電話をかけてきたのが、坂上ハイツの住人だとわかった時、加藤敏夫はちょっといやな予感がした。築十年のそのアパートは、安普請《やすぶしん》でしかもプライベートを重視した作りにはなっていないので、入居者同士のトラブルが絶えなかった。独身者が多いことも、その原因の一つだ。東京都がゴミ回収の新しい条例を作ってから何年にもなるというのに、彼等の中には全くルールを守らない者も少なくなかった。
そして加藤の予感通り、それは苦情の電話だった。一階に住んでいる主婦だが、上のベランダからしずくが落ちてきて困るという。せっかく洗濯したシーツをどうしてくれるのかと、加藤にくってかかる始末だった。
「ええと、上は藤川さんですよね。いらっしゃらないんですか」
「いないからこうして電話してるんでしょ。すぐに何とかしてよ」主婦はヒステリックに喚いた。
「はいはい。ええと、すぐに行きます」
電話を切り、加藤は顔をしかめたまま坂上ハイツの鍵を探した。藤川雄一も独身者だった。しかしこれまでに問題を起こしたことは一度もない。賃貸契約を結ぶ時に顔を合わせたきりだが、無口で、物静かな青年だという印象があった。
加藤はほかの者に店を任せ、ライトバンで出かけた。加藤不動産は、彼の父親が始めた店だった。
三鷹駅から徒歩七分、美築、というのが坂上ハイツの謳《うた》い文句だった。徒歩七分のほうに嘘はないが、灰色に変色した壁を見ると、美築という表現には抵抗があった。幹線道路が近いので、排気ガスの影響で黒くなるのだ。
ベランダのほうに回り、問題の箇所を確かめた。すぐに原因がわかった。藤川の部屋で使っているエアコンのホースが、途中で外れてしまったため、水が垂れているのだ。階下の主婦によると藤川は留守のようだが、エアコンの室外機は動いている。止め忘れたか、暑いので、わざとつけっぱなしにして会社へ行ったかのどちらかだろうと加藤は思った。
いずれにしてもこのままにはできなかった。加藤は合鍵を出しながら、階段を上がった。
藤川の部屋は二〇三号室だ。そのドアの郵便受けに、新聞が二、三日分差し込んであった。ということは、出張か旅行に出たのか。エアコンは止め忘れたと考えるのが妥当のようだった。
合鍵でドアの錠を外した。その瞬間、嫌な予感を彼は抱いた。
部屋は1DKで、玄関から入ってすぐ左に流し台がある。奥には五畳ほどの洋室があるが、ダイニングとの境の引き戸が閉まっており、中を見通すことはできなかった。
加藤は靴を脱ぎ、室内に上がり込んだ。何が自分をこれほど嫌な気分にさせているのか、彼にはわからなかった。
その正体を知るのは、彼が引き戸を開けようとする直前だった。それは臭気だった。何ともいえぬ不快な臭いが、戸の隙間から漂い出ていた。
これはもしや、と思った時には、彼の手は引き戸を開けていた。
部屋の真ん中で、人間が俯《うつぶ》せになって倒れていた。トランクスにTシャツという格好だった。その白いTシャツには、黒い地図のような模様が描かれていた。よく見るとそれは、割れた頭から流れ出た血液だった。
二秒後、加藤は大きく後ずさりし、ダイニングの中央に尻餅をついた。