甲野さんはここでぽつりと言葉を切った。母はまだ番が回って来ないと心得たか、尋常に控えている。
「とにかく世話になっても好いと思うくらいに信用する人物でなくっちゃ駄目です」
「そりゃ御前にそう見限られてしまえばそれまでだが」とここまでは何の苦もなく出したが、急に調子を逼らして、
「藤尾も実は可哀想だからね。そう云わずに、どうかしてやって下さい」と云う。甲野さんは肘を立てて、手の平で額を抑えた。
「だって見縊られているんだから、世話を焼けば喧嘩になるばかりです」
「藤尾が御前さんを見縊るなんて……」と打ち消はしとやかな母にしては比較的に大きな声であった。
「そんな事があっては第一私が済まない」と次に添えた時はもう常に復していた。
甲野さんは黙って肘を立てている。
「何か藤尾が不都合な事でもしたかい」
甲野さんは依然として額に加えた手の下から母を眺めている。
「もし不都合があったら、私から篤と云って聞かせるから、遠慮しないで、何でも話しておくれ。御互のなかで気不味い事があっちゃあ面白くないから」
額に加えた五本の指は、節長に細りして、爪の形さえ女のように華奢に出来ている。
「藤尾はたしか二十四になったんですね」
「明けて四になったのさ」
「もうどうかしなくっちゃならないでしょう」
「嫁の口かい」と母は簡単に念を押した。甲野さんは嫁とも聟とも判然した答をしない。母は云う。
「藤尾の事も、実は相談したいと思っているんだが、その前にね」
「何ですか」
右の眉はやはり手の下に隠れている。眼の光は深い。けれども鋭い点はどこにも見えぬ。
「どうだろう。もう一遍考え直してくれると好いがね」
「何をですか」
「御前の事をさ。藤尾も藤尾でどうかしなければならないが、御前の方を先へきめないと、母さんが困るからね」
甲野さんは手の甲の影で片頬に笑った。淋しい笑である。