口の中でぶつぶつ文句をいいながら、夏美は後をついてきた。おれはタクシーを止め、飯田橋に向かわせた。
「富春はあんたのことをなんて呼んでた?」
不貞腐れて窓の外の景色に目を向けていた夏美は、一瞬、戸惑いの表情を浮かべ、それからぼそりと答えた。
「小美《シャオメイ》」
北京話で「みっちゃん」というような愛称だ。夏美の一瞬の戸惑いに、おれは胡散《うさん》臭いものを感じたが、問い詰めるのはやめにした。
「富春に中国名を教えたことはないんだな?」
「うん、夏美って名前は知ってるけど」
「パスポートや免許証を見られたってことは」
「ないと思うけど?」
「ならいいんだ」
夏美はじっとおれを見ていた。目を閉じてその視線をかわした。
マンションの百メートルほど手前でタクシーをおりた。今度は、スーツケースをひとつ運んでやった。
「どうしてあんな離れたところでタクシーを下りたのよ?」
「いろいろあるんだ」
夏美の小言を適当にあしらい、部屋へ辿《たど》りついたときにはさすがにくたびれきっていた。だが、まだ眠るわけにはいかない。
おれは受話器を取り上げ、楊偉民に電話を入れた。
「おれだ。金がいる」
「いくらだ?」
「二百」
「十日で二割」
「馬鹿いうなよ、爺さん」
「おまえは明日には死体になっているかもしれん。そんな人間にただで金を貸す商人などおらんぞ。いやなら他をあたれ」
呪詛《じゅそ》の言葉を喉元で飲みこんだ。
「わかったよ、使いを行かせる。女だ」
「一時間後でいいな」
「ああ。歌舞伎町はどうなってる?」
「元成貴の手下でいっぱいだ。みな、殺気だった顔をして、ナイフや青竜刀をちらつかせているわ。おまえの店も見張られているぞ」
「富春はまだ見つかってないんだな?」
「当然だ」
「じゃ、一時間後」
電話を切り、別の番号を押した。
「はい?」
寝起きのようなくぐもった声だった。
「おれだ。車を一台都合してもらえないか?」
「いまからかい?」
「悪い」
「車種は?」
「走るんならなんだっていい」
「わかった。じゃ、いつもの場所に置いときますから」
「頼む」
おれは電話を切った。相手は中野の中古車ディーラーの道楽息子だ。バブルのころは親父の景気もよかったらしく、六本木を中心にディスコをはしごしては女を漁っていた。服、車、女と遊びの段階を踏んでいけば、次のステップは薬ってことになる。道楽息子はすぐに薬に溺《おぼ》れた。頭のてっぺんまでどっぷりだ。あんまり溺れすぎて、六本木にはいられなくなった。それで歌舞伎町に流れてきたのだが、六本木と違って、歌舞伎町には道楽息子に薬をめぐんでくれる黒人はいなかった。いるのはやくざか、カモを見つけて身ぐるみはごうとする質の悪いイランやコロンビアの売人だけだ。
おれはこの道楽息子を大久保の国際通りで見つけた。真っ青な顔をして、いまにも眼球が飛び出るんじゃないかという目で通りの脇の暗がりに落ちつきのない視線を送っていた。そのうち、にやけた顔のコロンビア人がやつに近づき、薬をちらつかせた。道楽息子は震える手をポケットに突っ込み、鷲掴《わしづか》みにした札を売人に突きだした。そいつが間違いだった。売人の手がさっとひらめき、ナイフが道楽息子の喉にあてがわれた。売人は道楽息子の金玉を蹴り上げ、ポケットというポケットに手を突っ込んで金目のものを漁った。満足すると、うずくまって苦悶する道楽息子に、
「アディオス、|マリコン《ホモ》」
と嘲りの声をかけて立ち去った。
おれは一部始終をただ見守っていた。道楽息子は顔を涙と鼻水でぐちゃぐちゃに濡らし、「ちきしょう、ちきしょう」とつぶやきながら立ちあがった。その後を尾け、やつが中野の中古車屋の息子であることを突き止めた。それから、顔見知りのコロンビア人に話をつけて、コークを安く卸してもらった。ナイフ好きのコロンビア人も歌舞伎町の中国人には気を遣う。あとは目を光らせてタイミングを見計らうだけだ。
一週間後、コマの近くで道楽息子を見つけた。顔は蒼ざめるのを通りこして死人みたいだった。おれは道楽息子に近づき、取り引きを持ちかけてやった。おれはときおりコカインを用意することができる。金はいらないかわりに、必要なときに車を調達してもらいたい、そんなところだ。道楽息子にとっては渡りに船だった。はじめのうちこそは、おどおどして車は無傷で返してくれるようにと訴えていたが、おれが安全運転を標榜するドライバーであり、契約をきちんと履行する商人だということがわかると、後はただ、文句もいわずに車を用意し、嬉々《きき》として薬を受け取るだけだった。道楽息子はおれの名前も知らないし、車の受け渡しは新宿以外ですることにしている。羽目を外しすぎた道楽息子がパクられても、おれまでたどりつくおまわりはいないだろう。
「シャワー、借りてもいい?」
夏美が退屈さを紛らわそうとしているような声でいった。
「いいけど、さっさと切り上げろよ。すぐに出かけるぞ」
「えー」
「ぐたぐたいうな」
「偉そうに、何様のつもりよ」
おれはわざとらしいため息をもらし、ふたたび受話器を取り上げた。元成貴をなだめておかなければ身動きもままならない。
「はい?」
「健一《ジェンイー》だ。元成貴はいるか?」
受話器の向こうで息をのむのがわかった。内線に切り替わるトーン信号が聞こえ、苛々した元成貴の声がそれに続いた。
「富春と一緒なのか?」
「そんなわけないだろう」
「あいつは秀紅の店を襲ったんだぞ! 秀紅は警察に連れて行かれた。おまえのせいだ」
ヒステリックな金切り声に、おれは耳を塞ぎたくなった。元成貴は普段はものわかりのいい大哥《ボス》役を機嫌よく演じているが、いったん、自分の思いどおりにことが運ばないと知ると、仮面の下から幼児じみたケチ臭い素顔が現れてくる。
「知ってるよ」
「おまえを現場で見たものがいる。おまえが富春を手引きしたんだ」
「落ち着いて考えてくれよ。そんなことをして、おれにどんなメリットがあるんだ?」
おれはむずがっている赤ん坊をなだめる母親のように、辛抱強く元成貴に接することにした。
「楊偉民か崔虎におれを消してくれと頼まれたんじゃないのか?」
「楊偉民なんかクソ喰らえだし、崔虎みたいな狂犬とつきあうつもりはない」
「しかし……」
元成貴のおつむもやっと冷えてきたようだった。
「なあ、今度のことで、おれは心底ビビってるんだ。崔虎と取り引きしてあんたを牽制《けんせい》しようとしたのもそのせいだ。許してくれとはいわないが、察してくれてもいいだろう? おれは今日一日中富春を探して歩き回ってた。で、たまたま襲われた直後の〈紅蓮〉に出くわしちまっただけなんだよ」
「そういえば、そうかもしれないな。だが、信じることはできん」
「信じてくれなくてもいいさ。でも、あんたはおれに三日時間をくれた。おれを切り刻むのは三日後にしてくれないか」
「逃げないという保証はどこにある」
「信用だよ。信用をなくしたら、あんたたちの世界では生きていけない。これまで苦労して築いてきた信用をいっさいがっさい失って、他の土地でまた一からやりなおすなんて、おれにはとてもできない」
「相変わらず口がうまいな。おまえは弁護士にでもなればよかったんだ」
「他に生き方があればそうしてたさ」
「わかった。約束は守ろう。富春をおれの目の前に連れてくるんだ。もし、おれを裏切ったら——」
「裏切らないって」
「明後日の昼だ。忘れるなよ」
電話が切れた。おれは太い息を吐きだした。背中が汗でびっしょりだった。
とりあえず、今夜は——といっても、もう朝まで数時間しかないが——生き永らえることができそうだ。
煙草に火をつけた。滅多にないことだが、うまかった。バスルームからシャワーの水音に混じって夏美の鼻唄が聞こえてきた。ルイ・ヴィトンのバッグは見当たらなかった。バスルームに持ちこんでいるのだろう。食えない玉だ。