古神家の一族
さて、ここで一言読者諸君に申し上げておくが、私がこれからお話ししようとするのは
実に凄せい惨さんを極めた一連の殺人事件なのである。いまどきこんな事をいうと、読者
諸君にわらわれるかも知れないが、まったくそれこそ、昔の草くさ双ぞう紙しにでもある
ような、妖あやしい悪夢にみちた、妖よう異いと邪じや智ちの殺人事件で、そこには血統
の呪のろいというような古めかしい匂においさえ感じられるくらいである。
それほど異様な事件なのだから、よってもって由来するところも、遠く、深く、かつ複
雑であった。憎悪、貪どん欲よく、不倫、迷信、嫉しつ妬とと、あらゆるドス黒い要素
が、執念ぶかくからみあい、もつれあいながら、それでも辛かろうじて平衡を保っていた
のが、ついに保ちきれなくなって爆発したのが世にも凄惨な、あの殺人事件であったと
いってもいいだろう。したがってこの事件の発端をさぐるとなると、実に複雑で遠く昔に
までさかのぼらなければならないのだが、直接の導火線となったのは何んといってもキャ
バレー『花』で起こった、あの佝僂画家の狙そ撃げき事件であった。だから、当時わけの
わからぬ事件として騒がれた、あの『花』における小事件こそ、実に古神家殺人事件の発
端であったといっても差支えないであろう。
「うむ、あの事件なら、ぼくもよく知っている、蜂屋小市とはそう親しいという間柄じゃ
ないが、まんざら識しらぬ仲でもない。げんにあの晩もぼくは銀座であの男に出会ったん
だ。あとからかんがえると、あいつが『花』へいく直前だったんだね」
「ふん、君に話をきいて貰もらおうというのも、その事がひとつの理由になっているん
だ。蜂屋という男の性質について君にきけばだいたいわかるだろうと思ってね」
「いや、それはどうだかわからんぜ。あいつのことはぼくもあんまり詳しいことは識らな
いんだ。ところで、蜂屋を射った女だが、そのまま逃走してしまったのだったね」
「そうだ、それ以来杳ようとして消息がわからない。完全に姿を消してしまったのだ」
直記の調子があまり沈んでいたので、私ははっと思い当たるところがあってその顔を見
直した。
蜂屋を狙撃した女は、そのまま身をひるがえしてキャバレーから跳とび出したのであ
る。何しろあまり咄とつ嗟さの出来事ですぐそばに立っていた蜂屋の友人でさえ、いった
い何事が起こったのか、合点がいくまでには相当ひまがかかったというから、誰ひとり彼
女をとめようとする才覚のうかばなかったのも無理ではない。そして、それきり女の正体
はいまにいたるまでわかっていないのである。
何しろ三人の取り巻きも、その晩はじめてチューリップで出会っただけのことで、酔い
にまぎれて名前もきいていなかった。チューリップでも、はじめての客だから、どこの何
者ともわからないといっている。『花』にいあわせた客のなかにも、誰ひとりその女を見
識っているものはいなかった。
しかも、ここがこの事件のもっとも奇怪な点なのだが、射たれた当人の蜂屋小市でさえ
が、全然その女を識らぬといっているのである。女の狙ねらいがひくかったので蜂屋は幸
い太ふと股ももを射抜かれただけで、生命にかかわるような傷ではなかったが、その蜂屋
もまるで狐きつねにつままれたような気持ちだといっている。
ここで、蜂屋小市という男について、自分の識っているだけのことを、述べておこう。
蜂屋は、戦後メキメキ売り出した新進画家で、自ら新思潮派と称している。かれの主張す
るところによると、対象となる実体を、いかに巧みに写したところで、それは自然の模も
倣ほう者に過ぎぬ。小説にも思想がなければならぬ。思想のない小説は戯げ作さくに過ぎ
ないが、思想のない絵も、また戯画に過ぎない。自分の絵を見てわからぬという奴がある
が、そういう連中はみずから思想の空虚を表明しているに過ぎないというのだ。