ただ、胃袋の内容物に関する記述を見て、笹垣は首を傾げた。
蕎麦《そば》、葱《ねぎ》、ニシンの未消化物が残留。食後約二時間から二時間半が経過、とあったのだ。
「これがほんまやとすると、あのベルトの件はどう考えたらええんでしょう」腕組みをして座っている中塚を見下ろして、笹垣は訊いた。
「ベルト?」
「ベルトの穴が二つ緩んでたことです。そんなことをするのは、ふつう飯を食うた後でしょう。二時間も経ってたんやったら、戻しておくもんと違いますか」
「忘れてたんやろ。ようあることや」
「ところが被害者のズボンを調べてみたら、本人の体格に比べて、結構ウエストのサイズが大きめなんです。ベルトの穴を二つも緩めたら、ズボンがずり下がって歩きにくかったはずです」
ふうん、と中塚は曖昧《あいまい》に頷いた。眉を寄せ、会議机の上に置かれた解剖所見を見つめた。
「そしたら笹やんは、なんでベルトの穴がずれとったと思う?」
笹垣は周りに目を配ってから、中塚のほうに顔を近づけた。
「被害者があの現場に行ってから、ズボンのベルトを緩める用事があったということですわ。それで今度締める時に、二つずれてしもうたというわけです。締めたのが本人か犯人かはわかりませんけど」
「なんや、ベルトを緩める用事て?」中塚が上目遣いに笹垣を見た。
「そんなもん、決まってますがな。ベルトを緩めて、ズボンを下ろしたんですわ」笹垣はにやりと笑って見せた。
中塚は椅子にもたれた。パイプの軋む音がした。
「ええ大人が、わざわざあんな汚《きたの》うて埃っぽい場所で乳繰り合《お》うたりするかい」
「それはまあ、ちょっと不自然ですけど」
笹垣が言葉を濁すと、中塚は蠅《はえ》を払うように手を振った。
「面白そうな話やけど、勘を働かす前に、まずは材料を揃えようやないか。被害者の足取り、追っかけてくれ。まずは蕎麦屋やな」
責任者の中塚にこういわれては反論できない。わかりましたと頭を一つ下げ、笹垣はその場を離れた。
桐原洋介が入った蕎麦屋が見つかったのは、それから間もなくのことだった。弥生子によれば、彼は布施駅前商店街にある『嵯峨野屋』を贔屓《ひいき》にしていたらしいのだ。早速捜査員が『嵯峨野屋』に行って確認してみたところ、たしかに金曜日の午後四時頃、桐原が来たという証言を得られた。
桐原は『嵯峨野屋』でニシン蕎麦を食べている。消化状態から逆算して、死亡推定時刻は金曜日の午後六時から七時の間であろうと推測された。アリバイを調べる際には、これに少し幅を持たせた午後五時から八時までの間を重視することになった。
ところで松浦勇や弥生子の話では、桐原が自宅を出たのは二時半頃だ。『嵯峨野屋』に入るまでの一時間あまり、彼はどこへ行っていたのか。自宅から『嵯峨野屋』までだと、いくらゆっくりと歩いても十分程度しか要しない。
これについての答えは月曜日に得られた。西布施警察署にかかってきた一本の電話が、この疑問を解決してくれたのだ。電話をかけてきたのは、三協銀行布施支店の女性行員だった。先週金曜日の閉店前に桐原洋介が来た、というのが電話の内容だった。
すぐに笹垣と古賀が同支店に向かった。近鉄布施駅南口の、道を挟んだ向かい側にその支店はあった。
電話をかけてきたのは、窓口担当の若い女性行員だった。愛嬌のある丸い顔に、ショートカットの髪形がよく似合っていた。衝立《ついたて》で仕切られた応接スペースで、笹垣たちは彼女と向き合って座った。
「昨日新聞で名前を見て、あの桐原さんやないかなと、ずっと気になってたんです。それで今朝名前をもう一回確認した後、上司に相談して、思い切って電話してみたんです」背筋をぴんと伸ばし、彼女はいった。
「桐原さんは何時頃いらっしゃいましたか」笹垣が訊いた。
「三時ちょっと前でした」
「用件は何でした?」
すると女性行員は少し躊躇《ちゅうちょ》した。客の秘密をどこまで話していいものか、判断しにくかったのかもしれない。しかし結局彼女は口を開いた。
「定期預金を解約して、その分を引き出されました」
「金額は?」
彼女はまたためらった。唇を舐《な》め、遠くにいる上司のほうをちらりと見てから小声でいった。「百万円ちょうどです」
ほう、と笹垣は唇をすぼめた。ふだん持ち歩く金額ではない。
「何に使うとか、そういうことは桐原さんはお話しにならなかったですか」
「ええ。そんなことは何もおっしゃってません」
「その百万円を、桐原さんはどこにしまわれました」
「さあ……。当行の袋に入れておられたことは、何となく覚えているんですけど」彼女は困ったように首を傾げた。
「桐原さんがそんなふうに突然定期預金を解約して、百万単位の金を引き出すということは、これまでにも何度かあったんですか」
「私の知っているかぎりでは、初めてです。私は去年の末頃から、桐原さんの定期預金のお世話をさせていただいているんですけど」
「金を引き出す時の桐原さんの様子はどうでした。残念そうでしたか、それとも楽しそうでしたか」
さあ、と彼女はまた首を傾げた。「さほど残念そうには見えませんでした。この分はまた近いうちに預金するから、というようなことをおっしゃってました」
「近いうちに……ねえ」
これらの内容を捜査本部に報告した後、笹垣と古賀は『きりはら』に向かった。桐原洋介が引き出した金について何か心当たりがないかどうかを、弥生子や松浦に確かめるためだった。ところが家の近くまで行ったところで二人は足を止めた。『きりはら』の前に喪服を着た人々が集まっていた。
「そうか、今日は葬式やったか」
「うっかりしてましたね。そういえば、今朝、そんな話を聞きました」
笹垣は古賀と共に、少し離れたところから様子を窺《うかが》った。ちょうど出棺が始まるところのようだった。家の前まで霊柩車が移動してきた。
店のドアは開放されていた。そこからまず、桐原弥生子が現れた。前に笹垣が会った時よりも顔色は悪く、身体も小さくなったように見えた。だが一方で、妖艶《ようえん》さは増しているように感じられた。喪服の持つ不思議な魅力のせいかもしれなかった。
弥生子は明らかに着物を着慣れていた。歩き方さえ、自分が魅力的に見えるよう計算されているようだった。悲嘆にくれる美しく若き未亡人を演じているとすれば完璧だ、と笹垣は少しひねくれた感想を抱いた。彼女がかつてキタ新地でホステスをしていたということは、すでに調査済みだ。
彼女の後ろから、遺影を入れた額を抱えて、桐原洋介の息子が出てきた。亮司《りょうじ》という名前は、すでに笹垣の頭に入っている。まだ言葉を交わしたことはなかった。
桐原亮司は今日もまた無表情だった。暗く沈んだ瞳には、感情らしきものが何も浮かんでいなかった。そんな作りもののような目を、前を行く母親の足元あたりに向けていた。
夜になってから、笹垣と古賀は再び『きりはら』に出向いた。前に来た時と同様、シャッターは半分開いていた。だが内側のドアは鍵がかかっていて開かなかった。ドアのすぐ横に押しボタンがあったので、笹垣はそれを押した。中でブザーの鳴っているのが聞こえた。
「どこかに出かけてるんですかね」古賀が訊いた。
「出かけたのやったら、シャッターを下ろしていくやろ」
やがて鍵の外れる音がした。ドアが二十センチほど開いて、隙間《すきま》から松浦が顔を覗かせた。
「あっ、刑事さん」松浦は少し驚いた顔をした。
「ちょっとお尋ねしたいことがありましてね。今、よろしいですか」
「ええと……どうかな。奥さんに訊いてきますから、少し待っててください」松浦はそういうとドアを閉めた。
笹垣は古賀と顔を見合わせた。古賀は首を傾げた。
再びドアが開いた。「いいそうです。どうぞ」
失礼します、といって笹垣は店内に入った。線香の匂いがこもっている。
「お葬式は問題なく終わりましたか」笹垣は訊いてみた。この男が棺を担いでいたのを覚えている。
「ええ、なんとか。ちょっと疲れましたけど」松浦はそういって髪を撫《な》でつけた。喪服のままだが、ネクタイはつけていなかった。シャツの第一と第二ボタンが外れている。
カウンターの後ろの襖が聞き、弥生子が出てきた。彼女は喪服から、紺色のワンピースに着替えていた。アップにしていた髪も、下ろしてあった。
「お疲れのところ申し訳ありません」笹垣は頭を下げた。
いえ、と彼女は小さく首を振った。「何かわかったんでしょうか」
「いろいろと情報を集めてるところです。それで、一つ気になることが出てきましたので、それについてお尋ねしに来たわけですが」笹垣は彼女が出てきた襖を指した。「その前に線香をあげさせていただけませんか。仏さんに一言、御挨拶しておきたいんですわ」
弥生子は一瞬不意をつかれたような顔をした。彼女はまず松浦のほうに視線を向け、それから笹垣に目を戻した。
「ええ、あの、構いませんけど」
「すみません。そしたら、ちょっとお邪魔します」
笹垣はカウンターの横の沓脱ぎで靴を脱いだ。上がり框《かまち》をまたぐ時、そばの扉に目が向いた。階段を隠している扉だ。その把手《とって》のそばに、掛け金錠が下ろしてあった。これでは階段側から開けられない。
「変なこと訊きますけど、この錠は何のためのものですか」
「ああ、それは」と弥生子が答えた。「夜中に泥棒が二階から入ってくるのを防ぐためのものです」
「二階から?」
「このあたりは家が密集してるから、泥棒が二階から入ってくるおそれが結構あるんです。実際、近所の時計屋さんも、そんなふうにして入られました。それで、もしそういうことになったとしても下には来られないように、主人がその錠を取り付けたんです」
「泥棒に下に来られたらまずいわけですか」
「金庫が下にありますから」松浦が後ろから答えた。「お客さんからの預かりものも、全部下で保管してますし」
「すると、夜は上には誰もおられないわけですか」
「そうです。息子も一階で寝させてます」
「なるほど」笹垣は顎をこすりながら頷いた。「錠が付いてる理由はわかりましたけど、今はなぜ掛けてあるんですか。昼間、掛けることもあるんですか」
「ああ、それは」弥生子は笹垣の横に来て、その錠を外した。「癖になっているので、つい掛けてしまっただけです」
「ははあ、そうですか」
つまり上には誰もいないということかなと笹垣は思った。
襖を開けると六畳の和室があった。その奥にさらに部屋があるようだが、やはり襖で仕切られて見えなかった。夫婦が寝室にしていた部屋だろうと笹垣は想像した。弥生子の話では、亮司も一緒に寝るらしい。ならば夫婦生活はどうしていたのかと気になった。
仏壇は西の壁に寄せて置いてあった。傍らの小さな額には、桐原洋介が背広姿で微笑《ほほえ》んでいる写真が入っていた。少し若い時の写真らしかった。笹垣は線香をあげ、十秒ほど手を合わせて瞑目《めいもく》した。
弥生子が湯飲みに茶を入れて運んできた。笹垣は正座したまま一礼し、茶碗に手を伸ばした。古賀も同じようにした。
その後何か事件について思い出したことはないか、と笹垣は弥生子に尋ねてみた。彼女は即座に首を横に振った。店で椅子に座っている松浦も、何もいわなかった。
笹垣は徐《おもむろ》に、桐原洋介が百万円を銀行から引き出していたことを話した。これには弥生子も松浦も、驚いた顔をした。
「百万円やなんて、そんな話、主人から何も聞いてません」
「私も心当たりはありませんなあ」松浦もいった。「社長はワンマンでしたけど、仕事でそれほどの大金を扱うとなると、一言ぐらいは私にも相談があるはずですけど」
「御主人は何か金のかかる道楽はしておられませんでしたか。たとえば博打とか」
「あの人は賭事《かけごと》は一切しませんでした。趣味らしいものも、特になかったと思います」
「商売だけが趣味みたいなお人でしたわ」松浦が横からいった。
「そうすると、ええと」笹垣は少し迷ってから訊いた。「あっちのほうはどうでした」
「あっちのほう?」弥生子が眉《まゆ》を寄せた。
「つまりその、女性関係ですけど」
ああ、と彼女は頷いた。特に神経を刺激されたようには見えなかった。
「外に女がおったとは思えません。あの人は、そういうことのできる人やなかったんです」断定的にいった。
「御主人を信用してはるわけですな」
「信用というか……」弥生子は語尾を濁し、そのまま俯いた。
その後いくつか質問してから、笹垣たちは腰を上げた。収穫があったとはとてもいえなかった。
靴を履く時、沓脱ぎの端に少し汚れた運動靴が置いてあるのが目に留まった。亮司のものらしい。彼は二階にいるのだ。
掛け金錠のついた扉を見て、少年は上で何をしているのだろうと笹垣は思った。