この夜、篠塚|一成《かずなり》は大阪のシティホテルにいた。窓のそばに置いてあるソファに座り、大学ノートを開いた。
二十三人の名前が並んでいた。まあまあだなと一成は頷いた。とびきり多いというわけではないが、昨年の数は上回った。問題は何人が入ってくれるかだ。
「男の子たち、例年以上に舞い上がってたわね」ベッドのほうから声がした。
倉橋|香苗《かなえ》が煙草に火をつけ、灰色の煙を吐いた。裸の肩が露《あらわ》になっているが、胸元は毛布で隠している。ナイトスタンドの淡い光が、異国風の彼女の顔に、濃い陰影を作っていた。
「例年以上? そうかな」
「そう感じなかった?」
「いつもあんなものだと思ったけどな」
香苗は首を振った。長い髪が揺れた。「今日は特別だった。たった一人のせいでね」
「一人?」
「あの唐沢って子、入部するんでしょ?」
「唐沢?」一成は名簿に並んでいる名前を指でなぞった。「唐沢雪穂……英文科か」
「覚えてないの? まさかね」
「忘れてたわけじゃない。でも、顔とかはあまりはっきりと覚えてないな。何しろ、今日は見学者が多かった」
香苗は、ふふんと鼻を鳴らした。
「一成は、ああいうタイプ、好みじゃないものね」
「ああいうタイプ?」
「いかにもお嬢様っていうタイプ。ああいうんじゃなくて、ちょっと育ちの悪そうなのが好きなんでしょ。あたしみたいに」
「別に、そういうわけじゃない。それに唐沢って子、そんなにお嬢様タイプだったかな」
「長山君なんて、あれは絶対に処女だとかいって、ずいぶん興奮してた」香苗は、くすくす笑った。
「あほだな、あいつ」一成は苦笑し、ルームサービスで注文したサンドウィッチをほおばった。
今日見学に来た新入生たちのことを考えた。
彼は本当に、唐沢雪穂のことをよく覚えていなかった。奇麗な女の子だという印象を持ったのは事実だ。だが、それだけだった。どういう顔だったのかは、今では正確には思い出せない。一言二言、言葉を交わしただけだし、しぐさなどをじっくりと観察したわけでもないから、お嬢様タイプだったのかどうかさえ判断できなかった。同輩の長山がはしゃいでいたのは覚えているが、それがあの娘のせいだったということさえ、今初めて知った。
むしろ一成の記憶に残っているのは、唐沢雪穂の付き添いのようにしてやってきた、川島江利子のほうだった。化粧気は全くなく、洋服もおとなしい、素朴という言葉がぴったりの娘だった。
あれはたぶん唐沢雪穂が、見学者名簿に名前を書いている時だったのだろう。川島江利子は少し離れたところで、一人ぽつんと立って友人を待っていた。すぐそばを人が通りかかろうと、どこかで誰かが大声を出そうと、全く気に留めていないようだった。まるでそんなふうに待っているのが快適なようにさえ見えた。そんな様子は、花をつけた雑草を思わせた。道端で風に揺れている、正式な名前など誰も知らないような小さな花だ。
そういう花をちょっと摘んでみたくなるのと同じような心理で、一成は彼女に声をかけた。本来は、ダンス部の部長である彼自らが、新入部員を勧誘することはない。
川島江利子はユニークな娘だった。一成の言葉に対して、彼が全く予期しない反応を見せた。言葉も表情も、極めて新鮮に見えた。
見学会の間も、彼は江利子のことを気にしていた。なぜか気にしてしまった、といったほうが正確かもしれない。つい彼女のほうに目が向いてしまうのだ。
それは、見学者の中でも彼女が最も真剣な目をしていたせいかもしれない。しかも彼女は、ほかの者がパイプ椅子に腰掛けていたにもかかわらず、最後まで立ったままだった。座って見るのは先輩たちに対して失礼だと思ったのかもしれない。
彼女たちが引き上げる時、一成は追いかけていって声をかけた。感想を訊くためだった。
「すっごくよかったです」胸の前で両手を握りしめ、川島江利子はいった。「ソシアルダンスなんて、時代遅れなものだと思ってたんですけど、ああいうのが踊れるってすごいことですよね。選ばれた人たちっていう気がしちゃいます」
「それは違うよ」一成は首を振って否定した。
「えっ、そうですか」
「選ばれた人間がソシアルダンスを習うんじゃない。いざという時にダンスの一つぐらい踊れるような人間が選ばれていくんだ」
「はあ、そうなんですか……」川島江利子は牧師の話を聞く信者のように、感心と憧《あこが》れの混じったような目で一成を見上げてきた。「すごいですね」
「すごい? 何が?」
「何がって、そういう言葉が出てくることです。選ばれた人間が踊るんじゃなくて、踊れる人間が選ばれるなんて、すごい名言だと思います」
「やめてくれ、ちょっと思いついたことを、格好つけていってみただけだ」
「いいえ、忘れません。この言葉を励みに、がんばります」江利子は、きっぱりといいきった。
「ということは、入部の決心がついたってことかい」
「はい。彼女と二人で決めたんです。お世話になります」そういって江利子は、隣にいた友人を見た。
「そう。じゃあ、こちらこそどうぞよろしく」一成は江利子の友人のほうに顔を向けた。
「よろしくお願いいたします」その友人は、丁寧に頭を下げた。それから、じっと一成の顔を見つめてきた。
彼が唐沢雪穂の度を真正面から見るのは、これが最初だった。整った顔立ちをしている、という印象を持った。
だがこの時彼は、彼女の猫のような目に対して、もう一つ別の感想を抱いた。そして今改めて考えてみて、それのせいで、彼女のことを単なるお嬢様とは思えないのだと気づいた。
彼女の目には、言葉ではいい表せないような微妙な刺《とげ》が含まれていた。だが、ダンス部の部長が自分を無視して友人とだけ話していたからプライドを傷つけられた、というわけでもないようだった。あの目に宿る光は、そういう種類のものではなかった。
あれはもっと危険な光だった、というのが一成の感想だ。卑しさを秘めた光、ともいえた。そして本物のお嬢様ならば、ああいう光を目に宿らせることはないはずだ、というのが彼の考えだった。