首を左右に振ると、ぽきぽきと音がした。同じ姿勢を続けすぎたからだ。
藤本孝夫は、ぴくりとも動かない浮きを見て、すぐ横で大欠伸《おおあくび》をしている山辺昭彦を睨んだ。
「おい、山辺。おまえやっぱ、かつがれたんだよ。こんなところで鯉が釣れるわけないだろう」
すると山辺は、先程から全く変化のない水面に目を向けたまま、首を傾げた。
「おかしいなあ。だけど斉藤の家で見たんだぜ。水槽の中に、ここで釣ったっていう鯉がいたんだけどな」
「だからそれは別の場所で釣ってきた鯉だよ。斉藤の奴に騙《だま》されたんだ」
「そうかなあ」山辺は依然として首を傾げたままだ。
二人は中学の同級生だった。家が近いので、小さい頃から一緒に遊んでいたが、特に釣りを共通の趣味にしていた。二人とも、父親の影響を受けてのことだった。
町から自転車で二十分ほど走ったところにある、自然公園のひょうたん池で鯉が釣れるという話を仕入れてきたのは山辺のほうだ。一年の時の同級生だった斉藤浩二が、そういっていたというのだ。
「嘘だろ、あんなところに鯉なんかいるわけないだろ」というのが、藤本孝夫のその時の感想だった。
「それがさあ、昔あそこで養殖しようとした奴がいるらしいんだよ。その時の生き残りっていうか、子孫っていうか、とにかくそういうのが何匹かいるって話なんだ。いつもはめったにかからないけど、秋になると冬に備えて荒食いするから、ポイントさえ選べば釣れるっていうんだよな」
これが山辺の説明だった。
それでもやはり眉唾《まゆつば》ものだったが、全くありえない話でもなかったし、釣りも久しくしていないということで、日曜日に待ち合わせて、このひょうたん池までやってきたというわけだった。
だが結果は藤本孝夫の予想通りだった。鯉はおろか、魚らしきものの泳いでいる気配がなかった。
この池じゃあ当然だよな、と孝夫は前を見てため息をつく。悲惨としかいいようのない状況が、そこにはあった。
池の大きさは、彼等の学校にあるプールぐらいだった。やや細長く、中央部がくびれているのが、ひょうたん池の名前の由来である。周囲が雑草に囲まれ、自然公園のハイキングコースから外れていることもあり、地元の人間でも、この池の存在を知らない者は多い。昔はここにアメンボやミズスマシがいたといわれているが、現在の状態からは想像もできないことだ。
一見してまず目につくのは、発泡スチロール、プラスチック容器といったゴミである。それが水面上にいくつも浮かび、それらを包むように灰色をした油の膜がいたるところで広がっている。そして建築資材の廃材や機械部品と思われる金属物までもが、池の縁に投げ込まれていた。
コースから寄り道したハイカーたちにとっては、もはや巨大なゴミ箱にすぎず、どこかのもっと悪質な人間たちにとっては、便利な粗大ゴミ投棄所なのだろうと藤本は思った。
藤本孝夫は釣り糸を手繰《たぐ》りよせ、竿を片づけ始めた。
「だめだ。もう帰ろうぜ」
「だめかなあ、やっぱり」山辺はまだ未練があるようだ。
「いるわけねえじゃん。時間の無駄だよ。こんなことしてるぐらいなら、家でゲームでもしてるほうがましだ」
「それもそうかな」
「そうだよ。帰るぜ」藤本は荷物をまとめると立ち上がった。
「騙されたのかなあ」
「騙されたんだよ。決まってるだろ」
それでも山辺は唸りながら池のほうを見ている。馬鹿じゃないか、と藤本は口の中で罵《ののし》った。
その時だった。
「あれ?」山辺が、それまでとは違った口調でいった。「なんだろ、あれ」
「なんだ?」
「あれだよ。ほら、あそこで光ってるやつ。右のほうで浮いてるじゃないか」
山辺の指すほうに藤本は目を向けた。三十センチぐらいの大きさの平たいものが、太陽の光を反射しながら水面を漂っているのが見えた。
「鍋か何かじゃないのか」と藤本はいった。「コンビニで売ってる鍋焼きうどんの容器とかさ。別に大したもんじゃないよ」
「そうかなあ。あれ、ちょっと、変なものに見えるんだけどな」山辺は腰を上げ、ジーンズの尻についた土をぽんぽんとはたきながら、池の縁に沿って歩きだした。手には竿を持ったままだ。
藤本も、うんざりした顔つきであとを追った。騙されて、こんなところまで友人を付き合わせたことに対する照れ隠しで、おかしなことをいいだしたのだろうと思っていた。
その奇妙なものに最接近したところで山辺は足を止めた。それは池の縁から二メートルほどのところに、牛乳の紙パック容器と並んで浮かんでいる。
山辺は竿を使い、それを手前に引き寄せ始めた。やがて手が届くところまで近づくと、それがどういうものであるか、藤本にもわかってきた。
「何だ、それ……」
「やっぱりコンビニのアルミ鍋なんかじゃなかっただろ」そういいながら山辺は、その奇妙なものを取り上げた。