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「母が残してくれた、一枚の写真」

时间: 2017-07-27    进入日语论坛
核心提示: 今から三十二年前、私の結婚が決まった時「一生、大事に持っていなさい」と言って、母が私に手渡してくれた物。それはセピア色
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  今から三十二年前、私の結婚が決まった時「一生、大事に持っていなさい」と言って、母が私に手渡してくれた物。それはセピア色の一枚の写真でした。その写真には、一歳になって間もない私が、歩き始めたばかりなのか、慎重に一歩を踏み出そうとしている姿を近所の、お兄さん、お姉さん達が優しく見守っている様子が写っていました。どこの家のアルバムにも、ありそうな写真ですが、この一枚の写真が、のちに母や私にとって、大きな意味を持つ事になりました。
 この写真が撮られた数日後、私は高熱を出し、受診した病院の医師から親に告げられた病名は、「小児まひ」でした。正式な病名は「急性灰白(かいはく)髄炎(ずいえん)」。一般には「ポリオ」とも呼ばれ、後遺症として、四肢に機能障害が残る病気。ちょうど、この頃、岩手県沿岸ではこの病気が流行しており、それに私も罹患(りかん)してしまったという事です。初めて授かった子供が、わずか一歳で障害を背負う事を宣告された両親の気持ちは、いかばかりであったか、想像すら出来ません。常々、母は、「病気が流行(はや)っているから、隣町まで行って、予防接種を受けてきたのに。知り合いには受けていない子もいるのに、なんで、明美が」と話していました。今のように交通の便が良くなかった時代、隣町に行って来るのは一日がかりでした。そんなにして受けた予防接種だったのに、私は病気になってしまった。本当に悔しそうに話す母の顔が、今も浮かびます。
 病気により左足に障害をきたした私は、母と一緒に、宮城県にある温泉病院で、治療とリハビリの目的で、数カ月間を過ごしたようです。一歳になったばかりの私には、その時の記憶は全くなく、実家に残る古いアルバムの中に、病院での様子らしい写真が数枚ありますが、母は、この病院での事を、あまり話してはくれませんでした。障害を持った者に対して、まだまだ、偏見が強かった時代。もう一生、自分の足では歩けないかもしれない我が子を見ながら、母は何を思い、何を考えていたのか。「何もわからない明美は、いつも、無邪気に笑っていた。それが救い、生きる力だった」と言ってくれた母。良い伴侶を得て妻となり、子を持って母となり、幸せな家庭を築いてほしい。親なら誰もが願う、当たり前の、普通の幸せを、自分の娘は手にする事が出来ないかもしれない。その時の母の気持ちを思うと、胸が張り裂けそうになります。
 治療とリハビリの効果があったのか、私は跛行(はこう)ながら歩けるようになりました。生活に不便がなかった、とは言えませんが、不自由な左足を引きずりながら、近所の子供達と遊び、学校も、小学校、中学校、高校と、普通校で学ぶ事が出来ました。新しい仲間が出来る都度(つど)、「足、どうしたの?」と聞かれる事は、正直なところ、とても嫌でしたが、「病気」と軽く受け流していました。
 いつの頃からか、母は私に、一生、大事に持っているようにと言った写真を見せては、繰り返し話してくれました。「明美の足が悪いのは、けっして生まれつきではない。元気に生まれて、しっかりと自分の足で歩いたけれど、病気になってしまった。入院した時、同じ部屋に明美と同じ病気の子が六人いたが、補助具なしで歩けるようになり、自分の足で退院したのは明美だけだった。明美の足は生まれつき悪くはなかった。病気のせいだけど、一人で歩けるようになった。それだけでも、幸せだと思って、誰も恨んではいけない」。私を支えてくれた言葉です。こう言っていた母が、一度だけ、「病気にして、ごめんね」と泣いた事があります。足が悪い事で、私が希望する専門学校への入学が危ぶまれた時です。小・中・高校と、普通学校に通えた事などが考慮され、無事に入学する事が出来ました。「足のせいで、もし、明美が希望する学校に入れなかったら、ごめんね」と言って、泣いた母。私は、私の病気の事で泣いた母の姿を、初めて見たのでした。
 専門学校で学んだ資格をいかして、就職する事もでき、ほどなく、現在の夫と結婚。二人の子供にも恵まれ、孫もできました。結婚する事になった時、存在すら忘れかけていたあの写真を出して、昔のように、「足が悪いのは生まれつきではない。病気のせいだ」と話し、「証拠写真だから、一生、大事に持っていなさい」と言って手渡してくれた母。足の事を遺伝的な病気と疑われないように、という思いがあった事を、後から知りました。
 障害はあったけれど、卑屈になる事なく、前向きに生きてこられたのは、写真を見せては、私を諭してくれた母のおかげだと感謝しています。娘が障害者となった時から、将来の事を心配して、一枚の写真を大切に保管して手渡してくれた母。母が私に残してくれた写真は、今日も私を見守っていてくれます。
 母が残してくれた、一枚の写真。こんな素晴らしい物を、私に残してくれた、お母さん。本当に、ありがとうございます。
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