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兎の眼06

时间: 2018-10-27    进入日语论坛
核心提示: 6 ハエの踊り  小谷先生の机の上に数さつの本がつみあげてある。先ほどから、小谷先生はいっしょうけんめいそれらの本を読
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  6 ハエの踊り
 
 
 小谷先生の机の上に数さつの本がつみあげてある。先ほどから、小谷先生はいっしょうけんめいそれらの本を読んでいた。ときどきメモをとっている。
 
 ひどくねっしんなので、となりの先生は興味をもって、なにを読んでいるのときいた。小谷先生は小さな声で、ないしょとこたえて、ふたたび本の上に眼を落とした。
 
 小谷先生が読んでいたものは、昆虫にかんするさまざまな本であった。図鑑や飼育事典などという本もあった。
 
 小谷先生はそれらの本の中から、ハエについてかいてある部分をひろい読みしていたのだ。小谷先生は内心おどろいていた。あれだけ人間の生活に関係のある虫なのに、ハエのことが書いてある書物は、きょくたんにすくない。学校にある本はなんの役にも立たなかった。市立の図書館にいって借りてきた本が五さつあったが、ハエの専門書はたった二さつで、そのうちの一さつはハエの分類だけをあつかってあったから、けっきょく役に立ちそうなのは、一さつだけというありさまである。その一さつも昆虫学者がかいたのではなく、たまたま水産食品の研究を職としている、ある農林技官が食物にたかるハエを除く必要からかいたもので、げんみつにはハエの専門書といいかねた。
 
 こんな調子では、人間はあんがいハエのことを知っていないのではないか、ハエについてくわしい知識をもった人がいないのではないかと小谷先生は思った。
 
 小谷先生自身、ハエはバイキンをたべるものとばかり思っていたが、それはとんでもないまちがいで、ハエはバイキンをえさにしているわけじゃない。
 
「ハエはバイキンを食べるのでたいへんふけつです」たいていの先生はそういって子どもに教えるが、それはまちがったことを教えているわけである。
 
「ハエは細菌のついた食べものを好んでたべます。だから、ふけつなものやくさりかけたたべものははやく処分して、ハエにふれさせないようにしましょう」と教えなくてはならないところである。
 
 考えてみると、ハエはだいぶぬれぎぬを着せられていると小谷先生は思った。
 
 小谷先生がハエのことを調べる気になったのは夫婦げんかがもとである。鉄三に暴力をふるわれ、夫にそむかれて、その夜、小谷先生はひとりぼっちであった。
 
 やけ酒を飲んでいたら、酒のビンの口に一匹のハエがきてとまった。どうしてか、そのハエが、小谷先生にはいとしく感じられた。酔っていたせいかもしれない。だれでもいいからやさしいことばをかけてくれと涙をこぼしていたときであったからかもしれない。ともかく一匹のハエがいとしかったのだ。
 
 本を読んでいて、二つのおもしろいことがらにぶつかった。小谷先生はちょっと興奮した。だれかにしゃべりたくてしかたがなかった。ちらっとみると、足立先生がまだ職員室に残っている。すぐ足立先生を思ったことで、小谷先生はちょっと顔が赤くなった。
 
「ちょっとお話してもいいですか」
 
 小谷先生が声をかけると、足立先生は仕事の手を休めて、おう、といった。
 
「足立先生がこんなにおそくまで学校にいるのはめずらしいのでしょ」
 
「そうらしいな」
 
 先生たちの下校時刻はだいたい午後五時なのだが、足立先生は時間を守ったことがないようであった。先生間の評判が悪いのも、それが一つの原因らしい。
 
「小谷先生、顔の傷どうした」
 
 足立先生はにやにやしながらたずねた。小谷先生はそのことにふれられたくない。
 
「夫婦げんかじゃありませんよ」
 
 つんとしてこたえると、
 
「鉄ツンにやられたんやろ」と、足立先生は笑った。
 
 いやだな、なんでも知ってる、あの子たちはいったいわたしと足立先生とどっちが好きなんだろう、と小谷先生は女性らしいやきもちをやいた。
 
「そんな話をしにきたんじゃないんです」
 
「ハイ、ハイ」
 
 足立先生は神妙にこたえた。
 
「先生、ハエの踊りって知っている」
 
「ハエの踊り?」
 
「ええ、ハエが踊るの」
 
「まさか」
 
 足立先生は信じられないという顔をした。しめしめこの話はまだ子どもたちからきいていないらしい。
 
「わたしが踊らせてみせるから、生きているハエを一匹とってきて」
 
「ぼくをからかうんじゃないだろうな」
 
 まだ足立先生はうたがっている。
 
 それでも便所の窓のあたりをさがして、ハエを一匹とってきた。青黒い色をした大型である。
 
「大きい方がいいわ」
 
 と小谷先生はよろこんだ。さて、と思ったが、そのハエをさわるのがどうしてもいやだ。しかし、なんとかして、こにくらしい足立先生をびっくりさせてやりたい。
 
 小谷先生は死ぬ思いで、功に教えてもらったとおりハエに手術をした。もちろんうしろを向いて足立先生にわからないように——
 
「はい」
 
 と、そのハエを机の上においた。ハエはしばらくじっとしていたが、小谷先生がとんと机をたたくと、あわてたように踊り出した。
 
「うへぇー」
 
 足立先生はすっとんきょうな声をあげた。小谷先生ははなはだ満足だ。
 
「おい見てみろ。ハエが踊っとる。おい、はよ見にこい」
 
 足立先生はだれかれなしに声をかけた。みんな寄ってきて感心してハエを見ている。
 
「なんでこんなことになるんや」
 
「種あかしをしてあげましょうか」
 
 小谷先生はますます得意であった。
 
「ハエは分類学からいうと双《そう》翅《し》目《もく》に属しているんです。アブや蚊と同じように二枚の羽根をもっているのが特徴なんだけれど、ハエも大昔はチョウやトンボのように四枚の羽根をもっていたらしくて、退化したうしろ羽根のあとがいまもちゃんとついているんです。これを平均棍《こん》といって、ハエがとんでいるときの平衡感覚をつかさどるわけ。だから、それをとってしまったら、ハエはとべなくなってしまうのよ。とぼうとしてとべないから踊っているように見えるというわけ」
 
「へえ、小谷先生は学があるんですなあ」
 
 まわりの先生が感心していうので小谷先生は吹き出してしまった。
 
「いまそこで読んでいた本にかいてあったんです」
 
 小谷先生が正直に白状したので笑い話になってしまったが、それでもまだみんな感心していた。
 
 ちょっとしたさわぎがおさまって、足立先生とふたりになると、小谷先生は話をつづけた。
 
「じつはいまのこと鉄三ちゃんに教えてもらったんですよ先生」
 
「鉄三がそんなむずかしいことを知っていたのか」
 
 びっくりして足立先生は問いかえした。
 
「そうじゃないですけど、羽根の下の糸のようなものをちぎると、ハエはそういう状態になるということを、鉄三ちゃんは経験で知ったんじゃないかと思うんです。鉄三ちゃんが処理所の子どもたちに教えて、わたしはそのことを功くんからきいたんです」
 
「ふーん」
 
 足立先生は感心した。
 
「たいした話だ。鉄三はたいへんな科学者ということになるね」
 
「ええ。それにわたし、とっても気になる文を読んだんです。ここにかきぬいてきましたから、ちょっと読んでくださいナ」
 
 小谷先生がしめした文章はつぎのようなものである。
 
「ハエは親に産み放され、生涯を仲間も家族も家さえなく、ひとりで暮らす。その間、ハチ、クモ、小鳥などにおどかされるが、他をおどかすことはなく、その食べる物といえば社会の廃棄物にすぎない。そこにはなんの美談もないが、残忍性もなく、ごくつつましい、いわば庶民の生活である」
 
 読みおわって足立先生は笑い出した。
 
「なんやこれ、まるで鉄三のこといってるみたいやなァ」
 
「ね、そうでしょ。先生もそう思う」
 
「思うね。鉄三はつつましく生きていたのに、そばから横ヤリを入れられた。しかも、横ヤリを入れた者は学校の教師だったというわけだ」
 
「ええ、それにまだもう一つ気になることがあるんです。わたしの読んだ本の中に、冬がおわって春に活動をはじめるハエはおおかた戸外にいて、花の蜜《みつ》とか木の汁を吸っているとあるんです。暖かくなるにつれて、くさったものとか、ゴミ、ふん便などに進出するとかいてあるんですけど、それだったらハエが悪いのじゃなくて、暖かくなってくさったものとかゴミを出す人間が悪いということになるでしょう。ま、そこまでハエの肩をもたなくてもいいでしょうけれど、鉄三ちゃんが春さきからハエを飼っていて、それをふやしているとしたら、バイキンのくっついているハエという非難はあたらなくなるでしょう」
 
「なるほどなァ」
 
「わたし、なにげなくきいていたんだけど、鉄三ちゃんはイエバエだけは飼っていないというんです。イエバエはふん便をたべるので飼わないというのが理由なんですって。ちゃんとすじが通ってるんです」
 
「ふーん」
 
「わたし、あの子について知らなかったために、ずいぶんまちがったことをしているような気がしますわ」
 
「あなただけじゃないけどね」
 
「足立先生、いっしょに鉄三ちゃんのところへいってくださらない」
 
「なぜ」
 
「また、ひっかかれそうだもん」
 
 足立先生はちょっと笑った。そして、教師が子どもをこわがっていてどうする、と小谷先生を叱った。だって……と小谷先生は泣きべそをかいた。わかったわかった、あんたはまだ若い先生やから、まけといてやると足立先生は立ちあがった。
 
 足立先生が処理所に姿を見せると、子どもたちは全速力で走ってきて、バッタのようにとびついた。
 
 純だけがなんだかばつの悪そうな顔をして小谷先生の手にぶらさがった。
 
「アダチやぞォ」
 
 という声に、小谷先生のときには姿を見せなかったしげ子や恵子、みさえなども出てきた。恵子は功の、みさえは純の妹である。
 
「徳治、キンタロウはどうや」
 
 と足立先生がたずねた。なんでも知っているらしい。
 
「いま、しつけとるさいちゅうや」
 
「くろうするやろ」
 
「くろうするワ」
 
「おまえのおかあちゃんも、そういうておまえを育てたんじゃ」
 
 徳治はちぇっといって頭をかいた。
 
「先生だいてぇ」
 
 シュミーズ姿のみさえが手を出した。
 
 よしよしと足立先生はだきあげた。みさえは足立先生のクラスである。
 
「なんじゃ、あまえて」
 
 と純は妹の背中をこづいた。いやーんとみさえがいった。かわいい子だなと小谷先生は思う。
 
「先生は学校でもこんな調子で授業をなさるの」
 
 きみが足立先生の頭の上へよじのぼっていったことなど考えあわせると、小谷先生には想像もできない世界だった。
 
「だいたいこういう感じやな」
 
「いちど授業を見せてください」
 
「いいよ。いつでもおいで」
 
 みさえがやっと足立先生からはなれた。シャツが汗でびっしょりぬれていたが、足立先生はすこしも気にしていなかった。
 
 鉄三は家のうらでキチに行水をさせていた。キチはシャボンだらけになって、うらめしそうにこちらを見ている。
 
 純は小谷先生にささやいた。
 
「先生、鉄ツンに行水させたやろ。あれから鉄ツン、キチに水あびさせるようになったんやで。きっと先生のマネをしてるんや」
 
「ほんと」——小谷先生はうれしそうだった。
 
「鉄ツン、そらあかんワ。犬は耳の中に水がはいったらいやがるんや。こうして耳をおさえて洗ってやりな、そうそう」
 
 足立先生は自分のことでもしているように気軽に鉄三の作業を手伝っていた。こうして見ていると、人間というものにいちばんこだわりをもっていない人は足立先生かもしれないと、小谷先生は思った。そのために、ときには乱暴にみえることがあって、ひとに非難されるのだろうけれど……。
 
 ふたりがかりで洗ったので、キチはすぐきれいになった。
 
「そら、きれいになったワ」
 
 キチはきょとんと足立先生の顔を見ていた。
 
「鉄ツン、おまえの友だちを見せてんか」
 
 いうよりはやく、足立先生はハエのビンを見ていた。鉄三はからだをかたくしている。あきらかに警戒しているのだ。
 
「こらまたすごいな、いったい何種類おるのんや」
 
 足立先生は、ひいふうみいと数えた。
 
「こら鉄ツン、ちょっとこい」
 
 足立先生はあっというまに鉄三をうしろ向きにだきかかえて、自分の足もとにすわらせてしまった。
 
「鉄ツン、この小さいハエはなんちゅうハエや」
 
 鉄三はもそもそしている。
 
「先生、鉄ツンはハエの名まえを四つしか知っとらへん。ほかのことはなんでも知ってるけど、名まえだけは教えてもらわんとわからんから、ぜんぜんあかんのや」
 
 功のおしゃべりを純がうけて、
 
「その四つも、功やおれが学校で調べてやって、やっとわかったんや。あんなボロ図鑑あかんで。もっとええのん買《こ》うとけ」といった。
 
「しゃあないから鉄ツンは自分でかってに名まえをつけとるんや。その小さいのはのみにようにてるから、ノミバエということにしてるらしいで」
 
「足立先生」
 
 小谷先生はおどろいていった。
 
「その名まえ、でたらめじゃないわ。学名ノミバエよ。ほら、羽根のないのがあるでしょう。ノミバエは種類によっては雌に羽根のないのがあるのよ」
 
「へえ、鉄ツン、おまえ、あきれたやつやな。これほんとの名まえもノミバエというそうやで」
 
「………」
 
 小谷先生はハエの分類の本を出してきた。
 
「鉄ツン、小谷先生がハエの勉強をしたいから、おまえに弟子入りさせてくれっていうてるで。ちゃんと教えたりや」
 
 足立先生は笑いながらいった。
 
 みんなで本とハエをかわるがわるのぞきこんで、九つのハエの名まえがわかった。
 
 イエバエ、オオイエバエ、ヒメイエバエ、ケブカクロバエ、キンバエ、ミドリキンバエ、ニクバエ、ノミバエ、ショウジョウバエである。もっともイエバエは飼っていなかったが、いちばん数の多いハエなので、みんなよく知っていた。
 
 一つだけよくわからないハエがあった。数もすくないとみえ、ビンの中にたった六匹しかはいっていない。
 
 暑いのにみんな顔をつきあわせて、あれでもないこれでもない……といいあった。なん回もページをめくった。
 
 そのとき、とつぜん、
 
「これや」と声がした。
 
「えっ」
 
 と小谷先生はびっくりして鉄三の顔を見た。
 
「これや」
 
 と、また鉄三はいった。指さされたところを見ると、ホホグロオビキンバエとかかれてあった。
 
 小谷先生が鉄三の声をきいたのは、それがはじめてであった。
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