小野さんは、そうだとも、そうでないとも云わなかった。手は膝の上にある。眼は手の上にある。
「私がこうして、どうかこうかしているうちは好い。好いがこの通りの身体だから、いつ何時どんな事がないとも限らない。その時が困る。兼ての約束はあるし、御前も約束を反故にするような軽薄な男ではないから、小夜の事は私がいない後でも世話はしてくれるだろうが……」
「そりゃ勿論です」と云わなければならない。
「そこは私も安心している。しかし女は気の狭いものでね。アハハハハ困るよ」
何だか無理に笑ったように聞える。先生の顔は笑ったためにいよいよ淋しくなった。
「そんなに御心配なさる事も要らんでしょう」と覚束なく云う。言葉の腰がふらふらしている。
「私はいいが、小夜がさ」
小野さんは右の手で洋服の膝を摩り始めた。しばらくは二人とも無言である。心なき灯火が双方を半分ずつ照らす。
「御前の方にもいろいろな都合はあるだろう。しかし都合はいくら立ったって片づくものじゃない」
「そうでも無いです。もう少しです」
「だって卒業して二年になるじゃないか」
「ええ。しかしもう少しの間は……」
「少しって、いつまでの事かい。そこが判然していれば待っても好いさ。小夜にも私からよく話して置く。しかしただ少しでは困る。いくら親でも子に対して幾分か責任があるから。――少しって云うのは博士論文でも書き上げてしまうまでかい」
「ええ、まずそうです」
「だいぶ久しく書いているようだが、まあいつごろ済むつもりかね。大体」
「なるべく早く書いてしまおうと思って骨を折っているんですが。何分問題が大きいものですから」
「しかし大体の見当は着くだろう」
「もう少しです」
「来月くらいかい」
「そう早くは……」
「来々月はどうだね」
「どうも……」
「じゃ、結婚をしてからにしたら好かろう、結婚をしたから論文が書けなくなったと云う理由も出て来そうにない」
「ですが、責任が重くなるから」
「いいじゃないか、今まで通りに働いてさえいれば。当分の間、我々は経済上、君の世話にならんでもいいから」
小野さんは返事のしようがなかった。
「収入は今どのくらいあるのかね」
「わずかです」
「わずかとは」
「みんなで六十円ばかりです。一人がようようです」
「下宿をして?」
「ええ」