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赤い指(04)

时间: 2017-02-02    进入日语论坛
核心提示:(04)  暗い回想をしている間に電車は駅に到着した。昭夫は乗客の波に押されるようにしてホームに出た。 駅の階段を下りると
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(04)
 
 暗い回想をしている間に電車は駅に到着した。昭夫は乗客の波に押されるようにしてホームに出た。
 駅の階段を下りると、バスの停留所には長い列がいくつも出来ていた。彼はその中の一つに並ぼうとして足を止めた。すぐ横のスーパーマーケットの前で、くず餅《もち》の特売を行っていたからだ。政恵の好物だった。
「いかがですか」売り子の若い女性がにこやかに声をかけてきた。
 昭夫は上着の内ポケットに手を入れ、財布を掴んだ。しかし同時に八重子の不機嫌そうな顔も浮かんだ。家でどんなトラブルが起きたのかは不明だ。そんな時に政恵の好物を持ち帰って、火に油を注ぐようなことにでもなったら目も当てられない。
「いや、今日はやめておくよ」詫びるようにいい、その場を離れた。
 すると彼と入れ替わるように、三十歳ぐらいの男がくず餅の売り子に近づいた。
「すみません、ピンク色のトレーナーを着た女の子を見ませんでしたか。七歳なんですけど」
 奇妙な質問に、昭夫は立ち止まって振り返った。男性は写真を売り子に見せている。
「これぐらいの身長で、髪は肩ぐらいまでです」
 売り子の女性は首を捻った。
「女の子が一人なんですよね」
「そのはずです」
「じゃあ、見なかったと思います。すみません」
 男性は失望した様子で礼を述べると、そこから離れた。そしてスーパーマーケットのほうへ歩いていった。同様の質問を繰り返すつもりなのだろう。
 迷子らしいな、と昭夫は察した。七歳の女の子が、この時間になっても家に帰らないのなら、心配して駅まで探しにくるのも当然だろう。あの男性はこの近くに住んでいるに違いない。
 ようやくバスが来た。列に従って昭夫も乗り込んだ。バスも混み合っていた。どうにか吊革を確保した時には、先程の男性のことは忘れていた。
 バス停まで約十分間バスに揺られ、昭夫はそこからさらに五分ほど歩いた。一方通行の道が碁盤の目のように走っている住宅地だ。バブル景気の頃は、三十坪程度の家が一億円の値をつけた。あの時に何とか両親を説得して家を売っておけば、と今でもまだ悔いている。一億円あれば、介護サービス付きの老人用マンションに二人を入れることができた。残った金を頭金にすれば、昭夫たちも念願のマイホームを手に入れられたかもしれない。そうしていれば、今のような状況にはならなかっただろう。もはやどうしようもないとわかりつつ、考えずにはいられなかった。
 昭夫が売りそびれた家の門灯は消えていた。錆《さび》の浮いた門扉《もんぴ 》を押し開き、玄関のドアノブを捻った。だが鍵がかかっている。珍しいこともあるものだと思いながら、自分の鍵を取り出した。戸締まりにはいつもうるさくいうのだが、八重子がきちんと施錠していることはめったにない。
 家の中はやけに暗かった。廊下の明かりが消えているからだ。一体何をしてるんだ、と昭夫は思った。人の気配がまるでなかった。
 靴を脱いでいると、すぐそばの襖《ふすま》がすっと開いた。ぎくりとして彼は顔を上げた。
 八重子が緩慢な動作で出てきた。黒のニットを着て、デニムのパンツを穿《は》いている。家にいる時、彼女はめったにスカートを穿かない。
「遅かったのね」けだるいような口調で彼女はいった。
「電話の後、すぐに会社を出たんだけど──」そこまでいったところで声を途切れさせた。八重子の顔を見たからだ。顔色が悪く、目が充血している。その目の下には隈《くま》が出来ており、急に老け込んだように見えた。
「何があったんだ」
 だが八重子はすぐには答えず、ため息を一つついた。乱れた髪をかきあげ、頭痛を抑えるように額に手をあててから、向かいのダイニングルームを指差した。「あっちよ」
「あっちって……」
 八重子がダイニングルームのドアを開けた。そこも真っ暗だった。
 かすかに異臭が漂っている。キッチンの換気扇が回っているのはそのせいだろう。臭いの原因を尋ねる前に、昭夫は手探りで明かりのスイッチを入れようとした。
「点《つ》けないでっ」小声だが厳しい口調で八重子がいった。昭夫はあわてて手を引っこめた。
「どうしたんだ」
「庭を……庭を見て」
「庭?」
 昭夫は鞄をそばの椅子に置き、庭に面したガラス戸に近づいていった。カーテンがぴったりと閉じられている。彼はおそるおそるカーテンを開けた。
 庭は形だけのものだった。一応芝生を敷いてあり、植え込みなどもあるが、二坪ちょっとというところだ。むしろ裏庭のほうに面積を取ってある。そちらが南になるからだ。
 昭夫は目を凝《こ》らした。ブロック塀《べい》の手前に黒いビニール袋が見える。変だなと思った。今では黒いビニール袋をゴミ捨てに使うことはない。
「なんだ、あの袋は」
 彼が訊くと、八重子はテーブルの上から何か取り上げ、無言で彼のほうに差し出した。
 それは懐中電灯だった。
 昭夫は八重子の顔を見た。彼女は目をそらした。
 彼は首を傾げ、ガラス戸のクレセント錠を外した。戸を開け、懐中電灯のスイッチを入れる。
 照らしてみると、何かの上に黒いビニール袋をかぶせてあるだけのようだった。彼は腰を屈《かが》め、その下にあるものを覗《のぞ》き込んだ。
 白い靴下を履《は》いた、小さな片足が見えた。もう一方の足は、同じように小さな運動靴を履いていた。
 何秒間か、昭夫の頭は空白になっていた。いや、それほど長い時間ではなかったかもしれない。とにかく彼は、そこにそんなものがあることの意味を咄嵯《とっさ 》には理解できなかった。小さな足に見えるそれが、実際に人間の足なのかどうかということも、確信が持てないでいた。
 昭夫はゆっくりと振り返った。八重子と目が合った。
「あれは……何だ」声がかすれた。
 八重子は唇を舐《な》めた。口紅はすっかり剥《は》げ落ちている。
「どこかの……女の子」
「知らない子か」
「そう」
「どうしてあんなところに?」
 答えず、八重子は目を伏せた。
 昭夫は決定的なことを訊かねばならなかった。
「生きてるのか」
 八重子が頷《うなず》くことを願った。だが彼女は無表情のまま、ぴくりとも動かない。
 全身が一瞬にして熱くなるのを昭夫は感じた。そのくせ手足は氷のように冷たい。
「どういうことだ」
「わからない。あたしが帰ってきたら、庭に倒れてたのよ。それで、人目についちゃいけないと思って……」
「ビニール袋をかけたのか」
「そうよ」
「警察には?」
「知らせるわけないでしょ」
 反抗的ともいえる目で見返してきた。
「だけど、死んでるんだろ」
「だから……」彼女は唇を噛《か》んで横を向いた。苦痛そうに顔を歪めている。
 突然、昭夫は事態を理解した。妻の憔悴《しょうすい》の理由も、「人目についちゃいけないと思って」の意味も判明した。
「直巳は?」昭夫は訊いた。「直巳はどこにいる」
「部屋にいるわ」
「呼んでこい」
「それが、出てこないのよ」
 目の前が絶望的に暗くなった。少女の死体と息子は、やはり無関係ではないのだ。
「何か訊いたのか」
「部屋の外から少し……」
「どうして部屋に入っていかない?」
 だって、といって八重子は上目遺いに昭夫を見た。恨めしそうな色がある。
「まあいい。何といって訊いたんだ」
「あの女の子は何って……」
「あいつ、何といってる?」
「うるさいって。どうでもいいだろって」
 直巳がいいそうなことではある。その時の声の感じまで昭夫には想像できた。しかし、こんな状況でもそんな物言いしかできないのかと思うと、あれが自分の息子とは信じたくない気分だった。
「寒い……閉めてもいい?」八重子はガラス戸に手をかけた。庭のほうを見ないようにしているようだ。
「本当に死んでるのか」
 八重子は黙ったまま頷いた。
「たしかか? 気を失ってるだけじゃないのか」
「もう何時間も経ってるのよ」
「だけど」
「あたしだって、そう思いたかったわよ」絞り出すような声で彼女はいった。「でも、一目見て、わかったんだもの。あなただって、すぐにわかったわよ」
「どんなふうだった」
「どんなふうって……」八重子は額に手を当て、その場にしゃがみこんだ。「この床が、おしっこで汚れてた。あの女の子が漏らしたみたい。女の子は目を開けたままで……」それ以上は続けられないらしい。嗚咽《お えつ》が漏れた。
 異臭の理由を昭夫は悟った。たぶん女の子は、この部屋で死んだのだ。
「血は出てなかったか」
 八重子は首を振った。「出てなかったと思う」
「本当か。血は出ていなくても、どこかに傷とかはなかったか。転んで頭を打ったような形跡とか」
 事故であってほしいと彼は願っていた。だが八重子は再びかぶりを振った。
「そういうのは気がつかなかった。でも、たぶん……首を絞めたんじゃないかしら」
 胸に鈍痛が走るほど、心臓が大きく跳《は》ねた。昭夫は唾《つば》を飲み込もうとしたが、口の中は乾いていた。首を絞めた? 誰が? ──。
「どうしてわかる?」
「何となく……よ。首を絞められた死体は、おしっことかを漏らしてることがあるって聞いたことがあるし」
 それは昭夫も知っていた。テレビドラマで見たか、小説で読んだかしたのだろう。
 懐中電灯が点けっ放しになっていた。彼はスイッチを切り、テーブルに置いた。そのままドアに向かった。
「どこへ行くの?」
「二階だ」
 決まってるだろう、という言葉は飲み込んだ。
 一旦廊下に出て、古い階段を上がっていった。階段の明かりも点いていない。しかし昭夫はスイッチを入れる気にはなれなかった。暗闇の中で、息をひそめていたかった。先程、明かりを点けるなと叫んだ八重子の気持ちが、よくわかる。
 階段を上がって左側が直巳の部屋だった。ドアの隙間《すきま 》から明かりが漏れている。近づくと、何やら賑《にぎ》やかな音が聞こえてきた。昭夫はドアをノックした。返事はなかった。彼は一瞬ためらった後、ドアを開いた。
 直巳は部屋の中央で胡座《あぐら》をかいていた。まだ大人になりきらない身体は、手足が異様に細長い。両手で持っているのはゲーム機のコントローラだ。彼の目は一メートルほど前にあるテレビ画面に向いたままだった。父親が入ってきたことにさえ気づいていないように見えた。
「おい」昭夫は中学三年の息子を見下ろして呼びかけた。
 だが直已は反応しなかった。指先だけが細かく動いている。画面ではコンピュータによって作られたリアルな登場人物たちが殺戮《さつりく》を繰り返していた。
「なおみっ」
 昭夫が強い口調で呼ぶと、ようやく彼は首をほんの少し捻った。舌打ちをする気配がある。うるせえな、と呟いたようだ。
「あの子供は一体何だ」
 直巳は答えない。苛立ったように指だけを動かしている。
「おまえがやったのか」
 直巳の唇の端が、引きつるように動いた。
「わざとやったんじゃねえよ」
「当たり前だ。どうしてあんなことになったんだ」
「うるせえなあ、知らねえよ」
「知らないなんてことがあるか。おい、ちゃんと答えろ。あの子はどこの子だ。どこから連れてきた」
 直巳の息が荒くなった。だがやはり何も答えようとはしなかった。目を見開き、必死でゲームにのめり込もうとしている。厄介な現実から逃げたがっているようだ。
 昭夫は立ち尽くしたまま、一人息子の茶色い頭を見下ろしていた。テレビモニターからは派手な効果音や音楽が流れてくる。キャラクターたちの悲鳴や怒声も混じっている。
 息子の手からコントローラを奪いたかった。テレビの電源を切ってしまいたかった。だがこんな時でも昭夫にはそれができなかった。前に一度、そういうことをしたら、直巳が半狂乱になって家中のものを壊したことを覚えているからだ。力ずくで組み伏せようとしたら、逆にビール瓶で殴りかかってきた。ビール瓶は昭夫の左肩に振り下ろされた。おかげで約二週間、彼は左腕を使えなかった。
 昭夫は息子のベッドの横を見た。DVDやマンガ雑誌が山積みされている。あどけない顔の少女が淫《みだ》らな格好をしている表紙が見えた。
 背後で物音がした。振り返ると八重子が廊下から顔を出していた。
「直君、おかあさんたちに話をしてちょうだい。お願いだから」
 媚《こ》びたような調子。何が「直君」だ、と昭夫は苛立った。
 直巳が何もいわないので、八重子は部屋に入ってきて、彼の後ろに座った。右肩に手を置く。
「ね、お願いだから、わけを聞かせて。ゲームはそれぐらいにして」
 彼女は息子の肩を軽く揺すった。その途端、モニターに何かが破裂するような画面が出た。ああ、と直巳は声をあげた。ゲームオーバーのようだ。
「何すんだよっ」
「直巳っ、いい加減にしろ。何が起きたかわかってるのか」
 思わず昭夫が怒鳴ると、直巳は手にしていたコントローラを床に放り出した。口元を曲げ、父親を睨みつけてくる。
「あっ、やめなさい。あなたも、そんな、大きな声を出さないで」八重子は直巳をなだめるように両肩に手を置き、昭夫のほうを見上げた。
「説明しろといってるんだ。あのままにしておいて済むと思ってるのか」
「うるせえよ、関係ねえだろ」
 ほかに言葉を知らないのか、と昭夫は興奮した頭の片隅で考えていた。とんでもないばかだ。
「わかった。じゃあ、何もいわなくていい。警察に行こう」
 彼の言葉に母と息子は同時に固まった。
 八重子が目を剥いた。「あなた……」
「だって仕方がないだろう」
「ふざけんなよ」直巳が暴れ出した。「なんで俺がそんなとこ行かなきゃいけねえんだよ。行かねえぞ、俺は」そばにあったテレビのリモコンを掴み、昭夫に向かって投げつけた。昭夫がよけると、リモコンは壁に当たって落ちた。その拍子に中の電池が飛び出し、散らばった。
「あっ、あっ、直君、落ち着いて、お願い、おとなしくして」八重子は抱きつくようにして直巳の手を押さえた。「行かなくていいから。警察なんか、行かなくていいから」
「何をいってる。そんなわけにいかんだろう。適当なことをいって、今だけこいつをなだめても無意味だぞ。どうせいずれは──」
「あなたは黙っててっ」八重子は叫んだ。「とにかく出ていって。あたしが訊くから。ちゃんと訊くから」
「俺は未成年なんだからな。未成年のやったことは親に責任があるんだからな。俺は知らねえからな」
 母親の身体に守られた状態で、直巳は喚《わめ》き、昭夫を睨んでいた。その顔に反省や後悔の色など微塵もない。どんな時でも自分は悪くなく、すべての責任は周りの人間にあるのだと甘え続けてきた顔だ。
 これ以上何かいっても、直巳が心を開くとは思えなかった。
「しっかり聞き出すんだぞ」それだけいって昭夫は部屋を出た。
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