梅里尚彦と会った日の翌日、草薙は再び帝都大理工学部を訪れた。彼はこの大学の社会学部を出ていたが、今ではこの全く畑違いの学舎のほうに馴染みを感じるようになっていた。
建物の前まで来た時、例の駐車場のほうに目を向けて、彼は足を止めた。そこに湯川学の姿があったからだ。湯川は一台のベンツのそばで、立ったり、屈んだりしていた。
「おい」と草薙は声をかけた。
湯川は一瞬ぎくりとしたようだが、声の主を知って安堵した顔をした。
「なんだ、草薙か」
「つまらん相手で悪かったな。何してるんだ?」
「いや、大したことじゃない」湯川は立ち上がった。「横森教授の車を見ていたところだ」
「ああ、これがそうか」グレーの車体を見下ろして草薙は頷いた。「たしかに新車のようだな。ぴかぴかしてる」
「藤川が横森教授の車はどれかと訊いていたという話だったから、何か異状がないかたしかめてたところだ」
「なるほど」湯川のいいたいことを草薙は理解した。「爆発物が仕掛けられてるかもしれないというわけだ」
「いや、僕としては特に根拠があるわけじゃないんだが、君からあの話を聞いたんでね」
「藤川が例の爆発事件の犯人じゃないか、という話だな」
藤川雄一があの日湘南海岸に行っていたらしいことは、すでに湯川に話してあった。
「あれから進展はあったのかい?」と湯川は訊いた。
「昨日、被害者の旦那に会ってきた。やっぱり藤川が犯人の可能性は高いぜ」
草薙は梅里尚彦から訊きだしたことを、かいつまんで湯川に話した。
「問題は、被害者と藤川の関係だな」湯川はいった。
「そういうことだ。ところで、例の件については調べてくれたか」
「例の件?」
「忘れたのか。藤川の持っている技術で、ああいう爆発を起こせるかどうか、検討しておいてくれと頼んだじゃないか」
「ああ、そのことか」湯川は顎をこすり、遠くに視線を向けた。「すまん。いろいろと忙しくて、後回しになってしまった。これから検討する」
「そうか。悪いけど、頼むよ」いいながら草薙は、妙な違和感を覚えていた。この湯川が、相手の目を見ないでしゃべることは珍しかった。
湯川の横顔を眺めているうちに、彼はあることに気づいた。
「おまえ、少し日焼けしてないか。海にでも行ってきたみたいだぜ」
「えっ、そうか」湯川は自分の頬に手を当てた。「そんなはずはないんだけどな。光線の具合だろう」
「そうかなあ」
「海に行ってる暇なんかないよ。とにかく中に入ろう」
湯川が建物に向かって歩きだしたので、草薙もそれに続いた。
その時、背後でクラクションが鳴った。振り返ると、濃紺のBMWが駐車場に入ってくるところだった。
湯川が笑顔で車に近づいていった。彼の見守る中、BMWは駐車を果たした。
運転席から小柄な初老の男が降りてきた。姿勢がいいので、体格のわりに堂々として見える。
「木島先生、国際会議はどうでした?」湯川が訊いた。
「まあ、いつもと似たりよったりだよ。久しぶりに、あっちの連中に会えたのはよかったがね」
「前夜祭と三日続けての会議じゃ、お疲れになったでしょう」
「まあねえ。あれはちょっと長すぎるな。もうちょっとスリムにする必要がある」
湯川と木島が歩きだしたので、草薙はその後に続いた。
「木島先生がいらっしゃらなかったので、エネ研の連中は少し寂しそうでしたよ」
「どうせ、羽根を伸ばしておったんだろうな。そのくせ、しょっちゅうホテルに電話をかけてくるんで、面倒でかなわなかった」
「何か急用でも?」
「いやあ、大した用なんか殆どないんだ。天気のことばかり尋ねてきて、慣れない土地だから、雨の日は運転は控えたほうがいいとかいってくる。まるで老人扱いだ。大きなお世話ってもんだよ」
「誰ですか、そんな電話をしてきたのは」
「若い奴だよ。困ったもんだ」それでも木島は上機嫌だった。
草薙は二人がエレベータを使うとばかり思ったが、どちらも何もいわず、階段を上がり始めた。木島の足どりは、推定年齢六十歳の外観に反して、じつにしっかりしていた。
途中で木島と別れ、湯川と草薙は物理学科第十三研究室に入った。
「理工学部のドンだよ」と湯川はいった。木島教授のことらしい。「量子力学の親分といわれたこともある。今では、エネルギー工学科のボスだけどね。ちょっと向学心のある学生なら、大抵はあの人の指導を受けたいと思うようになる」
「すごいもんだな」
「最も適切な表現は」湯川はいった。「理工学部の長嶋茂雄だ」
「なるほど」草薙は笑って頷いた。たしかによくわかる表現だった。「ずいぶん慕われてるんだなあと思ったよ。雨の日は運転を控えたほうがいいですよ、か」
「あれはちょっとひどいな。誰だろう、電話したのは」
「新車だから雨に濡らさないようにっていう、冷やかしの意味もあるんじゃないか」
「ああ、そうか」といって頷いた直後、湯川の表情が変わった。一点を見つめ、唇を噛んでいる。
「どうした?」友人の尋常でない様子に、草薙は胸騒ぎを覚えた。
湯川が彼を見つめた。
「もしかすると……」そう呟くと、彼は白衣を翻《ひるがえ》して部屋を飛び出した。
「あっ、おい、何なんだ」草薙も後を追った。
湯川は廊下を走り、階段を駆け下りた。日頃バドミントンで鍛えているだけに、学者とは思えぬ敏捷さだった。草薙のほうが息が上がりそうだった。
湯川は建物を出ると、駐車場に向かった。そして先程木島が停めたBMWのそばまで行って、ようやく足を止めた。
少し遅れて草薙も止まった。汗がどっと噴き出した。
「一体どうしたっていうんだ。説明しろよ」
だが湯川は、すぐには答えてくれなかった。彼は車の横にしゃがみこみ、車体の裏を覗き込んでいた。
やがて彼はため息をつき、小さくかぶりを振った。
「草薙、ちょっと頼みがあるんだが」
「なんだ?」
「木島教授を呼んできてもらいたい。今すぐだ」
「教授を? 何のために?」
「それは後で説明するよ。とにかく、一分一秒を争う話だ」
「わかった。教授の部屋は?」
「四階の東端だ。くれぐれも、誰にも見つからないように連れてきてほしい」
「誰にも?」
「そうだ」湯川は眉間に深い皺を刻んでいった。「事件を解決したいなら、僕のいうとおりにしてくれ」