さて、去年の十月──あとで当時の新聞をひっぱり出して調べた所によると、十月三日の
ことであった──このキャバレーへ、ひとりの女がやって来た。年ごろは二十はたち前後
で、素敵な美人であった。──ということに衆口一致している。服装なども素晴らしいもの
で、いまどき、ああいうなりが出来るのは、よほどの新円階級であろうと、そのときキャ
バレーにいあわせた女連中を、羨うらやましがらせたそうである。
ところでここが問題なのだが、それほど満堂の注視を集めながら、さて、後になってそ
の女の事が問題になったとき、誰一人、彼女の服装を的確に証言しうる者はなかった。あ
る者は黒い毛皮の外がい套とうを着ていたというし、ある者は眼のさめるようなピンクの
外套だったという。オーヴァひとつを例にとってみても、そのとおりだから、洋服の型な
どについては意見百出であった。いや、服のみならず、顔立ちについても素晴らしい美人
であったということには一致しているものの、さてその美の型については、ほとんどひと
りひとり意見がちがっていた。
ある者は下ぶくれの、どちらかといえば近代的美人であったというし、ある者は瓜うり
実ざね顔がおの古風な美人型だったといっている。化粧などについても、毒々しいほどの
濃こい化げ粧しようだったという者があるかと思うと、別の証人は、また、ごくあっさり
とした薄化粧だったようだといっている。これは要するに人間の観察眼ほど当てにならぬ
ものはないということが、改めて立証されただけのことで、その女の正体をつかむよすが
となるような証言は何一つえられなかった。
しかも、この女には、取り巻きが三人もついていたし、その取り巻きは事件の後、警察
で厳重に取り調べられたのだが、かれらの申し立てによるところがまたすこぶる曖あい昧
まい模も糊こと来ている。もっとも、この取り巻きというのは三人とも若い学生だった
し、当時かなり酔っ払っていたので、女の服装や化粧法について、あまり多くの注意を払
う趣味も余裕もなかったのも無理ではなかったかも知れない。
さて、かれらの申し立てによるとこうである。
「ぼくたち、銀座裏のチューリップというバアで飲んでいたんです。すると、そこへあの
女が入って来たんで……はじめのうちあの女はひとりで飲んでいたんですが、そのうち、
どっちから声をかけるともなく、ひとつ合流しようじゃないかということになって、いっ
しょになって飲みはじめたんです。ええ、あの女、すごく酒が強いんです、ぐんぐんウイ
スキーを呷あおるんです。そしてみんないい加減酔っ払ったところで、あの女のほうか
ら、もっと面白いところへ連れていけっていい出したんで、それじゃ『花』へいこうとい
うことになって押し出したんです。ええ、勘定は全部あの女が払いました。いえ、合流し
てからの分ばかりじゃない、それまでわれわれ三人で、飲んでた分まで払ってくれたんで
す。何んしろもの凄すごく金を持ってたようです」
そこで取り調べにあたった係官が、しつこく念を押して訊たずねたというのは、『花』
へいこう、といい出したのは学生のほうであったか、それとも女のほうからいい出したの
ではなかったかということであった。これについて学生たちはいちようにつぎの如く証言
している。
「それはぼくたちのほうでした。どっかもっと面白いところへ行こうといい出したのはあ
の女ですが、『花』を持ち出したのはぼくたちなんです。あの女はそれまで『花』の存在
すら知らなかったようです。『花』とは何んだときくから、キャバレーだと教えてやった
くらいです。するとあの女がダンスホールは知っているが、キャバレーというのは行った
ことがないから、是非つれていけといい出したんです。だから、あの女がはじめから
『花』を目指していたとはどうしても思えません」
こうして四人の男女が『花』へやって来たのは八時ごろのことであった。女はそれまで
に十分酔っぱらっていたのが、ここへ来てまた相当呷ったので、あの事件の起こった際に
は、酔いつぶれる一歩手前の状態だったらしい。
ところがそこへ入って来たのが、佝僂画家の蜂はち屋や小市であった。蜂屋小市もかな
り酔っぱらっていたが、しかし、決して慎しみを忘れるほどではなかったと、これはその
ときかれと一緒だった二人の友人が口を揃そろえて証言するところである。それに小市は
佝僂という肉体上の欠陥はあるにしても、それ以外かれの外がい貌ぼうには、特別にひと
の悪お感かんをそそるようなところもなかった。佝僂とはいえ、小市はなかなかの美男子
である。それに身だしなみのいい男で、いつも白いカラーに黒い紐ひもネクタイをしめて
いる。ズボンの折目もちゃんと筋が立っているし靴もピカピカ光っている。蜂屋小市は相
当の金持ちの上になかなかお洒しや落れなのである。
ところが、小市と二人の友人が、笑いさんざめきながらキャバレーの入口から、入って
来るのを見た刹せつ那な、女の顔色がさっと変わった。──と、これはあとから、その時の
ことを思い出して、三人の学生が申し立てたところなのだが、とにかく小市の姿を見た刹
那、女は非常なショックをうけたらしい。一瞬、酒の酔いもさめたように大きく眼をみは
り、わなわなと唇をふるわせていたが、急にすっくと立ち上がると、泳ぐような恰かつ好
こうでふらふらと小市のほうへちかづいていったかと思うと、
「畜生ッ、畜生ッ、とうとうやって来たのね」
その刹那、女のハンドバッグから火をふいて、小市は骨を抜かれたように、クタクタと
キャバレーの床に倒れたのである。