな弁護士に向かって、そんなことを言い出すわけにもいかない。
「そのほかにお父様から封筒をひとつお預かりしております。今ここに持っておりますので、お渡ししたいと思うのですが」
その膨らんだ大型の茶封筒はガムテープで厳重に封をされていた。太った弁護士はそれを黒い書類鞄の中から取りだして、テーブルの上に置いた。
「川奈さんがここに入られた直後、お目にかかってお話をしたときに、お預かりしていたものです。その時点では川奈さんは、ええ、まだ意識がしっかりしておられました。時折もちろん混乱なさることもありましたが、だいたいのところ支障なく生活しておられたようでした。自分が死んだら、そのときはこの封筒を法定相続人に渡してもらいたいということでした」
「[#傍点]法定相続人[#傍点終わり]」と天吾はちょっと驚いて言った。
「そう、法定相続人です。誰それという具体的な名前をお父様は口にされませんでした。しかし法定相続人と言えば、具体的には天吾さんしかおられません」
「僕の知る限りでもそういうことになっています」
「だとしたら、これは」と言って弁護士はそのテーブルの上の封筒を指さした。「天吾さんにお渡しすることになります。受領証にサインをいただけますか?」
天吾は書類にサインをした。テーブルの上に置かれた茶色の事務封筒は、必要以上に無個性で事務的に見えた。表にも裏にも文字は書かれていない。
「ひとつうかがいたいのですが」と天吾は弁護士に言った。「父はそのとき僕の名前を、つまり川奈天吾という名前を、一度でも口にしましたか。あるいは息子という言葉を?」
弁護士はそれについて考えるあいだ、ポケットからまたハンカチを取りだして額の汗を拭いた。それから短く首を振った。「いいえ。川奈さんは常に[#傍点]法定相続人[#傍点終わり]という言葉を使っておられました。それ以外の表現は一度も口になさらなかった。ちょっと不思議な気がしたので、そのことは記憶しています」
天吾は黙っていた。弁護士はいくぶん取りなすように言った。
「でも法定相続人といえば天吾さん一人しかいないということは、ええ、川奈さんご自身もきちんとわかっておられました。ただ話し合いの中で、天吾さんのお名前を口にされなかったというだけです。何か気になる点でも?」
「べつに気になる点はありません」と天吾は言った。「父はもともと少し変わったところのある人だったんです」
弁護士は安心したように微笑んで軽く肯いた。そして天吾に新しくとった戸籍謄本を差し出した。「このようなご病気ですので、法的手続きに間違いのないように、失礼ながらいちおう戸籍を確認させていただきました。記録によれば、天吾さんは川奈さんがもうけられたただ一人のお子さんです。お母様は天吾さんを出産され、その一年半後に亡くなられています。その後お父様は再婚なさらず、お一人で天吾さんを育てられた。お父様の御両親、御兄弟も既に皆さまお亡くなりになっています。天吾さんは確かに川奈さんの唯一の法定相続人です」
弁護士が立ち上がり、悔やみの言葉を述べて帰ってしまうと、天吾は一人でそこに座り込んだまま、テーブルの上の事務封筒を眺めた。父親は血を分けた実の父親であり、母親は[#傍点]本当に[#傍点終わり]死んでいる。弁護士はそう言った。おそらくそれが事実なのだろう。少なくとも法的な意味合いでの事実なのだろう。しかし事実が明らかになればなるほど、真実はますます遠ざかっていくみたいに感じられる。どうしてだろう?
天吾は父親の部屋に戻り、机の前に座って茶封筒の厳重な封をはがそうと努めた。その封筒の中に秘密を解く鍵が入っているかもしれない。しかしそれは簡単な作業ではなかった。鋏もカッターも、その代わりになるような何かも、部屋の中には見当たらなかった。爪でガムテープをひとつひとつ剥がしていかなくてはならない。苦労の末に封筒を開くと、その中はまたいくつかの封筒に別れ、どれもやはり厳重に封がされていた。いかにも父親らしい。
ひとつの封筒には現金が五十万円入っていた。まっさらな一万円札が正確に五十枚、幾重にも薄紙に包まれていた。「緊急用現金」と書かれた紙も入っていた。紛れもない父親の字だ。小さくて、一画一画おろそかにされていない。想定外の諸費用の支払いが必要になったときにはその現金を使えということなのだろう。父親は「法定相続人」に十分な現金の持ち合わせがないことを予想していたのだ。
いちばん分厚い封筒には、新聞の古い切り抜きや賞状の類がぎっしりと詰まっていた。そのすべてが天吾に関するものだった。小学校時代に彼が算数コンクールで優勝したときの賞状、地方版に載った新聞記事。トロフィーを並べて撮った写真。芸術品のように優秀な成績表。すべての科目が最高点だ。そのほか彼の神童ぶりを証明する様々な素晴らしい記録。柔道着を着た天吾の中学生のときの写真。にっこり笑って準優勝旗を持っている。それを目にして天吾は深く驚かされた。父親はNHKを退職し、それまで住んでいた社宅を出て、そのあと同じ市川市内の賃貸アパートに移り、最後にこの千倉の療養所にやってきた。独り身で何度か引っ越しをしたせいで、所持品はほとんど残っていなかった。そして彼ら父子の関係は長年にわたって冷え切ったものだった。にもかかわらず父親は天吾の「神童時代」の輝かしい遺物を後生大事に持ち歩いていたのだ。
もうひとつの封筒には、父親のNHK集金人時代の各種記録が入っていた。彼が年間成績優秀者として表彰された記録。何枚かの簡素な表彰状。社員旅行のときに同僚と一緒に撮ったらしい写真。古い身分証。年金や健康保険の支払い記録。どうしてとってあるのか理由がわからない給与の明細が何枚か。退職金の支払いに関する書類……。三十年以上NHKのために身を粉にして働き続けたわりには、その分量は驚くほど少なかった。小学校時代の天吾の目覚ましい達成に比べると、ほとんど無きに等しいと言っていいくらいだ。社会的に見れば実際に無きに等しい人生だったのかもしれない。しかし天吾にすれば、それは「無きに等しい」ものなんかではなかった。父親は天吾の精神に重く濃密な影を残していった。一冊の郵便貯金通帳と一緒に。
NHKに入る以前の父親の人生を示す記録は、その封筒にはひとつとしてなかった。まるでNHKの集金人になったところから、父親の人生は開始したみたいだった。
最後に開けた小さな薄い封筒には、一枚の白黒写真が入っていた。それだけ。ほかには何もない。古い写真で、変色こそしていないものの、まるで水がにじんだみたいに全体に淡い膜が一枚かかっている。そこには親子連れが映っていた。父親と母親、そして小さな赤ん坊。大きさからして、おそらく一歳を超えてはいないだろう。和服を着た母親が赤ん坊を大事そうに抱いている。後ろには神社の鳥居が見える。服装からすると季節は冬だ。神社に詣でているところを見ると、正月かもしれない。母親は眩しそうに目を細め、微笑んでいる。暗い色合いの少し大きすぎるオーバーコートを着た父親は、目と目のあいだに二本の深い縦皺を寄せている。そんなに簡単に額面通りものごとを真に受けないぞという顔をしている。抱かれた赤ん坊は、世界の広さと冷ややかさに戸惑っているように見える。
その若い父親はどう見ても天吾の父親だった。顔立ちはさすがにまだ若々しいが、その頃から妙に老成したところがあり、痩せて、目が奥に引っ込んでいる。寒村の貧しい農夫の顔だ。いかにも強情で疑り深そうだ。髪は短く揃えられ、いくぶん猫背だ。それが父親でないわけはない。とすれば、その赤ん坊はおそらく天吾だろうし、その赤ん坊を抱いている母親は天吾の母親ということになる。母親は父親よりいくらか背が高く、姿勢もよかった。父親は三十代後半、母親は二十代半ばに見える。
そんな写真を目にするのはもちろん初めてだった。家族写真と呼べるものを天吾は未だかつて目にしたことがなかった。幼いときの自分の写真を見たこともない。生活が苦しくカメラを持つ余裕なんかなかったし、わざわざ家族の写真を撮るような機会もなかったと父親は説明した。そういうものなのだろうと天吾も思っていた。でもそれは嘘だった。写真は撮られ残されていたのだ。そして彼らの身なりは華美でこそないが、人前に出してもとくに恥ずかしくないものだった。カメラが買えないほど困窮した生活を送っているとも見えない。撮影されたのは天吾が生まれて間もなく、つまり一九五四年から五五年にかけてだろう。写真を裏返してみたが、日付や場所の書き込みはなかった。
天吾は母親らしき女性の顔を子細に観察した。写真に写った顔は小さく、おまけにぼやけていた。拡大鏡があればもっと細かいことがわかるのかもしれないが、そんなものはもちろん手元にない。それでもおおよその顔立ちを見きわめることはできた。卵形の顔で、鼻が小さく唇はふっくらしていた。とくに美人というのではないが、可愛いげがあり、好感の持てる顔つきだった。少なくとも父親の粗野な顔立ちに比べれば、遥かに上品で知性的だ。天吾はそのことを嬉しく思った。髪はきれいに上にまとめられ、まぶしそうな表情を顔に浮かべている。カメラのレンズを前にして緊張しているだけかもしれない。和服を着ているせいで、身体のかたちまではわからない。
少なくとも写真に写った外見から判断する限り、二人を似合いの夫婦と呼ぶのはむずかしそうだった。年齢も離れているようだ。この二人がどこかで巡り合い、男女として心を通い合わせ、夫婦となって一人の男の子をもうけるまでの経緯を、頭の中で想像しようと試みたが、うまくできなかった。その写真からは、そういう気配がまったく感じられないのだ。だとすると、心の交流のようなものを抜きにして、この二人が夫婦として結びつけられる何かしらの事情があったのかもしれない。いや、そこには事情というほどのものもなかったのかもしれない。人生とは単に一連の理不尽な、ある場合には粗雑きわまりない成り行きの帰結に過ぎないのかもしれない。
それから天吾は、自分の白日夢——あるいは幼時の記憶の奔流——に出てくる謎の女性がこの写真の母親と同一人物であるかどうかを見きわめようとした。しかしその女性の顔だちを自分がまったく記憶していないことにそのとき思い当たった。その女はブラウスを脱ぎ、スリップの肩紐をはずし、見知らぬ男に乳首を吸わせている。そしてあえぎに似た深い吐息をつく。彼が覚えているのはそれだけだ。どこかの別の男が自分の母親の乳首を吸っている。自分が独占すべきその乳首が誰かに奪われている。赤ん坊にとってはおそらくそれが切迫した脅威だったのだろう。顔だちにまで目がいかない。
天吾は写真をいったん封筒に戻し、その意味について考えた。父親はその一枚の写真を死ぬまで大事に持っていた。とすれば彼は母親のことを大事に思っていたのだろう。天吾が物心ついたとき母親は既に病死していた。弁護士の調べによれば、天吾はその亡くなった母親と、NHKの集金人である父親との間に生まれた唯一の子供だった。それが戸籍に残された事実だ。しかし役所の書類はその男が天吾の生物学的な父親であることまでを保証してはいない。
「私には息子はおらない」、父親は深い昏睡に落ちる前に天吾にそう告げた。
「じゃあ、僕はいったい何なのですか?」と天吾は尋ねた。
「あなたは何ものでもない」、それが父親の簡潔にして有無を言わせぬ返答だった。
天吾はそれを聞いて、その声の響きから、自分とその男との間に血の繋がりがないことを確信した。そして重い枷からやっと解放されたと思った。しかし時間が経つにつれ、父親の口にしたことが真実であったのかどうか、今ひとつ確信が持てなくなった。
[#傍点]おれは何ものでもない[#傍点終わり]、と天吾はあらためて口に出してみた。
それからふと、古い写真に写っている若い母親の面影が、どことなく年上のガールフレンドに似ていることに思い当たった。安田恭子、それが彼女の名前だ。天吾は意識を落ち着かせるために、指先で額の真ん中をひとしきり強く押さえた。そしてもう一度封筒から写真を出して眺めた。小さな鼻と、ふっくらとした唇。いくぶん顎が張っている。髪型が違うから気づかなかったけれど、顔立ちは確かに安田恭子に似ていなくもない。でもそれはいったい何を意味するのだろう? そして父親はなぜ死んだ後にこの写真を天吾に引き渡そうと考えたのだろう? 生きているあいだ彼は、母親についての情報を何ひとつ天吾に与えなかった。こんな家族写真があることさえひた隠しにしていた。しかし最後の最後にひとことの説明もなく、この一枚のぼやけた古い写真を天吾の手に遺していった。何のために? 息子に救済を与えるためなのか、あるいはより深く混乱させるためなのか。
天吾にただひとつわかるのは、そこにある何かしらの事情を天吾に説明するつもりは、父親にはまったくなかったということだ。生きているうちもなかったし、死んだ今でもない。ほら、ここに写真が一枚ある。これだけをお前に渡してやる。[#傍点]あとは自分で好きに推理しろ[#傍点終わり]、父親はおそらくそう告げている。
天吾は裸のマットレスに仰向けになり、天井を見上げた。白いペンキを塗られた合板の天井だ。のっぺりとして木目も節目もなく、まっすぐな継ぎ目が何本か走っているだけだ。それは父親が人生の最後の数ヶ月、その窪んだ眼窩の底から眺めていたのと同じ光景であるはずだった。あるいはその目は何も見ていなかったのかもしれない。しかしいずれにせよ彼の視線はそこに注がれていた。見えたにせよ、見えなかったにせよ。
天吾は目を閉じ、自分がそこで横たわったまま緩慢に死に向かっていくところを想像した。しかし健康に問題のない三十歳の男にとって、死は想像の届かぬ遥か外縁にあった。彼はそっと呼吸をしながら、夕暮れの光がつくり出す影が壁の上を移ろっていくのを観察していた。何も考えるまいと思った。何も考えないことは、天吾にとってそれほどむずかしいことではない。何かをつきつめて考えるには疲れすぎていた。できることなら少し眠りたかったが、おそらく疲れすぎているせいだろう、眠ることはできなかった。
六時前に大村看護婦がやってきて、食堂に食事の用意ができていると言った。天吾はまったく食欲を感じなかった。しかし天吾がそう言っても、その胸の大きな長身の看護婦は引き下がらなかった。少しでもいいから、とにかく何かをおなかに入れておきなさいと彼女は言った。それは命令に近いものだった。言うまでもないことだが、身体の維持管理に関して、筋道立てて人に何かを命じることについては彼女はプロだった。そして天吾は、筋道立てて命じられたことには——とくに相手が年上の女性である場合には——うまく逆らえない性格だった。
階段を降りて食堂に行くと、そこには安達クミがいた。田村看護婦の姿はなかった。天吾は安達クミと大村看護婦と同じテーブルで食事をした。天吾はサラダと野菜の煮物を少し食べ、アサリとねぎの味噌汁を飲んだ。それから熱いほうじ茶を飲んだ。
「火葬はいつになるの?」と安達クミは天吾に尋ねた。
「明日の午後一時」と天吾は言った。「それが済んだら、たぶんそのまま東京に戻る。仕事があるから」
「天吾くんのほかに誰か火葬に立ち会う人はいるの?」
「いや、誰もいないと思う。僕一人のはずだ」
「ねえ、私もそこに立ち会ってかまわないかな?」と安達クミが尋ねた。
「うちの父親の火葬に?」と天吾はびっくりして言った。
「そう。実を言うと私、あなたのお父さんのことがけっこう気に入ってたんだ」
天吾は思わず箸を下に置き、安達クミの顔を見た。彼女は本当に自分のあの父親のことを話しているのだろうか。「たとえばどんなところが?」と天吾は質問した。
「律儀で、余計なことは言わなかった」と彼女は言った。「うちの死んだお父さんにそういうところが似ていた」
「ふうん」と天吾は言った。
「うちのお父さんは漁師だったの。五十歳になる前に死んじゃったけど」
「海で亡くなったの?」
「違う。肺癌で死んだ。煙草の吸いすぎ。なぜかは知らないけど、漁師ってみんなすごいヘビー・スモーカーなんだよ。身体中から煙をもくもく出しているみたいな」
天吾はそれについて考えた。「うちの父親も漁師だったらよかったのかもしれない」
「どうしてそう思うの?」
「どうしてだろう」と天吾は言った。「ただふとそんな気がしたんだ。NHKの集金人をしているよりはその方がよかったんじゃないかと」
「天吾くんとしてはお父さんが漁師だった方が受け入れやすかったのかな?」
「少なくともその方が、いろんなものごとがもっと単純だったんじゃないかと思う」
天吾は子供の自分が、休みの日の朝早くから、父親と一緒に漁船に乗っている光景を想像した。太平洋のきつい海風と頬にあたる波しぶき。ディーゼル・エンジンの単調な響き。むっとする漁網の匂い。危険を伴う厳しい労働だ。ちょっとした間違いが命取りになる。しかしNHK受信料の集金のために市川市内を連れ回されるのに比べれば、それはより自然でより充実した日々であったはずだ。
「でも、NHKの集金ってきっと大変なお仕事だったんでしょうね」と大村看護婦が魚の煮付けを食べながら言った。
「たぶん」と天吾は言った。少なくとも天吾の手に負える仕事ではない。
「でもお父さんは優秀だったのね?」と安達クミが言った。
「かなり優秀だったと思う」と天吾は言った。
「表彰状も見せてもらった」と安達クミが言った。
「そうだ、いけない」と大村看護婦が突然箸を置いて言った。「すっかり忘れていた。参ったな。どうしてこんな大事なことを今まで忘れてたんだろう。ねえ、ちょっとこのまま待っててくれる。今日のうちにどうしても天吾くんに渡しておかなくちゃならないものがあるんだ」
大村看護婦はハンカチで口元を拭いて椅子から立ち上がり、食事を食べかけにしたまま、食堂を急ぎ足で出ていった。
「大事なことっていったいなんだろうね?」と安達クミは首をひねって言った。
天吾にはもちろん見当がつかなかった。
天吾は大村看護婦が戻ってくるのを待ちながら、野菜サラダを義務的に口に運んだ。食堂で夕食をとっている人の数はまだあまり多くなかった。ひとつのテーブルを三人の老人が囲んでいたが、誰も口をきかなかった。別のテープルでは白衣を着た白髪混じりの男が、一人で食事をとりながら、広げた夕刊を重々しい顔つきで読んでいた。
やがて大村看護婦が急ぎ足で戻ってきた。デパートの紙袋を手にしていた。彼女はそこからきれいに折りたたまれた衣服を取り出した。
「一年くらい前だったか、まだ意識がしっかりしている頃に川奈さんから預かっていたの」とその大柄な看護婦は言った。「お棺に入るときにはこれを着せてもらいたいって。だからクリーニングに出して、防虫剤を入れてしまっておいた」
それは見違えようもないNHKの集金人の制服だった。揃いのズボンにはきれいなアイロンの筋がついている。防虫剤の匂いが鼻をついた。天吾はしばし言葉を失った。
「この制服に身を包んで焼いてほしいって川奈さんは私に言っていた」と大村看護婦は言った。そしてその制服をまたきれいに折り畳んで紙袋にしまった。「だから今のうちに天吾さんに渡しておくわね。明日、葬儀屋さんのところにこれを持っていって、着替えさせてもらって」
「でも、それを着せるのはちょっとまずいんじゃないかな。制服は貸与品だし、退職するときにNHKに返還しなくちゃならない」と天吾は弱々しい声で言った。
「気にすることないよ」と安達クミが言った。「私たちさえ黙ってれば誰にもわからないもの。古い制服の一着くらいなくなったって、NHKは困りゃしないでしょう」
大村看護婦も同意した。「川奈さんは三十年以上、NHKのために朝から晩まで歩き回ってきたのよ。ずいぶんいやな目にもあっただろうし、ノルマだとか何だとか、きっと大変だったと思う。制服一着くらいかまうもんですか。それを使って何か悪いことをするってわけじゃないんだもの」
「そうだよ。私だって高校のときのセーラー服を持ってるもの」と安達クミが言った。
「NHKの集金人の制服と、高校のセーラー服とでは話が違う」と天吾は口をはさんだが、誰にも相手にされなかった。
「うん、私もセーラー服、押し入れにしまってある」と大村看護婦が言った。
「で、ときどきご主人の前で着て見せたりするわけ? 白いソックスなんかはいて」と安達クミがからかって言った。
「それ、いいかもね」、大村看護婦はテーブルに頬杖をついてまじめな顔で言った。「けっこう刺激されるかもしれない」
「何はともあれ」と安達クミはそこでセーラー服の話題を切り上げ、天吾の方を向いて言った。
「川奈さんが、そのNHKの制服を着て火葬されることをはっきりと望まれていたんですもの。私たち、それくらいはかなえてあげなくちゃ。そうでしょう?」
天吾はNHKのマークがついた制服を入れた紙袋を持って部屋に戻った。安達クミが一緒に来て、ベッドのセットをしてくれた。まだ糊の匂いがのこっている新しいシーツと、新しい毛布と、新しい布団カバーと、新しい枕。そんなひと揃いを与えられると、父親がそれまで寝ていたベッドとはまったく別のもののようになった。天吾は脈絡もなく安達クミの豊かな濃い陰毛のことを思い出した。
「最後の頃、お父さんはずっと昏睡していたでしょう」と安達クミはシーツの皺を手で伸ばしながら言った。「でもさ、まったく意識がなかったわけじゃないと思うんだ」
「どうしてそう思うの?」と天吾は尋ねた。
「だってさ、お父さんは時々誰かにメッセージを送っているみたいだったから」
天吾は窓際に立って外を眺めていたが、振り返って安達クミを見た。「メッセージ?」
「うん、お父さんはね、よくベッドの枠を叩いていた。手をベッドの脇からだらんと落として、モールス信号みたいな感じでとんとん、とんとんと。こんな風に」
安達クミは真似をして、ベッドの木枠をこぶしで軽く叩いた。
「これって、まるで信号を送っているみたいじゃない?」
「それは信号じゃないと思う」
「じゃあ何なの?」
「ドアを叩いていたんだよ」、天吾は潤いを欠いた声でそう言った。「どこかの家の玄関の扉を」
「うん、そうだな、そう言われればそうかもしれない。たしかにドアをノックしているみたいにも聞こえた」、それから安達クミは厳しく目を細めた。「ねえ、それってつまり、意識がなくなったあとでも川奈さんはまだ受信料を集金してまわっていたってこと?」
「たぶん」と天吾は言った。「頭の中にあるどこかの場所で」
「死んでもラッパをはなさなかった昔の兵隊さんみたい」と安達クミは感心したように言った。
なんとも答えようがなかったので、天吾は黙っていた。
「お父さんはよほどそのお仕事が好きだったのね。NHKの受信料を集金して回ることが」
「好きとか嫌いとか、そんな類のものじゃなかったと思う」と天吾は言った。
「じゃあいったいどういうタグイのものだったの?」
「それが父にとって、いちばん上手にできることだったんだ」
「ふうん。そうか」と安達クミは言った。そしてそれについて考えた。「でもさ、そういう生き方もある意味では正解なのかもしれないね」
「そうかもしれない」と天吾は防風林に目をやりながら言った。たしかにそうかもしれない。
「ねえ、じゃあたとえばさ」と彼女は言った。「天吾くんにとっていちばん上手にできることって、どんなことなのかな?」
「わからない」、天吾は安達クミの顔をまっすぐ見てそう言った。「本当にわからないんだ」