PTA総会で一方の決議文が否決されたとき、足立先生は青ざめてつぶやいた。
「これで攻撃される方にまわってしまった」
そのことばはすぐ具体的な形になってあらわれてきた。
功の父が役所に呼び出された。埋立地への転居を承知すれば職員に採用して班長の地位をあたえるというのであった。
功の父はその場で課長をどなりつけてかえってきたので、そのときはたいしたことにならなかった。
五人の先生も役所に呼び出された。指導主事がまっていた。手にビラをもっている。
「このビラにかいてある教員有志というのは先生方のことですか」
「そうです」
「五人だけですか」
「ざんねんながら五人だけです」
足立先生の言い方がおかしかったのか指導主事はちょっと笑った。
「あなた方の熱意には敬服しているんです」
「まともにうけとっていいんですか」
「もちろんですとも」
「そりゃどうもありがとうございます」
そばできいている小谷先生はおかしくてしかたがない。ふたりともけっこう狸《たぬき》だ。
「あなたが小谷芙美先生ですか」
「そうです」
なにをいわれるかと思って、小谷先生は胸がどきどきした。
「臼井鉄三くんの担任ですね。新聞を見ました。ほんとうにたいへんでしたね。ご苦労さまでした。いま教育委員会はあなたの噂《うわさ》でもちきりですよ」
小谷先生は返事にこまった。ちょっと頭をさげておいた。
「ところでこのビラの件ですが……」
そらきたと小谷先生は思った。
「気持はわかるんですが中立を守らなくてはならない公務員として、やや慎重を欠くとわたしは思うんですが、いかがですか」
「そうですかなあ」
足立先生がとぼけづらでいった。
「子どもたちに一日もはやく学校にきてもらいたいと思ってやったことなんです。いけなかったでしょうか」
小谷先生はまじめにたずねた。
「いけないとはいっておりませんよ。わたしはむしろ先生方の純真さに感激しているくらいなんです。けれどその純真さを政治的に利用されたらよくないと思って……」
「ああ、そうですか。それだったら、ぜんぜん心配いりません。これでもみんなそうとうの悪者ですから、人に利用されるなんてことはぜったいない。なんなら誓約書をいれておきましょうか」
足立先生はポンポンいっている。
指導主事はもっと話をしたいらしいのだが、完全に足立先生のペースにまきこまれてしまってまごまごしていた。
「足立先生、あなた、校長、教頭と出世をしてもらわねばならん人材なんだから、よく考えてくださいよ」
指導主事はやっと一矢むくいたが、ケッケッケッと足立先生に笑われておしまいになった。
どんなにひどくしかられるのかと思って内心びくびくしていた小谷先生たちには、ちょっとあっけないくらいだった。
「指導主事もいろいろおる。気のよわいのや強いのや。ま、そのうちにいろいろいうてくる。かくごしとけや」と足立先生はみなをおどかした。
役所を出て教員組合にまわった。
足立先生はそこでだいぶ長い時間、話をしていた。
「あんたら、あの決議文が否決されて運動がしにくいのやろ。しにくうてもがんばらなあかんで。おれたちだけに働かしとったら承知しやへんで」
足立先生は笑いながらいった。どこへいってもこの先生は豪傑である。
五人の先生はその足で処理所にまわった。そしてかなしいものを見たのだった。
浩二の家の前に軽トラックがとまっていた。家財道具をつみこんでいる。そのまわりに処理所の人たちが手伝うでもなし手伝わぬでもなしといった中途半ぱなぐあいで、あつまっていた。子どもたちもそれをじっと見ているだけだった。
「どないしたんや。引っ越しかいな」
なにげなく足立先生がたずねた。
「しぃー」と徳治の父が口をおさえて足立先生をものかげにつれていった。ほかの先生もつられてついていった。
「瀬沼の奴、これですワ」
徳治の父はくやしそうにいって、両手をあげるまねをした。
「功のオヤジと同じことをいわれたんですワ。わしらだいぶ説得したんですが、相手のなげたえさの方が大きかった」
「そうですか」——足立先生はいかにもざんねんそうだった。
「あかんとわかったら、だまっておくり出してやろうと、みんなで決めたんです。裏切られた者より裏切った者の方がつらかろうと、バクじいさんがいうんです。そらそうやとみんなもさんせいして、それであんなとこへ、ぼうと立っとるんです。手《て》伝《つど》うてもつらがるやろし、手伝わんのもこっちの気ィがすまんし、なんやへんなぐあいです」
折橋先生も太田先生もことばがない。
みんなは浩二の家の前にひきかえした。タンスをはこんでいた浩二の父と足立先生の顔が合った。
とつぜん浩二の父は地べたに土下座した。
「すんまへん、先生すんまへん、すんまへん、すんまへん」
あまりにも無残な光景だった。思わず小谷先生は眼をそむけた。
足立先生は浩二の父の手をとった。なんどもうなずいて、しずかにかれの肩をたたいた。足立先生の眼に涙が光った。
荷物はつみおわった。
「浩二、こい」——浩二の父がいった。
浩二はがらんとした部屋のすみで、発泡スチロールのロボットをだいて背を向けていた。
「浩二」
「いけへんわい」
浩二は撃たれた鳥のようにさけんだ。
母親はむりやりかれをひきずってきた。
浩二は眼にいっぱい涙をためていた。
「浩二」と功が呼んだ。
功は泣いていた。
「浩二、泣くな」といった純も泣いていた。
浩二がむりにトラックにのせられたとき、子どもたちはいっせいに泣きだしたが、けっして手出しはしなかった。白いほこりをあげて、浩二はいってしまった。
けだもののような声をあげて、足立先生が泣きだした。
「浩二のやつ……」
おんおんと地の底からひびいてくるような声をだして、あの足立先生が泣いていた。
この人もまた心のどこかに深い傷をもっている……あふれてくる涙の中で、小谷先生は思うのであった。
足立先生がハンストをはじめたのは、そのよく日のことである。処理所の正門の前に、登山用のテントをはって、すねたようにごろんとねころんでいた。
古い敷布に、ラッカーの赤と黒で、「ただいまハンスト中」「当局の卑劣な切りくずしに抗議する」などとかいてあった。「我は海の子、処理所の子、ハエの子ではないわいな」とかいてあるところが、足立先生らしいユーモアだった。
足立先生はだれにも相談しなかった。
折橋先生がいっしょにやるというとこわい顔をしてとめた。
「ひとりで英雄ぶっとるわけやない。おれも人の子、出世もしたいし、うまいもんもくいたい。バツはこわいし、クビはもっとこわい。おれだっていつおまえさんたちを裏切るかもわからん。そういうただの人間や、おれにはおれの歴史がある。歴史が歴史をつくり、歴史が歴史をたしかめる」
足立先生はナゾのようなことをいって、折橋先生をおいかえしてしまった。
一日めはたいへんだった。
足立先生を説得してハンストをやめさせようと、ひきもきらず人がきた。足立先生はコンクリートのへいの方を向いてねころんだままで、そういう人にはひとことも返事をしなかった。
足立学級の子どもが一時間おきにれんらくにきた。そうすると足立先生はおきあがった。そして勉強の内容をこまごまと指示していた。
「しっかりやるねんで。よその先生のせわになったらあかんで」
足立先生がいうと、
「まかしといてえ」と子どもは元気にかけていった。
三時間めにれんらくにきた子がいった。
「つぎ、給食やで先生、ここへ給食もってきたろか」
「おおきに、おおきに」とその子の頭をなでた。
「給食たべたらなんにもならんワ」と足立先生は笑いながらいった。
昼から新聞記者がたくさんきた。足立先生は新聞記者にはていねいに話をしていた。そして、さいごにかならずいうのだった。
「ちゃんとほんとのことかいてや」
足立先生は子どもと新聞記者以外は、ぜったいしゃべらなかった。たったひとつ例外があった。教員組合の人がきたときだ。
「三日めから医者をよこしてんか。まだ死ぬのんはやいからな」と足立先生はいった。
三時ごろ、足立先生がねころんでいると、へいの向う側から、コンコンという音がした。足立先生が眼を向けると、破れたへいの穴から小さな眼がのぞいている。
「だれや」
「おれや、功や」
「功か」
「腹へったか」
「ああ、腹ぺこや」
「つらいやろ」
「つらいな。日ごろ大ぐいやからよけいつらい」
「これ、たべろ」
功は小さな穴から、砂がつかないようにそろそろニギリメシを出してきた。
「ニギリメシやないか」
「そうや」
「こんなもんたべたら、ハンストにならへん」
「だまっとったらわからへん」
足立先生は笑ってしまった。
「医者がみたらすぐわかる。くいたいけれどやめておく」
「あかんか」
功はへいの向うでがっかりしているようだ。
ニギリメシはまたそろそろかえっていった。
「功」
「ん」
「ハンストというのは、水は飲んでもええことになっとる。もっとも水を飲まなんだら二、三日でおだぶつや。そこでな功、おまえの家に水があるやろ」
「水ぐらいなんぼでもある」
「水道の水とちがうで。一升ビンにはいっとる水や。おまえのとうちゃんが、まい晩飲んでる水や」
どうやら功はわかったようだ。
「それ、コップにいっぱい入れてこい。ストローもわすれんようにもってきてや。コップはこの穴は通らんからな」
ばたばたとかけていく音がした。功のほかにもまだだいぶ人間がいるらしい。
しばらくして、ふたたびコンコンと合図があった。
「どや」
「あったあった」
「いっぱい入れてきたか」
「いっぱい入れてきた」
「よしよし、その穴のところにそろっとおけ。おいたか。ストローをよこせ」
足立先生はねころんだままストローをくわえた。
「ストローのさきをコップにつっこんでくれ」
「つっこんだ」
「よしよし」
足立先生はえびす顔になった。
「コップ、ちゃんともっといてや」
足立先生は赤ん坊のようにチュウチュウと吸いはじめた。
「おいしいか先生」
「おいしいてなもんやないな。気絶しそうなくらいや。頭がくらくらする」
そりゃ頭がくらくらすることだろう。朝から、なにもたべていないところへ、そんなけしからんものをながしこんでいるのだから。
「こぼしたらいかんぞ。うまいぐあいにコップをかたむけろよ」
足立先生は勝手なことをいっている。
「先生、なに歌っとるんや」
「なになに」
足立先生はのんきに木曽節なんか歌っていた。
四時ごろになって、小谷先生ら四人がそろって処理所にきた。
「足立先生だいじょうぶ」
小谷先生は心配そうにたずねた。
「だいじょうぶだいじょうぶ、わがはいはいたって元気でござる」
足立先生はせっしゃのオッサンみたいなことをいっている。功の差入れてくれたいっぱいの水? で、きゅうに元気になったようだ。
「足立先生、淳ちゃんのおかあさんたちが中心になって、署名運動をはじめてくださることになったのよ。ひとりひとり話をすればわかってくれるはずだって」
「それはありがたい」
「先生のクラスの父兄ともれんらくをとっていっしょにやるっていっていらっしゃったわ」
「いっそうありがたいね」足立先生はすこし明るい顔になった。