二人は店を出ていった。ヒモの呻きが聞こえなくなると店の中は急に静まり返った。
夏美がおれの横にやってきて、ビニールが剥がれたストゥールに腰かけた。おれの手に自分の手を重ね、甘えるように身体を預けてきた。
「このまま帰しちゃってもいいの?」
「ああ、大体のからくりはわかったからな」
「どんなからくり? わたしにも教えてよ」
「おまえは知ってるさ」
夏美はきょとんとした表情でおれを見返した。
「どういうこと?」
「なんだって楊偉民に電話をしたんだ? なにを企んでる?」
できるかぎり静かな声で訊ねた。それでも夏美の表情は動かなかった。
「なにそれ」
夏美はいった。とぼけ方も堂に入っていた。
「それしかないんだよ」
煙草に火をつけた。
「おまえがあの喫茶店にいることを知ってる人間はだれもいない。おれかおまえが教えない限りはな。おれはだれにも教えてない。ってことは、おまえが教えたんだ。昨日、車を離れたのも楊偉民に連絡するためだったんだろう。へまをやったな。車から飛び降りた一世一代の演技もだいなしだ」
「わたし、楊偉民の電話番号なんて知らないよ」
夏美はおれにもたれかかったままだった。顔には成り行きを面白がってるような微笑みが浮かんでいた。
「とぼけたって無駄だ。おれにはわかっちまったからな。金を受け取りにいったときだ。たぶん、楊偉民の方から教えてきたんだな。小姐《シャオジェ》、健一はそれほど頼りになる奴ではない。困ったことがあったら連絡しなさい」
楊偉民の声を真似て北京語でいった。夏美は相変わらずとぼけた顔をしていたが、そうに違いなかった。なにをするにもまず保険をかけるというやり方を——たとえその保険が役に立ちそうになくても——おれは楊偉民から学んだのだ。
「いっちまえよ、夏美。おれだってしょっちゅう人を騙してる。怒ったりはしないから」
「健一がなにも教えてくれないからよ」
夏美は勢いよくおれから離れ、肩を抱えるようにしてカウンターに両肘を突いた。
「待ってる間ってずっと不安なの。いろんなこと考えちゃうのよね。それで、あのお爺さんに聞けば、健一が何を考えてるのか教えてくれるかもしれないと思って」
「それだけじゃないだろう。おまえが不安なのは、待つことじゃなくておれがうまくやれるかどうかだ。それで楊偉民の方にも渡りをつけて二股をかけようとしたんだ」
「だったらどうだっていうのよ」
夏美はさっと顔を向けてきた。おれはその顔に煙草の煙を吹きかけた。だが、夏美は瞬きもせずにじっとおれを見つめていた。闇に浮かんだ黒曜石の瞳は怯《ひる》むということを知らないのだ。
「なんでもない。ただ、おまえと楊偉民がどういう取り引きをしたのか知りたいだけだ」
「世間話をしただけよ。今どこにいるのかって聞かれたから、喫茶店の場所を教えただけ」
「そんなたわごとをおれが信じると思ってるのか」
夏美は小さく首を振った。
「健一の動きを教えてくれたら、それなりのお金を払ってくれる。それだけよ」
「そっちの嘘の方がまだいい」
「やっぱりね。健一は一度疑ったらほんとのことをいったって信じてくれないんだから」
「今度はどうするんだ。また車から飛び降りるか?」
夏美の手が伸びてきた。避けようと思えば避けられたが、おれはじっとしていた。夏美はおれがくわえていた煙草をもぎとり、それを自分の左手の甲に押しつけた。夏美の目尻に涙が溜り、肉の焦げる嫌な匂いが立ちこめた。おれは黙って夏美の黒曜石の瞳を見つめていた。憎悪と憤怒にぎらつく目を。
「わたしにはわかってる。今度のことが全部終わったら、健一は絶対わたしを捨てる。だから、一人になっても大丈夫なようにお金が欲しかった。それだけ」
夏美は身じろぎもせずにそういった。お笑いだったが、肉の焦げる匂いは本物だった。
「おまえを捨てようと思ったことは一度もない」
「思ってなくてもそうするのよ。わたしにはわかってるんだ」
夏美の瞳が微笑に変化した。そこに生じたのは、たしかに怯《おび》えの色だった。
夏美はなにに怯えているのだろう。おれに捨てられることか? まさか。
これ以上考えても無駄だった。夏美をいま切り捨てるのが最上の策だ。だが、夏美を手放したくなかった。頭が夏美を切れといっているのに身体が動かない、そんな感じだった。こんなことははじめてだった。
なんにしろ、夏美は必ずおれを裏切る。夏美を切ることができないのなら、これからは、それを頭に叩きこんで行動しなけりゃならない。
夏美の手から煙草の吸い殻をむしりとった。灰にまみれ、肉が焼けた手を取ってきいた。
「また、舐めてほしいか? 昨日したみたいに」
夏美はうなずいた。おれは舌を押しつけた。灰の苦みが口中に広がった。
「また、楊偉民に電話するんだろう?」
傷口に舌を這《は》わせたまま、きいた。夏美はうなずいた。
「それなのにおれはこんなことをしてる。おれがおまえを捨てるはずがない。おまえがこっぴどくおれを裏切らないかぎり……」
「健一……連れてってくれる?」
「どこに?」
「わたしがわたしじゃなくなれる場所。健一を裏切ろうとか、健一より他の人の方が頼りになりそうとか、そんないやらしいことを考えなくてもすむ場所。連れてってよ」
夏美は表情の失せた顔をおれの背中越しの空間に向けていた。はじめての子供を流産で失ってしまった母親のような顔だ。他人の哀れみを受け入れることもできずに、ただ呆然とそこにいる。
「いやなのよ。わたし、健一を信じたい。健一がちゃんとわたしを守ってくれるって信じたい。でも、それを嗤《わら》うわたしがいるのよ。小娘じゃないんだから、馬鹿なこと考えるのはやめなって。健一だってわたしを信じてるわけじゃないんだからって。健一はわたしの身体が欲しいだけなんだって。今までずっとそうやって生きてきたから……ほんとはいやなのよ、そういうの。そんなこと考えなくてもすむところに行きたいの」
傷を舐めるのをやめて夏美を抱きよせた。子供をあやすように背中を撫で、小さいがしっかりした声で夏美の耳に言葉を送り込んだ。
「夢を見たけりゃ見せてやるさ。おれにだってなにが欲しいのかなんかわかりゃしない。でも、おまえの身体なんかじゃないのは確かだ。世の中にはおまえよりいい身体をした女は腐るほどいるからな。そういう女どもはおまえよりも安全だし……おれにわかってることは、今すぐここを出て行かなきゃならないってことだ。おまえを置いて。実際、そうしようかと思った。おまえが煙草を手に押しつけたときにな。だけど、できなかった」
夏美が顔を上げた。鈍く光る目がじっとおれの目を覗きこんでいた。
「おれはおまえを連れていきたい。おまえが望む場所にだ。だけどな、そんな場所はどこにもないんだよ、夏美」
夏美の背が悪寒に襲われたように震えた。おれたちはしばらくの間、お互いの寒気を暖めあうように、なにもいわずにただ抱き合っていた。