「兄さんは銀時計もいただけず、博士論文も書けず。落第はする。不名誉の至だ」
「あら不名誉だと誰も云やしないわ。ただあんまり気楽過ぎるのよ」
「あんまり気楽過ぎるよ」
「ホホホホおかしいのね。何だかちっとも苦にならないようね」
「糸公、兄さんは学問も出来ず落第もするが――まあ廃そう、どうでも好い。とにかく御前兄さんを好い兄さんと思わないかい」
「そりゃ思うわ」
「小野さんとどっちが好い」
「そりゃ兄さんの方が好いわ」
「甲野さんとは」
「知らないわ」
深い日は障子を透して糸子の頬を暖かに射る。俯向いた額の色だけがいちじるしく白く見えた。
「おい頭へ針が刺さってる。忘れると危ないよ」
「あら」と翻える襦袢の袖のほのめくうちを、二本の指に、ここと抑えて、軽く抜き取る。
「ハハハハ見えない所でも、旨く手が届くね。盲目にすると疳の好い按摩さんが出来るよ」
「だって慣れてるんですもの」
「えらいもんだ。時に糸公面白い話を聞かせようか」
「なに」
「京都の宿屋の隣に琴を引く別嬪がいてね」
「端書に書いてあったんでしょう」
「ああ」
「あれなら知っててよ」
「それがさ、世の中には不思議な事があるもんだね。兄さんと甲野さんと嵐山へ御花見に行ったら、その女に逢ったのさ。逢ったばかりならいいが、甲野さんがその女に見惚れて茶碗を落してしまってね」
「あら、本当? まあ」
「驚ろいたろう。それから急行の夜汽車で帰る時に、またその女と乗り合せてね」
「嘘よ」
「ハハハハとうとう東京までいっしょに来た」
「だって京都の人がそうむやみに東京へくる訳がないじゃありませんか」
「それが何かの因縁だよ」
「人を……」
「まあ御聞きよ。甲野が汽車の中であの女は嫁に行くんだろうか、どうだろうかって、しきりに心配して……」
「もうたくさん」
「たくさんなら廃そう」
「その女の方は何とおっしゃるの、名前は」
「名前かい――だってもうたくさんだって云うじゃないか」
「教えたって好いじゃありませんか」
「ハハハハそう真面目にならなくっても好い。実は嘘だ。全く兄さんの作り事さ」
「悪らしい」
糸子はめでたく笑った。