ドラマチックなことを書く必要はなく、素気ない文章でも構わないというのが、江利子が五年間で学んだ日記を続けるコツだ。本日は特に変わったことはなし、でもいい。
しかし今日は書くべきことがたくさんあった。放課後、唐沢雪穂の家へ遊びに行ったからだ。
雪穂とは中学三年になって初めて同じクラスになった。だが彼女のことを江利子は、一年生の時から知っていた。
理知的な顔立ち、上品だが隙のない身のこなし。江利子は彼女に、自分や自分の周りにいる友人たちにはないものを感じていた。それは憧《あこが》れといってもよかった。何とか彼女と友達になれないだろうかと、ずっと思い続けてきたのだ。
だから三年で同じクラスになった時には自らを祝福した。そして始業式の直後、思い切って話しかけてみたのだ。
「友達になってくれない?」
これに対して唐沢雪穂は怪訝そうな素振りは全く見せず、江利子が期待した以上の笑顔を浮かべた。
「あたしでよければ」
いきなり話しかけてきた相手に対して、精一杯の好意を示そうとしてくれているのがよくわかった。無視されるのではと不安だった江利子は、その微笑みに感激さえ覚えた。
「あたしは川島江利子」
「唐沢雪穂よ」ゆっくりと彼女は名乗った後、一つ小さく頷いた。自分のいったことに対して、確認するように頷くのが彼女の癖だということを、江利子はその後少ししてから知った。
唐沢雪穂は江利子が遠くから眺めて想像していた以上に素晴らしい『女性』だった。感性が豊かで、一緒にいるだけで多くのことを再発見できた。また雪穂は会話を楽しくすることでも天性の才能を持っていた。彼女と話していると、自分までもが話し上手になったような気がするのだ。しばしば江利子は、彼女が自分と同い年であることを忘れた。だから彼女のことを日記で何度も、『女性』と表現するのだった。
そんな素晴らしい友人を持っていること自体が江利子には誇らしかったのだが、当然彼女と友達になりたがる生徒は少なくなく、彼女の周りにはいつも同級生たちが群がっていた。そんな時江利子は軽い嫉妬《しっと》を感じた。大切なものを奪われたような気になるのだ。
だが何より不快なのは、近くの中学校の男子生徒が雪穂の存在に気づいて、まるでアイドルタレントでも追うように彼女の周りに出没するようになったことだった。先日も体育の授業中、金網によじのぼってグラウンドを覗いている男子生徒がいた。彼等は雪穂の姿を見つけると、ほぼ例外なく下品な声をあげるのだった。
今日も下校時に、トラックの荷台に隠れて雪穂の写真を撮っている者がいた。ちらりと見ただけだが、ニキビ面の、不健康な顔つきをした男子生徒だった。いかにも低俗な妄想で頭をいっぱいにしていそうなタイプに見えた。その妄想の材料に雪穂の写真が使われるかもしれないと思うと江利子などは吐き気を催しそうになるのだが、当の雪穂は全く意に介さない様子だ。
「ほうっておけばいいよ。どうせそのうちにあきるだろうから」
そしてまるでその男子に見せつけるように髪をかきあげるしぐさをする。向こうの男子があわててカメラを構えるのを、江利子は見逃さなかった。
「でも不愉快やないの? 勝手に写真を撮られるのなんて」
「不愉快だけど、むきになって文句をいったりして、結果的に連中と顔見知りみたいになってしまうほうが余程いやだもの」
「それはそうだけど」
「だから無視すればいいの」
雪穂は真っ直ぐ前を向いたまま、そのトラックの前を通過した。江利子はその男子の撮影を少しでも邪魔しようと、彼女の脇から離れなかった。
江利子が雪穂の家へ遊びに行くことが決まったのは、この後だった。先日借りた本を持ってくるのを忘れたから、家まで来ないかと誘われたのだ。本のことなどどうでもよかったが、雪穂の部屋を訪れるというチャンスを逃す気はなく、迷わずにオーケーした。
バスに乗り、五つ目の停留所で降りてから一、二分歩いた。静かな住宅地の中に唐沢雪穂の家はあった。決して大きな屋敷ではないが、こぢんまりとした前栽《せんざい》のある上品な日本家屋だった。
その家で雪穂は母親と二人で住んでいた。居間に行くと、その母親が出てきたのだが、彼女を見て江利子は少々戸惑った。この家にふさわしく、品のいい顔立ちと身のこなしをした人だったのだが、祖母といわれても不思議ではないほどの年齢に見えたからだ。地味な色調の和服を着ているせいとも思えなかった。
江利子は最近耳にした、ある不愉快な噂話を思い出していた。それは雪穂の生い立ちに関するものだった。
「ゆっくりしていってくださいね」穏やかな口調でそういうと、雪穂の母親は居間を出ていった。どこか病弱な印象を江利子は受けた。
「優しそうなおかあさんやね」二人きりになってから江利子はいってみた。
「うん、とても優しいよ」
「門のところに裏千家の札が出てたよね。お茶を教えておられるの?」
「うん。茶道のほかに華道も。あと、お琴も教えられるんじゃないかな」
すごーい、と江利子は身体を後ろにのけぞらせた。「スーパーウーマンやね。じゃあ、雪穂もそういうことできるの?」
「一応、お茶とお華は教えてもらってる」
「わあいいな。ただで花嫁修業ができるんだ」
「でも結構厳しいよ」そういって雪穂は、母親の淹《い》れてくれた紅茶にミルクを入れて飲んだ。
江利子も彼女に倣った。いい香りのする紅茶だった。きっと単なるティーバッグじゃないんだろうなと想像した。
「ねえ、江利子」雪穂が大きな目で、じっと見つめてきた。「あの話、聞いた?」
「あの話って?」
「あたしに関すること。小学生時代のこと」
突然切り込まれ、江利子はうろたえた。「あ、ええと」
雪穂はかすかに微笑んだ。「やっぱり聞いたんだね」
「ううん、そうじゃなくて、ちょっと耳にしただけというか……」
「隠さないで。大丈夫だから」
そういわれ、江利子は目を伏せてしまった。雪穂に見つめられると、嘘をつけない。
「結構、噂になってるのかな」彼女は訊いてきた。
「そんなことはないと思う。まだ殆ど誰も知らないと思うよ。あたしに教えてくれた子も、そういってた」
「だけど、そういう会話が成り立つこと自体、ある程度広まってるってことだよね」
雪穂に指摘され、江利子は返す言葉がなくなる。
「ねえ」雪穂が江利子の膝に手を置いた。「江利子が聞いたのは、どういう話?」
「どういうって、そんなに大した話やないよ。つまんない話だった」
「あたしが昔すごい貧乏で、大江の汚いアパートに住んでたとか?」
江利子は黙り込んだ。
雪穂はさらに尋ねてくる。「本当の母親が変な死に方をしたとか?」
江利子はたまらず顔を上げた。「信用なんか全然してないよ」
その懸命な口調がおかしかったのか、雪穂は頬を緩めた。
「そんなに必死に否定しなくてもいいよ。それに、その噂、全くの嘘でもないもの」
えっ、と声を出し、江利子は親友の顔を見返した。「そうなの?」
「あたし、養女なの。中学に上がる前に、この家に来たのよ。さっきのおかあさんは、あたしのじつの母親ではないの」気負った様子もなく、自然な口調で、何でもないことのようにいった。
「あ、そうなんだ」
「大江に住んでたのは本当。貧乏だったのも本当。お父さんがずっと前に死んじゃってたからね。それからもう一つ、母親が変な死に方をしたというのも本当。あたしが六年生の時だった」
「変な死に方って……」
「ガス中毒」雪穂はいった。「事故死よ。でも、自殺じゃないかと疑われたこともあった。それくらい貧乏をしてたからね」
「そうだったの」
どのように相槌《あいづち》を打っていいかわからず江利子は戸惑ったが、雪穂のほうは特に重要なことを告白したつもりもなさそうだった。もちろんそれは友人にいらぬ気遣いをさせてはならないという、彼女らしい配慮に違いなかった。
「今のおかあさんはおとうさんのほうの親戚で、あたし、昔から時々一人でここへ遊びに来ていたから、あたしのことをすごくかわいがってくれてたの。それであたしが孤児になった時に、かわいそうだといってすぐに引き取ってくれたというわけ。自分も独り暮らしで寂しかったみたい」
「そういうことだったんだ。大変だったんだね」
「まあそうね。でも幸運だったと思ってるの。本当だったら施設に入らなきゃいけなかったんだもの」
「そうかもしれないけど……」
同情めいたことをいおうとし、江利子は言葉をのみ込んだ。ここで何をいっても、雪穂に軽蔑されるだけのような気がした。彼女の苦しみがどれほどのものであったかを、苦労知らずで育ってきた自分に理解できるはずがないと思った。
それにしても、そんな苦境を乗り越えてきたというのに、この雪穂の優雅さはどうだろうと、江利子としては改めて感嘆するしかなかった。それともそれらの体験が、彼女を内面から輝かせているのだろうか。
「ほかにはどういうことが噂になってるのかな」雪穂が訊いてきた。
「知らない。そんなに詳しくは聞いてないもの」
「きっと、あることないこと噂されてるんだろうな」
「気にすることないよ。そんな噂を流してる連中は、雪穂に嫉妬してるだけなんやから」
「別に気にしてるわけじゃないの。ただ、噂の発信源は誰なのかなと思って」
「さあね。どうせどっかの馬鹿女じゃないの」江利子はわざと乱暴な口調を使った。この話題は早く終わりにしたかった。
江利子が聞いた噂話には、もう一つエピソードが含まれていた。雪穂の本当の母親はかつて誰かの妾《めかけ》をしていたが、相手の男が殺された時には警察から疑われた、というものだった。自殺したのは捕まりそうになったからだという、まことしやかな尾鰭《おひれ》もついていた。
だがもちろん、こんな話を雪穂に聞かせるわけにはいかなかった。彼女の人気に嫉妬した者によるでまかせに決まっていた。
この後、江利子は雪穂が最近凝っているというパッチワークの作品を見せてもらった。座布団カバーやポシェットなどだ。色とりどりの布の組み合わせが、雪穂のセンスのよさを物語っていた。一つだけ、まだ未完成らしいが、少し色合いの違うものがあった。小物入れにでも使うつもりらしいその袋は、黒や紺といった寒色の布だけで作られていた。こういうのもいいね、と江利子は本心から褒《ほ》めた。