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燃えよ剣51

时间: 2020-05-26    进入日语论坛
核心提示:甲 州 進 撃近藤、歳三の正面の敵になった「官軍」東山道方面軍は、洋式装備の土佐、薩摩、長州の諸藩兵を主力とし、これに旧装
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甲 州 進 撃

近藤、歳三の正面の敵になった「官軍」東山道方面軍は、洋式装備の土佐、薩摩、長州の諸藩兵を主力とし、これに旧装備の因州藩兵などがくわわり、参謀(指揮官)は、土佐藩士|乾《いぬい》退助(板垣、のち伯爵)である。
二月十三日、出陣の土佐藩兵は、京都藩邸で酒を頂戴し、老公山内容堂から、
「天|尚《なお》寒し、自愛せよ」
という有名な言葉をたまわった。「二月とはいえ、野戦は寒い。風邪をひくな」という意味だ。これをきいて「一軍、皆な踴躍《ようやく》す」と、鯨海酔侯《げいかいすいこう》という書物にある。
翌十四日早暁、京都御所を拝み、砲車をひいて京を出発。
三日目に大垣に入り、総指揮官乾退助は、ここで姓名を板垣退助にあらためている。
じつは出発にあたって、岩倉具視が、
「甲州の人間というのは気が荒っぽくて天下に有名だ。ただ、武田信玄の遺風を慕う気持がつよい。そこを考えて民情を安んぜよ」
といった。
偶然なことだが、退助の乾家には、その先祖は信玄の麾下《きか》の名将板垣|駿河守《するがのかみ》信形の血をひく、という家系伝説がある。
だから陣中ながら板垣とあらため、甲州へ間諜をはなって、
「こんどの官軍の大将は、土佐人ながら遠くは甲州の出身である。しかも信玄の猛将板垣駿河守の子孫であり、信玄公をうやまうこと神を見るがごとくである」
と流布せしめた。
この奇妙な宣伝が甲州人にあたえた影響は大きく、最初は徳川びいきであったものが、にわかに「天朝」びいきになった。
官軍の総隊がいよいよ甲州の隣国信州に入り、上諏訪、下諏訪に着陣したのは、三月一日のことである。
この同じ日に、近藤、歳三ら新選組を主軸とする「甲陽鎮撫隊」二百人が、江戸四谷の大木戸を、甲州にむかって出発した。
第一日の行軍は、わずか三キロ。
歩いたとおもえば、はや、
「新宿の遊女屋泊り」
という行軍であった。新宿の遊女屋をぜんぶ隊で借りきった。
「歳、にがい顔をするもんじゃねえ」
と、近藤は、いった。
「これも戦法だ」
近藤のいうとおりである。二十数人の新選組隊士をのぞいては、みな、刀の差し方も知らぬ浅草弾左衛門の子分どもで、これをにわかに戦《いく》さ場《ば》にかり出すには、それなりの手練手管が要《い》った。
「まあ、見ておれ、一ツ屋根の下で女を抱くと、あくる日は、一年も一ツ釜のめしを食ったようにぴしっと二百人の呼吸があうものだ」
歳三だけは、高松喜六という宿でとまり、女をちかづけなかった。
隊士が気をつかったが、近藤は、捨てておけ、といった。
「あいつは年若のころから猫のようなやつで、ひと前では色事をしない」
翌朝、出発。
近藤は、長棒引戸の駕籠に大名然と乗り、歳三は洋服、陣羽織姿で馬上、先頭をゆく。
斎藤、原田、尾形、永倉ら幹部は、旗本のかぶる青だたき裏金《うらきん》輪抜けの陣笠に陣羽織、平隊士は、綿入れの筒袖に撃剣の胴をつけ、白もめんの帯をぐるぐる巻きにして大小をさし、下はズボンにわらじばきである。
新募集の連中は、幕府歩兵の服装で、柳行李の背嚢《はいのう》を背おい、ミニエー銃をかついでいた。
服装からみても、雑軍である。
この戦闘部隊のなかで、近藤の大名駕籠がいかにも珍無類で、異彩を放った。
歳三が、
「戦さにゆくのだよ。その駕籠はよせ」
といったが、近藤はきかない。
「歳よ、お前は学がねえから知るまいが、唐《から》の故事に、出世して故郷に帰らぬのは夜《よる》錦をきて歩くようなものだ、ということがある」
といった。
途中、近藤や歳三の故郷の南多摩地方を通るのである。
「大名になったのだ」
というところを、近藤は故郷のひとびとにみせたかったのであろう。
滑稽といえばこっけいだが、近藤にはそういう男くさいところが多分にあった。男くさいというのは子供っぽいということと同義語である。子供のように権勢にあこがれ、それを得ると無邪気によろこぶし、図に乗って無我夢中の行動力を発揮する。
(やはり戦国の豪傑だ)
と、歳三はおもわざるをえない。
行軍第二日目は、府中にとまった。この府中では、故郷の連中が押しかけてきて、大へんな酒宴さわぎになった。
第三日目の昼、日野宿にさしかかった。
「歳、日野だぜ」
と、近藤は、引戸をあけて、懐しそうにさけんだ。
(日野だな)
歳三も、感無量である。
ここの名主佐藤彦五郎は、歳三の姉の婚家で、同時に天然理心流の保護者であり、新選組結成当時、金銭的にもずいぶん応援もしてくれた。いわば、新選組発祥の地といっていい。
「歳、きょうは、日野泊りにしようか」
と、近藤は宿場の入口にさしかかったとき相好をくずしていった。
「まだ、昼だよ」
歳三は苦笑した。
甲州街道ぞい日野宿のまんなかあたりに、佐藤彦五郎の屋敷がある。なにしろ、日野本郷三千石の管理者だから、屋敷は宏壮なものだ。
その孫佐藤仁翁が書きのこして現在同家に蔵せられている「籬蔭《りいん》史話」という草稿には、
「隊員一同、表庭や門前街路に休憩した」
とある。以下、その文章をひこう。
駕籠より出た近藤は、髪を後ろにたばね丸羽織に白緒の草履をはき、表庭を玄関へあるいてくる。
近藤は、彦五郎とともに出迎えていたかれの老父の源之助の顔を遠くからニコニコ笑いながら見て、
「やあ、お丈夫ですな」
と声をかけた。これから戦争にゆくというような風は、すこしも見えなかった。
土方歳三は、総髪で洋服姿であった。
一同を奥の間へ招じ入れた彦五郎はひさしぶりのよろこびで、珍味佳肴をそろえて大いにもてなした。
酒盃をとった近藤は、負傷の右手が胸ぐらいしかあがらず、すこし痛い、と顔をしかめたが、
「なにこっちなら、このとおり」
と左手でグイグイとのんだ。
近藤は、あまり酒をたしなまない。グイグイといっても、おそらく、二、三ばいぐらいのものだったのだろうが、それほど意気軒昂としていたのであろう。
「そのあいだに歳三は」
と、この記録にはある。
席をはずして別室へゆき、姉のおのぶに会った。末弟の自分を母親がわりにそだててくれた姉である(記録者仁氏の祖母にあたる)。
「しばらくでした」
と、歳三は鄭重にあいさつし、用意の風呂敷を解いた。
「それはなんですか」
おのぶは、のぞきこんだ。なかから、真赤な縮緬地《ちりめんじ》のものが出てきた。
むかしの絵巻物などで、騎馬武者が背負っている母衣《ほろ》である。ふわりと風が入るものでおそらく二、三間はあるだろう。
「母衣ですね」
と、おのぶがいった。
「よくご存じですな」
「そりゃ」
おのぶは手短く、
「武者絵なんかで見ますから。しかしなぜこんなものをあなたがお持ちです」
「書院番頭《しよいんばんがしら》に召し出されたとき、将軍家から拝領したものです」
「ずいぶんと出世したものですね」
「出世、かな」
歳三は、自問するように首をひねって、
「ただ、身をもって時勢の変転を見た、ということではおもしろかった。多摩の百姓の末っ子が大旗本にまでなった、というのも変転のひとつですよ。出世じゃない」
「このさき、どうなるのです」
「この将来《さき》ですか」
と、歳三は声をおとしたが、すぐ、この男にはめずらしく高声で笑ってごまかしてしまった。
と、記録にはある。
母衣は、当家に残しておく、といった。
「こんな拝領のお品を」
と、おのぶは迷惑がったが、
「なあに、子供の振り袖でも仕立てればいいでしょう。いいんだ」
と、くるくるとまるめて押しやった。
歳三が姉と別室にいるとき、にわかに台所の土間のほうがさわがしくなった。隊士が応対に出てみると、この日野宿界隈の血気の連中が、きっかり六十人、土間に土下座している。そのうちの代表が平伏して、
「ぜひとも、近藤先生に拝謁しとうござりまする」
といった。その代表のいうところでは、|拝謁《ヽヽ》してお言葉を頂戴したいし、できれば人数にくわえてもらいたい、というのである。
「ああ、いいよ」
と、近藤は奥の間で、盃をおいた。顔が、自然と笑ってしまっている。近藤の生涯でのもっとも得意な瞬間であったろう。
六十人の若者たちは、いずれも郷党の後輩であったが、みな天然理心流をかじっていて、その宗家の近藤からみれば、たがいに面識はなくても「師弟」であった。
「では」
と、近藤は酒席をたちあがった。
羽織は、黒羽二重《くろはぶたえ》。
しかも葵《あおい》の五つ紋のついた将軍家拝領のものである。
背後に太刀持の小姓がついている。大名然としたものである(ちなみに、この太刀持の小姓は、井上泰助といい、当時十三歳。結党以来の同志だったこの地方出身の井上源三郎の甥である。井上源三郎は既述のように伏見奉行所の戦闘で戦死。泰助はそれ以前に京に近藤の小姓としてのぼっていたが、このあと、佐藤家に残された。のち、泰助の妹が沖田総司の甥芳次郎にとつぎ、その沖田家の家系が立川にのこっている)。やがてふすまがひらき、近藤がゆったりと出てきた。
一同、土間に平伏した。
近藤、表座敷の中央にすわり、
「諸君、ご健勝でなによりです」
と、微笑した。
異様な感動が、土間にうずまいた。
泣くようにして、従軍をねがい出た。
「いやいや、それはゆるされぬ」
と、近藤は、笑顔のままいった。極力、その申し出をことわった。近藤としては、これ以上、郷党の血をながすのにしのびなかったのであろう。
このあたり、近藤の正気は残っている。
が、この連中がたって泣訴したため、独身次男以下の者三十人をえらび、「春日隊《かすがたい》」と名づけて同行することにした。
「時も移る。早く出発しよう」
と歳三がせきたてたが、近藤はなお、土間の連中に京での手柄話を物語って、腰をあげない。
歳三は、性分なのであろう、郷党の連中に微笑さえあたえなかった。このため後年までこの地方に、
——土方というひとは権式ばったいやなひとであった。
という口碑がのこっている。
この日、慶応四年(明治元年)三月三日で、関東、甲信越地方は、春にはめずらしく雪がふった。
「歳、雪だよ」
近藤はこのまま、日野宿で腰をすえたいつもりらしかった。
 このおなじ日、板垣退助以下の官軍三千は、全軍上諏訪の宿営地を進発し、甲府にむかって雪中行軍を開始した。
主力の土佐兵は南国そだちだけに、寒気に弱く、銃把《じゆうは》をにぎれぬほどに手をこごえさせて、行軍した。
馬上の板垣退助は、諸隊に伝令を出し、
「天なお寒し、自愛せよ」
との藩の老公のことばをとなえさせた。風邪をひくな、というほどの意味だが、唱えているうちに、かれらの胸に譜代の士卒独特の感情がわきあがって、士気はとみにふるった。
 そのころ、日野宿の佐藤屋敷に斥候が駈けもどってきて、甲信方面のうわさを伝えた。
官軍がすでに上諏訪、下諏訪にまで来ているという。
「えっ、そこまできているのか」
とは、近藤はいわなかった。しかし表情におどろきが出ている。
「歳、行こう」
近藤は、別室にしりぞき、いそいで羽織をぬぎすてて鎖《くさり》帷子《かたびら》を着込み、撃剣の胴をつけ、陣羽織をはおった。
駕籠もすてた。
わらじをはき、二、三度土間で踏みしめてから、
「馬をひけ」
と、門を出た。顔が赤い。その頬を、どっと吹雪がたたいた。
「ひでえ、雪だ」
と、馬上のひとになった。もう、往年の近藤にもどっている。
軍が、動きだした。
が、すぐ陽が落ち、与瀬に宿泊。
 一方、官軍の一部先鋒部隊はその夜行軍をして早暁にははやくも甲府城下に入った。
官軍代表はただちに使いを城中に出し、城代佐藤駿河守、代官中山精一郎に本営に来るよう申しわたした。
むろん佐藤、中山は決戦の意をかためていたが、かんじんの近藤勇が来ない。
「新選組はなにをしているのだ」
と、青くなった。
新選組が先着しておれば、籠城決戦という手はずがきめられていたのである。
「やむをえぬ。近藤の到着まで、できるだけ時間をかせぐことだ」
と、佐藤駿河守は、とりあえず恭順をよそおって官軍先鋒の本営へ行った。
官軍側は、城中の武器いっさいを城外に出したうえで開城するよう申しわたした。
「委細承知つかまつっております。なにぶん火急のことでございますから、城中ととのいませぬ。開城の日時は、武器お引渡しの手はずがととのい次第おしらせします」
と、佐藤駿河守はとりあえず官軍をおさえ、城内にもどってひたすらに新選組の来着を待った。
が、官軍側も油断がない。
甲州街道ぞいにしきりと諜者をはなって情報をあつめていると、
「幕将大久保|大和《やまと》(近藤)なる者、甲府鎮撫を名とし急行進軍しつつあり、今夜中にかならず甲府に入るであろう」
という情報に接した。
「一刻をあらそう」
と、官軍先鋒も判断し、少数部隊ながらも一挙に城を接収するために佐藤駿河守の期日通告を待たずに城にせまった。
佐藤はおどろき、やむなく開城、官軍に城を渡してしまった。
 その日、近藤らは笹子峠を越してようやく駒飼《こまかい》の山村に入っている。
駒飼に宿営した。この山村から、山路はくだる一方で、もはや甲府盆地は、あと二里である。盆地におりれば激戦が待っているであろう。
隊の連中は、民家に宿営した。
ところが、それらの民家にはすでに甲府での官軍の入城、軍容が細大もらさず伝わっている。
新徴の隊士は村民からそれらをきき、大いに動揺して、その夜のうちに半分いなくなった。
近藤はこれには閉口し、
「会津の援兵が来る」
と隊内で宣伝したが、動揺はおさえられない。
「歳、どうする」
と、相談した。もう長棒引戸の大名駕籠に乗っていたときの得意の顔色はない。
「ちょっと、神奈川へ行ってくる」
と歳三は、立ちあがった。神奈川には、幕軍で菜葉隊《なつぱたい》というのが、千六百人駐屯している。これに急援をたのむつもりだった。
「この夜分に?」
「仕方あるまい」
本営から馬をひきだすと、ただ一騎、提灯もつけずに駈けだした。
が、すでにおそく、官軍側は、甲陽鎮撫隊の動向を偵察しきっていて、土州の谷守部(のちの干城、中将)らを隊長とする攻撃隊が準備をととのえつつあった。
しかし、当面の敵が、まさか、すぐる年京で土州藩士を多数斬った新選組であろうとは、かれらもそこまで偵知していない。
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