「そうよ。この奥の林のなかに変な建物があるンだ。小っちゃな洋館でね。いつでも窓が
ぴったりしめてある。おまけにその窓には外から厳重にかすがいが打ちこんであるんだ。
おりゃはじめ空あき家やになってるのかと思ったが、おりおり中から、女の泣声がするの
で驚いた。顔は見ないが、まだ年若い女の声だ。変に思って八千代にきいたら……」
「八千代さん、何んていってたい?」
「フフフと妙なわらいかたをしながら、直記さんの恋人よ、気が変になったので、世間態
をはばかって、あそこへかくしてあるのよ。……」
私は急にムラムラと妙な疑惑に胸をどきつかせた。直記の女なら、たいてい私は知って
いる筈である。直記はとっかえひっかえ女をこさえたが、長くても半年とつづくことは珍
しかった。そんな際、いつも尻しり拭ぬぐいをするのが私の役目だから、いやでもかれの
女といえば、ことごとく知っているわけである。しかし、いままで直記の情婦で、気が
狂った女があるなどということは、一度も聞いたことはなかった。ましてや直記がその女
を、自分の家にかくまっているなどということは、いまここで蜂屋の口からきくのが初耳
だった。ひょっとすると、それは私が一年ほど軍隊生活をしているあいだに出来た女かも
知れない。
「何を妙なかおをしているんだい。あっはっは。幇間先生、パトロンの秘密をかぎつけ
て、また一仕事しようというんだな。しまった、それと知ったらこう易やす々やすときか
せてやるんじゃなかった」
「そして直記のやつ、二、三日まえにその女をほかへ連れ出したというんだね」
「うん、自動車を呼んで来てね、無理矢理に女を押しこみどこかへ連れていってしまった
よ。ありゃア一昨日のことだったかな」
「どんな女だった?」
「なに、遠くのほうから、ちらとうしろ姿を見ただけだから、どんな女かわかりゃしな
い。どうせこっちは興味のないことだしね」
私は黙ってかんがえこんだ。直記はなぜいままでそのことを自分にかくしていたのだろ
う。相当うしろ暗いことがあっても、たいていのことは自分に打ち明け、自分の知恵と助
力をこいに来る直記だのに。……しかし、蜂屋にとっては、もうその女は問題ではないら
しく、
「どうも変だぜ、この家は? まるで化ばけ物もの屋敷だ。直記といい、直記のおやじの
鉄之進といい、お柳さまといい、守衛といい、八千代だって只ただの鼠ねずみじゃねえ。
それにさっきのうらなりといい……」
「うらなりたア誰だい」
「守衛の叔父よ。四よ方も太たというんだ、あいつは……」
「化物屋敷といえば、君自身も、そのお仲間じゃないのかい」
「あっはっは、大きにそうかも知れん」
「いったい、君こそどうしてこの家へ来たんだ」
「八千代のやつに招待されたからさ」
「君はまえから八千代さんを知っているのかい」
蜂屋はふいに私のほうへ向きなおった。そして探るように私の顔を見ながら、
「ううん、極く最近だ。あいつア、おれのアドマイヤーだというんだ。それでよくよく聞
いてみると、おれの絵なんか一枚も識しってやアしねえ。でも、すぐにおれに惚ほれ
ちゃって、遊びに来いというもんだから、のこのこやって来たというわけさ」
「君はこの家に、守衛という、君と同じような人物がいることを識っていたのか」
「そんなこと識るもんか。来て見て驚いたのさ。おい、屋代君、知ってるなら教えてく
れ。おれはなんのためにここへ招かれて来たんだ」
「そんなこと、ぼくに分ろう筈がないじゃないか。君は八千代さんに惚れられて……」
「いや、それは表面の理由だ。その底にはなにかもっと深いたくらみがあるにちがいない
んだ。君は直記のふるい友達だから、何か知っているんだろう。知ってたら教えてくれ。
おりゃア何だか気味が悪くてたまらないんだ。ゾクゾクするんだ。背筋が寒くなるんだ」
「それなら、この家を出ていけばいいじゃないか」
蜂屋は急にすごい眼をして私をにらんだ。
「八千代のやつをのこしたままかい、そんなことが出来るもんか。おれゃ……おれゃ……
どうしてもあの女を、自分のものにせずにゃおかないんだ。畜生、あの阿あ魔ま!」
それから蜂屋は咽の喉どの奥でひくくわらいながら、
「いや、君にこんな話をしたのは間違いだった。おれは人に弱身を見られるのが嫌いなん
だ。自分のことは自分でしまつする。屋代、いまおれのいったことは忘れてくれ」
蜂屋は立ってのろのろ部屋を出ていった。あとから考えると、生きている蜂屋の姿を私
が見たのは、これが最後だったようである。