つい頭に手を持っていきそうになる。カツラがずれそうなのが気になるからだ。だが絶対にそれをしてはいけないと、桐原亮司から厳しく注意されていた。眼鏡にしてもそうだ。必要以上に触ると、それが変装の小道具だとばれてしまうというのだった。
三協銀行|玉造《たまつくり》出張所には、現金自動預入支払機が二台設置されていた。現在、そのうちの一方が塞《ふさ》がっている。利用しているのは、紫色のワンピースを着た中年の女だった。機械を使い馴れていないのか、操作がやたらに遅い。時折きょろきょろするのは、説明してくれそうな銀行員を探しているからだろう。しかし係の者は誰もいない。時計の針は午後四時を少し回ったところを示している。
この小太りの中年女が自分に助けを求めてくることを友彦は恐れた。そんなことになったら、今日の計画はとりあえず中止しなければならない。
ほかには客がおらず、友彦としては、いつまでもそんなに佇《たたず》んでいるわけにはいかなかった。どうしようかなと彼は思った。諦めて踵《きびす》を返すべきか。しかし一刻も早く「実験」をしてみたいという欲求も小さくなかった。
彼はゆっくりと、空いているほうの機械に近づいた。早く中年女が去ってくれないかと思ったが、彼女は依然として操作盤に向かって首を傾げている。
友彦はバッグを開け、中に手を入れた。指先にカードが触れた。それを摘《つま》み、取り出そうとした。その時だった。
「あのう……」突然隣の中年女が話しかけてきた。「お金を入れたいんですけど、どうもうまいこといかへんのです」
友彦は、あわててカードをバッグに戻した。そして女のほうを向かず、顔を伏せたままで小さく手を振った。
「わかりません? 誰でも簡単に出来るて聞いてきたんやけど」女はしつこく尋ねてくる。友彦は手を振り続けた。声を出すわけにはいかなかった。
「ねえちょっと、何やってるの?」その時入り口のほうから別の女の声がした。隣の女の連れらしい。「急がんと遅れるで」
「これ、おかしいねん。うまいこといかへんの。あんた、やったことある?」
「あっ、それか。あかんあかん。うち、そういうのには触らんことにしてるねん」
「うちもあかんねん」
「そしたら、日を改めて窓口でやったらどう? 別に急がへんのでしょ?」
「まあねえ、せやけど、うちに出入りしてる銀行員が、機械のほうが絶対に便利ですっていうたんよ。せやからカードを作ったのに」中年女はようやく諦めたらしく、機械の前から動いた。
「あほやな。あれは、客が便利という意味やのうて、銀行側にとって人手が少なくて済むいうことなんよ」
「ほんまにそうやわ。頭にきた。何が、これからはカード時代です、や」
中年女は、ぷりぷりして出ていった。
友彦は小さな吐息をつき、改めてバッグに手を入れた。借り物のハンドバッグだった。流行の品なのかどうか、彼にはよくわからなかった。それどころか、今の自分の姿が現代の女性として変ではないか、ということがずっと気になっていた。桐原亮司は、「もっと変な女が、堂々と歩いてるで」と、いうのだが。
彼は徐《おもむろ》にカードを取り出した。それは、大きさや形は三協銀行のキャッシュカードと同一にしてあるが、模様は何も印刷されていなかった。ただ磁気テープが貼り付けてあるだけだ。だから、なるべく防犯カメラに手元を写されぬよう気をつける必要があった。
友彦はキーボード上に目を走らせ、「お引き出し」のボタンを押した。すると、「カードをカード挿入口に入れてください」と書いてある横のランプが点灯した。彼は心臓の鼓動が大きくなるのを感じながら、手に持っていた白いカードを、素早くカード挿入口に入れた。
機械は何の拒絶反応も見せず、彼のカードを吸い込んだ。続いて、暗証番号を求める表示が出た。
ここが勝負だ、と彼は思った。
キーボードの数字ボタンを、4126と押した。さらに確認ボタンを押す。
一瞬空白の時間があった。その一瞬が、ひどく長く感じられた。機械が少しでも変わった反応を示せば、すぐに立ち去らねばならない。
だが機械は何も疑った様子がなく、引き出すべき金額を尋ねてきた。友彦は跳び上がりたいのを我慢して、2、0、万、円とボタンを押した。
数秒後、彼は一万円札二十枚と明細を手にしていた。さらに白いカードを回収し、足早に銀行を出た。
丈が膝の下まであるフレアスカートは、足にからんで歩きにくかった。それでも不自然にならぬよう気をつけて歩いた。銀行の前の道はバス通りで交通量は多いが、歩道に人は少ない。それが救いだった。慣れない化粧をした顔が、糊《のり》でも塗ったように強張っている。
二十メートルほど離れた路上に、ライトエースが止まっていた。友彦が近づいていくと助手席のドアが内側から開けられた。友彦はあたりを少し気にしてから、スカートの裾《すそ》を少したくし上げて乗り込んだ。
桐原亮司は、今まで読んでいたらしいマンガ雑誌を閉じた。友彦が買ったものだ。その雑誌に連載中の、『うる星やつら』というマンガに登場するラムちゃんが、彼のお気に入りだった。
「首尾は?」エンジンキーを回し、桐原亮司が訊いてきた。
「これ」友彦は二十万円の入った袋を見せた。
桐原は横目でちらりとそれを見ると、コラム式のチェンジレバーをローに入れ、ライトエースを発進させた。表情に大きな変化はなかった。
「俺らの謎解《なぞと》きに、間違いはなかったというわけや」前を向いたままで桐原はいった。その口調にも、はしゃいだところはない。「まあ、自信はあったけどな」
「自信はあったけど、うまいこといった時には、やっぱり思わず身体が震えたで」友彦は臑《すね》の内側を掻いた。ストッキングを穿いた足は、やたらにかゆかった。
「防犯カメラには気をつけたやろな」
「大丈夫。絶対に顔を上げんようにしたから。ただ……」
「なんや?」桐原が、じろりと横目で友彦を見た。
「変なババアがいて、ちょっとやばかった」
「変なババア?」
「うん」
友彦は現金自動預入支払機の前でのことを話した。
桐原の顔が途端に曇った。彼は急ブレーキを踏み、ライトエースを路肩に止めた。
「おい、園村。最初に注意したやろ」と彼はいった。「ちょっとでも変なことがあったら、すぐに引き返せっていうたよな」
「それはわかってるけど、あれぐらいは平気やと思て……」友彦は声が琴見るのを抑えられなかった。
桐原はそんな友彦の襟首を掴んだ。女物のブラウスの襟だ。
「おまえ一人の考えで判断するな。こっちは命がけでやってるんぞ。捕まるのはおまえだけと違うんや」そういって目を剥《む》いた。
「顔は見られてない」うわずった声で友彦はいった。「声も聞かれてない。本当や。だから、俺の正体なんて絶対にばれへん」
桐原は顔を歪《ゆが》めた。それから、舌打ちをして友彦の襟を離した。
「おまえは、あほか」
「えっ……」
「何のために、そんな気色の悪い格好をさせたと思てるんや?」
「だから、これは変装……やろ?」
「そうや。誰の目をごまかすためや? 銀行や警察の目やろうが。偽造カードが使われたとなったら、連中はまず防犯カメラをチェックする。そこに今のおまえの姿が映っとったら、十人が十人、女やと思う。男にしては線が細いほうやし、なんといっても、高校ではファンクラブができたほどの美形やからな」
「だからカメラには……」
「カメラには、そのうるさいババアも映ってるわけやろ? 警察は、その中年女を見つけだそうとする。見つけるのは簡単や。隣で機械をいじくってたわけやから、その記録も機械に残ってる。で、見つけたら刑事は中年女に訊く。あの時横にいた女について、何か覚えていることはないかとな。そのババアが、あれは女装した男やったというたらどうする? せっかくの変装が水の泡や」
「それは本当に大丈夫やて。あんなババア、何も気づいてないって」
「気づいてないと、どうして断言できる? 女というのは、必要もないのに人のことを観察するのが好きな動物やねんぞ。もしかしたら、おまえの持ってたハンドバッグの銘柄ぐらいは覚えてるかもしれん」
「まさか……」
「そういう可能性もあるということや。仮に何も覚えてなかったとしても、それはラッキーやっただけや。で、こういうことをする以上、ラッキーなんかを期待したらあかん。これは、おまえが昔やってた、ブティックでの万引きとは話が違う」
「……わかった。すまん」友彦は小さく頭を下げた。
桐原は吐息をつくと、再びギアをローに入れた。そして、ゆっくり発進させた。
「でも」友彦は、怖ず怖ずと口を開いた。「あのババアは、本当に心配ないと思う。自分のことに夢中やったから」
「そのおまえの勘が正しかったとしても、変装した意味がなくなったことはたしかや」
「どうして?」
「声を出さへんかったんやろ? 全く」
「ああ、だから――」
「だからあかんのや」桐原は低い声でいった。「そんなふうに話しかけられて、何も返事せえへん人間がどこにおる? 何か理由があって声を出されへんかったんやないかと警察は判断するやろ。その結果、女装と違うかという説が出てくる。この時点で変装の意味はパーや」
桐原の話を聞いていて、友彦は返す言葉がなくなった。まさにそのとおりだと思ったからだ。やはりあの時、すぐに引き返すべきだったのだと後悔した。桐原のいっていることは難しいことではない。ちょっと考えればわかることだった。にもかかわらず、そこまで考えが及ばなかった自分の愚かさに腹が立った。
「すまん」友彦は、桐原の横顔に向かって、もう一度謝った。
「二度と、こういうことはいわへんからな」
「わかってる」友彦は答えた。桐原が同じ過ちを犯す馬鹿を許さないことは、十分に承知していた。
友彦は、運転席と助手席との間の狭い隙間を、窮屈な姿勢で通り抜けた。そして荷台に置いてあった紙袋の中から自分の洋服を取り出し、車の揺れに耐えながら着替えを始めた。パンティストッキングを脱ぐ時には、奇妙な解放感があった。
サイズの大きい女性服、靴、ハンドバッグ、カツラ、眼鏡、そして化粧品といった変装に必要な品物はすべて、桐原によって調達されていた。どこから、どのようにして入手したのか、彼は決して話そうとはしなかった。友彦も訊かなかった。桐原には、他人が絶対に踏み入ってはならない領域がたくさん存在するということを、友彦はこれまでの付き合いで痛いほどわかっていた。
着替えを終え、化粧を落とした頃、ライトエースが地下鉄の駅の近くで止まった。友彦は降りる支度をした。
「夕方、事務所のほうに寄ってくれ」桐原がいった。
「ああ、わかってる。そのつもりや」友彦はドアを開けて、車から降りた。ライトエースが発進するのを見送ってから、地下鉄の階段を下り始めた。階段の壁に、『機動戦士ガンダム』のポスターが貼ってあった。見に行かなきゃな、と彼は思った。