参宮橋のマンションへは戻らなかった。道玄坂のラブホテル街に空室が見つからなかったので、東武ホテルにチェックインした。フロント係は暗い目で満室だといったが、デポジットの他に二万円を握らせるとツインの部屋を用意してくれた。
部屋に入るなり、夏美はベッドの上にダイヴした。なにかをつぶやいていると思ったら、次の瞬間には寝息を立てていた。おれはキィを持ったまま部屋を出、ロビーに降りた。崔虎の動きがどうにも気になるのだ。保険をかけておかなきゃならない。
ロビーの公衆電話で記憶していた電話番号を押した。すぐに相手が出た。若い女の広東語だ。
「程《チョン》さんをお願いしたい」
北京語で訊ねた。
「そちら様は?」
相手も北京語に変わった。へたくそな北京語だったが、広東語でわめかれるよりはよっぽどましだった。
「陳錦《チェンジン》」
おれは偽名を名乗った。一時期おれの面倒を見てくれた台湾流氓の名前。程|恒生《ホンション》はこの名前に反応するに違いなかった。
電話の相手は、陳錦という発音を二度くり返し、ちょっと待てと告げた。おれは煙草に火をつけた。
程恒生は日本の映画を香港に流しているプロモーターだ。まだ三十代半ばで業界ではけっこう名が売れはじめているらしい。だが、程恒生の本職を知ってる人間は日本じゃ数が少ない。
程恒生の親父は香港で映画会社を経営するビジネスマンだが三合会《トライアッド》の大立て者でもある——つまり、程恒生も流氓だってことだ。日本に来る前は、親父の会社の映画の出演を渋る人気俳優を銃で脅すというような仕事をしていたらしい。ドジを踏んで香港にいられなくなったのだという噂がまことしやかに流れていた。
程恒生と陳錦の間には直接の関係はない。陳錦がくたばったのは十年も前の話だし、程恒生が来日したのは三年前のことだ。だが、程恒生の親父と陳錦の間には根強い敵対関係があった。日本のマーケットを狙って進出しようとしていた三合会の前に、陳錦をはじめとする台湾流氓が待ったをかけたのだ。
三合会の動きを掴んだ台湾流氓たちの動きは素速かった。やつらが日本に上陸する前に、香港でかたをつけようとしたのだ。流氓たちはヒットマンを香港へ送った。凄まじい抗争が勃発し、程恒生の親父が足を撃たれて終結した。その殺し屋たちの大哥《ボス》格を務めていたのが陳錦だった。抗争を勝利に導いたことで陳錦はすこぶる羽振りがよくなった。おれもそのおこぼれをいただいたくちだ。
とにかく、新宿という縄張りを取り合った抗争は台湾側が勝った。陳錦が一年後にくたばったときには、香港のやつらが動いたのだと断定する台湾流氓が山ほどいたものだし、事実、程恒生の親父が陳錦をつけ狙っていたのは本当だった。
「程恒生だ」
滑らかな北京語がおれの回想を断ち切った。香港辺りのハイソサエティになれば、広東語に英語はもちろん、北京語を話すのも教義の内だ。これに上海語が加われば、ビジネスマンとしては超一流になる。
「崔虎のねぐらを知りたくはないか?」
ブラフ抜き。真っ直ぐ本題に入った。
程恒生は香港ルートのドラッグを握っているというもっぱらの噂だ。それで、半年ほど前に北京の流氓たちとトラブった。おれの店の近くで香港の男が青竜刀を持った北京人に滅多斬りにされて殺された事件があって、マスコミが大々的に報道したことがある。銃やナイフじゃなく、青竜刀を使った殺しというのは、日本人の背筋を寒くするインパクトがあったのだ。この事件は表向きは、中国バーのホステスに売る弁当の値段で揉《も》めたということになっていたが、裏にはドラッグの密売をめぐる揉めごとがあった。暗闇に片足を突っ込んでいる歌舞伎町の中国人ならだれだって知っている話だ。事件を歌舞伎町から流氓を一掃するためのいい口実にした警視庁が重い腰をあげて、新宿清掃作戦などという一連の重点警戒措置を取ったために、それ以上の抗争には発展しなかったが、程恒生が崔虎に面子を潰されたまま黙っているはずがないのだ。
崔虎もそれを知っていた。表向きは怖いものなんてないって面をしていながら、ねぐらを転々と変えていた。程恒生側の襲撃を怖れているのだ。おれもしばらくアンテナを張っていたことがあったが、崔虎側のガードが固くてどうにもならなかった。それが今日、わかったのだ。元成貴を仕留めることに夢中になりすぎて、崔虎はおれに尻尾を掴ませてしまった。あるいは、崔虎の頭の中じゃおれはとっくに死体になっていて、そんなことはどうでもいいと思っただけかもしれないが。
「陳錦と名乗ったそうだが、おまえはだれだ?」
おれの言葉を吟味するかのような間があって、再び程恒生の北京語が受話器から流れてきた。
「だれだっていいさ。あんたを電話に出すためにはそうした方がいいと思っただけのことだ。崔虎のねぐらを知りたくないのかい?」
また間があった。ゆっくり考えさせてやった。
「せめておまえがどこの組の人間か教えてくれないか。そうじゃなければ、おまえの言葉を信用することができん」
「おれは新宿の中国人さ。おれの言葉を信じないのはあんたの勝手だ。おれにはどうだっていい。要は、知りたいのか、知りたくないのか。それだけだよ、程さん」
「見返りは?」
「おれは善意の第三者だよ」
「歌舞伎町はいま、きな臭いことになってるらしい」
程恒生は考えをまとめるような口調でいった。
「おまえは上海の人間か?」
「どうでもいいって——」
突如、程恒生は北京語でも広東語でもない言葉を発した。上海語だったが、おれには意味が取れなかった。おれにわかる上海語は挨拶《あいさつ》の言葉ぐらいのものだ。
「わからんようだな……そうか、おまえ、劉健一だな」
北京語に切り替えて、程恒生がいった。どこか勝ち誇ったような声だった。おれはなにも応えなかった。いずれにしろ、いつかはばれるはずだったのだ。
「どうでもいいだろう、そんなこと」
「よくはないさ。おまえは今上海と揉めているという話だ。それがなぜ崔虎とおれたちの間に割って入ってくる?」
「いろいろと事情があるんだよ」
「その事情を話してくれないかね」
「わかったよ、程さん。この話はなかったことにしてくれ」
おれは受話器から口を離した。
「待て! 慌てるな」
「おれの名前や立場なんてどうでもいいんだよ。さっきもいったように、おれは善意の第三者としてあんたに情報を提供したいだけなんだ」
「……いいだろう。教えてくれ。そっちの善意は忘れずに覚えておく」
「ひとつだけ条件があるんだが」
「いってみろ」
「崔虎をバラすにしろ襲うにしろ、明日の——もう今日だが、夜以降にしてもらいたい」
「そんなことか。てっきり歌舞伎町から逃げ出す手助けをしてくれといわれるものと思っていたのに」
「どうなんだ? それができるなら教えてやるよ」
「ああ、どちらにしろ崔虎は昼間は動きまわっているだろう。それに、今日は六合彩《リウホーツァイ》の日だ。忙しすぎて崔虎にまで手が回らん」
思わず自分を呪った。今日が火曜で六合彩の抽選日だということをど忘れしていた。
六合彩ってのは、一種のナンバーズ賭博だ。三|桁《けた》から六桁の任意の数字を選び、その数字が抽選で決定した数字と同じなら大金を得られる。毎週、火曜と木曜に香港で抽選が行われ、この二日間は歌舞伎町でも外を出歩く中国人の姿が激減する。ほとんどの流氓も賭け金の回収に駆りだされる。六合彩には、台湾の人間も大陸の人間も香港の人間も関係がなくなる。中国人はギャンブル好きだ。歌舞伎町だけでも億を超す金が動くのだ。
「一度しかいわない。よく聞けよ——」
おれは崔虎と別れたマンションの名前と大雑把《おおざっぱ》な住所を伝えた。
「部屋番号まではわからない。だが、そのマンションで間違いはないはずだ」
「わかった」
「それじゃあな」
「劉健一」
「なんだよ」
「最後にひとつ。この電話番号はだれに訊いた?」
「情報を集めるのがおれの仕事のひとつなんだよ。野暮なことは聞くな」
「そうだな……なにか困ったことがあったらこの番号に電話をくれ。偽名を使わなくても通じるようにしておく」
「今がその困ったときなんだよ。あんたたちが崔虎をびびらせてくれるだけで充分だ」
受話器を置いた。崔虎とかかわっただけでもくたくたなのだ。香港のぼんくらと付き合うなど、考えただけでもぶっ倒れそうだった。