やがて、かたりと書物を置き易える音がする。甲野さんは手垢の着いた、例の日記帳を取り出して、誌け始める。
「多くの人は吾に対して悪を施さんと欲す。同時に吾の、彼らを目して凶徒となすを許さず。またその凶暴に抗するを許さず。曰く。命に服せざれば汝を嫉まんと」
細字に書き終った甲野さんは、その後に片仮名でレオパルジと入れた。日記を右に片寄せる。置き易えた書物を再び故の座に直して、静かに読み始める。細い青貝の軸を着けた洋筆がころころと机を滑って床に落ちた。ぽたりと黒いものが足の下に出来る。甲野さんは両手を机の角に突張って、心持腰を後へ浮かしたが、眼を落してまず黒いしたたりを眺めた。丸い輪に墨が余ってぱっと四方に飛んでいる。青貝は寝返りを打って、薄暗いなかに冷たそうな長い光を放つ。甲野さんは椅子をずらす。手捜に取り上げた洋筆軸は父が西洋から買って来てくれた昔土産である。
甲野さんは、指先に軸を撮んだ手を裏返して、拾った物を、指の谷から滑らして掌のなかに落し込む。掌の向を上下に易えると、長い軸は、ころころと前へ行き後ろへ戻る。動くたびにきらきら光る。小さい記念である。
洋筆軸を転がしながら、書物の続きを読む。頁をはぐるとこんな事が、かいてある。
「剣客の剣を舞わすに、力相若くときは剣術は無術と同じ。彼、これを一籌の末に制する事能わざれば、学ばざるものの相対して敵となるに等しければなり。人を欺くもまたこれに類す。欺かるるもの、欺くものと一様の譎詐に富むとき、二人の位地は、誠実をもって相対すると毫も異なるところなきに至る。この故に偽と悪とは優勢を引いて援護となすにあらざるよりは、不足偽、不足悪に出会するにあらざるよりは、最後に、至善を敵とするにあらざるよりは、――効果を収むる事難しとす。第三の場合は固より稀なり。第二もまた多からず。凶漢は敗徳において匹敵するをもって常態とすればなり。人相賊してついに達する能わず、あるいは千辛万苦して始めて達し得べきものも、ただ互に善を行い徳を施こして容易に到り得べきを思えば、悲しむべし」