みどり御殿
古神家の現在の住居は東京都北きた多た摩ま郡ぐん小こ金がね井いにある。むろんもと
は市内の山の手に、立派なお屋敷があったのだが、このほうは戦災で焼けてしまった。し
かし、戦災をうけるまえに、かねてこのことあるを覚悟していた仙石鉄之進の采さい配は
いで、家具調度その他一切を小金井のほうに移してしまって、本宅のほうは空あき家や同
然になっていたから、家を焼かれたというものの、実際の被害は大したことはなかったと
いう話だ。
小金井のほうは先代織部の時代に建てた別荘だが、これがまた、なかなかどうして大し
たものである。敷地はなんでも、三千坪からあるという話で、邸内には大きな池がある。
いったい、この辺は井いの頭かしらや善福寺の池をつらねる、一脈の湧ゆう水すい地帯に
なっていると見えて、四六時中清せい洌れつな水が湧出し、そこに天然の池をつくってい
る。この池と池をとりまく武蔵むさし野のの自然林をたくみに取り入れて、そこに古神家
の別荘は、ひとつの妖あやしい夢幻境をかたちづくっているのである。
あやしいというのは、古神家の建築技巧が一風かわっているからである。それは古風な
江戸時代の建築法と、西洋の近代建築法とのたくみな結合であり、うちかけを着た椎しい
茸たけ髱たぼの腰元でも出て来そうな日本座敷があるかと思うと、一方ではどんな尖せん
端たん的なダンスパーティをひらいても不釣合いではない、近代的意匠をほどこした西洋
風の大広間もある。付近ではこの別荘のことを、みどり御殿とよんでいるが、みどり御殿
の名のいわれは、建物の屋根が、全部緑色瓦かわらでふかれているからで、この沈んだ色
の緑の調子が、建物全体に、落ち着きと、ずっしりとした重量感をあたえている。
しかし、こんな風に書いたものの、私はいままで一度もその御殿へ、入ったこともなけ
れば見たこともなかった。ただ、おりにふれ仙石直記の話すところから、だいたいのこと
を知っていたまでである。そのみどり御殿へはじめて私が足を踏み入れたのは前章で述べ
たような話を直記からきかされた翌日のこと、即ち三月七日のことで、実にその晩あの恐
ろしい、残虐をきわめた犯罪が行なわれたのだから、私はまるで、火取虫が灯ひのなかへ
とびこんでいくように、事件のなかへとびこんでいったも同様であった。
直記はすぐにも私をつれていきそうにいいながら、その日はウイスキーに酔いつぶれ
て、雑ぞう司しガ谷やの焼跡にたった一軒焼けのこった、古寺の中の私の部屋へ泊まって
しまった。そして翌日つれだって小金井へおもむいたのだが、私はいまでもみどり御殿へ
踏みこんだ、刹せつ那なの印象を忘れることが出来ない。というのが、一歩邸内へ踏み入
れたのっけから、どぎもを抜かれるような事態にぶつかったからだ。
みどり御殿は武蔵野の原野のなかに、長い土塀にとりかこまれてたっている。その土塀
は薄紫色をした壁で塗られていて、それがまず周囲の暗緑色のなかに、くっきりと美し
く、いくらか瀟しよう洒しやなかんじで浮きあがっている。
その土塀の一部分に大きな門がついているが、その門は昔の大名屋敷のように古風なも
のであった。しかし、この門はふだんはめったに使わぬらしく、大きな金具のついた扉が
ぴったりと重々しくしまっていた。
「向こうから入ろう」
その門のまえを通りすぎ、角を曲がると、間もなく鉄格子のついた小さな門が現われ
た。この門を入るとなかにまた内塀があり、これにもまた鉄の門がついている。この門を
入った刹那なのである。私たちがあの怒号と悲鳴をきいたのは──それはまるで、われわれ
の到着をまって、いよいよこの大惨劇の序幕を切って落としたようなものであった。
「何んだ、ありゃア……」
門のなかへ入った刹那、私たちは一瞬そこに立ちすくんでしまった。
あらあらしい怒号は、まるで猛たけりくるッた野獣の叫びのようであった。それにま
じって女の悲鳴と、それからもうひとつ、何んともいえぬ毒々しいわらい声がおりおりま
ざった。
「ありゃア……蜂屋だ。あいつ、何を……」
いきなり直記が走り出したので、私もそのあとにつづいた。建物の角を曲がると、そこ
に広い庭がひろがっている。この庭は古風な日本式の造庭術に、多分に洋風を加味したも
ので、そこに三十坪ばかりの池がある。この池はまえに述べた天然の湧水池とはちがって
いて、湧水池はもっと奥にあることを後に私は知った。