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かげろう絵図(上)~水の上

时间: 2017-06-27    进入日语论坛
核心提示:  水 の 上 昨夜、侍二人を乗せて、向島まで舟を出さなかったか、と下村孫九郎に云われて、和泉屋のお内儀は、さっと顔色を
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   水 の 上
 
 
 昨夜、侍二人を乗せて、向島まで舟を出さなかったか、と下村孫九郎に云われて、和泉屋のお内儀は、さっと顔色を変えたが、
「いいえ、そんなお客様はございませんでした」
 と、愛想笑いをつづけて云った。が、眼にはどこか怯えがあった。
「そうか」
 下村孫九郎は、すぐには咎めない。何か愉しむように、盃を口から放さなかった。
「たしかだね?」
 おとなしく念を押した。
「はい」
 お内儀の返事は短かった。
「うむ、おかしい」
 と、わざと首をかしげてみて、
「昨夜、そんなことがあったのは事実だ。どこかの船宿から乗って出たのは間違いない。おれは、それを探しに、こうして朝から船宿を尋ねて歩いているがな。まだ、そうだと云ってくれる者がいないのだ」
「ご苦労さまでございます」
 お内儀は、ことさらにおじぎをした。
「いや、これも御用だから仕方がないのだ。おまえのところも、野暮な奴が舞い込んできたと諦めてくれ」
「滅相もございません」
 お内儀は、あわてたように云った。
「御用のことです。何度でも、お越し下さいまし」
「そう云ってくれるのは有難い。そのついでに、もう少し、正直なことを云ってくれないと困るのだ」
 お内儀は、ぎくりとしたようだった。が、次には、顔いちめんに愛嬌のいい笑いが出た。
「何で、旦那におかくしするものですか。洗いざらい申し上げております」
 下村孫九郎は盃に新しい酒をつがせた。
「昨夜の、その舟を出した侍二人というのはな、向島に船頭を上らせ、自分たちだけで悪いことをしてきたのだ。可哀想に船頭、ひとりで陸《おか》を帰ってきたそうだ。そいつを見かねたほかの船宿の船頭が、途中で拾ってやったそうだがね」
 お内儀の顔が白くなった。
「侍二人は悪事を働き、もう一人の男を舟に乗せて帰ったそうだ。面白い奴もあるもんだ。行きは二人、帰りは三人、いや、あまった一人は船頭と入れ替えだった。きれいな女ならともかく、それが慈姑《くわい》頭の医者だというから、余計に酔狂だ。それが、どこかの船宿から上った筈だ」
 お内儀が、お替りの銚子を持って来させた。
「旦那、もう一つ」
 下村の盃に注ごうとすると、急に、下村がその手を下から払い上げた。銚子と盃は、宙に飛んだ。
「あれ」
 お内儀が、頭から酒を浴びた。
 肩から酒を浴びたお内儀は、あれ、と叫んでうしろに手をついた。
「おい、こんな安酒で、ごまかそうたって、当てが違うぜ」
 下村孫九郎は、膝を崩して、せせら笑った。これからが彼の独擅場《どくせんじよう》であった。
「やい、おれにばかりしゃべらせねえで、何とか口を開けたらどうだ?」
 蒼くなったお内儀は、ふるえた。それでも彼女は、乱れを直して坐り、無理な笑顔をつくった。
「下村の旦那、そりゃ何かのお間違いじゃございませんかえ」
「うむ、おれの八卦《はつけ》が当らねえというのか?」
「はい。手前の店では、昨夜、そんなお客をのせた舟は出しておりません。どこか、別の船宿とお間違いなすってるんじゃございませんか?」
「なるほど、おめえに駄目押しされるんじゃ、おれも型なしだが」
 下村はお内儀を睨んだ。
「この下村を、そうまで甘くなめられたんじゃ、気のいいおれも了簡出来ねえ。早速だが、ここへ、芳公という船頭を呼んでくれ」
「えっ」
 お内儀の顔の筋が硬《こわ》ばった。
「おめえの口が開かなきゃ、芳公に開けてもらうんだ」
「よ、芳公なら、あいにく、お客を送って出ておりますが……」
「帰ってくるまで、ここで待たせて貰おうぜ……」
 下村は、わざと顎《あご》を撫でた。
「……と云いてえところだが、おれも御用繁多で忙しい身体だ。のんべんだらりとこんなところで待つ訳には行かねえ。柳橋際の船宿の源公をここにしょぴいて来るが、いいかえ?」
「源公……?」
「その顔でとぼけることはねえ。芳公が侍二人に舟をとられて、しょんぼりと歩いて帰るところを、親切にも自分の舟に乗せてやった奴よ。源公は芳ノ字から、何もかも聞いたと云ったぜ。芳公が帰ってくる間の退屈しのぎに、源公をここに呼んで、昨夜の講釈をきかせるが、いいかえ?」
 お内儀の顔色がいよいよ悪くなり、息が乱れてきた。
 その呼吸に合せるように下村孫九郎は怒鳴った。
「やい、つべこべと手間をかけずに、まっすぐに、白状しろ。昨夜の客は、どこのどいつだ? まさか、フリの客とは云わせねえぜ。船頭が客の云いなりになって舟を貸して歩いて帰ったのだ。馴染《なじ》み客に違えねえ。さあ、そいつの名前を云え」
 下村孫九郎は、がなり立てた。
 下村孫九郎に怒鳴られて、船宿のお内儀は蒼くなって、身を縮めた。下村の調べが行届いて何でも知っているので、言葉が出ないでいる。
 下村孫九郎にとっては、これが愉しみである。己の前に慴伏《しようふく》し、恐れ戦《おのの》いている人間を見ると、心の底から喜びが湧き上るのだ。はじめ猫撫で声に出るのも、次の、官憲を笠にきて猛獣のようにたけり立つための効果の伏線であった。常から、下村は、己の舌加減一つで、一喜一憂する人間を眼の前に眺めて快感を味わっていた。
「おい、おかみ。しかめっ面《つら》をして、いつまでも黙って居ねえで、何とか口を開けて貰いてえもんだな」
 かれは、じろりとあたりを見廻した。船頭が二、三人、裏口から心配そうに、こちらを覗《のぞ》いていたが、下村の一瞥《いちべつ》に遇うと、逃げるように散った。
 お内儀は、身体をすくませている。客商売の女主人だから、素人と違って、粋《いき》な身装《みなり》が年増女の色気をそこはかとなくこぼしていた。下村の眼は、それも愉しんだ。
 二階からは、ことりとも音がしない。梯子段の下には、さっきと同じように男女の履物が揃えて置かれてある。下村の眼は、それに意味ありげに注がれた。
「うむ、おめえも、雇い人のちらちらするこんなところじゃ話が出来めえ。客のことを訊くのだから、いろいろと義理もあろう。何なら二階に上って、とっくりと話を聞いてもいいぜ。そうだ、そうして貰おうか」
 下村孫九郎は、もう、起ち上りかけていた。
「もうし、旦那」
 おかみが、顔を上げてあわてて制《と》めた。
「二階は、ちょっと、いま都合が悪いんです。どうぞ、しばらく此処でお待ちになって……」
「二階は都合が悪いと……?」
 下村の唇には、また意地悪い笑いが出た。
「面白い。そんな都合の悪い客を二階に上げたのか?」
「いえ、そんな訳では……」
「真っ昼間から、何をふざけているか知らねえが、船宿は媾曳《あいび》き宿じゃねえ筈だ。そんな客を上らせたら法度によってこの屋台は叩き壊しだ」
「決して、そんなお客さまじゃございません。旦那、ご勘弁なすって下さいまし」
「勘弁するも、しないもねえ。そんな客かどうか、おれがこの眼で確めてやる」
 さっきから梯子段の下の男女の履物が下村には癪《しやく》であった。彼は、お内儀の手をふり切るようにして起ち上ると、梯子段に足をかけ音立てて上った。
 船宿の二階は、小座敷になっている。川に向った方に簾《すだれ》を垂れて、若い男女が酒を飲んでいた。その男の顔を見て、
「あっ」
 と下村孫九郎が叫んだ。
 与力下村孫九郎が、勢い込んで梯子段を上って座敷に踏み込んだ途端、棒立ちになったのは、酒を飲んでいる女連れの男に見覚えがあったからだ。いや、見覚えという以上に、記憶は生々しかった。
 いつぞや、寺で、菊川の死骸をどこに埋めたかということで問答した若い男であった。その時、下村はこの男にやり込められて、赧《あか》くなった覚えがある。
「これは、下村氏」
 島田新之助も、座敷にとび込んできた男に笑いかけた。
「妙なところで、また、お会いしましたな。その節は失礼しました」
 手招きせんばかりの恰好で、
「こちらが涼しい。さ、どうぞ、お坐り下さい」
 と自分の前を指した。
 そこに坐っている豊春が、もじもじした。
「この女は、わたしの女房……のようなものです。お望みなら、三味線もひける、小唄もうたえる。器用なものです。ははは、ご遠慮なく、ずっと、こちらへ」
 豊春は、うろたえて、
「あれ、新さん」
 と云って、新之助の横に移った。
 下村は突立って、睨んでいたが、彼も探索には経験を積んだ男だ。忽ち脳裡に一つの直感が走った。
「島田氏……と申されたな?」
 と顔色をわざと和げた。
「左様、左様、よく憶えて頂いた。尤も、地獄耳は貴殿のご商売だが」
 思わず、眼が恚《いか》りかけたのを堪《こら》えて、
「島田氏、昨夜のお働き、お見事でござったな?」
 と云って、新之助の表情の反応をうかがった。
「昨夜の働き……はてな」
 新之助は首を傾け、豊春を見て、
「昨夜は、どうしたかな? 小唄の稽古をして、近所の風呂に行って、寝酒を飲んで寝たが、はて、それからの働きと云われると……」
 豊春の顔が真赤になった。
「そんなことを申しているのではない。昨夜、貴殿が出先でなされたことだ」
 下村は嘲弄《ちようろう》されたかと思うと、抑えても苛々《いらいら》してきた。
「出先? さあ、何処に行ったか」
 新之助はとぼけていた。
「お忘れなら、思い出させて進ぜる。向島までこの家から舟を出して行かれた筈だ」
 新之助は、膝を打った。
「あっ、そうだ。たしかにその通り」
「なに?」
「貴殿よくご存じだ。そういえば、何やら先刻より階下《した》で、舟、舟と貴殿の声が騒いでいたが、あれは、わたしのことを云われていたのか?」
「なに」
 推察したことだが、島田新之助に平気で云われて、下村孫九郎は、カッとなって眼をむいた。
「舟を出して、向島で狼藉《ろうぜき》を働いたのは、たしかに貴殿か?」
「さて。狼藉を働いたかどうか分らぬが……」
 新之助は、受けて答えた。
「舟を出させたのは、わたしだ。そりゃア確かですよ」
「もう一人の名前は? じゃ、その舟には二人で乗ったはずだ」
「おっしゃる通りです」
「名前を訊かせてもらおう」
「お断りします」
 新之助は、不意に敲《たた》きつけるように云った。
「わたしが名前をしゃべっても興がうすい。あんたが自分で調べた方が面白かろう。失敬だが、その方の腕は確からしい」
「云ったな」
 下村は、あぐらを掻いたまま平気でいる新之助を上から睨《ね》めつけた。
「向島の、石翁様のお屋敷で狼藉したのみか、昨夜も、さる藩中の行列に無体な乱暴を仕掛けたのは、貴殿と決った。これから即刻、奉行所まで同道してほしい」
「大そうな」
 新之助は薄笑いした。
「中野石翁のことになると、随分とご熱心のようだが」
「なに!」
「下村氏。女の水死体を寺からどこやらに片づけたのも、その辺より出た筋であろう。何処に埋葬なされたか、それを聞かせて頂こう」
「無用だ」
「ははは、云えまい。ならば、わたしも奉行所までの同道はお断りしたい。お訊ねのことは、一向に覚えがないでな。それに、ただ今は女を連れている」
「こいつ」
 下村は舌を鳴らしたが、真っ赤な顔になり、身構えた。
「つべこべの減らず口は許さぬ。おとなしく来ぬとあれば、しょぴいて行くまでだ」
「面白いことを云うご仁だ。誰にでも威張ることがお好きのようだが、いつも、そうは参らぬ」
 下村が身体に風を起して新之助の坐った姿勢にとびついた。新之助の姿が一瞬に沈んだと思ったとき、下村の身体が宙返りして畳に落ちた。
 豊春が壁際に退《すさ》った。
 下村があわてて起き上ろうとすると、新之助が下からそれを掬《すく》った。下村の身体が浮き上った途端、簾が大きく揺れて、彼の身体は手摺りを越えて、川の方へ落ちて行った。
 蒼い顔をしている豊春に新之助は振り返り、
「ははは、死にはせぬ。階下《した》は船頭ばかりだ」
 と笑った。
 
 屋形船は大川を下《しも》へ流れていた。
 簾を降ろし、外部《そと》からは内部《なか》が見えぬようにしてあった。川風だけが素通りしている。
 登美は、つくねんと坐っていた。簾越しに流れて行く景色を眺めるでもない。前には、船宿が運び入れた川魚料理が膳に載っていたが、それに箸をつける気持はなく、うつむいていた。御殿女中風に結った髱《たぼ》が重そうにみえた。
 添番、落合久蔵だけが、うれしそうに銚子を盃にあけていた。酒が顔色には出ない男だが、すこし酔っていた。
「そんなに気鬱な顔をなさらぬがよいぞ、登美どの」
 落合久蔵は、登美の顔を下から覗くように見た。
「もっと、晴れやかなお顔をなされ。この久蔵のようにな。いや、今日は思いがけぬ仕合せ、こうして、登美どのと屋形船の相乗りをしようなどとは、夢にも思いませなんだ。それも、これも、感応寺にご参詣の御年寄様のお蔭、長い時刻を供待ちするご苦労をお察しなされて、帰りまでを気散じてこい、との有難い仰せ。よく気のつくお方で、涙がこぼれます」
 久蔵は、本当に眼頭を拭く真似をした。
「が、なに、察しのいいのはお互いさまだ。今ごろ、お年寄様の参られた感応寺は、何処の感応寺やら、とんと分ったものではない。お題目のかわりに何が唱えられているやら……」
 久蔵は、登美の顔を見たが、首をすくめた。
「いや、これは口に出さぬが花、向うさまは向うさま、こちらは、こちらじゃ。登美どの、折角いただいた僅かなお暇を、愉しもうではありませぬか?」
 登美の眉の間に、けわしい影が起きた。こうしていっしょに屋形船に乗っていることさえ居たたまれぬ気持だが、添番落合久蔵の下劣な口の利き方を聞いていると頭痛がしそうであった。
 が、登美をこの屋形船に坐らせたのは、落合久蔵の持つ、別の力であった。
「いや、そのように厭なお顔をなされると、拙者も辛い」
 久蔵は、わざと、おどおどして云った。
「登美どのは三の間、拙者は足軽同様の添番、身分の違いはよく存じている。そなたが厭な顔をされるのは、重々もっとも。無理からぬと思いますが……」
 久蔵は、舌で唇の雫《しずく》をなめた。
「しかし、身分の上下ばかりで、世の中は済まぬことがある。そこが面白い。四角い重箱のような世の中でも、下は二重にも三重にもなっている。そうでなくては、われわれのように下に積まれた人間は息も出来ませぬ。そこが面白いところでな。早い話が、登美どのが厭々ながら、拙者の前に坐っているのも、そのためで……」
 船はゆっくりと大川を下っていた。落合久蔵が、船頭に行先を何処まで云ったのか分らないが、簾越しに船尾に動いている船頭の動作は緩慢であった。
 この船頭の居る限りは、登美も安心であった。いくら酔ったとはいえ、落合久蔵が無体な真似に出られるはずがない。──
 登美が、落合久蔵から、突然、花見のときの、踏台のことを云い出されたのは、もうだいぶ前のことであった。
 添番の詰所は、女中共が外部に出入りする七ツ口の傍にあるが、長局とは遮断されている。日ごろ、往き通うことはないが、添番の役というのが、大奥長局の戸締りの見廻り、出火の際の防火、あるいは高級女中の公式の外出の際はその供廻りにつくことになっていて、とかく、他のお広敷詰めの役人よりは、女中に口を利く機会が多かった。
 ある日、御殿のお庭で、登美がこの落合久蔵とすれ違ったことがある。
「登美どの」
 落合久蔵は、すばしこく登美に寄ってきた。彼は、眼を忙しく左右に働かせて、人の居ないのを見定めた。
「踏台は、拙者、ある所に他人《ひと》に見られぬよう匿してある。ご安心なさるよう」
 落合久蔵が云ったのは、たったそれだけであった。あとは返事も聞かず、逃げるように立ち去った。
 あっ、と登美は立ちすくんだものだ。しばらくは動けなかった。今の声が、登美の身体を痺《しび》れさせ、縛った。
 踏台を匿しているから安心しろ──その一言は、登美の秘密を何でも知っている恐ろしい内容を持っていた。
 あのときの踏台。それは絶えず登美の心を暗く揺すぶりつづけている品だった。上には蝋が塗ってある。それは雲母《きらら》のように光っていた。
 中臈多喜の方の足が、それに乗ったと思った瞬間、彼女の足は滑って横転した。吹上の花が咲き乱れ、大御所はじめ、夫人や、お美代の方、その他、西丸大奥女中が、総出で、満座凝視の中だった。多喜の方は、それが因《もと》で死んだ。
 咄嗟の機転が働いて、踏台の仕掛けをしたのは、登美が何とかしてお美代の方に近づきたい一心からだった。叔父の島田又左衛門に云いつけられ、寺社奉行脇坂淡路守に頼まれて、お美代の方周辺の女中風儀の実証を掴むには、その側近くに入り込まねばならなかった。
 それは成功した。お美代の方は強敵多喜の方を仆した登美の手柄を買い、お末から引き上げて彼女を自分の味方にした。
 それはよいが、肝心の踏台が、隠匿した場所にどうしても無いのである。
 踏台には登美の秘密と罪とがある。
 秘密は、それに彼女が細工をしたことであり、罪は、多喜の方を間接に殺したことだった。
 大奥の中は複雑を極めている。脇坂淡路守が知りたい確証を握るには、お美代の方に近づかねばならぬ。しかし、それは容易なことではない。機会が偶然に来て、それが思わぬほど早く望み通りになったが、代償が大きすぎた。
 多喜の方が不慮の死を遂げたことである。罪のない人を殺したのも同然だと、登美は呵責《かしやく》に駆られている。叔父の島田又左衛門に云わせると、
「大事の前の小事ゆえ、あまり気にかけるな。それよりも早く、実証を掴んでくれ。それが何よりも多喜の方の慰めだ」
 と説いてくれるが、その言葉だけで心が解放される訳ではなかった。
 次に、あの踏台は何処に行ったか、たしかに匿した場所は、鳥籠茶屋の床下であったが、その後に捜しに行ったけれど、どうしても発見出来なかった。場所の記憶違いでは、絶対になかった。
 誰かに持ち去られた?──
 顔色が変ったものである。あのときの踏台ということは、一眼で分るし、蝋を塗った細工のあとも、すぐに知れる。重大な証拠の品だった。
 お庭番の誰かが、気づかずに、何気なく片づけてくれていたら、心配はないが、それは、はかない希望のようだった。登美はひそかに薄氷を踏むような思いで、毎日を過していたといっていい。
 それが、計らずも、添番落合久蔵の手にかくされていようとは、夢にも想像していないことだった。
 しかも、落合久蔵は、彼女の最も恐れていた秘密を知っている!
 落合久蔵のおそろしさを知ったのは、その日ばかりではなかった。
 その後も、落合久蔵は、登美がひとりになって近づける機会を狙っているらしく、人目の無い場所に素早く来ては、
「一度、ゆっくり宿下りの時に遇って下され。あのことは、絶対に他言はせぬ。こう申せば拙者の気持はお分りであろう」
 などと、執拗に云い寄ってくる。
 何を添番づれが、と突放し出来ないところに登美の弱点があった。格式にものを云わせて、一喝《いつかつ》することはやさしいが、そのあとの落合久蔵の仕返しが怕《こわ》い。証拠の品は、この男の手に握られている。このような種類の男が決しておとなしく引き退るとは思えなかった。
 今日も、年寄女中が、大御所様ご不例平癒祈祷のため、智泉院に行くと触れ出してお城を出て来たが、谷中の一寺院に入ったまま、供廻りの者には、帰城の時刻まで解放を申し渡した。
 年寄女中が、その寺に入ったまま、帰城まで、供廻りの者を自由にさせたのは、無論、恩恵のみではない。一つは、彼らが邪魔になるからだ。お供に従ってきた連中を邪魔にするだけの理由が、この高級女中にはあった。
 帰城の時刻は夕刻である。
 たまたま、一緒に供をしていた落合久蔵が、登美の姿のあるのを見て、機会を遁《の》がす筈がなかった。
「登美どの。いい折でござる。拙者の話をきいて下され。ほんの僅かな間じゃ。いやいや、ご案じなさるには及ばぬ。そなたの為になるよう、これでも、拙者、考えている」
 今日は逃せぬ機会と思っているのか、いつもよりは輪をかけて執拗であった。
 それが、今の、屋形船の中の対坐となっているのだ。
 船が川下へ流れて行くことに変りはない。船頭は、やはり、ゆっくりと櫓を動かしている。客の話声など、一切、耳に入らぬ様子を見せていた。
「拙者、これでも、口は堅い」
 落合久蔵は、盃をなめながら云った。
「云ってよいこと、悪いこと、これは、ちゃんとけじめをつけている。分別は心得ているつもりでござる。登美どの、落合久蔵は、そういう男だと承知して頂きたい」
 登美は、身じろぎもしないでいた。踏台のことをタネに落合久蔵が、さっきからくどいくらい云っていることは、遠廻しだが、意味はよく分っていた。
 厭らしい男である。だいぶん酒の廻った落合久蔵の臭い息が、離れていても、肌に吹きかかってくるようで、身体がすくむ。
 が、証拠の品をこちらに取り返すまでは、あからさまな敵意は見せられなかった。彼女が、うつむいて考えていることは、何とかして久蔵の手からそれをこちらに取り返す方法であった。
「しかし」
 と久蔵はつづけた。
「口は堅いが、この久蔵、折角の親切を仇《あだ》にされると怒る方です。そんな性分だ。つまり、こちらの親切が解って貰えれば、その人のためには、どのようにでも尽すが、袖にされると、怒りたくなるのだな。われわれのように下積みの役目を勤めていると、いつか、そのような性質《たち》になります。われわれの仕返しは、どんなに腹が立っても、表向きには出さない。肚におさえて、小出しに、ちくりちくりと陰でやるのです。これは面白いですな。上からわれわれを抑えつけているようでも、実は、こっちが向うの足を掬っている。困っている顔を見るのが愉しみだ」
 落合久蔵は登美の顔をみた。
「早く云うと、この久蔵は味方につけておくと頼みになるが、腹を立てさせると、損だということですよ」
 ふと、うしろを向いて、
「船頭」
 落合久蔵は急に声をかけた。
「その辺から、船を廻してくれ」
 一旦、下りかけた船を、久蔵は、また上りに向わせた。かれには別に行先の目的があるわけではない。何となく時間を延ばしているのだ。
「そこで、登美どの」
 久蔵は、あと戻りの舟の中で、ゆっくりとはじめた。
「拙者の気持は、みんな申した。あとは、そなたの返事を聞く番です。一つ、腹蔵の無いところを聞きたいものじゃ」
 じっと粘い眼を登美の顔に注いだ。
 登美は、うつむいたまま、しばらく声を発しない。鬢《びん》からほつれた髪が風に嬲《なぶ》られているので、男の眼には艶に映った。久蔵は、ごくりと咽喉を鳴らした。
「どうじゃ、登美どの。先刻より、恥を忘れて申し述べているこの久蔵、否か応か、早くそなたの言葉が聴きたい」
 久蔵は、問い詰めてゆく。酒に強い男の癖で、顔が蒼くなっている。女には、その凄んだ顔つきが怖ろしげに見えた。
「落合どの」
 登美が、顔を上げて、思い切ったように云った。彼女の顔も蒼白くなっている。
「うむ?」
 久蔵が見つめた。
「わたくしを、それほどまでに思って下さるのは、そりゃ、まことでございましょうな?」
「な、何で偽りを申そう?」
 脈がある、と感じ取ったのか、落合久蔵はあわててどもった。
「真実《まこと》、真実。拙者の腹を割いて、見せたいくらいじゃ。いや、これは、古い文句か。しかし、ほかに申しようがない。登美どの、分って下され」
 落合久蔵は、急に腰を浮かしたが、身体の中心がとれぬので、すぐに臀《しり》をついた。船が揺れた。
 同時に、大きな水音がした。
 落合久蔵は、愕《おどろ》いて外を見た。簾越しに外を見ると丁度、柳橋あたりの船宿の二階から、人が川に落ちたところであった。
 その近くに居る船頭連中が騒いでいる。人の落ちた二階からは、男女の客が下をのぞいていた。川に墜落した男が、与力下村孫九郎で、二階から見ているのが、島田新之助と豊春だということは、落合久蔵の知らぬことであり、登美も気がつかなかった。
「のう、登美どの」
 久蔵が、首を伸ばして云った。
「そなたのためなら、拙者、あのように、大川の中に、ざんぶと身を投げても一向に厭いはせぬ。この気持、察して下され」
 船は、落合久蔵の熱心な口説《くぜつ》を載せながら、柳橋をすぎた。
 登美は、相変らず、首をうなだれて聞いている。
 落合久蔵は、酒を飲みながら、じっとその様子を見ていたが、思わず顔に笑いが拡がった。わが口説が半分以上は成功したと思った。もう一息だと彼は勢い込んだ。あとは押しまくるだけである。
 舟は、いつしか柳橋を越した。流れに逆らって上るので、今度は船頭も大いに働いている。
 落合久蔵は、ひょいと外をのぞいたが、
「船頭」
 と声をかけた。
「へえ」
 船頭は、ふり向いた。
「あそこに松が見えるな、あの下に舟をつけてくれ」
「へえ、へえ。分りやした」
 船頭は、合点合点して、ずっと舟の方向を左手に変えた。船頭の顔には妙な薄笑いが出ていた。
 繁り拡がった松の枝が、水の上に突き出て、下に穴のような蔭をつくっていた。舟は、その下にくぐるように入り、停止した。外から見ると屋形船がすっぽりと匿されている恰好だった。
 落合久蔵は、財布を出して、小粒を握った。
「船頭、こっちへ来い」
「へえ、へえ」
 腰をかがめて来る船頭に、久蔵は小粒を与えた。
「少し、内密な話があるでの。お前は、その辺で一服してくれ」
「畏《かしこま》りました。では、陸《おか》に上って莨《たばこ》をのんで居りますから、ごゆっくりとどうぞ。ご用が済みましたら、お手を鳴らして下さいまし」
 船頭は心得顔に舟を下りて、岸の上に上って行った。
 落合久蔵は、あたりの様子を見廻し、簾の隙間を要心深く閉じた。松の枝が舟の屋根の上に、廂《ひさし》のように張り出して、舟全体を抱き込んでいる恰好だった。
 この松は「首尾の松」といって、江戸の通人たちの間には有名だった。船頭は、注文によっては、男女の客を舟に残し、一服吸いつけに陸に姿を消したものだ。
  吸いつけるうちに柳が松になり
  余の舟で見ればやっぱりただの松
  船頭は変哲もない松と椎
 などの古川柳がある。
 そんなことは知らない登美は、船頭が居なくなったことで、急に不安な顔になった。
「登美どの」
 落合久蔵は、間の邪魔になる膳を片寄せた。
「心配はいらぬ。船頭は、ちょっとそこで休ませただけじゃ。すぐに戻って参る。その間に、もう少々、そなたと話したい」
 と膝を起した。
 落合久蔵は、膳をまたいで、登美の方へ行った。酔っている上に、舟が揺らぐから、足もとが危い。
 どっと身体をぶっつけるように登美の横に倒れた。水音たてて舟が傾《かし》ぐ。
「あれ」
 登美が怯えて身体を動かすのに、久蔵は彼女の手をしっかと把《と》った。
「いや、案じなさるに及ばぬ。大丈夫じゃ」
 登美の顔をさし覗くようにして見たが、臭い息がそのまま登美の頬に触れた。
「なにをなさいます?」
 登美は顔をそむけ、手をふり放そうとしたが、久蔵は、かえって強く握った。
「これさ、そう、お逃げなさるに当るまい」
 久蔵は、切ない息を吐いた。
「さいぜんより申した拙者の言葉で、ようお分りでござろう。拙者は、登美どのの味方、いや、それにもまして、そなたは拙者の大切なひとだと心得ている。そなたのためなら、拙者、どのようにでも尽すつもり。登美どの。もう、分って下され」
 久蔵は、彼女の片手を握ったまま、あまった一つの手を背中に廻そうとした。
「あれ、いけませぬ」
 登美は、身をすざらせた。
「はて。誰にも分らぬ。気兼ねのうなされ」
 久蔵は上体を傾けて追おうとした。
「いけませぬ。落合どの」
 登美は近づいてくる久蔵の顔を手で遮った。
「なに」
 久蔵は、赤い眼を据えた。
「いけぬとは? では、拙者の申すことがお気に召さぬのか?」
 眼がおそろしげに光った。
「いや、添番づれの申すことが、無礼だと申されるのか?」
「いえ、そういう訳ではございませぬ」
「そうでないとは?」
「今は、いけませぬ」
「今は?」
 久蔵は、登美の顔をじっと見た。判じるような眼つきに変っていた。
「はい。お前さまの申されたことはよく分っています。わたくしは、そのような、やさしい言葉を誰からもかけて頂いてはおりませぬので、うれしいと思います」
「ううむ」
 落合久蔵は唸った。さすがにすぐに、吐く言葉を失った。
「と、登美どの」
「いえいえ、でも、今は、それはなりませぬ。とかく殿御の言葉は当てにならぬそうな。もし、お前さまの云うことが真実なら、わたくしに実証を見せて下され。それさえ分れば、わたくしは安心して、お前さまの心に従います」
 登美が恥かしそうに云った。
「登美どの」
 と落合久蔵は喘《あえ》いだ。
「そりゃ、まことの言葉か?」
「女の口から」
 と登美は、うつむいて小さな声で云った。
「恥かしいことを云ったのです。何で偽りを申しましょう」
「忝《かたじ》けない。忝けない」
 久蔵は、感激した面持ちで頭を何度も登美の前に下げた。
「夢のようでござる。まさか、そなたが、すぐにそのように云ってくれるとは思わなんだ。こりゃ、全く、夢のようじゃ」
 久蔵は泪をこぼしそうな恰好をした。
「拙者は身分が低い。扶持も安うて、それに、男振りもよくない。そなたのように、美しゅうて、若うて、大奥勤めの女には、およそ釣り合わぬ男じゃ。したがそなたを想う、一途《いちず》な男の気持は、誰にも負けてはおらぬ。これは、分ってくれるであろう。疾《と》うから熱病のようにそなたのことを考えていたのだ」
 久蔵は、実際に、熱病のような眼つきをして、登美の手をありがたそうに押し頂いた。
「登美どの。拙者はうれしい。うれしくて、うれしくて、どう申してよいやら、言葉が出ぬくらいじゃ」
「落合どの」
 登美は、その手を男に預けたまま、じっと顔を見た。
「女は疑い深いもの。そのお言葉が真実なら、実証を見せて下され」
「おお、見せようとも。見せいでなるものか。とは云え、拙者の腹を割いて見せることもならず、どうしてそなたに実証を見せたものかの」
 久蔵は、じれったそうにした。
「わたくしの合点の行くようになされたら、それでわたくしは納得いたします」
「そなたの合点の行くようにとは?」
 久蔵は、登美の可愛らしい唇のあたりを見た。
「それは……」
 登美は、真剣な顔で云った。
「わたくしの云う通りにして下さることです」
「無論のことだ。そなたの云うことを聞かずにいられようか。そりゃ、無論じゃ」
「いえいえ、おまえさまの考えるほどには軽くはありませぬ。わたくしは、もっと真剣です。殿御の思召しに従うのは、女が生命《いのち》をかけていることです。おまえさまも、その覚悟で、わたくしの云うことをきいて下され、それが、何よりの実証です」
「そなたのためなら、もとより拙者、水火も辞せぬつもりだが、して、そなたの云うことは?」
「落合どの、お耳を……」
 登美が、久蔵の傍に顔を近づけた。その、かぐわしい匂いと共に、久蔵の耳に入った甘い声は、彼の眼をむかせるに充分だった。
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