広田淳子という若い女性がすでに到着していた。東京から、雪穂と浜本夏美の喪服を持ってきてくれたわけだ。すでに浜本夏美は着替えを終えていた。
「じゃああたし、ちょっと着替えてきますから」喪服を受け取ると、雪穂は控え室のほうに消えていった。
一成はパイプ椅子に腰掛け、祭壇を眺めた。「お金のことはいいですから、母がみじめにならないような立派なものにしてください」と雪穂はいっていた。今目の前にある祭壇がふつうのものとどう違うのか、一成にはわからなかった。
唐沢家でのことを回想すると、冷や汗が出そうになった。あの時電話が鳴らなければ、間違いなく雪穂を後ろから抱きすくめていた。なぜそんな気持ちになったのか、彼は自分でもわからない。あれほど警戒すべき相手だと自分にいいきかせてきたというのに、あの瞬間は心の鎧《よろい》を完全に脱ぎ捨てていたのだ。
気をつけねばならない、彼女の魔力に翻弄《ほんろう》されてはならないと彼は自らを戒めた。だが一方で、もしかすると自分はとんでもない誤解をしているのかもしれない、という考えも抱き始めていた。彼女の涙、彼女の震えが、偽物だとは思えなかった。サボテンを見て嗚咽を漏らした彼女の姿は、これまで一成が抱いてきた彼女に対するイメージと、明らかにずれていた。
本質は――。
一成は思った。本質は先程の彼女の姿にこそあるのではないか。自分はこれまでそれを目にすることがなかったばかりに、歪んだ偶像を勝手に作りあげてしまっただけではないのか。高宮誠や康晴は、最初から彼女の真の姿に気づいていたということなのか。
視界の端で何かが動いた。一成はそちらを見た。洋装の喪服に着替えた雪穂が、ゆっくりと近づいてくるところだった。
黒い薔薇だ、と彼は思った。これほど華やかで、強烈な輝きを持った女性は見たことがなかった。黒い衣装を身に纏《まと》ったことで、雪穂の魅力が一層際立ったようだ。
彼女は一成の視線に気づくと、ほんのわずかだが唇を緩めた。だがその目は潤んでいた。黒い花びらについた露だ。
雪穂は会場後方に設置された受付カウンターにゆっくりと近づいていった。そこでは浜本夏美と広田淳子が何かの打ち合わせをしていた。彼女もそれに加わり、二人の部下に細かい指示を与えた。その様子を一成はぼんやりと見つめていた。
やがて通夜の弔問客が訪れるようになった。殆どが中年女性だった。唐沢礼子は自宅で茶道と華道を教えていたから、その教え子だと思われた。彼女たちは祭壇に置かれている遺影の前に立つと、手を合わせながら、ほぼ例外なく涙を流した。
雪穂のことを知っているというある女性は、彼女の手を握ったまま、唐沢礼子の思い出話を延々と語った。語っては、その内容に自ら胸を熱くし、涙で声を詰まらせるということを繰り返していた。そんな少々厄介な弔問客に対しても、雪穂は適当にあしらったりせず、相手が納得するまで話を聞いてやっていた。傍から見ると、どちらが慰め役かわからない、という光景になっていた。
一成は、葬儀の進行について浜本夏美たちと打ち合わせをすると、もうすることがなくなってしまった。別室にちょっとした料理とアルコールが用意されていたが、そんなところに陣取っているわけにもいかなかった。
特に目的もなく会場の周りを歩き回っていると、階段の横にコーヒーの自動販売機があるのが見えた。さほど飲みたくもなかったが、彼はポケットに手を突っ込み、小銭入れを取り出した。
コーヒーを買っていると、女性の話し声が聞こえてきた。雪穂の部下たちの声だ。階段の扉の向こうにいるらしい。彼女たちもティータイムなのだろう。
「だけど、本当によかったと思うよ。まあ亡くなったのは気の毒だけど」浜本夏美がいった。
「そうだよね。意識はないとはいっても、まだまだ生きられるかもしれなかったわけでしょ? そうなってたら、きつかったかもね」広田淳子が応じている。
「自由が丘の三号店があるもんね。オープンを遅らせるわけにはいかないし」
「もしお母さんが亡くなってなかったら、社長、どうするつもりだったのかな」
「さあねえ、オープンの日だけ顔を出して、また大阪に戻るつもりだったのかもしれない。じつをいうとあたしは、それを一番恐れてたの。お得意さんが来てくれた時に社長がいないんじゃ話にならないものね」
「際どいところだったんだ」
「まあね。それに、店のことだけでなく、早めにこういうことになってよかったと思うよ。だってさあ、意識が戻らなくても面倒は見続けなきゃならないわけでしょう? それって、結構悲劇だもん」
「ああ、そうだよねえ」
「もう七十を過ぎてたわけじゃない。あたしなんか、安楽死とかはやっぱりまずいのかななんて考えちゃった」
「わっ、やばーい」
「ここだけの話よ」
「わかってるよ、もちろん」二人はくすくす笑っていた。
紙コップに入ったコーヒーを手に、一成はその場を離れた。会場に戻り、受付カウンターにコップを置いた。
浜本夏美の言葉が耳に残っている。安楽死。
まさか、と心の中で呟いた。ありえないと思った。そう思いながら、その不吉な可能性について、頭の中で検討を始めていた。
いくつかの話が思い出される。まず浜本夏美が大阪に呼ばれた直後に唐沢礼子が亡くなったということ。しかも夜二人で一緒にいる時に、病院から連絡があったということ。
雪穂にはアリバイがある、ともいえる。だが同時に、浜本夏美を呼んだのはアリバイ作りのためではないか、と疑うこともできる。自分は完璧なアリバイを作っておいて、その間に誰かが病院に忍び込み、唐沢礼子の生命を維持している装置類に何らかの細工をするというわけだ。
ひねくれた推理ではある。邪推ともいえるものだ。しかしこの考えを捨てきれないのは、笹垣刑事から聞かされた名前が頭に残っているからだ。
桐原亮司――。
夜中、雪穂の部屋から声が聞こえてきたと浜本夏美はいっていた。泣いていたのだろうと彼女はいったが、本当にそうだったのか。『実行犯』と連絡をとっていたのではなかったのか。
コーヒーカップを手に、一成は雪穂を見た。彼女は初老の夫婦の相手をしているところだった。老夫婦が何かいうたび、彼女は感じ入ったように頷いていた。
午後十時を過ぎる頃には、弔問客の姿はすっかりなくなっていた。大方の知り合いは、明日の葬儀に来るつもりなのだろう。
雪穂は二人の部下に、今夜はホテルに戻るよう指示した。
「社長はどうされるんですか」浜本夏美が訊いた。
「あたしは今夜はここで泊まる。だって通夜というのはそういうものだから」
たしかに会場のすぐ脇に、喪主たちの泊まれる部屋もあるのだった。
「お一人で大丈夫ですか」
「大丈夫よ。どうも御苦労様」
お疲れ様、といって雪穂の部下たちは帰っていった。
二人きりになると、空気が濃度を増したような気がした。一成は腕時計を見た。では自分もそろそろ、と切りだそうとした。
だがその前に雪穂がいった。「お茶でも飲みません? まだ少しいいんでしょう?」
「ああ、まあ、悪くはないけど」
「じゃあ」といって彼女は先に歩きだした。
部屋は和室だった。旅館の一室という感じがする。座卓の上にポットと湯飲みのセットが置いてあった。雪穂が茶を淹《い》れてくれた。
「何だか不思議です。篠塚さんとこうしていると」
「不思議だな」
「合宿を思い出しますね。コンクール前の合宿」
「うん。そういえば、そうだ」
少しでもいい成績を残そうと、大会直前になって合同合宿したのだった。
「あの頃よくみんなでいってたんですよ。永明大の人たちが夜中に襲ってきたらどうしようって。もちろん冗談ですけど」
一成は茶を啜り、笑った。
「たしかにそういう企みを口にしていた奴等はいたよ。実行に移したという話は聞かなかったけどね。でも」といって彼女を見た。「君を襲う計画は聞かなかったな。何しろ、あの時すでに君は高宮と付き合っていたから」
雪穂は微笑んで俯いた。
「誠さんからあたしのこと、いろいろとお聞きになったんでしょうね」
「いや、それほどは……」
「いいんです。わかっています。やっぱり、あたしにもいろいろと問題があったのだと思います。だから誠さんも、ほかの人に気持ちが移ってしまったんだと思います」
「奴は、自分が一方的に悪かったといってたよ」
「そうでしょうか」
「あいつはそういってた。もちろん、二人のことは二人にしかわからないんだろうけどさ」一成は掌の中で湯飲み茶碗を弄んだ。
雪穂が吐息をふっとついた。「あたし、わからないんです」
一成は顔を上げた。「何が?」
「愛し方です」彼女はじっと彼の目を見つめてきた。「男の人をどう愛すればいいのか、よくわからないんです」
「そんなものに決まった方法なんかないよ。たぶん」一成は目をそらし、茶碗を口に運んだ。だが中身は殆ど入っていなかった。
しばらく二人とも黙り込んだ。空気がさらに重くなったようだ。一成は息苦しさを覚えた。
「帰るよ」彼は立ち上がった。
「お引き留めしてすみませんでした」と彼女はいった。
一成は靴を履いてから、改めて彼女のほうを振り返った。
「じゃあ、明日、また来るから」
「よろしくお願いします」
彼はドアノブに手をかけた。それを回そうとした。ところがその直前、背後に気配を感じた。
雪穂がすぐ後ろに立っていることは、振り向かなくともわかった。彼女の細い手が、彼の背中に触れた。
「怖いんです。本当は」と彼女はいった。「一人になるのが、とても怖いんです」
心が激しく揺さぶられているのを一成は自覚した。このまま彼女のほうを向いてしまいたいという衝動が、波のように押し寄せてくる。しかし警告灯が黄色から赤色に変わったことにも気づいていた。今、彼女の目を見れば、その魔力に負けるに違いない。
一成はドアを開けた。そして前を向いたままいった。「おやすみ」
それが呪縛《じゅばく》を解く呪文であったように、彼女の気配がふっと消えた。次には彼女の、先程までと変わらぬ冷静な声が聞こえた。「おやすみなさい」
一成は足を踏み出した。部屋を出ると、背後でドアの閉まる音がした。そこでようやく彼は振り返った。
がちゃり、と鍵のかかる音もした。
完全に閉じられたドアを一成は見つめた。そのドアを見て、彼は心で呟いた。
君は本当に『一人』なのか――。
一成は歩きだした。夜の廊下に靴音が響いた。